おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2018年12月29日土曜日

【東京大学柏葉会合唱団第65回定期演奏会】

2018年12月28日(金)於 新宿文化センター大ホール

日本で一番偏差値の高い学生団はどこだ問題、再燃。
……否、名古屋で一番というのは、まぁ医混で間違いなかろうとは思うのですが。

何はともあれ、偏差値の非常に高い合唱団の一角、柏葉会です。否、何も、学力の問題だけにとどまりません。何かと一度は名前を聞いたことのあるだろうこの合唱団、学生だけでなんでもやってしまうのが特徴。なんでも、といって、さらに特徴となるのが、本当になんでもやってしまう。嘗ては委嘱初演をしたこともあるようなこの合唱団、なんと今年は二台ピアノをやってしまうのだからすごい。しかもさらに言うなら、ピアニストの大部分も東大生。しかも、なんか受賞歴とかも豊富だし、外国への留学経験どころか、外国への滞在経験なんて書いてあったりもする(もはや関係ない)。もうなんか、本当に、なんでも自分たちでやってしまう。
だから、今回のプログラムだって、なんでもやってしまった成果みたいなもの。だって、なんか、クライマックスが3つくらいありません?笑 そんなプログラムに引き寄せられるがまま、旅で北上するがてら、東京へと向かうのでした。いいじゃないですか、この、どこにでも行ってしまう合唱ブログの今年の締めが、そういう合唱団って、ちょうどいいじゃないですか笑

・ホールについて

所謂典型的な市民ホール……といえば、確かにそこまでなんですが、なんというか、そうとも言い切れないような気がしてくるのが、さすが東京新宿といいますか笑
東新宿駅から徒歩数分の場所にあるこのホール。ただ、そこに辿り着くにも何やら「新宿イーストサイドスクエア」という商業施設を抜けてくることになります。ヒルサイドの億ション(推定)に、マルエツがなにやら高級ブティックのようにも見えてくるこの場所は、新宿駅からも歩ける、まさに都心のただ中にあるホール(なんだかアド街風になってきた←)
そんな中、このホールの内装自体は、典型的な二丁掛タイルにビニールタイル、白い反響板が、いかにもという雰囲気を齎してくれる、典型的な市民ホールの様相。さすが、ここで合唱祭をやるだけのこともあります(。とはいえ、NHKホールと近しい位置にはパイプオルガンも。さすが東京……やることのレベルが違う……笑
とはいえ、ベルは「b--------!」で始まるこのホール、響きはなんだかんだ言っても市民ホールのそれだったりします。舞台に音が少しこもってしまうその響き、残響は豊かなものの、音量が返ってこないという、市民ホールではありがちな音。決して汚い響きではないものの、声をきれいに合わせて、和声でボリュームをつけていこうとする団にとっては、なかなか苦しいホールだったりもします。NコラとかOEコラとか、鳴らせる団だったらなんということはないのだと思います。何にせよ、響きに依存しきれないのが、辛いところでもあります。
でも、客席はコンパクトで、ステージは間口・奥行き・天井高全てにおいて高いので、使い勝手は非常にいいホールだろうなと思います。

さすが東京。何がって、そりゃ、高々(失礼)学生団の再演であるにして、そこらへんに土田豊貴センセが歩いていることですよ笑 注目度の高さが伺えます。
5〜6列のオーダーに100人程度か。恵まれた人数の黒・黒の衣装も目に印象的です。

・エール
柴田南雄「柏葉会歌」(田中司)

響きは意外にも、関西でもよく耳にするような、上の響きを掬い取るような鳴らし方。そう、何かと言えば、このホールを不得手とするような鳴らし方です。良くも悪くも、これが最近のトレンドなんですかねぇ。
和声変化が美しい柴田南雄の作品。であるからにして、確かにこの鳴らし方は非常にいい。しかもここ、パート間で響きが同質的だから、ブレンドされた時に非常に美しい和声が鳴ってくれていました。でも、少し力不足かな? 否、エールだし、というのもあるんですが、きれいに聞かせようとする余り、テナーのリフレインするところとか、所謂聞かせどころもソフト一辺倒とうのも、やや頼りなげと言ったところでしょうか。せっかく人数もいるので、もっと、一人ひとりが歌いこむ演奏というのも聞いてみたいところ。最後の音量がメゾフォルテと心得たい。大丈夫、一人くらいミスってもバレへんて←
でも、この綺麗な音、今後のプログラムを見れば、否が上にも期待しちゃいますよね。

一旦捌けて、愈注目の前プロ。

第1ステージ
信長貴富・混声合唱とピアノのための音画「銀河鉄道の夜」(宮澤賢治)
指揮:竹村知洋
ピアノ:水村彰吾

ベタ〜低い1段目に全員がオーダー。30〜50%の舞台照明に、挨拶なしに始まり、最初の空を見上げるモチーフを持つヘテロフォニーを淡々と積み上げていく。次第に、車窓の風景は天へと登っていき、人々の幸せを祈る「ハルレヤ」が聞こえてくるところで全照。銀河鉄道の車窓が速度をあげて描写される中、死の暗示となる「カムパネルラ!」の絶唱とともに暗転。ソリストにスポットがあたり「まことのみんなのさひわひのためにわたしのからだをおつかいください」と語られるのに呼応して湧き上がる「ハルレヤ」、そしてそれがカオスチックに群衆の咆哮へと変わっていき、風景はまた、丘の只中へと帰っていく‐‐。
照明から演出、そしてソロの直後、しばらく俯いてハルレヤとともに帰っていく、その所作に至るまで、徹頭徹尾表現のために捧げられた「銀河鉄道の夜」。嘗て演奏したことある身としては、演奏するだけでもなかなか体力を使う(「ガタンコ」飛び出さなかったのエラいな!笑)、信長サウンドスケープの代表作とも言える作品を、この団は見事に表現しにかかりました。特に最後の「ハルレヤ」のカオスなんかは、もっと音圧を以て吠えることができたらいいかな、とか、ジュグランダー近傍のテンポは滑ってたかなとか、「サアペンテイン」近傍のカデンツはもっと歌い上げるように音量出しても良かったんじゃないかな、と思ったりもしましたが、もう、この、私達のやりたいことはコレなんです!ていう堂々たる主張が、何よりこの演奏の表現を確固たるものとしていました。
否、もっとできることはあったと思うんですよ。でも、この再演、最高に素晴らしかったです。「銀河鉄道の夜」そのもののストーリーを描くのもそうですが、「銀河鉄道の夜」に描かれた情景が、いわばみたまま描写されているのがこの作品。その風景の美しい描写が、見事に演奏の中に表現されていました。それでいて、パンフレットの解説も非常にしっかりしているものだから、聞いていても、まるで風景が目に見えてくるよう。そう、確かに、この曲では、こういうことがしたいんですよ。まさに、名曲は、再演によって磨かれる。当意を得たり。

長めの転換の後、次の演奏へ。

第2ステージ
土田豊貴・混声合唱とピアノのための『愛の天文学』(寺山修司)
指揮:保坂朋輝
ピアノ:村松海渡

否、まずコレさ、曲がいいよね笑 曲名からいいよね笑 歌詞から拾ってるとはいえさ、天文学と恋愛を絡め取って愛を歌うあたり、もうコレでもかってくらい寺山修司臭くて大好きですわ笑 ブルースですよ、ブルース。憂いを感じながらにして、でも切実たる恋情を心から歌い上げるっていうね。で、それについている音が、土田センセの畳み掛ける一方で止揚してドラマチックに歌い上げる場所もあったりして、その、めくるめく中に見せる緩急が、より切なさと美しさを感じるっていうね。いやぁ、最近愛唱曲みたいな曲やることどうしても増えてるから、たまにはこういうことしたいよね、うん笑
ところで、こういうホールってデュナーミクの表現がすっごく難しいよなって思います。何でって、音量増やしても鳴らないですから。でも、この演奏、なんてことはない、そういうことは、キニシナイに越したことはない笑 最初のカデンツで、まずは思いっきり大きなデュナーミク。もう、これだけで、このステージ、十分、やりたいことが見えたなっていうところですわ笑
でも、逆に、そういった表現の部分で、少し欲張りたくなってしまうことも。特に、深刻な部分をどう深刻に表現するか、という点。基本的な表現は非常に良くできていたと思います。ただ、それが、常に明るくて透き通った、よくハモるきれいな音でのみ表現されていたというのが、これまた非常に惜しいところでもあります。
表現の仕方が、強弱や子音の強さという、限定的なものにとどまってしまっていたような気がします。一種、次元を上げる表現をするためには、もっと違う基準軸を持ちたいところ。例えば、詩を読むという時に、私達は何も、記譜上の強弱のみを意識しているのではありません。言葉自体が持つイントネーションを自然に発揮して、意味として流れる読み方を、暗黙のうちに心がけています。それを歌に導入するには、漫然と歌っていてもそうはいかないんですよね。その言葉言葉の持つ表現の特色や、あるいは、フレーズ自体が持つ自然な息の流れを、もっと敏感にキャッチして増幅できると、表現の次元がより広がっていったと思います。
否しかし、これだけの曲を、よく表現したと思います。特に、終曲の壮大さは、何より称賛されるべきでしょう。もっと響くホールや、もっと鳴るホールでやったら、もっと面白いんだろうなぁ……というのは、今後のお楽しみにとっておきましょうか笑

インタミ15分。そうそう、パンフレットについて、上にも書きましたが、「銀河鉄道の夜」のあらすじあり、寺山修司の詳細な紹介あり、なんなら自作詩かねコレはっていう内容もあり、ものすごい分量と読み応えです。コレもらえただけで、この演奏会来た価値ある。あ、そうそう、「鏡」の異体字の写植経験者としては、担当様お疲れ様でしたと、心の底からのねぎらいの声を差し上げたい笑

第3ステージ:空によせる3つの小品
Chilcott, B. "Weather Report"
Antognini, I. "There will come soft rains"(S. Teasdale)
Elder, D. "Twinkle, Twinkle, Little Star"(J. Taylor)
指揮:保坂朋輝

英語曲が中心。いずれも、この団に演奏させたら絶対に合わないことはないという確信はありました。その確信通り、音の面は問題ない。特にアントニーニの集中力は、非常に優れていたと思います。長い曲で、風景が頻繁に入れ替わる中を、最後の音にうまく収斂させていきました。そしてなによりエルダーは、この団が絶対的に得意としうるプログラム。各パートの同質的な音から広がる "Twinkle twinkle..." は、聞いていてスカッとするものでした。コレめがけて来るに値するプログラム。曲のテーマとしても、非常に雰囲気のいいステージでした。空というひとつのまとまりに対して、透明感のあるアンサンブルが織りなす雰囲気がなによりおしゃれ。
ただ、気になるのが、発音の問題。英語って子音出しづらいですからね。チルコットは、早いパッセージのリズミカルな雰囲気を、うまく子音と関連付けられるとよかったか。具体的には、もっと無声子音を早く出すこと。多くの場合、ボイスパーカッションみたいになってくれて、リズム形成に役立ちます。そしてなによりきになったのは、「意外と」母音が5つしか聞こえてくれないこと。「ア・イ・ウ・エ・オ」以外の5つの母音を、ちゃんと演奏に反映できれば、曲自体の風景も広がりを見せたような気がします。なにより、閉母音で響きが狭くなり、開母音で響きも広がってしまうという、典型的な響きへの無頓着は、善処されたい。そういった意味では、チルコットは特に、もっと磨く場所はあるかなと思います。

しかし、2・3ステ指揮者の保坂くん、もう、歯磨きのCMにでも出れてしまいそうな爽やかさだ笑

舞台転換の間にマネジャーさんが舞台挨拶。否これが、周到に拍手を要求してくる、ずいぶんアタマの良い挨拶で笑
噛んでもイケメンだし。否、さすがやで笑

その間に置かれた、ぼろぼろになった譜面が、はからずも、同曲に対する思い入れを物語ります。
しかし、卒団生の胸元についたコサージュを見ると、ああ、学生団来たなぁって思いますね、やっぱり。

第4ステージ
三善晃・混声合唱と2台のピアノのための交聲詩『海』(宗左近)
指揮:竹村知洋
ピアノ:白倉彩子、西村京一郎

最初ね、不安だったんです。確かに綺麗な音を鳴らす団で、どんな曲もそつなくこなしてくれそうだけど、なんか、力を求められる曲になっても、そのまま流して、さらっと終わらせてしまうんじゃないかって。特に、音量の問題については、前項でも指摘していたところなので、余計にその懸念がありました。
でも、そんなの杞憂に過ぎなかった。音の鳴りの問題をホールのせいにしなかったのは、ひとえに、この曲の演奏にあります。この曲、これまでのステージにないくらいに、本当に力のある、素晴らしい演奏でした。何か、特にソプラノなんて、母音の発音の仕方が違ったくらいなんですよね。最初は弱い音からはじまって、さぁ、ここからどれだけ大きくしていけるかな、と思っていたら、本当に、自分の期待を遥かに超えて、理想的なフォルテを最後は鳴らしてくれました。
この曲って、生きることに対する賛歌なんですよ。海という連続して躍動する対象をフィルターにして、自らの生について高らかに歌い上げる。だから、作曲には2年を費やすほどに、そして、歌い手は、これまでに出したことないような咆哮をかき鳴らして、生について歌い上げる‐‐否、絶唱していく必要がある。この曲とは、命を賭けて向き合わなきゃいけないんです(まだ自分では演奏したことないけど)。それくらいに力のある曲。最後は、なりふり構わず、とにかく大きな音楽を作ることに集中しなければならない。
しかして同時に、冷静さも失わないのが、この団のすごいところ。とかく模範音源でも崩れがちなボリュームバランスや和声といったところを、この団は的確に歌い分けて行く。ものすごく立体的で、理知的なのに、人間的な生(せい/なま)の声も、しっかりと聞き取ることができる。
ここでようやく、ホールを恨む‐‐否、この曲は、これくらい、人間の生の声を届ける、届けなければならないホールがよく合います。「銀河鉄道の夜」でグッと呑み込んだブラボー、この曲までとっておいて本当に良かった!

encore
三善晃「であい」
指揮:竹村知洋
ピアノ:白倉彩子、西村京一郎
保坂朋輝「かなしくなったときは」(寺山修司)〈初演〉
指揮:保坂朋輝
ピアノ:村松海渡

否どうせ、パンフレットにも生と死について書いてあったし、きっと「夕焼小焼」かそこらへんやろうとタカをくくっていました。‐‐指揮者のセンスに脱帽。そう、学生団のバイオリズム自体を非常によく描写できているのは、まさにこの曲にほかなりますまい。「ここで出会いましたね」から「さようならとは信じている証」まで、まさに、歌いつないできた、学生団を回顧するに相応しい内容。コレを泣かずに歌い切る団員たちの決意たるや。
その決意は‐‐もしや、この曲の初演のためか!?笑 なんと、自分のためのアンコールを、自作初演に使ってしまうという、堂々たるステージ構成! しかもこの曲、tuttiとカデンツの繰り返しをジャジーに繰り返しながら、中間部ではやりきれない思いを朗々と歌い上げていく。ピアノのコミカルさも相まって、非常に素晴らしい出来。初演にして、もっと、ああしたい、こうしたいという欲情も駆り立てられる(例えば、主題の提示をもっと朗々とする、とか)。その欲情、すなわち、この曲、再演の価値ありという証。あっぱれ。

ストーム等はなく、そのまま終演。しかし、ホワイエの混雑はすごかった笑

・まとめ

 私達って、合唱で、何がしたいんでしょうか。
 最近、つくづく思うんです。私も歌い手ですし。何で歌ってるんだろうって。歌で、何が伝えたくて、何が面白くて、歌っているんだろうって。何かの諦念とか、消極性の現れとか、本人の感覚としては、そういうわけでもないんです。最近、自分としても本番が多かったり、事務仕事が増えたりして、何ならこうやってレビューを書いていたりして、いろんな機会でいろんな演奏に触れるようになっています。そのたびに、いろんな人達が、みんな思いを込めて演奏会、あるいはジョイントコンサートやフェスティバルのステージを作るわけですけれども、でも、やっていることの実態は、結局合唱という一つのジャンルの音楽、下手したら、その中でも非常に限られたプログラムや、限られた表現の中にとどまっている可能性だってある。ものすごく狭い領域の中で、ああでもない、こうでもないと苦労を重ねている割には、アマチュアゆえの実力不足というべきか(あるいは単に個人的な問題か)、特に前と大差ないか、あるいは先人たちよりも退化しているんじゃないかと疑ってしまうことだってある。‐‐そんなこと考えだしたらきりないってわかってるんだけど、でも、考えてしまう。
 それくらいに年をとって、それなりに経験を増してきた、といえば、少々聞こえはいいのかもしれません。でも、逆にいえばそれは、これ以上は伸びないのかもしれない、という、一種の恐れのようなものなのかもしれない。これといえば、こういうものだよね、とばかりに、公式に当てはめられないはずの豊かな表現の差分を、ぐっと狭めてしまう、そんな意識にすらなりかねない。確かに、その公式に当てはめれば、音楽ってすぐ、聞こえのいいものになる。でも、そんな音楽、私が音楽をやり始めた原体験の憧憬に、見つからないんです。
 自分の自意識の中にしか、自分が求めるものはありません。つまり、自意識の範疇、いうなれば、表現に対する自由な心がなくなってしまえば、表現は、あっという間に狭まっていくし、音楽は、目的意識を失って、BGMにすらなりきれない。たとい、環境音楽だっていい。私達は、深く自らに問いかけて行かなければならないんです。私達って、合唱で、何がしたいんでしょうか。

 学生団というのは、非常にそういう性質に陥りやすい特徴を持っています。特に継続を意識しなくても、毎年スケジュール通りの春がやってきて仲間が集い、合宿をして、秋を越えて、冬になったら自団の演奏会で大団円を迎える‐‐そんなスケジュール自体は、いろいろほっといても過ごすことができます。もちろん、それに至るための事務的な努力はしなければいけませんが、ぶっちゃけ技術的なことは、語弊を恐れずに言えば、音をハメることさえできればとりあえず形にはなる。どこかがそういう演奏であったというつもりはないですが、しかし、そういう無意識な怠慢は、演奏にだんだん滲み出てきて、取り返しがつかなくなるような性質のものです。まさに、「隠された悪を注意深く拒」まないと、文字通り、音楽は死んでしまうのです。
 そうならないための方策はいろいろあります。曲に対する深いアプローチと、多方面にわたる表現の追求というのは、当然そのうちに含まれますが、もっと観念的なこと‐‐言い方を変えれば、もっと精神的なことでいえば、「その時、私達がやりたいことをやる」というのも、演奏を殺さないための一つの方策なのだと思います。
 当たり前っちゃ当たり前なんです。でも、妙な魔が差すことがあるんです。自分はコレを面白いと思ってるけど、お客さんはそうは思わないかもしれない、とか、本当はコレがやりたいけど、お客さんへのアンケートではアレをやれという声が大きいから、じゃあアレをやろう、とか、外の目をやたら気にしてしまうこと。気付かないうちに、本意ではない演目を選び、それにのめり込むこともままならないうちに、よくわからないうちによしなな演奏が終わっている、みたいな状態。
 少なくとも、最初っから自分がやりたかったことなら、その気持ちを維持することさえできれば、悪い形で人の前に出して満足するようなことはないはずです。やりたかったことを、やりたいように実現するために、選んだ後も、最後の演奏まで、自らの理想のままに、突き進むことができるはずなんです。政治的なことを考えちゃうと難しいことも、そんなこと、そもそも考えなければ、何ということはないんです。

 今回の演奏会のプログラム、並の合唱団だったら、そうはならんやろって並びです。なんたって、クライマックスが2〜3個あるし、アンコールに学生団員が自作自演するなんて少なくとも自分は見たことないし、なんだったら、学生指揮しかいないのに交馨詩『海』をやろうとは、普通思わない笑 それでも、自分たちのやりたいがままに選んで、自分たちのやりたいがままに演奏しきった。『銀河鉄道の夜』に見せた美しい構図も、『愛の天文学』に見せた、めくるめく感情のゆらぎも、果てしない空の広さも、『海』が見せた、生々しい実存への咆哮も‐‐。
 簡単にできると思ったら大間違い。何を表現したくて、何を歌うべきなのか。そのことを、楽譜やテキストの分析に加えて、それを心の中に十全に落とし込んで初めて響く音が、そこには確かにありました。確かに、あちらが立てばこちらが立たぬということが一切なかったわけではない。でも、彼らの、その時にしか鳴らない音、その時にしか鳴らせない表現が、そこには確かにありました。

 私達って、合唱で、何がしたいんでしょうか。‐‐正直、そんなもの、答えが出るような問いではないのかもしれません。でも、合唱へ向かう姿勢という点に対しては、今日の柏葉会の演奏は、いわばお手本のようなものなのかもしれません。自分の信じた音楽を、愚直に追い求めること。何がどこまでできるかなんてわからないけど、やると決めたことを、できるところまでやる‐‐その先に見えてくる景色が、例えば今日の演奏のような、輝かしい大団円だと信じて。

2018年12月23日日曜日

【VOCES8 クリスマスコンサート】

[Okazaki Exciting Stage Series]
2018年12月22日(土)於 岡崎市シビックセンターコンサートホール

Britten, B. "A Hymn to the Virgin"
Praetorius, M. "Es ist ein Ros'entsprungen"
Biebl, F. "Ave Maria"
Praetorius, H. "Josef, lieber Josef mein"
Stopford, P. "Lully, Lulla, Lullay"
Elgar, E. "Lux Aeterna"
Kate Rusby(arr. J. Clements) "Underneath the Stars"
Ben Folds(arr. J. Clements) "The Luckiest"
Palestrina, G. P. de "Magnificat Primi Toni"

intermission

Simon and Garfunkel(arr. A. L'Estrange) "The Sound of Silence"
arr. J. Pacey "Danny Boy"
Dougie MacLean(arr. B. Morgan) "Caledonia"
Carroll Coates(arr. G. Puerling) "London by Night"
arr. B. Morgan "TOKYO"
フリッパーズ・ギター「恋とマシンガン」
Suchmos「Stay Tune」
Original Love「接吻-Kiss」
Perfume「TOKYO GIRL」
ピチカート・ファイヴ「東京は夜の七時〜the night is still young〜」
椎名林檎「長く短い祭」
John Coots & Haven Gillespie(arr. J. Clements) "Santa Claus is Coming to Town"
Jule Styne(arr. J. Clements) "Let it Snow"
James Lord Pierpont(arr. G. Langford) "Jingle Bells"
(above based on announced)

encore
山下達郎「クリスマス・イブ」

***

 クリスマスとは何であるのか、という、ありきたりな疑問を投げかけたい。
 どちらかといえば、宗教的な問題としての問いかけではない。街に出れば、クリスマスのためのイルミネーションが街を飾り、浮かれた気持ちで街を歩くカップルが街を歩く、そんな、日本人のクリスマスの風景。クリスマスのための街頭イベントと、クリスマスセールと、そんな中で、ひっそりと忘れられてゆく、祈りのためのクリスマス。
 もっとも、日本においては多くの人について、クリスマスの祈りとは無関係の中にある。クリスマスとは、年末気分を最高潮に盛り上げるためのお祭りであるーーそんな説明が似合うくらいに、日本においてクリスマスは曲解して、しかしながら、十分に、浸透した。
 海外においても、アドベントを皮切りにーー否、例えばアメリカにおいてはその前々日のブラック・フライデーを皮切りに、クリスマスは装飾に包まれる。ヨーロッパにしても、クリスマスへ向けて祈りが捧げられる一方で、俗世では、日本にも似た、否、日本以上かもしれない、クリスマスのお祭り気分は見ることができるはずだ。
 イギリスでは、熱心に教会へ行く人が減っているという。もちろん、一部の現象であろうし、(これまた人によるだろうが)年に一度程度しか氏神様に詣でない日本人が言うような話ではあるまい。でも、ここまでキリスト教が一般的となった今日にあって、決して熱心な信徒ばかりでもあるまい。イスラム圏はじめ各宗教国をともかくとして、クリスマスは、気がつけば世界的に、なにかを祝うイベントとして、ひとつ受け入れられている側面がある。
 その証拠に、アマチュアであれなんであれ、音楽を愛する人々はこの季節、にわかに忙しくなる。合唱人だって、毎年の第九に加えて、クリスマスコンサート、それも、聞くだけでなく、歌う方でも。私事ではあるが、私とて、細かいものを含めたら、今月だけで本番が6本。紛れもなく、アマチュアであるのだが。
 そんな中、「クリスマスコンサート」と題してVOCES8は、ジャパンツアーを周る。関西などではワークショップも開かれ、大小・地域様々なホールで、オルガンのあるような堅牢かつ麗美なホールから、市民ホールのようなホールまで、様々な場所でその端正で美しい響きを届けている。
 今回のホールとて、決して悪いホールではない。岡崎イオンのすぐ南、岡崎市の公共施設の中に入るそのホールは、真四角・長方形のシューボックス。ホワイエから見渡せる岡崎市の情景と、遠くにみはるかす山並み、そして、一歩入ると、腰壁に配された明るいブラウンの木壁、そして、白く塗られた壁。派手さはないが、すっと、心の中に染み入る、明るく開放的な内装は、高校アンサンブルコンテストが開かれる会場でもあり、まさしく市民に向けて開かれたホールである。響きも、鳴りに優秀なわけでこそないものの、雑音なく自然な音が届く。ーーそう、どこか、演者と聴衆の、心が近づいてくるようなホールである。そんな、いつでも気軽に来れるようなホールで催されるクリスマスコンサートは、しかし、どこかいつもと雰囲気が違っているものでもある。

 開演前からBGMがホールに流れ、開演前アナウンスはジャパンツアー共通のものであろう。ホール主催公演ということもあってか、やや高齢世代が多い観客構成とは裏腹に、どこかいつもの合唱のコンサートとは違う浮足立った雰囲気が流れていた。なんだか、誰かの家のクリスマスコンサートに来たかのようなーー。いつもより、ちょっとおしゃれしたような、手の込んだような照明の作りも、気分を高めていく。
 客席の暗転とともに、客の雰囲気が張り詰める。その空気が静寂を作りきった瞬間に、1曲目は、こっそり入ったメンバーらにより、客席後方より演奏される。まるで、こっそり、サンタクロースが入ってきたようにーー、コンサートは、音楽を楽しむ空気を一気に作りだす。
 前半は、クラシックナンバーを中心として、響きの世界に酔いしれる。その響きは、徹底して柔らかい。特に「エッサイの根より」の優しく甘美な空気は、それを象徴している。柔らかな響きが、自由で、自然な雰囲気のままに、各パートに寄り添い合って、混ざりあい、溶け込み、心の中に入ってくる。「アヴェ・マリア」は、普段からアマチュアでもよく演奏される曲であるが、かといって、こんなに徹底的に piano に抑えられた、静謐で、豊かな祈りの気持ちに満ちた演奏を聞くことは、滅多にない。私の真後ろにいた客が、思わず息を呑む、その瞬間、万雷の拍手が響くーー。
 精緻でありながら、心の直ぐ側にいるようでもある。「ルリ・ルラ・ルレイ」の tutti からだんだんと広がっていき、また収束していく、繰り返される和声は、まるで音楽の、この世界の永遠をも想起させる。夢のようにして、しかし、ソプラノのオブリガードが、今、確かに、ここに世界があることを、天の高みより教えてくれる。「永遠の光」まで続くその流れ、そして、中盤より展開する充実の和声が、愈世界を解き放つーーそれはまるで、満点の星空が光り輝いているかのような美しさを、私達の前に提示する。瞬くように自由で、輝かしい恒星の明かりこそ、この演奏の Lux Aeterna であった。
 どこまでも優しくて、穏やかで、心の落ち着く響きである。それは、私達の身近に寄り添っていながら、その純粋さ故、どこか高みより演奏されているようでもあるーー確かに、手が届きそうな音なのだ。それは決して卑下するわけではなく、私達の生活の中で聞いているような音と近い。決して気取るわけでもなく、しかしながら、音は品を失うことなく、美しく、メッセージに満ちた音が鳴る。

 後半の頭は、イギリスの伝統的なポップスナンバーから。それもまた、彼らの俗を含む聖なる響きの中に、美しさを以て語られる。ドギー・マクリーン「カレドニア」の美しさは、その中にあって白眉である。照明のさり気ないアクセントの中にあって、ロードサイドで歌っているような気楽さが、聴く者の気分をイギリスへ誘う。叩かれるテンポの正確さーー否、「適切さ」と言ったほうが正しいであろうか。曲に配置されるテンポの一つ一つが、曲の表情を見事に彩る。
 そして、そのテンポの適切さを見事に表現したのが、ジャパンツアー特別演目とも言える「TOKYO」メドレーである。古今東西、文字通りあらゆるジャンルから選ばれた曲たちと、それぞれの曲が見せる特徴を、余すことなく彼らは表現する。Suchmos のようなロックもできれば、ピチカート・ファイヴのようなポップスもできる。まさに「長く短い祭」のようにめくるめく駆け抜けていったステージは、それだけで来たかいがあると思わせるほどのエンタテインメントであった。
 そう、彼らの音楽は楽しみに満ちている。それもすごいのは、目立ったことをしなくとも、音だけで楽しませる実力とユーモアが、そこにはある。まるでーーあえてこういうならーーブリティッシュに対する定番のイメージをそのまま体現しているかのような、身軽さと、溶け込んだ娯楽の心を、演奏の中に見出すことができるのだ。しかも、それが全く無根拠による馬鹿騒ぎというわけでもなく、しっかりとテクニックや楽曲に裏打ちされているのが、いかにもブリティッシュである。ーーイギリスは、チャーリー・チャップリンやミスター・ビーン、ローリング・ストーンズやザ・ビートルズを生み出した娯楽大国である。
 そして、彼らが決して動きを持たず音楽のみ、というわけでもない。撮影OKとされた「サンタが街にやって来る」以降のリズムの中に軽快に揺れる身体、そして、茶目っ気に溢れた表現と動作の中に、拍手が終わるたびに大きくなる。別れを惜しむように疾走する「ジングル・ベル」でのトナカイのソリは、遂に大きな喝采を私達に齎した。

 クリスマスとは、お祭りとして受容されていると書いた。しかし、かたや教会では、今年も聖なる祈りが捧げられていることであろう。私自身、そのギャップは二律背反のような気がしていた。でも、もしかしたらそれは、そんな単純なものではないのかもしれない。ーークリスマスとは、清濁合わせて、クリスマスというべきなのではないか。
 今年も、クリスマスが盛大に催される。年とともに、どこかそんな喧騒とは距離を置きたくなることもある。でも、そんな中にあっても、粛々とクリスマスが祝われる。日本人が年の瀬にあたり、今年も一年無事に過ごすことができた、そんな気持ちで、クリスマスに祈りを捧げている人だっているかも知れないーーそういう過ごし方だって、いいじゃないか。
 宗教音楽に始まり、トナカイの疾走するジングルベルに、そして、日本人が日常的に見るクリスマス・イブに終わるVOCES8のクリスマスは、得てして、現代におけるクリスマスの諸相を余すことなく表現していたのではないか。まずは、そのプログラムの並びに、心から拍手を送りたい。加えて、彼らは、そんなプログラムを、気取ることない表現で歌い上げた。派手でもなく、雑でもなく、それでいて決して内なる祈りばかりを表現しているわけでもない。「ルリ・ルラ・ルレイ」の響きから、「レット・イット・スノー」に至るまで、その表現のすべてに至るまで、心の中にそっと寄り添ってくれるような、優しくて、美しくて、華やかで、そして温かい響きが、すっと溶け込むようなーー。
 今年も、クリスマスがやってきた。何をしているわけでもないはずなのに、忙しくてバタバタと駆け回る、そんな日々を過ごす私が、ふっと立ち寄り、その中にそっと届けられた、私だけに向けられたーーそんな気がする音楽。心落ち着けて、ああ、年末だ、クリスマスだと思い出す。

 そしてようやく、私のクリスマスは、実感として、私達の心の中に届けられた。

2018年11月15日木曜日

【ジョージア国立民族合唱舞踊団「ルスタビ」名古屋公演(夜公演)】

〈民音創立55周年記念〉
2018年11月14日(水)於 日本特殊陶業市民会館フォレストホール

Part 1
introduction
"Dance Acharuli"
"Imeruli Naduri"
"Chonguro"
"Dance Khorumi"
"Women's Dance Narnari"
"Dance Qartuli"
"Dance Mokhevuri"
"Voisa-Harirati"
"Simghera Snoze"
"Dance Apkhazuri"

int. 15min.

Part 2
"Dance Karachoghluri"
"Dance Samaya"
"Didavoi Nana"
"Khasanbegura"
"Dance Simdi"
"Instrumental Trio / Tushuri"
"Dance Parikaoba"
"Chichetura"
"Chakulo"
"Dance Mtiuluri"

encore. 中島みゆき「地上の星」

***

 人は、あらゆる現象を、名付けを以て認識する。名前があるから認識し、認識を確固たるものとすべく名前をつける。名前のない(あるいは、名前を知らない)ものを認識することは、困難を極める。名前を知らないけれどそこにある花にしたって、「名前を知らないけれどそこにある花」という名付けを以て認識される。逆に言えば、私達は、名前を知らないものの存在を知らない。ーーたとえ、それがどんなに価値のあるものだったとしても。

 かつて、ーーといっても、1000年以上前のことになるが、ヨーロッパの音楽はモノフォニーでしかなかったという。グレゴリオ聖歌に著名なところではあるが、単一のメロディを以て、信仰を伝える、乃至、民衆の中に伝わる旋律が、音楽文化の骨格をなしていたというべきであろうか。ポリフォニーをヨーロッパに見るには、中世まで待たなければならない。しかし、それよりも前に、生活の中に充実した和声を見出していた地域が、ユーラシア大陸の只中にあったという。
 此度ジャパンツアーを実現させている、ジョージア国立民族合唱舞踊団「ルスタビ」の故郷における音楽が、それである。大相撲・栃ノ心関の影響で日本における知名度が飛躍的に高まった国ではあるが、だからといって、その国の内実が詳らかに明かされているわけではない。民音により実現されたこの招聘により、ジョージアは愈、文化大国としての姿を我々の前に現前した。

 知らないものを目の前にして、私達は、どんな風に反応し、認知し、そして心を動かされるのか。認知の過程が存在することは周知の事実ではあるが、そのあり方については、永らく哲学上の重要な主題のひとつであった。実際的な哲学上の議論はこの際措いておこう。ーー本稿においてなにより重要なのは、「どうやって、見ず知らずのものに心を動かされるのか、そのありよう」のみである。
 名前を知らないものの存在を認知し得ない、と、先に書いた。そして、認知しないことには感動しない、とも書いた。とすると、実際、感動するためには、そのものの存在を知らなければならないーーあるいは、存在を認知すると同時に感動しなければならない。すなわち、よりカジュアルに表現するならば、直感に訴えかける表現こそ、感動を生み出すものとなる。
 ジョージアは文化大国であるという。世界でもっとも古くからポリフォニー(ここでは、和声による音楽一般、程度の解釈が適当である)が歌われた国とされ、舞踊によって語られる文化からは、山岳地帯の牧歌的な空気の中にありながらも、長い侵攻と戦いの日々が描写されている。この日のプログラムの中にも、戦いの緻密な描写を持つものもあるし、中には、2008年のロシアとの間にあった紛争により支配権を失った地域での舞踊が表現されたものもある(「アブハジアの踊り」)。考えれば非常に深い内容であり、ジョージアという、パンフレットやこの日流れた映像からも感じ取れる自然の美しさとは裏腹に、厳しい現実と闘ってきた人たちに思いを寄せるのも、またこの公演の捉え方かもしれない。

 しかし、こういった背景の解説を施したパンフレットが有料であるというのは、決して金儲けのためだけとも言えないような気がする。曲名プログラムと歌詞対訳のみを持つ人達でも十分楽しめるように、この公演が設計されている、その裏返しとも言えるのではないかーー何も知らずに勧められ、チケットを買って、最初本稿を起こす気のなかった私に、最後に取材用のノートを握らせたのは、後援に名を連ねる全日本合唱連盟の文字と、直感がなせる、名演へ向けた予感であるーー果たして、この予感は、大当たりとなる。
 オープニングに引き続いて踊られる「アチャラの踊り」から、この舞台は圧倒的な感動を会場全体にもたらした。速いテンポと体幹を軸とした圧倒的な身体能力を以て披露される超絶技巧は、この舞台全体を支配し、そして最後まで観客を惹き付けて離さない。
 重要な文化の一パートであり、同時にジョージア人の心に深く根付いているポリフォニーは、時に舞踊のバックミュージックともなる。しかし、それながらにして、一曲目の第一音の瞬間から、開いた口が塞がらない。文字通り塞がらない。アンプを通してをも聞こえてくる、その圧倒的なボリューム、力強さ、そしてなにより倍音!ーー複雑なテンポを刻むドラムとアコーディオン、ベース、そして民族楽器のチョングリやパンドゥリを以て奏でられる圧倒的なサウンドの中にあって、なお存在感を持ち、否、それらの楽器をも凌駕する質感を以て、楽器による少し乾いた表現の中に質感をもたらす。
 一曲目から、客席から、ポップスでしか聴いたことのないくらいの大きな歓声が聞こえる。最初からこんなに歓声を出していていいのか、あとの演奏に響かないかーー否、もう、一曲目からこれくらいの賛辞を贈らないことには、わざわざ遠方からやってきて筆舌尽くしがたいパフォーマンスを披露する彼らが役不足になってしまう。
 合唱ソロももちろん披露される。どれも、反響板も出ていないため、アンプを通してとなるが、しかし、アンプを通しているとは信じられないくらいに、この公演の合唱は、よく揃い、男声特有の豊かな倍音を鳴らし、そしてボリューム感たっぷりで、デュナーミク豊かなのである。そう、なにより饒舌さが光るこのアンサンブルは、饒舌でありながらにして、技術的な問題が全く見えてこない。否、これこそまさに、「技術は後、表現が先」のアンサンブルである。豊かな音楽表現を以て、何より音楽の表現せんとすることが十分に表現されるから、その表現には滞りがない。常に、充実した音がなり続けている。
 しかし、である。それにもかかわらず、このアンサンブルは、ダンスに負けずどんなに音を動かしてもピッチがずれず、しかし圧倒的な力強さをアンプ越しにすら感じることができる。アンプラグドで歌わせても、この合唱団は間違いなく、力強いアンサンブルを聴かせるだろう。ーーしかし、それでもなお、否、それだからこそ、「技術は後」なのである。表現のために用いられた、自由な発想からもたらされる圧倒的な技倆は、この団が持つ文化的背景を以て愈この境地に辿り着く。そこに潜む背景は、紀元前から和声を重ねてきた民族が持つ歴史的背景と、そのまま重なる。
 否、何も、無理に話しているわけではないのだ。実際、今日の合唱に関するプログラムのうち、キリストに関する信仰心を歌ったものはほぼないと言っていい。この国が著名な教会を持ち、4世紀ごろにキリスト教が定着し始めているにもかかわらず、である。まだグレゴリオ聖歌もない頃ーー否、キリスト教、あるいはイエスすら生まれていない紀元前三〜二千年前にポリフォニーが生まれたという学説が有力であるという。聖歌が齎されたときも、土着の伝統を盛り込んで歌われたとも、プログラムには記載されている。ともすると、もはや、和声を重ねるということは、旋律を歌うのと同じくらい、ジョージアの人にとっては自然な行いなのかもしれない。
 そんな自然な音楽はしかし、異文化でありながらして、やはり私達にとっても自然なのだ。一糸乱れぬ集団行動に、平行移動、脚さばき、複雑なメロディラインの中に凛然と響く男声の倍音。静かな音楽ですらなお、あまりの情報量、含蓄の深さに、私達はただ、直感での反応を求められる。ーー直感で反応しないと、間に合わないくらい、その音楽は、舞踊は、充実している。溢れ出す文化が、一つ一つの音の響きが、心を揺さぶり、耐えきれぬ興奮が、曲間の歓声をより大きくしていく。溢れ出た興奮が、最後の曲が終わった後に、動きとなって現れる。スタンディングオベーション。決して全員とはいかなかったが、しかし、何につけても無駄に冷静で、興奮を表に出すことのない名古屋の観客を、この団は立たせたのである。
 書きたいことはいくらでもある。「ホルミ」に見せたジョージア国旗の雄々しさ、「ナルナリ」「サマヤ」に見せた、浮遊感漂う女性ダンサーの優美な踊り、男女の舞における男性の回転と足技、「シムディ」の一糸乱れぬ集団行動、「トゥシュリ」における縦笛二本使いの一人和声の超絶技巧、「剣舞パリカオバ」で交わる剣と火花の見事な殺陣、「チャルクロ」の、ジョージアポリフォニーの魅力を余すことなく詰め込んだ美しく力強い和声。そして、最後の「山岳地帯の踊り」、アンコールにおける大団円……否、しかし、逆に野暮なのだ。各演目を語れば語るほど、なぜか文章は陳腐となる。
 そう、これは、この公演は、ひとつの壮大な叙事詩だったのだ。ジョージアの自然と歴史の精神の、その根本を紹介する、壮大なひとつの物語である。私達は、この瞬間、ジョージアを知った、そして、その虜となった。まるで、ポップスで一つのアーティストに呼びかけるような、熱狂にも似た歓声を、今も鮮明に思い出す。それは、ユーラシア大陸の真ん中に生きる民族がなせる、ひとつの奇跡に他ならなかった。

 小難しいことから、本稿を始めた。存在を知らなかったものに感動を見出すには、「存在を認知すると同時に感動しなければならない」と。ーーもう、そんなこと、どうでもいい。ただとにかく私達の心を、身体を、頭の中を揺さぶったそのパフォーマンスに対する印象は、私達の直感そのものである。いわば、私達の頭の中をえぐられたような、直感に直接語りかけるパフォーマンス。
 自己弁護するでもなく、この公演までジョージアをよく知らなかったというのは、決して私だけではないと思う。しかし、今ならしっかりと言えるはずだ。ジョージアには、国立民族合唱舞踊団「ルスタビ」があり、ルスタビをもたらした豊かな舞踊と合唱ーーポリフォニーの文化があり、それを生み出すだけの深い歴史と、美しい自然、文化がある。ーーそして、そのことに対する感動を、アジア人である私達も十二分に感じ取ることが出来、ともに文化の熱狂のうちに入り込むポテンシャルを持っている。
 細かいことは、あとから学べばいい。ひとまず、それだけで、もう十分なのだ。

2018年10月14日日曜日

【合唱団天上花火 創団25周年記念第13回演奏会】

2018年10月14日(日)於 伊丹アイフォニックホール

定価ベースにして往復7,000円あまり、と聞けば、確かにちょっと高く思える。でも、高々片道3,500円程度。例えば名古屋から内海駅まで1,000円程度ですし、名古屋から豊橋まで1,500円程度。浜松まで2,000円程度かかる。もっと言えば、交通手段を考えれば、定価ベースでも、名古屋〜大阪間は1,900円まで落とすことができる(昼行高速バス早割利用)。
いやね。思うんですよ。
名古屋から見れば、大阪は安い。
そんなわけで、先週の広島に続いて、今週は大阪です。時間はかかれど、正直、広島と比べるでもなく、全然近いので、本当に気が楽なところ。移動の車内で読書するなり、こうやってレビュー書くなりすれば、せっかくの休日が〜となることもない。ちなみに、近鉄ローカル線乗り継ぎでした。定価ベースで、大阪までは2,400円。うむ、やはり安い。
否ーー嘘です。今日は伊丹なので、行き先は兵庫県です爆

さて、今回は、大阪にいるうちに行っておきたかった団の演奏会。天上花火という合唱団があって、なかなか意欲的なプログラムを組んで活動されていることは承知していたのですが、なかなかタイミングも合わず。活動期間の長い一方で、Ken-P への新曲委嘱の履歴もある、まさに、柔軟な活動が目を見張る、前々より期待をしてみていた団のひとつでした。
今回の演奏会、もともとずっと手帳に書いてあって、行こう行こうと思っていたものの、チケットはまぁ当日でいいかなと高をくくっていた一面も。そしたら、演奏会一週間前にして、公式FBがまさかの満席予告&残券僅少の告知。こりゃイカンと、大急ぎでチケットをとったのでした。結果、蓋を開けてみれば、見事満席。文字通りの満席。素晴らしい。否然し、この時代、座席にハンカチがたくさん引っ掛けてある光景なんて、なかなか見かけませんよ笑

・ホールについて

伊丹は伊丹でも、ちがう伊丹。まだ東リに魂を売る(違)ようなマネはしていないオリジナルな名前で頑張っているホールです笑 とはいえ、位置関係としては、ほぼお隣さんといってもいいくらい、いたみホールの近所にあります。若干JR寄りですが、こっちまで来てもまだ阪急側から歩いたほうが近い様子。すぐとなりにコミュニティFMがあります。近所と一体開発されたのか、基本的に真っ白な蔵の街伊丹にあって、ブラウンの外装が街にも溶け込んでいておしゃれです。
そう、そして、これもまた気になっていたんですよ。私、実はこのホールに大阪にいる間に来たことがなかった! いたみホールには4回も5回も行っていたのに笑 1,500人近い規模を有するいたみホールと違って、こちらのホールのキャパは500人程度。でも、これくらいの手近さ、手軽さが、ちょうど使いやすいこともあるんですよね。螺旋階段を登ってホールに入ると、札幌もびっくりの絶壁笑と木質仕上げのオシャレな内装が目に飛び込んできます。そう、円形タイプのシューボックスステージは、見るにオシャレなホール。天井に光る照明は頂点からホール全体を照らし、その周りを彩る楕円の組み合わせは、さながら花開いたよう。さらに、ステージ天井の意匠は葉っぱのように、スピーカーのような灰色のキューブも、丸みのある意匠の中にアクセントを加えて新鮮です。否、すごくいい。なんでこのホールでこれまで聴いてこなかったのかと後悔するレベルです。ほら、オプションのミラーボールだってあんなに低い位置にあるし……え、なんであんな低い場所にあるの? え?
で、響きの方ですが、ホールの大きさ相応に、室内楽がよくあいます。否、これがとても重要で、見栄を張っている感じも、音がならない感じも特にない。特に今日は満席だったので、残響という意味では非常に控え目な面もありましたが、ちょうどいい残響の音が、確かなボリューム感で返ってくる。シューボックスタイプでボリュームが返ってくるというのも、これまたなかなか新鮮なホールです。否然し、上述からして、芸術を楽しむための要素は確実に揃っている。いたみホールがちょっと上級な芸術を楽しむための場所だとするなら、アイフォニックホールは、ふらっと来てちょっと芸術を楽しむのにちょうどいい。ふらっと来るだけで、確かに音楽を楽しむことのできる、この安心感。
ちなみに、今日は公演中、客電が落ちることがありませんでした。ホールの特性上、舞台照明を作りづらいのかな、という風に見えたので、その影響もあるのかも。見た感じのイメージですが、全照にしても、舞台照明だけだとちょっと暗いかなって感じでした(客電上がっているおかげで、見てる分に困ることはありませんでした)。もっとも、公演が終わった直後、何かがミスって、一瞬客電がフェードして真っ暗になったので、特に客電が落とせないというわけでもないようです笑
ところで、このホールのベル、なんだか、いたみホールと対になっているような気がしてならないんですが……気のせい?笑

Opening: ジョン・ラター「ルック・アット・ザ・ワールド〜世界はたからもの〜」(ヘルビック貴子・日本語訳詞)
指揮:根津昌彦
ピアノ:鹿島有紀子

どうもこの合唱団、団員の子どもたち有志を「ジュニア」として活動しているようで、ジュニア若干名と、そのOG若干名も含めてのステージ。満席のお客さんと、下がりきらない客電が逆に助けとなって、雰囲気はさながらファミリーコンサートのよう。ジュニアだけで歌う部分は、もっと息をしっかりと声にできるといいですね。あとは、もっとイキイキと歌いたい。否、子供らしさを追求すると言うより、もう少し勢いつけて声にしたほうが、もっとメロディが動いただろうな、というところ。子どもたちにとっては、このホールも広かったでしょうから、もっと広々とホールを使った音作りをしてみてほしかった。でも、満席のお客さんの中で、よく頑張りました。
そして、そんな、まだちょっと頼りなげな子どもたちの歌声を、大人たちが寄り添って、包み込むような温かいオープニング……。
そう! 子どもたち、このステージの大人たちのように! 柔らかなアンサンブルでありながら、しっかりと音が鳴っているさま、長年愛唱していることもあって、実にお見事な音作りでした。しかも、しっかり鳴っていながら、響きは非常に高いところから鳴っている。その音色、うん、こんなにラターをおのがものとして歌いこなせる団、そうないですよ。ある程度平易で、言ってみりゃ誰でも歌える音だけど、ラターのつまんない演奏って、結構頻繁に見かけますから(失礼)。聴かせるの難しいんですよね、ラターって。良くも悪くも、簡単だから。シンプルなものを味をもって聴かせるには、充実したレガートなんだなぁと思い知らされました。いやはや、お見事。

そして、根津さんはよく喋るタイプの指揮者でした笑 関西こんな人ばっかやな笑
初めての演奏会もアイフォニックホールだったんですって。此度堂々の凱旋公演。

第1ステージ
森田花央里・混声合唱組曲『青い小径』(竹久夢二)
指揮:大坪真一郎
ピアノ:鹿島有紀子

森田先生をレッスンだけでなく、当日の客席にも呼んでの演奏。森田花央里の名を知らしめた朝日賞受賞作「鐘」を含むこの組曲は、森田音楽の導入という意味では、音響的にも、技術的にもとても意味のある作品となっています。今現在の先生のライフワークですからね、竹久夢二っていうのも。
そう、前のステージでも指摘したところなんです。「しっかりと鳴っている」。否、このステージでは、ちょっと狙いが外れてしまったようです。特に前半2曲、女声がメロディで音の勢いを絞ってしまっていたかな、というのが残念なところでした。確かに最初の部分は強く出るようなパートでもないのですが、だからといって、勢いを失ってしまっては、音量はともかく、メロディが推進力を失ってしまうので問題です。各メロディがある程度芯を以て鳴らないと、そのメロディ同士が絡んでも迫力不足になってしまいますし。でもだから、勢いを増す3曲目は、むしろちゃんと鳴っていたというのは、象徴的な出来事のような気もします。派手な音、ってわけでもないけど、もう少し華々しい音が鳴っていてもよかったように思います。もっと伸びのある音、といいますか。確かに透明な音が似合う曲で、ゴリゴリ鳴らすよりは、ちょっと引いた音作りのほうが似合うかな、と表面的には思わされる面もある。でも、この曲、なんならこの団のもとの音にしたって、もともととても透き通った音が鳴るし、そういう風に出来ている。だったら、奇を衒う必要なぞなくて、楽譜に書かれている音を、自分たちが提供できるベストな音響で響かせることが出来たなら、それで十分なのではないでしょうか。
でも、ここで特筆しておかなければならないことがーーこの団、テナーが抜群にうまい! テナーが刻み、オクターブで下から上昇音型を支え、ときにヴォカリーズのハーモニーを作り、女声に寄り添いメロディを作るーー高い響きと、無理をしていないながらもしっかりとホールを響かせる力強さ、アンサンブルを引き締めていて非常に素晴らしかったです。否、普段テナーなんてけちょんけちょんに言われてなんぼみたいな世界で生きている自分がいうんだから、間違いないですよ、これは笑

インタミ10分。

第2ステージ・Tenhana Entertainment(T.E.T.) vol.8〜ウタッテ25〜
サザンオールスターズ(arr.信長貴富)「みんなのうた」
嵐「HAPPINESS」
次郎丸智希・編曲「ザ・ベストテンメドレー」〈初演〉
Mr.Children(arr.石若雅弥)「ヒカリノアトリエ」
ゴダイゴ(arr.石若雅弥)「銀河鉄道999」
指揮:根津昌彦
ピアノ:鹿島有紀子

で、このステージ。パンフには、その段になったら、皆で立ってYMCAやってね!とか書いてあるんだけど、まさか……ねぇ笑 と思っていたら、ステージ上に団員たちが80年代風ファッションで登場して、その瞬間から客席の笑いをかっさらってるんだから、もうイヤな予感しかしない爆
いやね、さっきのステージからの引き続きで、ソプラノとかメロディ張ってるしもっと出したほうがーーとかいろいろ考えてたんですけど、なんかだんだんどうでも良くなってきた←「HAPPINESS」では早速踊り出すし笑 あれなんですか、関西では嵐ぐらい踊れないとポップスステージもやらせてもらえないんですか←
「ーー前のステージから、随分毛色が変わるもんですね!」とか、根津さんも赤いアクセントの入った真っ白なブーツカットとか履いて言ってるけど、もうなんか、変わりすぎでしょうよ、いろいろとw こんなに説得力のない説得力のある言葉初めて見たw
「あんまり(先生に)ライト当てないで!」(根津)→「ハレーションが……」(次郎丸)とか、編曲の次郎丸先生(スキンヘッド)を上げてもやってるし、もはやなんでも有りですね、このステージ笑 3曲目の初演は、根津さんがやりたい曲を順番適当にリストアップしたものを、次郎丸先生が「その順番のまま」編曲してしまったという逸品笑 とりあえず黒柳徹子さんがあz……根津アナウンサーとともに登場したところから、その後はベストテン世代の曲を、モノマネありダンスあり指揮者のパフォーマンスにピアニストの歌ソロありとなんでもありの大団円笑 件のYMCAが始まったと思ったら客席皆で拍手よりもYMCAしているもんんだからむしろそこで拍手が止まるというぶっ飛び具合爆 大盛り上がりのまま、ミスチルでアイスブレイクしたあとに始まったゴダイゴでは、ついにミラーボールが光りだす笑 最後にはもはや、さっきのステージよりも女声が良くなっていた気がする爆
「合唱を知らない人にも楽しんでもらえるように」(根津)ポップスステージを企画する団って少なくないけど、やったとしても、ポップス歌っときゃどうにかなるんでしょ? くらいに選曲だけでゴリ押すステージもまた少なくない。そんな中で、関西ってやっぱりすごくて、この団も例外ではないのは、結構な確率でガッツリ盛り上げようとステージ構成を考えているんですよね。だから、単なる余興みたいなステージにならずに、全力のエンタテインメントが完成するんですよね。いやはや、どこよりもぶっ飛んでいた。ある種、ドラフト並の感動だった。本当に見習いたい。
……そういえば、某安積黎明と違って、ミラーボールは回してましたけど、スモークは焚いてませんでしたね?←

インタミ15分。しかも何がすごいって、この次のステージで高田三郎の宗教音楽をやるっていうことだ爆 天に召された折には高田先生から譜面台か何か投げられても何ぞ不思議ではあるまい←

第3ステージ
高田三郎・混声合唱とピアノのための『イザヤの預言』
指揮:根津昌彦
ピアノ:大岡真紀子

いや、この曲はこの曲で、尋常ではない思いで演奏している由。だからこそ余計に、演奏前はギャップが……笑 
然し、演奏が始まれば、なんてことはない。本当にすごかった。別に、ギャップがどうとか、そういうのじゃない。本当に久々に、完成された高田音楽を堪能することが出来ました。お客さんも、先のステージとは打って変わって、水を打ったように静かです。しかも、その静寂の中に、確かに緊張感を感じる。それだけで素晴らしい時間であります。
否きっと、全国に点在するとされる、高田音楽の伝道者の皆様方に言わせたら、まだまだはるかな高みを目指すことのできる部分はあるのかもしれない。でも、高田音楽に必要とされている要素ーー子音や助詞の処理、デュナーミクの徹底という面については、非常に洗練されたものを聞くことが出来ました。その点、根津さんの師匠の一人は須賀先生、高田先生の教えを現代に繋いでいる貴重な生き字引からの(本当に!)厳しい教えを守ってこられたのだと心から思います。なにも、須賀先生のレッスンを受けたというだけで、こうなるわけではありますまい。
そう、アンサンブルに込められた思いなんです。その意味もあって、特に徹底していたのは、アンサンブルにおけるデュナーミクの部分でもあります。ときに力強く訴えかけ、ときに静かに祈りを捧げる。その緩急の付け方の、細部に渡る配慮、まさに、この曲に対する理解そのものが、よく現れていました。
途中で、内声がやや濁っている部分もあったような気もします。でも、全体をして、フレーズの伸び、あるいは、表現するべき対象に対する敬意に満ちた、素晴らしい演奏でした。その中でもさらに特筆しておきたいのは、終曲の和声! 始まりも終わりも、いい脱力といい緊張感、その塩梅の素晴らしさが音に乗り、ホールを目いっぱいに鳴らす充実した音が鳴っていました。メロディの美しい音列の中に寄り添う自然で豊かな和声ーー高田音楽の真骨頂は、この、心にすっと入り込んでくる自然な心の豊かさにあるのかもしれません。
あ、とはいえ、女声も含めてアンサンブルに力が戻っていたのは、もしかしてYMCA効果だったりするのかしら←

・アンコール
ジョン・ラター「主はあなたを恵みて守り」(ヘルビック貴子・日本語訳詞)
指揮:根津昌彦
ピアノ:大岡真紀子
森多花央里・編曲「ふるさと」(文部省唱歌)
指揮:大坪真一郎
ピアノ:鹿島有紀子

イザヤは比較的厳しく強い信仰に対する思いが描写された曲。とすると、まるでラターのこの曲は、そのアンサーソングのように、いわば救済となって観客のもとに降り立ちます。そして、私達の心をもふるさとに戻す森田編曲。でも確かに複雑に絡み合い、新鮮で途切れない和声の中にたゆたう旋律ーーラターがこの団の来し方だとすると、森田はこの団の行く末であるかのような。これからの25周年をも予感させる、美しい橋渡しとなる2曲でした。

ストームはなく、そのまま終演。階段が多くてちょっと狭いのが、このホールの玉に瑕、かも。混み合うと出るのが結構大変です。

・まとめ

全力、ですよ、全力。
何事にも、全力って大事だなと、折に触れて思わされました。第1ステージでは、全力で音を鳴らすことで解決できたかもしれない課題を提示され、第2ステージでは、全力のエンタテインメントが見せうる底力を思い知らされ、第3ステージでは、全力で曲を余すことなく表現することによって、高田音楽がこれ以上ないほどの魅力を以て鳴っていた。
演奏者をして、脱力ってよく言われるじゃないですか。ちゃんとした発声を、高く澄んだ音を出すためには、全身をよく脱力する必要があるって。脱力することで、音がよく響いて、きれいな音が鳴るようになるって。
なんも間違っちゃいないと思うんです。それ自体は。でも、その捉え方を、ときに私達は間違えているのかもしれない。
違うんです。やるなら全力で、なんです。私達は、全力で脱力しなきゃいけないんです。
もはや合唱に限らないかもしれない、常に100%を出すことがかっこ悪いというか、それだといわゆるバッファがないから、80%くらいの力でものに当たる必要がありますよ、みたいな風潮。まぁそれも一理あるとは思うんです。でも、同時に思うのは、最初からそんなこと考えてたら、80%の八掛けで64%しか出せないんじゃないの、って。
なにかのタイミングで、全力を出すタイミングを作るべきなんだと思います。自分の100%を知らないと、八掛けする余裕がどこにあるかだってわかる由もない。もしそれが、真の意味でコントロールできるっていうのなら、そりゃ、八掛けでもいいのかもしれないですけれども、でも、私達ってアマチュアですし。よほどの人間でないと、八掛けを探すのにも、全力を費やさなければいけないのではないでしょうか。
創団25周年をして、30余人いる団員の中核メンバーが文字通り中年揃いな中にあって、天花のステージは、文字通り全力を目掛けていたものでした。その泥臭さを、斜に構えて見ている若者も、今や多いのかもしれません。でも、そこに大いなる輝きを見出した若者は、確かにここにいます(もはやアラサーなのは否定しませんが笑)。どうぞ、自信を持って、これからも全力で突っ走っていってください。

2018年10月8日月曜日

【コーラス・どーなっつ Go on!】

2018年10月8日(月・祝)於 広島市安芸区民文化センターホール

参加団体(掲出順):
Chorsal《コールサル》(愛媛県)
Dios Anthos Choir(高知県)
OHISAMA NOTE(岡山県)
合唱団ぽっきり西条組(広島県)
島根大学混声合唱団(島根県)
就実大学・就実短期大学グリークラブ(岡山県)
徳島大学リーダークライス(徳島県)
広島大学合唱団(広島県)
広島大学東雲混声合唱団パストラール(広島県)
安田女子大学合唱研究会Vivid Nova(広島県)
山口大学混声合唱団(山口県)
外、個人参加若干名(御芳名省略)

……初上陸です笑 このところこのブログ、遠征が続いていますが、大丈夫なんですかね(大丈夫じゃない←
ただ、行きたい演奏会があると抑えられないんですよねぇ(重症)。夜行で0泊3日の弾丸広島旅行です。今回お邪魔した「コーラス・どーなっつ」。イベントの名前は聴いていましたが、見てみるととても面白そうじゃないですか。なにせ、中国・四国という広範囲から、これだけの団が学生中心に集まるんですもの。アツくないはずがない。
今年で5回目を数えるという同イベント。このイベントは、実は単なるジョイントコンサートというわけではありません。有志の各団演奏に加えて、主役となるのは合同演奏、そして、それに至る2泊3日の合宿にあります。
そう、彼らにとって今日は合宿3日目。1日目、2日目と、合同演奏の練習の外、講師の3名による部門別講習会が開かれて、合唱の技術を磨き合います。だからこのイベント、単なるジョイントと違って、非常に仕上がりの良い状態で合同演奏を迎えることとなります。それだけに、今回の合同で設定された曲も、高い技術を要する3曲。そのイベントとしての特異性と、純然たる興味が、私を広島へと向かわせたのでした。

・ホールについて

海田市駅から歩いてすぐのところにある区民ホール。広島市の中でも安芸区は一番端にあたります。この前の豪雨災害でも、被害が酷かったところとごく近いところにあります。影響を目視したわけではありませんが、この先、代行バスが走る区間が今も残り、海田市駅を出たところには、税務署の罹災関係の税金についてのチラシが置いてあるなど、確かに被害の爪痕はあるようです。
さて、ホールの方はというと、ちょうど、名古屋でいうと文化小劇場、この前の下丸子のホールと同じような位置づけにあるともいえるホールです。保健所や図書館が入る多目的複合施設の中にあるホールは、金属板と木の立ち上がり、Pタイルにペンキ塗り……400席から500席ほどと見られる客席も含めて、そう、まさに、公共施設といった感じのホール。だから、開演ブザーも「b-----------」って鳴ります(我ながらこだわるなぁw)。とはいえ、広島駅から3区程の立地は、なかなか魅力的なのではないでしょうか。
反響板を外せばまさに、多目的に使えるホール。でも、このホール、音楽ホールとしても優秀です。何か。とても心地よく、音の鳴るホールなんですね。こういうホールだと、そもそも響かないというところや、あるいは響きはよくても、それがステージの中に籠もるということがままあるのですが、このホールは、ちゃんと響きが音量となって返ってくる。側反と正反に施された装飾のような加工が、音をよく増幅させてくれているのかもしれません。耳元で鳴るわけではない、広さは十分感じる音に加えて、短いけれども心地よい残響。たかが地方のいちホールと、侮ってはいられません。なかなかの実力です。

客席は3割程度といったところでしょうか。地方ユースだったりとか、演奏する人間がもともと興味持ちが多いと、悲しいかなこういう感じの客の埋まりになることが多いんです。否でも、キャパも相まって、いい感じに埋まっているようにも見えるかも。それに演奏者も加わって、ステージ途中までは結構埋まっているようにも見えたかも。OB/OGもお見えのようで、アットホームな雰囲気。西日本だと、こちらの方でも「○回生」っていう学年の数え方するんですね。
アットホームといえば、この演奏会にも紙のアンケートが挟んであって、書いてきたんですけれども、「ご来場いただいた理由は?」の選択肢の一つに「暇だから」との一言。……そりゃ、丸打ってきますよね、そこに笑 暇を持て余して遠路9時間名古屋からの旅路爆

エールとかそういった類のものはなく、さっそく有志各団の演奏から。

第1ステージ:単独ステージ
SUND, Robert "La cucaracha"*(Mexican Folksong)
上田真樹「強い感情が僕を襲った」「終わりのない歌」(銀色夏生/『終わりのない歌』より)
演奏:広島大学東雲混声合唱団パストラール
指揮:黒木陽介、梶原隆志*
ピアノ:子鹿日苗乃

30〜40名程度の、理想的なバランスによる混声合唱団。最初の音から、この団のポテンシャルの高さを見せつけられました。高めのサウンドがよく響き、かつ音量もしっかりありつつ、ヴォカリーズからは表現に対する意欲もよく見られる。加えて、クレッシェンドのボリュームの豊かさも十分ーー。
そう、この演奏からずっとそうなんですけど、この地域、すごくポテンシャルが高いんです。縦の響きがよくあっていることもさることながら、何より、歌うときの力・発声の土台がものすごくいい。どの団ももれなく、しっかり歌う力を持っている、あるいは、しっかり歌おうと十分な意識を傾けている。だから、揃うだけでない、立体的な音楽が、どの団も自然と出来上がる。
もちろん、この団にだってアラはあります。たとえばこの団だと、早口なところでテンポに乗り遅れることがあるようです。加えて、もともと後鳴りな傾向があるようで、早いパッセージが重くなったり、ロングトーンでピッチが下振れする原因となっているようです。1曲目や2曲目のカノン、さらにはそのバックで鳴る男声の副旋律的な主題の回想など。
でも、1曲目の終わりに拍手が思わず出るほどの楽しい演奏、この団のこの明るい発声で歌う、「終わりのない歌」の tutti での主題、いずれも、本当に素晴らしいできでした。「終わりのない歌」の、あの主題がある限り、演奏会へ向けて、この演奏はいい方向へ向き続けてくれると思います。グッとくる、ああ、終曲聞きたいわ笑

まつしたこう「ほらね、」(いとうけいし/同声3部版)
木下牧子「あいたくて」*(工藤直子/『光と風をつれて』より)
演奏:安田女子大学合唱研究会Vivid Nova
指揮:今井唯理、縄裕次郎*
ピアノ:渡子はるな、今井唯理*

12名程度。人数の割に良く音が出ていて、何より本当に各パート音もピッチもよく揃っていてハモってもいるから、ボリュームの不足感は、ホールの音響やハーモニーの豊かさでよくカバーできていたように思います。
でも、そうやって、ちゃんと歌えるからこそ、気をつけたいのは、メロディの歌い方。特に「ほらね、」では、メロディが流れてしまう傾向にありました。特に、Aメロというか、めくるめく様々な情景を見せる部分では、もっとひとつひとつの情景に思いを込めて歌えると、より魅力的かつ複層的な表現になったように思います。一方で最後の転調へと向かうクレッシェンドは見事。これだけの人数でいながら迫力のある素晴らしいクレッシェンドでした。
そして、個人的には初・縄さんの演奏となるこの演奏笑 否、でも、上に書いた、メロディが流れがち、というデメリットをうまく昇華してメリットに変えることができていました。フレーズが流れる、ということは、裏を返せば、フレーズがよく繋がる、ということでもある。「あいたくて」のフレーズ感はその意味で見事でした。よくつながっていて、その展開がよく見える演奏。どこか懐かしような、焦りのような、みずみずしい感情が見えてくるような。
なにかといえば、少人数にしてアンサンブルが非常に上手。少人数系合唱団の理想のひとつでもあります。

松下耕「音戸の舟唄」(広島県民謡/『南へ』より)
松下耕「もっと向こうへと」*(谷川俊太郎/『すこやかに おだやかに しなやかに』より)
演奏:広島大学合唱団
指揮:河村藍、菅井敬太*
ピアノ:米田好佑、笠原啓介*

男性が白ブレザーという団は多くあるものの、女性が白ブレザーを羽織る団はそうないのではないでしょうか。そんな女性は、オンステ16名あまりのうち、わずか6名。もう、いろんな意味でかっこいい。
しかし、最初のソロから全パートが合流していくところまで、音量が本当によく出ている。声の出し方は、響きが暗くなりがちな部分もあるものの、しかし、それよりもまず、この表現に対する意欲に、心から敬意を表したい演奏。安全運転な演奏が多い地域に身を置いている当方としては、本当に新鮮で素晴らしい光景でした。特に女性! 6名で歌っているとは思えないくらいに、ガンガン鳴らしまくっている男性に食らいつき、凌駕すらしかねない。それに負けじと、ソロの男性2人も、学生にありがちなビビリなソロということは全然なく、ガッツリ鳴らしにかかる。
「もっと向こうへと」でも顕著なように、各パートの絡みという意味では、ちょっととっちらかってはいました。特に、この曲では、抑えるという感情が入ったのか、ピッチの粗さが逆に目立ってしまう。でも、やっぱり、抑えたあとのフォルテには、この団の魅力が光っています。1曲目は特に、広島だからか(?)、勢いを全開にした松下耕の民謡は、最高の表現なんじゃないかと思います。
あえていうなら、少しばかりの操縦する技術があれば、それだけで、この団はあっという間に飛躍するのだと思います。でも、そんな野暮なこと、あんまり言いたくない。この団、人に言わせれば、間違いなく荒削りなんだと思います。でも、こんなにワクワクする荒削り、僕は久々に見ました。今でも鮮明に思い出す、今日イチ注目の演奏のひとつです。

Hindemith, Paul "Kyrie"(from Messe)
Gjeilo, Ola "Ave Generosa"(Hildegard von Bingen)
演奏:合唱団ぽっきり 西条組
指揮:縄裕次郎

有名団の広島大学支部的な位置付けのようで。西条組は13名程度。もちろんホンモノはもっといます(っていうのもアレか笑)
パート内で揃った音が良く鳴り、しっかりとフレーズを操れているさまは、聴いていて見事。特に、ヒンデミットのよく跳ねるフレーズをうまく描けていたのは、技術的にしっかりした合唱団の証です。
でも、この団、パートの間でのアンサンブルという面になると、まだ磨ける面があります。個が立ちすぎているというか、パートの中で閉じたアンサンブルになってしまっていました。ともすると、1曲目最後のオクターブなどは、もっと揃えると、もっと立体的な音が鳴ったような気がします。
縦の揃うイェイロのハーモニーは十分。でも、それも、少し動かすと、やはり違和感が出てきてしまう。特に、イェイロで言えば、外声がロングトーンを張りながら内声が動く時、その内声の動きが今ひとつ必然性を持って響いてこない。あ、コードが変わっているな、というイメージを、どうも持ちづらい響き方になってしまっています。内声かな?でも、それだけでもないような気がしてしまう。
もちろん、全体で合わせたら、そういう面も解消されることだってあるのかもしれません。でも、この西条組単体をしてだって、もう少し他パートに耳を傾けるようにすれば、改善してしまう問題なような気がします。だって、ポテンシャルは十分ありますから。相変わらず、しっかりピッチの高い音が鳴らせていますし。
否、実を言うと、これまで4つの中ではおそらく一番整ったアンサンブルなんですけど、でもどうも、そうなると私の判断のベンチマークが上がるから、厳しい批評に鳴るんですよね、とコメントまで笑

Mendelssohn, Felix "Herr, nun lässest du deien Diener in Frieden fahren"(from 3 Motetten Op. 69)
相澤直人「ぜんぶ」(さくらももこ/『ぜんぶ ここに』より)
演奏:Chorsal《コールサル》
指揮:大村善博

若手有志の参加。団員10名。普段はその倍くらいはいるみたい。今度は、初・ぜんぱくさんです(恐れ多い!笑)。
最初はなぜか全体的にビビってたみたいですが、ノッてきてからはいい音が響いていました。1曲目は、ドイツ語の子音に対する意識が強烈に感じられる、小技の良く光った出来。パート同士の絡みも、付かず離れずの、良いラインを良くキープできています。
あえて言うなら、母音の響きの差が、音の響きに対して悪影響を及ぼしてしまっているでしょうか。また、1曲目は特に顕著に、フレーズがつながるものの、息が続かないような、フレーズの終着点が見えないような、漫然とした演奏になってしまったようなイメージです。でも、やっぱり、そこら辺、ドイツ語だったからですかね笑、「ぜんぶ」は日本語だからか、そこら辺の問題を特に感じずに聞くことが出来ました。
身体を、目を、よく使って、自然にアンサンブルをしているのが良くわかる演奏でした。それでいて、音楽がもったりせずに、ちゃんと進行していくこと。特に「ぜんぶ」なんで、遅くなりがちで、ひどい場合だとどこかくどい演奏に鳴っていることもしばしばあるのですが、今日の演奏についてはそんなこともありませんでした。
よく音量があって、しっかり歌えていて、それでいて、柔軟にアンサンブルがつながっている。そうそう、今日の演奏において、大切なものはぜんぶここにあるのよ。特に「ぜんぶ」については、音源化してもいいんじゃないのってくらいに、理想的な演奏でした。

インタミ10分。

第2ステージ:アンサンブルステージ
縄裕次郎 "Laudate Dominum", "Lux aeterna",「狩りの歌」《初演》
指揮:縄裕次郎

さて、この演奏会、講師として参加した3人が講座を持って行われた2泊3日の合宿が一つの核となっている演奏会。そこで開催された縄さんのアンサンブル講習会についての演奏披露ステージです。なんと縄さん力を込めて作曲したのは図形譜。それを面前にした学生を中心とする若い歌い手に「対話的で主体的なアンサンブルを」することができるようにするのが目的だったとか。
3曲アタッカで演奏されました。いわばエチュードのように階名唱から始まり、ド=ソ=レと完全5度の関係の中に、動き、揃ったうちに、またクラスターを形成しながら、オーダーともども、各歌い手が独立して、客席へ降り、空間の中へ混ざり合っていきます。そして、2曲目仕切り直して、客席に座っているメンバーも一体となって、クラスターがさらに広がっていく中、独特なリズムの手拍子をしたり、その場をぐるぐる廻るメンバーも。音階を超えた遊びを魅せつつも、愈音楽はユニゾンの中へ収斂されて行きます。そして、突如として野性的な咆哮が聞こえるうちに始まった3曲目とともに、ステージへと戻った団員は、主題、通奏の後、動物的な響きを意味深な呪文とともに唱えだし、指揮者のストンプとともにそれは頂点的な盛り上がりを呈したのち、再び唱えられながら、団員ともどもステージ上手へと消えていくーー。
現代音楽への導入としての意味合いもあった同曲は、とても良く出来た作品であったようにも思います。そして、ワークショップの披露演奏、効果測定という意味でもーー確かに、この曲、主体的かつ対話的にアンサンブルを作り出すという意味合いにおいて、十分効果をなしている、非常に秀逸な試みであったのではないでしょうか。自発的に歌わないと、こんな作品、完成しませんからね笑 1曲目こそ少し荒が目立ったような気もしますが、これもまた、この講座から得られた課題をよく示していて、逆に良かったのかもしれない。非常にいいものを聞くことが出来ました。
あ、楽譜、連絡したらくれるらしいです。よかったらぜひ笑

第3ステージ:合同ステージ
間宮芳生「まいまい」(富山県民謡/『12のインヴェンション』より)
指揮:縄裕次郎
Bruckner, Anton "Os justi"
指揮:黒川和伸
三善晃「かどで」(高田敏子/『嫁ぐ娘に』より)
指揮:大村善博

そして、ステージには150人弱はいたでしょうか? ステージキャパを超えているようなきがしてならない笑、大人数で歌うーーのに適しているのは、曲ヅラとしては、本来 "Os justi" だけじゃないかしら笑
披露演奏したのは一部の団であるにしたって、各団とも、よくボリュームが出ていて、っそれでいて、高い響きのうちにしっかり歌えていた。そう、それが合わさるわけですから、非常にいい相乗効果が生まれるのは必定。いいボリューム感の中に音楽が進んでいくのが、「まいまい」から非常によく見えていました。
さらに、それが、さらに相乗効果を生んだのが、黒川先生の "Os justi"。もともとこの地域の特色とも言える、高い音でしっかりと鳴らす音作りに、各団員に純然と歌わせる正統派アンサンブルの音作りを旨とする(あってますよね?)黒川先生の音作りも相まって、文字通りの相乗効果が生まれます。そのボリューム、気持ちよく進行する音楽、そして、その中に広がる充実したフォルテ! 白鍵のみで記述されたブルックナーの「宇宙的な」(黒川)響きが、ホールいっぱいに広がります。もうこれ、合同の演奏レベルを普通に超えてるんじゃないかしら。
そんな仮説を実証したのが、ぜんぱくさん指揮の「かどで」! 演奏前の挨拶で、コーラス・どーなっつの歴史を紐解きながら、最初は音取りも怪しい段階から始まったイベント、2回目からしばらくピアノ付きの曲をやっているところ今年アカペラに再挑戦云々と申しておりましたが、否、そんな、謙遜するようなレベルは優に超えている。ジョイントの合同演奏なんて言うことをすっかり忘れて、思わず聞き惚れる程レベルの高い、芸術的で美しい「かどで」を聞くことが出来ました。お世辞抜きで、これまでで一番かも。
この曲、ある意味普通に詩を読んでいるものの、「さようなら」のモチーフの繰り返しなどの工夫によって、風景が見えてくるような作りをしているんですよね。歌いながら、メロディが、和声が、デュナーミクが、風景を立体的に現前させる。慎ましやかな喜びと、確実に残る寂寥を、その音楽の中に見出すーー。
「若手の中には、わからないなァと思いながら歌っている者もいるかもしれない。でも、それでいいと思う」とは、ステージにて、ぜんぱくさん。わからない(かもしれない)中に、彼らは、とうに演奏という形で答えを見出してしまったようです。若さって怖い。知らないがために、最短経路で答えを掴む。でも、それが答えじゃないような気がするのかもしれないな。……それはそれで、成長の契機。ともすると、やっぱり、そのままでいいのかも。
とにかく、今日の「かどで」は特に絶品でした。

encore
木下牧子「鴎」(三好達治)

そりゃもう、世の中の大学生なら、知らない人間なぞいない曲です。だからといって、ステージの上で、この曲を、指揮もなしに歌えるかというと、なかなかそうはなりませんよ笑 まさに、大学生の全員合唱かくあるべしと言わんばかりに、圧巻の「鴎」を聞かせていただきました。技術的に云々という面では、まァ、……なんていうか、この演奏の中では野暮かな、と笑 でも、そんなこと気にならないくらいに、しっかりと音楽が進んでいき、テンポが、ハーモニーが揃う、見事な演奏でした。

そのまま、全員がホワイエにたち、お見送りのうちに、終演。

・まとめ

指導者合宿に参加したときのことを、ふと思い出しました。
世の中の、指導をする大学生が中心となって連続講座を受ける、年末恒例の大学生指導者合宿。1泊2日で、様々な講習を受けながら、ルームメイトと親しくなり、パーティーで歌い、風呂場で斎太郎節を叫び、最終日には大団円のうちに講習の成果を実感するーー今、若干形が変わったと訊いていますが、概ね、そんな感じで、年末の大学生はやっぱり合唱に明け暮れます。
私自身、ミーハーな感じで参加したことが一回ありました。そこそこその中で充実した生活を送ることが出来ましたが、その中で、ちょっとした負い目があったのもまた事実。私、純然な形では学生団を卒団していないものですから。こういう言い方するとアレかもしれませんが、もともと入っていた学生団から、経験も浅いのに一般団へ「逃げた」。別の学生団には入り直したものの、正直、自分は外様であるという意識を拭いきれずに、今に至っています(今やその入り直した学生団のOBとしてデカイ顔していますが、それはまた別の話←)。
とどのつまり、なんであれ、学生ってやりなおし効かないんです。どういう帰結に終わろうと、その学生生活は一度しかない。自分も歳を取りました。その事実の重みが、どんどんと大きくなってきます。
おそらく、この2泊3日は、学生たちにとって、とても興奮する、いわば熱狂の3日間だったことと思います。本人たちは今はそうはおもっていないかもしれない。でも、いずれ思い返すと、きっと、この3日間のことを、興奮とともに、思い出すのだと思います。そう、その興奮こそ青春ーーひん曲がった青春を過ごした者として、彼らが、彼らとまじれる若手が心から羨ましい。
青春のキラメキっていう陳腐な言葉は、彼らにはなじまないのかもしれない。でも、そのときにしかない、言いようのない輝きが、確かに彼らの中にはあるんです。そのエネルギーの結実が、今日の合同演奏でした。
今年のコーラス・どーなっつの副題「Go on!」も、学生たちが考えたそうです。私からしたら、こなれてないタイトルだなぁ、とも思わなくもない。でも、このタイトルを付けて、5回目だ、これからも突っ走るぞ、と決意表明した、彼らの、ちょっと危なげな、無鉄砲な、しかし確固たる勢いに、私は、未来へ向けたとてつもないエネルギーを感じるに至りました。ちょうど、大学4年で数えれば二回り目に突入した同イベント、これからへ向けたアツい決意表明に、心からのエールを送ってやみません。Go on!ーーその、勢いとともに。

2018年9月16日日曜日

【エストニア国立男声合唱団(豊田公演)】

〈豊田市コンサートホール開館20周年記念〉
2018年9月15日(土)於 豊田市コンサートホール

第1部
フェリックス・メンデルスゾーン/レスポンソリウムと讃歌「晩課の歌」ーー男声とチェロ、コントラバスのための Op.121*
セルゲイ・ラフマニノフ「徹夜祷」ーー男声合唱のための Op.37より
「来たれ礼拝者よ」「わが魂よ、主を讃えよ」「Ave Maria」
松下耕「グロリア」ーー男声合唱のための "Cantate Domino" より
フランツ・シューベルト「水の上の精霊の歌」ーー男声合唱のための D538より
ジョヴァンニ・ボナート/「大いなるしるし」ーーチェロと男声合唱のための*

休憩20分

第2部
ヤーコ・マントゥヤルヴィ「偽ヨイク」
マルト・サール「レーロ」
ヴェリヨ・トルミス
「牧童の呼び声」ーー男声合唱、フォークソングと打楽器のフォノグラフのための
「古代の海の歌」ーー男声合唱とソリストのための
「サンポの鋳造」ーー男声合唱、ソリスト、打楽器のための
「雷鳴への祈り」ーー男声合唱、ソリスト、打楽器のための

アンコール
シベリウス「フィンランディア賛歌」
arr. 西村英将「夕焼け小焼け/お月さま」〈本ツアーにより日本初演〉
エルネサワス「我が祖国、我が愛」

指揮:ミック・ウレオヤ
チェロ:アーレ・タメサル*

※曲名はプログラムによる。

***

 しばしば語っていることではあるが、音楽の表現のあり方には多彩なものがある。それは確かに、ステージの上で表現される壮大な交響曲もそのうちに入る。でも、そのステージ裏で、その音楽に憧れながら鼻歌を歌っていても、それは音楽だ。まちなかに流れているBGMも音楽であるし、田舎の祖母が手を叩き歌っている民謡だって音楽だ。ーー音楽は、どこに現れるか、場所を問わない。しかし、同時に、どこで現れようと、それは音楽であることに変わりはない。ジョン・ケージに示されるがごとく、静寂の中からも生まれうる音楽が、日常の中に溶け込んで奏でられる音楽も、また音楽の姿である。もちろん、非日常の中からーー時には例えばホワイトノイズの中からーー生まれる音楽だってあるが、少なくとも、音楽の原初は、日常から湧き上がってくるものであったはずなのだ。

 エストニアはじめバルト三国は合唱大国の三国であるーー合唱人の間では、いつしか常識のように語られる事柄である。その強みはどこにあるのかといえば、取りも直さず、その合唱文化の裾野の広さにある。10万人規模を集めて行われる合唱の祭典がどの国にもあり、5年に1度、文字通り国を挙げて合唱が歌われる。なかでもエストニアは、パーヴォ・ヤルヴィやアルヴォ・ペルトらにとどまらず、20世紀を代表する作曲家の最たるところに数えられるヴェリヨ・トルミスを排出していることで名高い。そのこともあって、レパートリー、そしてレパートリーへのアクセスが比較的容易なエストニア音楽は、昨今にあっては日本での演奏機会も多くなっている。
 エストニア国立男声合唱団は、そんなエストニアの合唱界にあっても伝説的存在と称されるグスタフ・アーネサクス氏によって設立された男声合唱団である。この団が国立と称されていること、そして、アーネサクス氏が、今日も最後に奏された第二国家を作曲したことからも、その伝説性が証明されよう。そんな男声合唱団が日本に来る、しかも、この日本ツアーの先陣を切って愛知県で開催される、そんな今回の演奏会は、ほぼ満席の客席を以て迎えられた。その満席の客席を以てする、入場からの温かい拍手、そして、その拍手が、全員揃ったときに一段とボリュームを増す様は、いやが上にも演奏会への期待を生み出す。

 演奏会の前半は、西欧各国の音楽を中心に。「晩課の歌」の最初から、ノンビブラートでハーモニーがよく溶けた、優しい音使いで始まる。しかし、よく聴いてみると、その音には確かに芯が残っていて、各旋律がしっかりと歌われていることがよく分かる。彼らの持つレパートリーによくあっている音使いは、これからの演奏会への期待を、その音をして高めてくれる。
 それは決して、簡単に歌われているものではない。すべての要素が徹底して追求されているーーあるいは、自然にちゃんと表現されていることがよく分かるのだ。その技術を以て、演奏は逃げることがない。
 しかしながらそれは、もしかしたら自然な響きの延長にあるのかもしれない。ーープロムジカのときにも思ったことだ、真に朴訥な響きというのは、こういうものをいうのかもしれない。なんともなかったはずの響きが、時間を経るにつれて、どんどん、自身の中に溶け込んでいく。なんてことないメロディのように早いパッセージが自分の中に染み込んでいき、自然に膨らんでいくクレッシェンドが、縦に揃った和声が、気取ることなく次の旋律へとつながっていく。その流れのどれもが自然であり、わざとらしさがない。それらの旋律のどれもが、日常の中から取ってきたかのような響きである。すぐそこにある、日常の中にある音楽が、そのままステージに乗っている。
 「徹夜祷」でも例外ではない。滅多にないのだ、こういう、美しく包み込むようなフォルテを出せる合唱団は。確かに音圧を持ち、確かに音量が出ている。フォルテだとわかる。でも、強迫せずに、こちらに自然に伝わってくる。音圧がないのとは確かに違う。でも、強すぎることもない。日常に溶け込むちょうど良さが、tuttiの僅かな変化で音楽を操る程に、繊細な世界観をもたらしている。
 アンサンブルの技術水準の高さを見せつけたのが、「グロリア」であった。並行和音とその和音を基軸にして彩られるこの曲で、ホールの色彩が一気に明るくなる。ピッチがよく揃い、それが自然に収まっているから、技術的に困難なことをさらっとみせ、楽曲の展開へ観客を集中させる。機動力の高さと、収まりの良さが、技術的側面が前面に出たこの演奏会前半最大のクライマックスとなった。
 よく揃う、という合唱団は、時として、表現を捨てている、ということにもなりかねない。その時として相反する命題をうまく彫刻していることを証明したのが、「水の上の精霊の歌」である。シューベルトに代表されることであるが、各パートすべてがメロディをしっかり表現できていないと、音楽としてすら成立しないことになる。その、非常にファジーな表現の機微をはかる同曲にあって、この団は見事に表現してみせる、表現の幅の広さは、団に、指揮者による制御を待ってはいられない。その要求に答えるための、団員個人による確固たる音楽表現へ向けた要求に、この団は見事に応えてみせた。斉一的に揃うだけではない、各団員の音楽観の高さを見せつけられた。
 第1部の最後には、団員は客席へ降り、指揮者も客席から演奏する。演奏するのは、「大いなるしるし」の美しい世界観。チェロが奏でる幻想的な旋律に、二度でそっと寄り添う各パート。そこから徐々に音楽が合唱団同士の相互効果を生み出し、倍音のようにグラスハープが鳴る中で、チェロのピチカートで音楽がいよいよ展開する。その中に通奏する怪しげな低音、そして、語られるテキストも意味深に、和声を構成し、吐息となり、閉じられる。まるでそれは、この第1部の集大成のようでもあった。繊細にすべてのことを表現する、その実力余りある、非常に実力に富んだステージであった。

 第2部から舞台はいよいよ北欧方面へ移っていく。最初は、今や日本でもおなじみの「偽ヨイク」。まるで愛唱曲のように歌われるが、最初のモチーフに始まり、だんだんと複数の旋律が絡みゆく展開は、決して簡単に歌えるような代物ではない。しかし、まるでさもこうであるのが当然であるのかというような歌い方で観客を楽しませる。片や「レーロ」は技術的にさほど難しい曲ではないものの、その伸びやかにどこまでも広がっていくフォルテが会場を包む。まるで、第1部が技術の見本市であったとするなら、第2部は、それを以ていかに技術を披露していくか、その見本市であるかのようだ。いわば彼らにとっては愛唱曲ともいえるであろうこの二つの曲を以て、第2部への期待は否応なしに高まる。
 そして、以降ステージはトルミス個展に入る。トルミスの中でも重厚で、戯曲的で、かつ叙事詩的に広い世界観を歌った4曲が揃えられた。「牧童の呼び声」から、牧歌的な掛け声と民謡のメロディが録音で提示され、草原の只中にいるような風景と絡み合うハーモニー、そこに一つになっていく主題と充実の和声、さらにそれが破綻していき、3つのテンポが同時進行する。さらに、伝説に基づく叙事詩的世界を見事に活写した「古代の海の歌」、コミカルながらとどかない願いを以てただ一心に打ち続ける「サンポの鋳造」、さらに圧倒的な声量の中に雷鳴を轟かせる「雷鳴への祈り」ーー。
 トルミスの音楽は、その求めやすさも相まって早くから日本でも盛んに歌われている、いわば最も身近なエストニア音楽である。しかしながら、どうしても再演されやすいのは、比較的容易に取り組むことのできる音楽であることが多い。それは、民謡のモチーフを比較的素直に、ミニマルに進行させるものであったり、いわゆる嬌声、すなわち音符の外で鳴らすような音を用いないものであったりすることが多い。しかし、何よりこのプログラムの並びは、トルミスが単にミニマル・ミュージック的なモチーフの「繰り返し」の流れにいるわけではないことを十分に証明する。それは、モチーフの「組み合わせ」により一つの物語を作ることにあり、いわば、エストニアの原風景を映し出すことにある。どうやら私達はーーあえてこう言わせて頂きたいーー、トルミスを少々勘違いしているようだ。それは、日常から生み出されるドラマであり、激情も、感動も、日常も、壮大な風景も含めてすべて、エストニアのにちじょうから 生み出されるものである。それを生み出すための技術だけでなく、この団は、それを生み出すための生活的背景も共有している。まるで、絵画を見ているかのような、生活の息遣いまでも聞こえてくる、迫るドラマに、観客は没入し、そしてーー無量の感動に魅せられる。まるで、エストニアの草原が、森が、さもそこにあるかのように。
 懐かしさのようなものなのかもしれない。私達はエストニアを知らない。知らないはずなのに、ーーエストニアの世界をおのがものとして、このホールに見出した。

 アンコールでは、文化的に近い場所にあるフィンランドの名曲に始まり、重要な曲が2曲揃えられた。西村英将による1曲は、このジャパンツアーのために書き下ろされたものだという。長らく闘病していたが、ジャパンツアーの寸前に逝去されたという。いわば遺作として残ったこの作品は、日本の夕景とエストニアの月の灯を組み合わせた風景である。夕焼け小焼けのモチーフにより想起された音楽が、エストニアの月の旋律と絡み合う。その絡み合いが壮大な音響を見出し、繊細で切ない、限りなく美しい風景を生み出していくーーそれぞれの地域に見た夢と憧れこそ、この曲が見せる風景そのものである。まさに、このジャパンツアーをつなぐ楽曲となった。そして、最後には、エストニアの第二国歌とも言われる曲である。楽曲を創団したエルネサワスにより作曲されたこの曲は、ソ連に占領されたあとに、再独立への原動力となってエストニア中で歌われているという。ーーある時、エストニア大使臨席のレセプションに参加したことがあるが、その際のことをふと思い出す。あの時、直立で、真面目ながらも温かい目でこの曲をたたえていた大使の姿をよく覚えている。

 音楽の生まれ方は多彩だ。しかし、やはり音楽は、日常の中にこそその真の姿を見出すことができる。技術の難易こそ、真の問題とはならない。決して、曖昧な心を曖昧なまま愛せよというつもりもない。しかし、自らの原体験が想起する、思わず出てくる感情が生み出す美しさは、やはり肯定されなければならない。まるで、旅先で聴いた露天商のハーモニカの音色と突き抜ける青空に感動するときのような。その時、プロフェッショナルは美しさの要素にはならない。しかし、プロフェッショナルにより、そんな原風景が美しく、かつ、土着的に表現されたとしたら。
 思うに、音楽を知るとは、その心的背景を知ることなのだ。それはどこまでも心の問題なのだ。しかしそれは、私達を寛容にし、そして、私達の表現の幅をも広げうる。様々な美しさを知ることによる、新たな美しさの創出を、その可能性を、私達は秘めている。

2018年8月26日日曜日

【愛知県男声合唱フェスティバル2018】

2018年8月26日(日)於 刈谷市総合文化センターアイリス大ホール

そういえば、軽井沢もさることながら、今週末は愛媛でおかあさんコーラス全国大会だったみたいですね。
……なんという対照的な色合いのイベント!
否そりゃ、全日本合唱連盟でも男声合唱フェスティバルってやってらっしゃいますけど。

そんなわけで、文句なく男臭いイベントです笑
愛知県下の男声合唱がこれでもかと揃い、一つのステージを作り上げます。3回のジョイントコンサートを事前企画に、隔年開催その2回目。私は初めて伺いました。出演団体数、実に14団体。それで全てというわけでもないのですが、愛知県の男声合唱団が一堂に会して、およそ4時間半にわたり熱演を繰り広げます。まさに、三和音の倍音に浸る4時間半……
そう、4時間半笑 プログラム転記するだけで一時間かかりました爆
なんていうの、そりゃ、名前の通り、合唱祭みたいなものだから、正直そりゃそうなんだけど、通しで聞くには長い笑 まァ確かに、バッカスよりは短いんですがね、アレは昼休みもなくぶっ通しですからね笑
え、私?
そりゃ、出されたものは平らげますよ笑
豊中市合唱祭のときは休憩取ったけど←

・ホールについて

刈谷アイリス。つい最近来たのは……私事ながら、スキマスイッチのライブでした笑(もちろんレビュー未掲載)
このホール、音楽にも非常に強い多目的ホールで、確か開演ブザーの音も多彩にあったと記憶しているんですが、今日はなぜか「b--------!」って鳴らしてました。なんでだろ?
今日は、いってみれば合唱祭ということで、人数の多い団から少ない団まで多彩な演奏会でした。そこで、途端に問題になってくるのが、ホールの鳴りの問題。このホール、音の響きはいいのですが、こんなに散ってしまうものなのですね。たといある程度鳴らせる団であったとしても、響きに散っていき、音圧は低くなってしまう傾向にある。鳴らそうとするためにはどうしたらいいかと言ったら、その響きの力を借りながら、全体をならしていく意識が必須。要するに、ちゃんとした発声を磨いて、しっかりと歌うこと。またの言い方を、レベルを上げて物理で殴ればいい。辛辣←
そうそう、今日行ったわけではないんですが、ここの喫茶店兼レストラン、なかなかオススメですよ。昼や夜はパエリアを貴重としたおしゃれなカフェ飯を楽しめる上、14時〜17時のスイーツタイムが見もの。かくいう私も、スイーツタイムにしか行ったことがないのですが、700円出すと、見た目におしゃれな美味しいケーキと、ドリンクバーが楽しめます。そう、ドリンクバーなんです。コーヒーメーカーはちゃんとしたものが入っているので遜色なく、ティーも各種取りそろえ、冷えたコカ・コーラの飲み物がほしいならそれもどうぞ。レギュラーの飲み物ももちろんありますが、それに加えていろんな飲み物も楽しむことができる。いろいろな楽しみ方ができるあたり、さすが、市民会館のカフェって感じじゃないですか。いいことだと思います。

今日は全団体レビューで行きます。合唱祭系は原則全団体レビューしていないんですが……まぁ、全団体20分のステージやってますからね。それに敬意を込めて。
2階は暗かったので締切でしょうか。1階8割超。前列は参加者用に開けてあり、それだけでのべ350人(!)いるので、実際の割合はもう少し少ないかも笑 実態に合わせ、壮年が多め。然し、この世代の集客に対する情熱はすごいものです。

1.男声合唱団 響
多田武彦・男声合唱組曲『北陸にて』(田中冬二)より
「きつねにつままれた町」
「みぞれのする小さな町」
松本望「3」(男声合唱とピアノのための組曲『回風歌』(木島始)より)
指揮:後藤行央
ピアノ:戸谷誠子

主に関東地方の方向けに。「ひびき」と読みます。徳島にも同名団があると伺っております。響は、この中では若い方の団に入りますね。代表格のひとつ。特にコンクールの部門が組み変わる前は、中部大会進出もしばしば。
内声が充実しているので、アンサンブルはよく整っています。然し、逆を言えば、外声、特にトップは、もう少しパリッとさせたいところです。特に三和音で、ちゃんと開いた音がカーンと鳴ったほうが、緊張感が出ていいと思います。いずれの曲も、キマる三和音はもっとはめたいところですし。こう、倍音が鳴って、景色が、ぱっと明るくなる、みたいな。決して悪い音ではないのですが、ピッチを、より精度高くしたいところ。
とはいえ、さすが、人数の割に非常によく鳴らせています。

2.男声合唱団 トワイライトシンガーズ
清瀬保二「球根」(男声合唱組曲『原體剣舞連』(岡本廣司)より)
富山県民謡(arr.安達元彦)「コキリコ節」*
まつしたこう「ほらね、」*(いとうけいし)
指揮:鈴木裕康、田代真司*
ピアノ:鈴木まどか

地元枠……って、みんな愛知県下の合唱団だからそりゃそうなんですが笑、刈谷からの参加です。
人数にしてはボリュームがよく出ていて好印象。そして、高音がよく当たる。内声はやや音がこもりがちであるが、特に2曲目の牧歌的な空気感にはよく似合う、やさしい音使いのできる団。
だからこそ、時折高音で出てきてしまう、やや無理をしたような高音は慎まれたいところです。常日頃から、息の量を増やして、それを着実に音にしてやることで、より骨太な音も鳴らせるようになって、音のバリエーションが増えるのだと思います。3曲目など、優しい音を優しく出すのは、本当の優しさとは言えないのではないかと思います。
理想としたいのは、それでも、その3曲目の最後の三和音。目がさめるような、いい音が鳴っていました。

3.男声合唱団「昴」
熊本地方民謡(arr.福永陽一郎)「おてもやん」
宮崎一章(arr.福永陽一郎)「島原の子守歌」
南部地方民謡(清水脩・作曲)「牛追い唄」
宮城県民謡(arr.竹花秀昭)「斎太郎節」
指揮:樅山英機

どこまでも明るい音作りが印象的。広く場所を使って鳴らしているなというイメージは好印象です。
ただ、もっと地に足をつけた様な、低い響きも活かした音が使えるように鳴ると、より良い音となりそうです。明るい音という方向性自体は非常にいいのですが、ともすると、やや喉を鳴らした音を使いすぎでしょうか。
また、音程については、出した音が伸ばしているうちに下がることがあるのはさすがに問題。出した音には最後まで責任をもって上げたいものです。また、和音の部分では、もっと耳を使ってハーモニーを楽しみたいところ。
否ーー最たるはこれかもしれない。語りや掛け声は、もっと盛大に行きましょう。結局は、勢いですよ、特に男声合唱という編成は笑

4.男声合唱団 ダンディライオンズ
清水脩・男声合唱組曲『月光とピエロ』(堀口大學)より
「月夜」
「秋のピエロ」
「月光とピエロとピエレットの唐草模様」
指揮:樋口真一

名古屋出身の明立出身者が集った合唱団なのだそう。拝見した限りでは、Ken-Pが指揮者になる前のメンバーが中心……まぁ、そりゃそうか←
最初の勢いのある音、それが理想であり、逆にそこからどんどん離れていってしまったのが残念でした。最初の和音の印象がすごく良かっただけに、本当に残念な演奏になってしまいました。特に、弱音かつ低音にいく部分で耐えきれなかったのでしょうか。せめて、勢いが戻ってくる部分でちゃんと音楽を進められないと、ダラダラと流れていってしまいます。今回、終曲も、あの出だしの音のままに鳴らすことができたら、どんなによかったでしょうか。デュナーミクが悪かったわけではないのですが、テンポ的にも音的にも、最後の曲が流れてしまったこと。それならせめて、強弱無視して、がっついてほしかったな、というのも本音。

5.豊田市民合唱団(男声部)
「にほんのうた」
・筑波山麓合唱団
・ボーイズ・ビー・アンビシャス
「こどものうた」
・バスのた
・おなかのへるうた
・おうむ
・バナナを食べる時のうた
・すっからかんのかん
指揮:都築義高
ピアノ:竹内理恵

混声で活動している団体が、有志で。さらに今日は、そのうちの有志がカエルの変装で登場。さらにその後、お召替えを挟んで、さらに有志が、バナナを着て最後まで。なんだこりゃ笑
最初から最後まで、身体を使った軽いアンサンブルで、伸びやかな音で、観客を笑わせにかかりました……語弊があるな笑 相対的にトップがもっと出るといいかな、とか細々としたことはあるものの、最初から最後まで、観客の空気を温めて、穏やかな笑顔の中終わらせたのは見事。上のバナナなんて、バナナ着ながらステージ上練り歩くし、なんか「ウーッ!」とか叫びだすし笑
言葉がもっと立ってるとより良くn……否、そんな、この演奏に指摘だなんて、野暮だな笑 照明が暗転して、指揮者が合図するまでそのポーズを取り続けた徹底っぷりにも、改めて拍手です。

インタミ15分。

6,名古屋グリークラブ
arr.三善晃『唱歌の四季』
指揮:大隈健治
ピアノ:今村洋平

名工大OB系。ピアノの熱演もあって、音楽自体はよく流れていました。途中、一箇所ずれましたけど笑 素朴で、しっかり歌いこまれた主旋律が印象的でした。
とはいえ、表情がどの曲でもさして変わらなかったのが残念なところ。アンサンブルの範囲が練習室の範囲に収まっていたように聞こえました。「雪」のリズムなんか顕著で、もっとガッツリと音を立てに行きたかったところです。そして何より終曲。普通に歌っていても手の余る壮大な「夕焼け小焼け」を歌うには、もっと、ホールの広さを感じて、広々と歌いたかったところです。楽譜からもっと目を離す、っていうことだけでも、ずいぶん変わるのかもしれません。

7.クール・ジョワイエ
若林千春・伊東静雄の詩による交声曲『曠野の歌』より
「夜の葦」
「わがひとに與ふる哀歌」
指揮:高橋寛樹
ピアノ:江上敦子

コンクールにて初演した曲の再演。まずは中部大会での再演が決まっています。それだけに、ほぼ初演ながらにして非常に高い完成度でした。切ない情景の中に広がる、透明な夜。そのさりげない明るさを、三和音が可視化するかのような「夜の葦」、そして、地に足をつけ、抑えきれぬ感情を咆哮するエレジー「わがひとに與ふる哀歌」。いずれも、組曲の完成が待ちきれない、新時代の男声合唱組曲を予感させる、非常に美しい曲たちでした。
演奏の出来も、さすがに、そつなく、それでいて迫力のある演奏だったと思います。個人的好みとしては、もう少し強い音は鳴らしに行ってもいいかな、といったところ。特に、このホールが散りやすいホールだったからかもしれません。とはいえ、バリトンがメロディを語る部分の音楽の進みも申し分なく、完成度は非常に高い。
ただ、「い」母音で現実に戻される場面がいくつかありました。それも含め、集中力が問われる曲。デュナーミクは今を維持するか、あるいは進歩させつつ、より細かい部分を詰めることで、表現全体の完成度が高くなりそうです。

8.愛知メンネルコール
高田三郎・男声合唱組曲『水のいのち』(高野喜久雄)より
「雨」
「川」
「海よ」
指揮:安藤正和
ピアノ:野口夏菜

グランフォニックから賛助が入っての演奏。逆にグランフォニックにも愛知メンネルからの賛助あり。曰く、この団員交流も、このフェスならでは。然り。
特に表現の面で、非常にできの良い演奏でした。何かと伝説的に、高田三郎だかその信奉者だかの表現に対する思い入れが伝わってくるこの作品。まして人気曲だけに様々な人の耳が肥えている中にあって、その要諦をしっかり学ぶ態度に溢れた演奏でした。
一方、トップがより張れると、もっと音楽が引き締まったか。また、「海よ」に顕著か、「あ」母音が開きすぎるというのは善処されたい。表現にもまた、集中力が問われる曲。最後のクレシェンドも、集中力を持ってすれば、もっと前の方から音量を高めても良かったかなとも思います。
とはいえ、最後に客席から聞こえてきた「ブラボー」、あれは決して御世辞ではないと思いますよ。素晴らしかったです。

9.尾北男声合唱団
arr.高須道夫『山田耕筰作品集』より
「二十三夜」
「粉屋念仏」
「げんげ田」
「かえろかえろと」
「捨てたねぎ」
「木の芽ごろ」
ゆず(arr.田中達也)「栄光の架橋」(北川悠仁・作曲)
指揮:柴田冨造
ピアノ:片多千愛

メロディから流れる、穏やかで優しい空気が印象的な演奏。弾いているそばでピアニストの口が動いているのも、まさに、この団からあふれる歌心の象徴と言えるかも。
とはいえ、トップにはやはり、もう少し音圧が必要かもしれません。音楽の輪郭がもう少しはっきりさせた方が、より映えた気もします。また、早いところでは、全パート、もっとカクシャクと口を動かされたいところ。加え、内声ももっと高音を混ぜたパリッとした音を鳴らしたいところです。「かえろかえろと」は、ソロと、ヴォカリーズの絡みが美しく、お見事。
「栄光の架橋」はエレキギターと。記譜もそうなっているのかしら。然し、接触不良のようで、目立ちが悪く終わってしまいました。しかし、そんなことにも負けない骨太な合唱、まさにこの曲にぴったりだと思います。

10.グランフォニック
クロード・ミシェル・シェーンベルグ(arr.小島聡)・ミュージカル『レ・ミゼラブル』(訳詩・岩谷時子)より
「プロローグ〜一日の終わりに」
「星よ」
「彼を家に」
「カフェソング〜民衆の歌」
指揮:小島聡
ピアノ:はやせようこ

華々しいミュージカルを、独自編成で。高音やtuttiで出る場所を、思い切り鳴らしに行く雰囲気がよく出ていて、非常に素晴らしい演奏となりました。
tuttiの部分は、よりパートの息を揃えてバチッとはめた方が、メロディの始点が見えやすく鳴ってよかったかと思います。どうしてもダレがちな内声も、そうするだけで迫力をつけることができる部分もあるような気がします。
この中でも特に、3曲目のゾリは非常に美しい。そして忘れてはならないのは、それに寄り添うヴォカリーズ。
動きはもっとあってもよかったのかもしれない。演奏会では、実際にミュージカルしたのでしょうか? それにしても、その世界観に心から魅せられました。なにより、最後の「民衆の歌」の迫力は、ぐっと来ました。思わず出たブラボー! 演奏に集中していた、その直後の爽快感も、また醍醐味です。

インタミ15分。非常に珍しく、男性トイレに長蛇の列笑
そういえば、同じ数が来てもどうしても混むからっていうことで、最近の公共施設では女性トイレを広めに取る傾向があるそうです。アクティブ・アクションに近いでしょうか? 違うか←

11.合唱団「男声合唱を楽しむ会」
高田三郎(arr.須賀敬一)男声合唱とピアノのための『啄木短歌集』(石川啄木)
指揮:向川原愼一
ピアノ:はやせようこ

黒シャツにカラフルなネクタイがおしゃれ。
よく鳴らせているイメージ。しっかりと地に足を付けて音を鳴らしているから、高声は特に、高い音へ行っても無理がない音が鳴っていました。一方で、内声は、もっと高めの響きでカラッと鳴らしたほうが良いのではないでしょうか。
また、上昇音型はいいのですが、オブリガードは細くなりがち。これもまた、しっかりと響かしてメロディと対峙させたほうが印象が良くなると思います。メロディも、対旋律も、両方共。
全体としては、弱い音に対する推進力がもっとほしい。全体が弱くなったときに見せる力強さは、刹那的な力強さを持ちます。味わいのあるメロディを歌う合唱団には、ぜひ意識されたい、「強いピアノ」を、レパートリーを拝見する限り、この団では特に身につけてほしところです。
しかし、長いステージとはいえ、よく集中力を持って演奏されました。ご立派。

12.ensemble Solaris
松下耕「Cantate Domino in B♭」
高田三郎・男声合唱組曲『水のいのち』(高野喜久雄)より
「水たまり」
「川」
Rahman, A.R. "Wedding Qawwali"*
(with Piano and percussion*)

当方の主観で、尤も期待されるべき合唱団の一つ。数少ない若手男声の雄と思っています(否、この際、ここの年齢のばらつきには目をつむりましょうぞ←)。
音量は、人数にしてはよく出ていますが、今日はホールに嫌われてしまったか。散ってしまっていたのが残念でした。むしろ稲沢のほうがよく鳴らせている気がする。
一方、強弱で音量問題はよくカヴァーできています。特に発声に無理なく駆け上がっていくフォルテは見事です。アンサンブルも、非常に軽いんですよね。指揮なしで、機動的にカチカチと雰囲気を変えていけるから、音楽がどんどん進んでいく。なんたって、水のいのちを指揮なしで進行できるくらいですからね、相当です笑
そして、最後の曲ーーえ、この団、踊るタイプの団なの?!っていう笑
確かボリウッド系の曲だったので、動くこと自体は自然なのですが、あんなフルで踊るとも思っていなかったので、びっくりです。なんというか、こういう離れ業もできる団なんですね……もっとお硬いアタマかと思いこんでいたので、認識新たにさせられました。終わったら、ブラボーの「黄色い声」! 否これは新しい笑
えっと、この曲については、なんというか、もっと細かい部分でもちゃんと言葉がきこえてくるt……あの、その、なんでもないです←

13.東海メールクワィアー
ジグムンドロンバーグ(arr.福永陽一郎)男声合唱組曲『ニュー・ムーン』(オスカー・ハマースタインII世)より
「朝日の如くさわやかに」
「恋人よ 我に帰れ」
「勇敢な男たち」
構成・補曲:都築義高
指揮:鈴木順
ピアノ:津野有紀

たとい次が東海メールだろうと、あの演奏の次にはさぞかしやりづらかったことだろうと笑
こうやっていろいろ並べてみると、意外と柔らかな音を出すことの多い団なんですね。その意味ではこの曲もご多分に漏れず、柔らかな音が印象的。
ただ、メロディのしっかりしたミュージカルピースというだけあって、もっとガッチリはめた音を鳴らせたほうが、この機会では良かったような気がします。音量はちゃんとある。なんというか、音の密度とでも言うべきでしょうか。響く音なんだけれども、いまいちボリューム不足。なんと逆説的な。
メロディがパリッとしてくるだけで、アタマの中で解決してくるものがあったと思います。特にこの層の団は、内声の響きが低く混沌としがち、だからこそ、余計に、メロディではしっかり勝負したい。
しかし、その中でも、最後のまとめ上げはさすが! しっかりと爽やかに当てるさまは、今もなお、この地域で独特な存在感を放つだけのことはあります。

14.男声合唱団 SINGERSなも
岩代浩一編曲による『日本のメロディー』より
弘田龍太郎「雨」(北原白秋)
杉山長谷夫「出船」(勝田香月)
弘田龍太郎「浜千鳥」(鹿島鳴秋)
本居長世「七つの子」(野口雨情)
多忠亮「宵待草」(竹久夢二)
山田耕筰・中山晋平「砂山」(北原白秋)
指揮:安田健

明るい発声を持っている一方で、ガッツリ出すことも厭わないサウンド。非常にバランスが良い。しかし、トップはその中でも弱め、否、頼りなげとも言ってしまえるかも。「七つの子」の「カァ、カァ」というカラスの鳴き真似よりも弱く聞こえるというのは、さすがに考えものです。
全体としては、ホールをよく使うことができていて、表情豊かで、味のある音が鳴っている。ノスタルジックな中にも、各曲の特徴を良くつかめていました。それだけに、音量バランスの悪さが本当に残念な演奏となりました。もちろん、トップがもっと出す方向で合わせてほしいですが、ベースにも、もっと高い音とブレンドする、高い響きを使ってほしい。あと一歩。だからこそ、いい演奏だったのに高評価が出しづらい。本当に惜しい演奏。

15.合同演奏=多田武彦作品集
「花火」(男声合唱組曲『雪と花火』(北原白秋)より)
「月夜を歩く」(男声合唱組曲『雪明りの路』(伊藤整)より)
「雨」(男声合唱組曲『雨』(八木重吉)より)*
指揮:高津眞司(グランフォニック)、高木秀一(東海メールクワィアー)*

タダタケ逝去に思いを込めて。この演奏については、コメントするようなものではないのかもしれない。否、非常にいい意味で。
350名が、花道も含めてステージ上に勢揃いし、一心に多田武彦を奏でる。その迫力たるや、きっと、往時の男声合唱って、こういう風だったのかな、と、ある種新鮮な思いで眺めていました。ある意味、今の四連でも見るのが難しい光景かもしれません。
そして何より、眼前にいるのは、タダタケに親しんで来た人たちばかり。なぜかこれだけの人数が揃うと、各団でアレだけ問題だった高音だってバッチリキマるし笑、どのパートも本当によく整っている。人数多いのに、寧ろ。客席から振らなければならないほどの大人数なのに、どこよりも沁み入る「雨」を歌い上げる。そのハーモニーを揃えさせるのは、皆様のタダタケに対する思い……或いは、これをこそして、「伝統」というべきものなのかもしれませんね。

当初の予告どおり、6時過ぎに終了。休憩を除いたとしても、4時間の長丁場。本当にお疲れ様でした……その、聴衆も笑

・まとめ

考えたんですよ。そりゃ、14団体も男声合唱団が集まって、しかも最後は350人の大団円で、多田武彦の定番どころをガッツリ歌って終わっていく。それ自体とても美しいことだし、どの団も工夫を凝らした演奏でよかった。愛知の男声合唱の奥深さ・幅広さを感じられてとてもいいイベントだったーー。
否、違う。何かが足りない。
上に書いたこともまったく正しいけれど、それだけじゃない。圧倒的に、アレが足りない。
そう、「若手」が足りない。「若さ」とか「若々しさ」とかじゃない。「若手」が圧倒的に足りない。
何も、上の世代を否定するつもりはありません。間違いなく、愛知県の男声合唱界隈は特に、シニア世代が引っ張っている。今日だって、白髪の御爺がガッツリ高音を鳴らすサマをたくさんみてきました。ときには、まるで大学団のように、否、大学団よりも若いような爽やかなサウンドを鳴らしていたりもする。その、頼もしく力強い様が愛知県の合唱界を支えていることについて、何ら否定するつもりはありません。
でも、です。文化の深みという面ではどうか。正直、今の現状としては、マスにいるのは間違いなくシニア世代。そこになんとかついていった40代の現役世代と、物好きの20代が少々とか、もうそんな感じになってしまっている。どうしても、若い人がいる場面って、あるんですよ。今日だけで何回、もっとトップが張れれば、って思ったことか。
男声合唱というくくり自体は、決して年齢に縛り付けられているものではありません。然し、様々な不幸が重なって、気がつけば、愛知県下から大学男声合唱団がすべてなくなってしまった、そして、その結果としての、本日の参加者の現状に、上の世代へのリスペクトと同時に、現在の愛知県男声合唱界が抱える悲哀を感じずにはいられません。
若手が一つ、二つ増えたらなんとかなるとか、そういった世界ではないのかもしれない。でも、私自身、希望を感じることのできる話をいくつか伺っていますし、このイベントの外でも、合唱、こと男声合唱が、新たな形を見せようとしている萌芽は、いくらでもある。その可能性に、未来を託すことができるか。言うまでもなく、愛知県の男声合唱文化は、今、その存亡をも賭けた重要な岐路に立っています。
いつか、その存続に希望を見出すような光景が、このイベントで見れることを祈って、本稿の締めとします。それが、私の、愛知県の男声合唱に対する注文に他ならないのです。どうか、愛知県男声合唱の将来が明るくあることを。
ーー否、今の現状もそれはそれで、非常に頼もしくはあるのですけれどもね笑 こんなに情熱を持って合唱やっている人間が揃うの、滅多ありませんから笑

2018年8月24日金曜日

【三大学サマーコンサート】

2018年8月22日(水)於 東海市芸術劇場 大ホール

スミマセン、
平日演奏会をその日のうちに、っていうのは、なかなか難しくなってきました苦笑
え、回転寿司食ってたって?……なんのことかなぁ(すっとぼけ
さて、この演奏会シリーズ。てっきり、同グリを幹事として、毎年必ず寒梅館でやるものだと思っていました。なんか最近、別の地域でやることもあるみたいですね。ということで、今年は名古屋で。そういえば、数年前には金城で行われたこともあったようです。
幹事が幹事だけに(同グリ……といいつつ、今年はグランツェかしら?)、実力を持った団が揃う傾向にあるこのジョイント。今年は名古屋開催。名古屋ではめったにないタイプの、「関西型」ジョイントコンサートです。

・ホールについて
何回目かのこのホール。最近中京テレビ「PS」で紹介されたという門池は、今日は行きませんでいた笑
なんていうかこう、多目的に使えて、木目調で、2階席はバルコニーみたいになっていて、そういう意味では、ある種寒梅館みたいなホールですよね(何)。とはいえ、こちらの方が響きます。さすがに笑 あと、客電を上げるとホール側面でさり気なくワンポイントが光っていておしゃれです。電波遮断装置もあり。さすが、オープン若干年の新しいホールだけはある。
残響が豊かなホール。それでいて広い。それ故、悪く言えば、音が散り気味に鳴ってしまいます、固めて出さないと、音量が飛んでこない。鳴らすのが大変なホールです。それは、大人数だろうとなんだろうと変わらない。結構に難しいホールだなと思います。
そういえば、反響板のしまい方って見たことあります?あれ、ステージの上に吊るだけだって思ってませんか? 普通の反響板って、おおむね天反、側反2枚、正反に分かれていて、大体、それぞれ吊るすだけですよね。……なんでこんなこと話し始めたかって言うと、それだけに限らないから笑 例えば、このホール。反響板の形からして、側反、天反がセットになっていて、そのまますべての反響板を奥にずらすと格納されていくスタイル。例えば、熱田文小でも、面白いしまい方をしています。いろいろ見てみると、奥が深いですよ、反響板も。

今日のひな壇は7壇。さすがにこれだけの人数乗せるためですからね、これくらいないと笑

・エール
グランツェ:団歌・小林秀雄「グランツェ、それは愛」(峯陽)
金城グリー:「校歌」(森田松栄)
同グリ:Wilhelm, Carl「DOSHISHA COLLEGE SONG」(W.M.Vories)

この演奏会最大の難関……その、整列とか、そういう意味で笑 とはいえ、割とスッキリと並んでくれました。さすが、どの団も本番慣れしているだけはありますね。ジョイント文化も学生団のうちになくなって来た現在、名古屋圏でエール交歓を見ることのできる、非常に貴重な機会となりました。ちなみに曲間には握手付き笑 各団。
グランツェ:グランツェの語尾は、テヌートでななくちゃんと切ってほしいところ。全体として、内声が雑になりがち。特にオープンハミングが課題。上澄みを使おうとするところとがなる声がダブる。やるならいずれにしろ、徹底的に。
金城:この人数でこの声量は十分。とはいえ、その声量自体は少し力が入っていたか。聞こえはいいものの、音に深みがない。もう少し柔らかく、かつ音量のある響きがほしい。
同グリ:この曲を愛知県でやってくれたというだけでオジサン感動です!本当、カレソン大好きなんです。同志社関係ないけど自分笑 指揮の方が打点の打ち方が遅め。ただ、演奏の速さが心地よい。このよく開いたア母音には、目が覚める思い。/r/は普通まかないけれども、寧ろ巻いているくらいの勢いがちょうどいい笑

グランツェは退場せずそのままオーダーして、第1ステージ。いちいち捌けてると、大変ですからね笑

第1ステージ:混声合唱団名古屋大学コール・グランツェ
松本望「アポロンの竪琴」(『歌が生まれるとき』より・みなづきみのり)
松下耕「狩俣ぬくいちゃ」(『八重山・宮古の三つの島唄』より)
信長貴富「リフレイン」(『等圧線』より・覚和歌子)
指揮:谷敷優希
ピアノ:小寺翔子

指揮者として2人ラインナップされていましたが、1人となった由。世の中いろいろあるもんです。
この団、最大の魅力が、人数が多いこと。人数が多いから、ある程度なにやっても映えるし、なにやってもサマになるし、なにやっても形にすることができる。変な話、総団員数の半分であったとしても、十分、巨大な合唱団とは呼ばれるものですから。
でも、それが問題なんです。この団、ある程度なにやってもどうにかなるから、中途半端な状態で演奏されていても、意外と気づかずに演奏されている(否、気づいてはいるかもしれないけれど)。実はスタッフ入りしていたコンクールでも演奏を少し聞きましたが、この団、好意的に言えば過渡期にある。それが、非常によく見えてしまっている。
何かと言えば、このステージも、非常に漫然とした演奏が目立ってしまっていました。楽譜は非常によく辿れているのだと思います。ただ、それ以外のなんでもない。1曲目では、メッセージ的に訴求する弱音部で音楽が止まってしまっているし、特に閉母音の響きの悪さが、それに拍車をかけている。さらに、比較的慣れのある2曲目でも、肝心のストンプで勢いを欠いてしまい、いまいち乗り切れない。挙げ句、3曲目に至っては、表情が悪い。否、難癖でもなんでもなく、それが為、特に一番ではピッチが落ちてしまっていた。
しっかりと、これからの演奏のあり方を見直すべきなのだと思います。厳しい言い方すれば、この団は、人数の多さだけでどうにかしようとして、どうにかなるフェーズをとうに終えている。もっと、音楽的にいい表現とはなにかについて、考えていくべきときが来ている。多分、普通に聴いている人にとっては、十分満足できる内容だったと思います。ただ、この手の詰めの甘さは、聞く人に聞かせたら、バレますよ。

第2ステージ:金城学院大学グリークラブ
【本田美奈子.の世界】編曲:小林啓一
太田美知彦「つばさ」(岩谷時子)
アメリカ伝承歌「アメイジング・グレイス」
Holst, G.「ジュピター〜組曲『惑星』より」
指揮:小原恒久
ピアノ:酒井志野

名古屋からもう一団体。あんまり意識してなかったんですけど、瀬戸線沿線とはいえ、ここ、名古屋市内なんですね←
比較的、低声が充実しています。とはいえ「低声部」が充実している、という意味にとどまります。高声はそこまで響きが豊かに出来ていないことからして、もう少し、豊かな響きで鳴らせるといいのだと思います。
主旋律はいいのですが、それ以外のパートについては、少し音が薄い。主旋律ばかり浮きだってしまっていて、非常に淡白な演奏に聞こえます。特に、上記のことからして、ハイソプラノのオブリガードがもっと骨太だと、聞きやすいような気がします。下の響きがよく入ったハーモニーだと、低声によくブレンドされて良いのではないでしょうか。
どの曲も美しくて、キレイなメロディが並んでいます。でも、美しいメロディって、それだけだと、冗長になってしまう。美しいことがいけないわけではなくて、美しいメロディが様々な表情を見せるさまをもっとしっかり描写したかったところです。特に、広さ故響きやすいものの散りやすいホール。
なんにせよ、音がもっと集められて、鳴らせると良かったのだと思います。音量がしっかり出れば、相対的に、弱音はちゃんと聞こえるようになりますから。特に高音。まず、ちゃんと鳴る音があってこそです。
とはいえ、人数が20人あまりと少ないながら、グランツェとも遜色ないくらいの、しっかりした音が鳴っていました。

インタミ15分。祝電は、名古屋関係のみ。もっとも、関西だとあまり祝電文化が残っていないので、まぁさもありなんと言ったところか。

第3ステージ:同志社グリークラブ
多田武彦・男声合唱組曲『雪と花火』(北原白秋)
指揮:八木和貴

入場は割とゆっくりと。腕をしっかり振っていたのが印象的。ちょっとカクカクしていたような気もしますが笑 前より一列ずつオーダー。別の団ながら北海道のときはステージが狭かったので、やや苦しそうでしたが、今回はそんなこともなく。
なにより、トップが見事。軽くかつ芯のある高音が、しかも音にちゃんと当たる。他にも、フレーズのとり方や三和音など、音楽を構成する要素はそつなくクリアできている。さすが関西の雄。見据えているのは、楽譜にかかれていることのそのさきにいます。
その上で。この演奏、やや集中力に欠ける点がありました。特に、弱音部に張り詰めた空気感が見られない。私から申し上げるでもなく、タダタケ音楽においては何より大事な要素の一つかと思います。特に、音の末端に対する意識。音の切り際が雑になってしまいました。それ故、曲全体としても、繰り返しの多い曲、一部冗長になってしまった箇所も多くあります。
その実、曲の終わりについては問題ない。1曲目のセカンドはトップと比べて少し勢いが無かったのですが、終曲のパートソロは非常に素晴らしかったと思います。そして、何より、最後の爽やかな終曲のカデンツ! もはや大学の男声団がなくなって久しい名古屋にあって、この若々しい男声アンサンブルが聞けるのは、もはや貴重な機会と言えます。しっかりと出ている音量の中に響く、優しい三和音。心に沁み入りました。

第4ステージ:三大学合同ステージ
高嶋みどり・混声合唱組曲『私は空に手を触れる』(みなづきみのり)

そして、最終ステージ。あえて書いておきたいのですが、ステージ上では歌い手は客に背を向けないこと。否実は、誰のことかといえば、私の知り合いについて言っているのですが、絶対に御法度です。歌う前に伊東先生が少しトーク。最近この人、躊躇なくみなづきみのり作品のことを「私が書いた」というようになっていますね笑
人数としては、グランツェが過半数で、200人弱。でも、音としては、間違いなく、グランツェでは聞かれなかった音が鳴っていました。この、強音のインパクト、これは、この日のグランツェでは得られなかったものでした。そして、音楽が非常によく進む。でもこれは何より、歌い手全員がちゃんと意識した結果。200人という大人数であろうとなんだろうと、どういう音楽を奏でたらいいか、皆が理解して歌っているから、ちゃんとアンサンブルが進行する。
ただ、流石に、この人数であるからして、ディティルには荒かった部分もあります。特に、弱音に対する集中力。そう、奇しくも、三団体とも苦手だった部分です笑 その点、3曲目や4曲目はもっと研究されたい。指揮・ピアノピンスポ以外の照明を50%に絞った3曲目は、そのムードを、演奏の集中力を高める事によって、もっと磨くことが出来たのではないでしょうか。
大人数は、少人数アンサンブルの集合体。その意味では、もっと集中力の高い演奏ができたと思います。然し、音楽的に意味のある合同ができるというのは、実力あるからして、ですね。どの団も。その点、各団のポテンシャルを再確認させられた、いい演奏だったと言えそうです。

「うまく合唱しようというのもそうだけど、合唱が、人を育んでくれたらいい。」と、伊東先生のありがたいお言葉を頂戴しつつ、アンコール。

・アンコール
まつしたこう「ほらね、」(いとうけいし)

そして、この演奏……うまいんだけど、なんだか、ちょっと怖かったよ?!笑 表情だけでも、もう少し崩してもいいような……なんだかんだ、表情って、演奏に出ますし。

・ロビーストーム
女声:木下牧子「ロマンチストの豚」
男声:竹花秀昭「斎太郎節」
混声:木下牧子「夢見たものは…」

まさか、ロビーでやるとは!笑 人数的に、ちゃんと乗るんですね……広さ的に、「鳴り」では、ロビーの方がよかったりします笑
何より白眉は斎太郎節。せっかく関西の方々もいるし、ということで、手拍子にブラボーも個人的にご発声しておりましたが……拍手五割弱、ブラボーは見事に浮く……かなしい。否、こんなだみ声どんちゃん騒ぎを文化とのたまってたまるか! っていうお声はご尤もかと思いますが、でも、個人的にはやっぱり、この曲は、お祭りなんだよなぁ笑

・まとめ

形容するのが難しい演奏会です。どの団も、決して悪くなかった。ただ、どの団も、今一つパッとしない要素を含んでいる。それは、この三つの団の積み上げて来たものを回顧すれば、もっと出来るはずだ、という、期待からくるものなのかもしれません。
その意味では、期待を裏切らないでいてくれたのが同グリでした。否、決して、100パーセントとはいえない演奏でしたが、やはり、あのしっかり当たる高音は、訓練された男声ならでは。片や、名古屋の混声二団の方は、正直、もう少し出来たのではないかという、ちょっと悔しさにも似た思いがあります。
突然ですけど、ポケモンのカスミって覚えてます?ハナダジムのリーダーです。って、このネタ、最大の問題点は、今の大学生だと知らないかもしれないのとなんですけど、まぁそれはいいや笑
あのカスミ、ゲームで話しかけると、自分のポリシーについて話すんですね。みずタイプのポケモンで攻めて攻めて攻めまくることだと。単一タイプに加えて攻勢一方という、これまた非常に危ういものの考え方ですが、しかし、カスミは強かった。フシギダネ使いでピカチュウ→ライチュウ育ててたのに強いと思ってた。少なくとも初見では序盤最大の関門ですよね、あそこ。
で、なにが言いたいかっていうと、ポリシーですよ笑 否決して、各団がポリシーを持っていないわけじゃない。だけど、そのポリシーをちゃんと共有して、伸ばそうと努力出来ているかなって話。中途半端になってしまうと、それは、中途半端な何かにしかならない。しっかりと最後まで、その思いを実現することに精力を傾けられているか。たとえば、グランツェなら、上澄みの音をキレイにハモらせることだったり、金城なら、低めの響きを豊かに聞かせることだったりするのでしょうか。自分たちの強み・伸ばしたいことはどこにあるのかを見直して、その強みがより伸びるように仕向けていく。
もちろん、簡単なことではないし、不十分かもしれない。でも、漫然と歌うよりは、聴きどころが明白になって、「面白い」演奏になると思います。

2018年8月19日日曜日

【合唱団もんじゃ 4th Concert】

2018年8月18日(土)於 大田区民プラザ 大ホール

〈本日の旅程〉
名古屋市内→豊橋(18きっぷ東海道線)→浜松(遅延)→静岡(やっぱり遅延)→熱海(諦めて新幹線利用)
→品川(鈍行グリーン車利用)→蒲田(京浜東北線)→下丸子(東急多摩川線)→本件
→蒲田(東急多摩川線)→川崎(京浜東北線)→立川(南武線)→甲府(中央線)→宿泊

〈明日の予定〉
甲府→富士(身延線)→東海道線経由で帰名

……もうね、あえてこういう言い方してしまうと、
一体何しに来たんだかわかんない笑
ちなみに、検討していたプランの中には、飯田線各駅停車長野方から乗り通しなんていうプランもあったりしました。なんていうか、勢いって大事ですね←
そんなわけで、割と勢いで聴きにきました。とある事情から、勝手に親近感を持っていまして、ずっと聞きたかったんですね。理由? まぁ、私の所属団を知ってしまっている方もいるでしょうし……アレですよ、だいたい、似たような構えしてるじゃないですか、うちの団の名前笑
嘗てはなにかあったとかなかったとか聞いたり聞いてなかったりしてますが、終局、私とは特に関わりのない話なので、結局、本当に勝手に親近感持ってるだけみたいな格好です。その意味では、念願叶ったり、一度来てみたかった演奏会。そういえば、「プロ」とか「初演」とか、そういう理由つけずに来た関東の演奏会という意味では、もんじゃが初ということになりました。多分、自身通算をしてもなかったはず。あえて言うなら大昔に出演したついでに聴いたTOKYO CANTATくらいかなと。乃至、まぁその、ただ聞きに来たつもりがビデオ係やらされたとか、そういう感じのやつ←

・ホールについて

東急多摩川線下丸子駅より徒歩すぐ。蒲田から来たときは、すぐに踏切を渡りましょう。さもないと……迷うと結構果てしないです(体験談←
区民用の多目的施設の中にある、キャパ800程度のホール。古さもちょうどいい感じの、池田アゼリアと同じくらいの大きさでしょうか。狭すぎず、広すぎない、手頃な感じがちょうどいいホールです。多目的ホールにして、内装は石材系と金属系の組み合わせという珍しい形式。しかも床はフローリング。全体的に白を貴重としている中で、紅白の椅子と合わせて、足元の暖かなアクセントが非常に印象的です。クロークとして使われていたカウンターも、飲み物くらいなら出せそうな感じ。非常に使いやすそう。
そう、このホール、非常に使いやすそうでした。その、非常に使いやすそうな、多目的ホール。なにせ、ブザーはやっぱり、「b----------------!」ですし笑 実際のところ、残響というのはいまいち望めません。
でも、そこがポイント。残響以外の部分については、とても素直な素晴らしいホールです。鳴らしたまんまの音が、素直に部屋の大きさのままに帰ってくる。鳴っていることを殺すこともなく、そのまま返ってくるというのが貴重です。音楽でこれなんですもん、本当の意味で、多目的、なんだと思います。ほらだって、客照落とすと、完全に真っ暗になって、レビュー用のメモとか書けなかったですし笑
しかし、ピアノはスタインウェイ。多目的なのに。東京ってすごいわ……笑

集客は6〜7割、下手側舞台前には親子優先席がありました。そのさりげない配慮の素晴らしさ。
ひな壇は、ちょっと多めの4壇。でも、70人あまりが乗ったら、案外いっぱいになっていました。そして、この人数ならやっぱり、もっと入場はサクサクしたいですね。女声より男声が遅いというのは、ちょっと。

Opening stage
指揮:佐々木孝康
ピアノ:高橋人富

まずひとつめに、驚いた! 何にって、すごく、爽やかな音を出すことに。
否、勝手なイメージを持っていたんですよ、関東の人たちって、すっごく、発声がしっかりしていて、その発声を頼りにして、ゴリゴリと音を鳴らすところで満ち溢れてるんじゃないかって。良くないですね、こういう、勝手な思い込みって。
そういう音の良し悪しはさておいて、ここは、ノンビブラートで、音圧というよりは、各人がアンサンブルに溶け合うようにして、透明な音を鳴らしていく、なんだか、個人的には落ち着く感じの音笑 ただ、このステージに関して言えば、まだ声が温まっていなかったのか、特に高音への跳躍など、ピッチが正確とは言い切れない感じでした。高音への跳躍についていえば、どちらかといえば、届いていない、という方が正しいかも。各パートの中での微妙なピッチの揺らぎも、アンサンブルに悪影響を与えてしまっていたか。そう、こういうタイプの音作りを目指そうと思うと、ピッチも、寸分違わず揃えなきゃいけないんです。
でも、この曲、さわやかでええ曲なんですよ……歌詞もまた、この団によくあっていて。このあとの演奏会への期待感を否応なく見せてくれました。

1st stage:もんじゃの新定番! アラカルト
ELBERDIN, Josu "Ubi caritas et amor"
木下牧子「にじ色の魚」(村野四郎)
信長貴富「それは」(長田弘)
相澤直人「あいたくて」(工藤直子)
上田真樹「あなたのことを」(銀色夏生)
指揮:佐々木孝康
ピアノ:嶋田理子

このステージ、音取りは音叉で。少なくとも、この指揮者もプロではない。なんだか、すごい人が一杯出てきているものだなぁ……
1曲目は本演奏会唯一(!)の外国語曲。とはいえ、ラテン語だからそこまで極端に神経質にならなくても歌えちゃいますけどね。……とか言ってると、今回も、母音がバラけて音が少し散ってる気もしたのだけれども←
最初の方は、下三声の和声のピッチが、前のステージを引きずっているのか、かなり不安に聞こえました。あと、強弱に対する意識が今ひとつ真剣味にかけるというか、もう少し「なぜこの部分はこの強弱なのか」といった司祭にも意識を向けられると良かったなと思います。ただ、この1曲目からして、すでに萌芽が見えていたのは、メロディに対する意識の秀逸さ。
日本語に入ると、そのメロディの秀逸さに合わせて、演奏もどんどんブラッシュアップされていきました。2曲目「にじ色の魚」なんて、このところアンサンブルコンテストのスタッフ入りなんかしたりして嫌という程聞かされていましたけど(失礼)、言葉が立つとこんなにも美しく聞こえるんですね! 大人ってすごい。
そして、なにより白眉だったのが、5曲目「あなたのことを」。私としては、昨年あい混の初演に出会って以来。その当時は、どうしても『終わりのない歌』の初演に耳が引きずられていましたが、今日は、この曲の良さを再確認させられました。否、この再演を通して、この曲が成長した瞬間を目の当たりにした、という方が正しいかもしれない。この曲に至ると、うびかりで難しい顔してた人たちもみんな笑顔ですもんね、上田真樹ってすごい笑 あんなに心から幸せそうに「あなたのことを考えてたよ」って歌われちゃうと、もう、ホントに心に染み渡る。語り継がれていい再演でした。
一方、ひとくちにメロディといっても、3曲目「それは」のように、ちょっとテンポ的に揺らされたりすると、テンポに引きずられていってしまったりもする。まだまだこれから、という課題を抱えつつも、その歌心と素直な音に、未来への可能性を感じさせる演奏でした。

インタミ10分。

2nd stage:Monja Summer Festa!!〜もんじゃと過ごす夏のひととき〜
桑田佳祐(arr. 信長貴富)「希望の轍」*
RAG FAIR(arr. 壹岐隆邦)「恋のマイレージ」(土屋礼央作詞/豊島吉宏作曲)a cappela ensemble
ZONE(arr. 森友紀)「secret base〜君がくれたもの〜」(町田紀彦作詞作曲)
森山直太朗(arr. 田中達也)「夏の終わり」(森山直太朗・御徒町凧)**
ゆず(arr. 石若雅弥)「夏色」(北川悠仁作詞作曲)
指揮:佐々木孝康、関口智史*、飯間葉子**
ピアノ:高橋人富

お次は、巷では、演出付きステージとかアトラクとか呼ばれる……要するに、寸劇ステージですね笑
全曲ポップスで固めていながらにして、しっかりと技術面でも合唱を追求する、良プログラム。2曲目は少人数アンサンブルに手拍子も加えて、3曲目・4曲目は女声・男声合唱でそれぞれうたっていきました。役の方のセリフはピンマイクをつけて拡声。ただ、アンサンブルの音圧がどうしても小さくなっていたところでいうと、セリフはアンプラグドでやったほうが良かったのかもしれません。
寸劇に無駄な力が入っているというわけでもなく、青春第一のストーリーをさりげなく(ときおり強引に……お汁粉とか←)提示しながら、全体として、音楽がちゃんと通底している雰囲気が印象的でした。寸劇のために音楽がおざなりになることって、こういうステージだとよくあるんですよ。音楽がただのBGMになっちゃってるみたいな。
ストーリーは、10年前の甘酸っぱい恋物語の回顧と、青春の再現のような、再会の物語。最後の再会は、ゆずの「夏色」で、思いっきりはっちゃけて締められる。だからこそ、特に、1曲目から2曲目〜導入から出会いまでは特に、「夏色」くらいに全部はっちゃけた音があってもよかったかなぁと思います。特に人数が減る2曲目〜4曲目まで、どうしても音圧が少なくなってしまって、ボリューム不足のような感じがしてしまいました。特に、男声ステージは、もっとトップが張ってほしかったなぁ。一種の、伝統芸能みたいなものですが。
否しかし、本当に、甘酸っぱくて、なんだか正視できないくらいだった笑 しかし、そんなストーリー、最後の「夏色」を歌うときにひな壇に上がった主人公とヒロインの間には、たまたまだろうけど、団員が一人挟まっている。なんだか、ちょっと歯がゆい感じ、これも又青春!?笑

そしてインタミ10分。やっぱり、インタミは短いに越したことはないんです。長くても、終わりが気になって、何も出来ないこと、結構ありますから笑

3rd stage
三善晃・混声合唱のための『地球へのバラード』(谷川俊太郎)
指揮:近藤一寛

で、このステージこそ、白眉! 自然に流れる音楽を、自分たちのテンポの中に落とし込んで、ちゃんと表現できている。勢いの中に、ちゃんと音の跳躍もできているし、それでいて、1曲目の「くやしさといらだちの」といった、細かい表現も、しっかりテンポを止めて音にすることが出来ている。全体として、表現がダレることがないから、2〜4曲目のテンポの緩い曲も十分な音の中に表現出来ている。で、やっぱり、その爽やかさを生かして、テンポの跳ねる1曲目や5曲目では、自分たちの持ち味を生かして、思いっきり音を鳴らしているなっていうのがわかる。なんだ、これまでちょっと感じてた問題って、本当に声が温まってなかっただけじゃないのって思っちゃう笑
3曲目の表現は、最初、だいぶ明るめに入りました。明るすぎないのかな、って思ったけれども、改めてその目で歌詞を読んだら、そういうわけでもないんですね。空に結びつく鳥の無知と、その無知の真実なるを知らない人の愚かさ。そういう意味では、私も人間の目を持ってしまっていたのかもしれない。でも、そうすると、語りの音は、もっと朴訥と、かつ、重厚に読んでいたほうがいいのかもしれません。否、十分、素晴らしい朗読だったのですが。
合唱にしても、4曲目にかけては、アンサンブルが長かったという面もあって、少し声が浅くなっていたような気がします。そうでなくても、特に4曲目は表現としても深い声が求められる曲かと思います。その辺。もっと重厚に鳴っても良かったのだと思います。
然し、それにしても、若い! 爽やか! それだけで、この曲をここまで捉えることができるものなんですね。無鉄砲さというか、天真爛漫というか。いろんな難しいこと捨象して、それくらいにさっぱりと捉えるのも、この曲の楽しみ方なのかもしれません。

encore
松下耕「今、ここに」

テンポ変化は近藤さんが合わせつつ、それ以外は全員が息を合わせてのアンサンブル演奏。これぞ、今日の演奏会の真骨頂と言えるかもしれません。ちょっと遅くなりすぎな部分こそあったものの、何もしなくても勝手に音楽が進む。目指している音楽が明白だからこそして、やっと完成できる演奏。まさに、今、ここで、私が歌っているからしてでないと、この演奏は出来ないのです。

ストームはなく、そのまま終演。ロビーでの歓談もなんだか爽やかな感じでした笑

・まとめ

「音楽に正解はない」なんていう言葉があります。確かに、そう言えるような気もします。発声的・技術的に正しいと思われる音が鳴っているのが間違いない演奏であったとしても、全然感動できないものもあったりする。逆に、そういった部分で明らかなボロが見えていたとしても、ものすごい良演っていうのはまま見られる。
何が、その違いを作るのか。正直、つかめるようなものではないともいます。「名演の作り方」がわかるなら、誰だってやってるはずですし。では、そこに、技術ではない何かが介在しているのだとしたらーーとどのつまり、あるとするなら、「ヒトの心」って、名演には、欠かせない要素なのだな、と思わされました。
今日の演奏も、正直、劇的にうまかった、というほどにも言い切れない。でも、今日の演奏、すっごく良かった。特に『地球へのバラード』、特に「地球へのピクニック」なんかは、皆の思いが詰まっている。
思うに、「どう歌うか」ということについては、技術はとても雄弁なんです。でも、「何を歌うか」ということについては、人間がいないと、やっぱりわからない。「何を歌うか」ということが決まっていれば、そこから逆算的に、フレージングをはじめ「どう歌うか」は決まってくる。でも、どんなに楽譜を眺めていたとしても、解釈は最終的には多様だし、それをどの解釈で、どんな文脈で、どんな曲順で歌うかで、伝えるメッセージは変わりうる。
過度に気持ちが入りすぎれば、それは独りよがりになってしまう。でも、ギリギリまで技術を突き詰めたあとにようやく顕れる人の心は、寧ろ音楽の真実に近づいているのではないかと思います。その答えが、あのときわたしたちが共有した、爽やかな風のようなものだったのではないかと思います。何も出来なかった昔の自分と、やっぱり何も出来ない今の自分、その愚かさや、無鉄砲や、健気さや。どんなに無力であったとしても、今ここにいて、ここで歌う事実は変わらない。その事実と向き合うときの、誠実な、心からの合唱は、どこまでも伸びやかなのだと思います。
私達の音楽が、まさにこの瞬間に力を持つのを垣間見るとき、それだけで、今回、聞きに来た価値は、あるのだと思います。とても、後味が爽やかな、キレイな演奏会でした。