おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2019年1月13日日曜日

【なにわコラリアーズオール三善晃コンサート】

2019年1月12日(土)於 紀尾井ホール

・メシ―コール

 等身大、という言葉を、心の底から考えさせられる。
 食べたものは、カレー、キッシュ、サラダと、朝にパンの盛り合わせ、オレンジジュース、オムレツに野菜の盛り合わせ、ソーセージ。どれも、どこかで食べたことがあるはずなのに、どこか全然違う。場に飲まれ、緊張する中にあって、しかしながら、味わうものは、そのどれもが、一流のものであると確かに感じ取ることができる。
 なにが違うかと言われると、問うのが難しい。そのどれも、語弊を恐れずに言えば、どこかで食べたことがある味なのだ。確かにわかる――特別なことは、なにもしていない。ただ、日常にも見られる様々な配慮を、全てにわたって続けていった結果が、この一膳に載せられている。そんな、細やかさを、確かに感じ取ることができる。
 小生少しばかり料理をすることがある。合唱曲にしたってそうだ。やったことのある曲に対しては、その過去の記憶を重ねることで、より詳細に、その中身を覗くことができる。なにかが変わっている、変わっていない、ということは、その比較のフィルターを通すことで、ある程度は理解できているつもりである。なにかが足りない、というのなら、なにかを入れればいいだけの話である。しかし、――ここに対して、そのような言葉は似合わない。やっている工数は、私が注意を払ってやった手順とそこまで変わらないはずなのに、その全てに、技術と、神経と、心意気が通っている。
 帝国ホテルの中でも、特に夕食はカジュアルな方である。しかし、そんなことはさしたる問題ではない。そこには、ホテル内すべてをして、帝国ホテルのブランドを背負う人々が、ホテルの、自分自身の威信を賭して、自らの仕事に従事している。
 当たり前が、全て行き通っている。しかるに、日常は、一流の殻に包まれて、大切に、私達の眼前に届けられる。

 え、なにしに来たって? そりゃ、なにコラの三善個展聞きに来たんですよ笑
 なにコラという団が、三善晃の名曲が詰まった男声合唱の個展をする。――それ以外、なにか聞きに行くのに、理由あります?笑

・ホールについて

 上智大学のお膝元・四ツ谷駅からすぐ近くに立地するこのホール。アクセスガイドを見てみると、実は麹町や赤坂、永田町といったところも最寄り駅に数えられるこのホールは、まさに、東京の数ある文教地区の一角をなす、非常におしゃれで綺麗な街です。なにせ、向かいにはニューオータニですからね笑
 このホール、意外と残響はありません。残響時間は発表されていませんが、今日は観客が多かったこともあり、大きく鳴らした後に残る音はちゃんと残響しているとわかるものの、そうでない音はすっと消えていく。割と、面積の割に客席数が多いシューボックスということが、残響にも影響を与えているかと思います。ただ、その音、決して私は悪いことだとは思っていません。逆に言えば、変な残響が残って音が濁る、ということとは無縁です。確かに、部屋の大きさの通り素直に響いて、そして、何より、素直に鳴る。これは、決して今日がなにコラだったから、ということでもなくて、前にあい混聞いていたときだって思ったことでした。そういう意味では、本当に、このホール、三善晃向きなんですよね。おしゃれな和音を堪能できて、それでいて、しっかりと音がなり、後に音が残らないから、各和音が混ざらずにしっかりと性格を変えて、確かに和声を作り出す。
 あと、これはもうどうしようもないことなんですけど、私、多分、ステージより客席が低い位置にあるホールがあまり好きではないのかもしれません。否、そりゃ、ステージすぐ近くはどのホールもだいたいそうなっているんですけど、このホール、1階席の傾斜はそこまでつけずに、バルコニーを複層的に作ることで、高さを作っているホール。だから、1階席は基本的に、そこまで高さがない状態になっています。なんとなく、高い響きを聞きたい自分としたら、席の高さは意外と重要。もちろん、好みの問題だと思いますけどね。普段、しらかわホールに抱いている違和感もそこにあるのかも……とすると、シューボックスのホール、基本的に自分はだめなんじゃ←

作曲・編曲*:三善晃

指揮:伊東恵司
ピアノ:水戸見弥子**、松本望***

第1ステージ
男声合唱とピアノのための『三つの時刻』(丸山薫)***

 若干年前の奇跡的な再演から、課題曲になり、そして、愛唱され、愛聴されるに至ったこの曲。まずなにより、この目の覚めるトップテナー! まずはなんであれ、この音を聞くと、ああ、なにコラ聞いたなぁ、と思わされます。そんなトップと、どこまでも鳴らせそうなローベースを外郭に、この団はあっという間に曲の輪郭を作ってしまいます。それが、三つの時刻であっても一緒。音楽の範囲がしっかりと定義されるから、まず何より、安心して聞いていられます。
 で、この団、実はそんなに多くの楽器を持っているわけではないんですよね。あくまで、確固たる一つの楽器をしっかりと磨いている団。でも、そんな一つだけの楽器で、この曲が持つ、原始的な無常観、存在に対する問がもたらす寂寥感を、しっかり歌ってしまう。
 この名曲を、しっかりと脱力した集中力を持って表現してしまう。張り詰めた空気と、絶対的なる決然とした響き。冬の空のように、凛と風の吹く。――その中に綻ぶ、外声と内声。少しばかりのズレが、少しだけ、この後を予感させてしまう。……気のせいかな?

とんでもなく早い転換を経て、再開。もはやKQである笑

第2ステージ
男声合唱組曲『クレーの絵本 第2集』(谷川俊太郎)

 続いては、絵本を題材にしたこの曲。そう!この曲、テーマは絵本なんですよね。少しでも放っておくと、簡単に、「まじめな顔つき」になって、緻密なアンサンブルを合わせに行くっていう方向に向かいがち――否、普通はそうなってしまうもんなんですよ。第二集なんて、第一集より難しいんで、余計に。
 でも、だからこそ、そんなこと気にしないような作り方をしないといけない。そんな、難易度の高い要件ですが、もともとの楽曲構築にかける時間が短いからか、それ以外のことにしっかりと時間を使うことが出来ている。ファンタジーともなれば、おそらくどの団よりも子供っぽい(褒め言葉)純朴な声を出すこのトップがいてしてなら、やるべきことさえやってしまえば、それだけで表現になるんですよね。
 表現にためらいがないんですよね。向かうべき表現というのが、最初からちゃんと見えていて、その方向へまっすぐ向かっていく。「死と炎」なんてのは、それが如実に現れます。不規則なアルペジオと、そこから突き刺さるように響く主題。縦の和声がビートを刻んでも、なおも通奏するアルペジオ。野生の勘みたいなものなんでしょうね。またの名を、訓練の賜物でもあります。

第3ステージ
男声合唱とピアノのための『縄文土偶』(宗左近)**

 で、やっぱり、心得ているんですよね。音楽と、それが作り出す場の作用を。直感的に。
 三善晃と宗左近というゴールデンコンビが生み出す曲の主題となるのは、端的に言えば、消えゆく者に対する目線。もう存在がないはずのものであったとしても、それをあたかも眼前にあるものであるかのようにして活写し、伝えたかった(であろう)ことをあたかもそこにあるかのようにして描き出す。人間がそこにあるからにして、激情を持ち、時に静かに、時に激しく、夜明けを待ち、また静けさの中に帰っていく。時に動き出す情動と、また静かに、時折脈打つ、妖しげな、しかし確かな命の呻き。
 おそらく、この曲、私初めて聞いていると思うんです。でも、この演奏が初めてでよかった。メロディの歌い方がいいとか、和声の決まり方が良いとか、デュナーミクがいいとか、いろんな褒め言葉があると思うんですが、こういうとき、すべての要素が渾然一体としないと、真に良かったとは言い切れないんですよね。基本に忠実ながらにして、そのすべてが出来ている。
 そして、そんな、神経がすべてにわたって行き通っているということは、それだけ、集中力を持った演奏が出来ているということでもあります。その世界に、私達はのめり込み、そして、しばしその世界を堪能する。僅かな音の揺れを許さない中にあって、この演奏、名演と呼ぶに相応しいものであったと思います。

インタミ15分。やっぱり、ここのオレンジジュースは美味しい(大事なことなので)

第4ステージ
男声合唱のための『五つのルフラン』*

 いってみればまあ編曲集。伊東先生も曲間に「緊張するステージが続くので、ちょっと喋らせて――」笑
 親しみやすい曲(伊東先生曰く「親しみやすい曲を、演奏者が親しみにくいアレンジで」笑)であるだけに、粗も目立ちやすいのが、こういうステージの怖いところです。特にアタマの二曲では、縦のラインの揃い方が気になってしまいます。第1ステージで図らずもその兆候が見えていた、テンポのズレの部分が、段々と顕在化してしまっていたでしょうか。ただ、3曲目の「カチューシャの唄」からは、ノーヒント転調(?)をはじめとして、難しい部分であれ様々な難所も、驚くほどにハマっていく。ハマっていったら先は、この団はもう、勝手に表現が出来上がっていく。
 全体としてはやや淡白なステージであったようにも感じます。でも、それくらいでちょうどいいかな、と思わされる。休憩明けの、ちょっとアタマを切り替えるためのステージですからね。否でも、「鉾をおさめて」は、三善先生の思い入れが強すぎて、もうね笑

第5ステージ
男声合唱とピアノ(四手)のための『遊星ひとつ』(木島始)**,***

 いってしまえば、このステージをめがけて来ている人というのも決して少なくはないでしょう。私とてそれは否定しません。あまりに有名にして、あまりに壮大で、それでいてあまりに卑近で、孤独からの、決意とも、迷走とも取れぬ爆走、その中にこの時代の真実をみる。四部作をはじめとして、多くの名作を生み出した後期の三善作品の中でも、全編成を通して最高の傑作と言うに余りある大作です。
 そう、大作であるからにして、演奏がとてもむずかしい――完璧な再演というのが、めったにお目にかかれない作品でもあります。近頃の快演というと、2013年初頭のおえコラ×創価しなのかなと個人的には思っていますが、なんにせよ、どこかで躓いたり、あるいはどこかでミスしたり、表現が足りないなと思わされたり。あえてこう言いたい。単に、難しいんです。それであるにして、ただ単に超絶技巧というだけでなく、そのさきに見える音楽的・意味的世界が充実しすぎている。だから、演奏者としてもその演奏を完璧にしたくなる。
 なにコラには、特にこの曲、当然のように、完璧を期待してしまう。でも――この日の演奏は、残念ながら、完璧に期待に反していたと言わざるを得ません。
 最初からピッチについて反目し合うトップと下3声、それがために常に安定せず、最後のカデンツまで安定をみなかった各パート。グルーヴを感じることもないまま、ダラダラと進行してしまい、「ベッドのしわと朝日のように」以降はもう聞いていられない。「見えない縁のうた」はまだよかったのかもしれない、でも、「バトンタッチのうた」は、メトロノームのように重く刻まれたテンポが、音楽の進行をとめていく。無理に表現を作ろうとして、そこに、表現のものとは思えない、無駄な焦燥ばかりが走っていく。
 音をなぞっているだけに過ぎない、各パートの交流が見られない、この演奏。あんまり多くを語りたくない。でも、なにコラというブランドがこの曲を歌ってブラボーが出ないということの現実を、重く受け止められたい。
 こういうとき、別の団だったら、もっと別の言葉を用意します。でも、なにコラに求めているものって、そういうものでもないんです。

第6ステージ
男声合唱とピアノのための『三つの抒情』(立原道造/中原中也)**

 ……一度集中力が途切れると、若いスタインウェイ特有の軽いハンマーノイズとかが久々に気になったりするんですよ笑
 実はなにコラ、こういう曲のほうが得意なのかもしれません。この合唱団、メロディの良さについてはなにもトップに限った話ではないんですよ。本当に、どのパートもよく歌う。だから、こういう、メロデイを気持ちよく聴かせるような曲は、十八番といって然るべきものなのでしょう。
「或る風に寄せて」の、迫りきて、また遠くなるものへの表現、「北の海」の、コミカルながらシリアスな世界観、それを表現するに相応しい諧謔、「ふるさとの夜に寄す」で静寂の中に朴訥と語られる、暖かく、心の満ちた、しかし悲しみの中に吹く感情の複雑な表現。
 良いときのなにコラって、本当に、技術のこととか気にならないんですよね。こうなんです。ステージの中いっぱいに、音の世界が花開く。個が主張することなく、音が風景全体を作り出すんです。何か、というわけでもないけれども、多くの術的要素が複雑に絡み合った瞬間、音楽がようやくその本当の姿を少しだけ見せてくれる。
 そう、なにコラには、こういう音があるはずなんです。

 曰く「とてもアンコールを用意する余裕がありませんで――」

 ……でしょうね(真顔

encore
「松よ」(『三つの時刻』から)***

 ということで、一ステの再現。否しかし、この曲、いい曲ですよね。で、この団、本当、決してごまかさない。音に対して忠実。この姿勢だけは、本当に見習わなければならない。
 静寂のうちに終わりゆく演奏会、いいじゃないですか。

 まあ、終演後、多分なにコラ一の大声自慢有名人様がCDの売り子してたんですけど爆

・まとめ

 三善晃の音楽とは、こうも身近なものなのか、と痛感させられました。
 三善晃の音楽って、その難しさゆえからか、妙に敬遠されているような気がします。リズムも和音も、一見するとすごく複雑に絡み合っているような気がして、なんだか難しい、と、感覚的に判断して、そのまま演奏しようとすることなく終わってしまうか、演奏したとしても、難しい曲だ、というイメージだけを持って終わってしまう、なんてことも少なくない。でも、実際に音楽を注意深く調べてみると、難しい難しいと言われている曲が、実は単なる諧謔に過ぎないような曲想だったり、使われている和音も、実はシンプルだったり、感覚的にはよく知っているようなパターンだったりすることもある。もちろん、例えば今日で言えば「縄文土偶」のような、解釈的にも単に難しいということもありますが、特にある時期を越えてからある時期を迎えるまで、10年程度、ポピュラー音楽を非常に多く書いていた時期もあります。多ジャンルに渡って多く傑作を残してきた三善晃。だからこそ、ただ難しいと壁を作ってしまっては、勿体ないだけでなく、解釈としても正しい方向へ結びつかないことがあるんですね。時代背景・作曲背景を理解して、そして、この音楽がどういう音楽であるかを、正しい意味で「雰囲気を感じる」。
 加えて、三善晃の初期の曲には、レゾンデートルにかかる問題を深くえぐった作品も多くあります。もっとも、突き詰めてしまえば、ポップスに傾いている時代でも、『クレーの絵本』シリーズなど、随所にそういう傾向が見られますが……。こういった曲は、確かに、一般的には非常にとっつきにくい、難しい問題を取り扱った作品です。しかしながら、この実存の問題というのが、本来は決して、どこか遠くにある問題というわけではなく、人間の、自分自身の存在意義がどこにあるのかという、誰もが抱えている問題を深くしていったに過ぎない。だからこそ、この問題が、自分自身の中でどう落とし込まれるかというのが、言ってみれば、惹き付けられることが、解釈する上で、とても重要なこととなります。
 その点、今日の演奏は、雰囲気は非常によく掴めていたのだと思います。そこは、さすが、数多くの名演で鍛え上げられた感性を武器に、適切に、自分たちの持つ音を当てはめることが出来ていたような気がします。ポップス、乃至豊かなメロディを持つ曲については特に、難なくその色彩を掴めていたのだと思います。そして、所謂難しい曲にしても、その輪郭は非常によく描き出すことが出来ている。堅牢な外声を武器にして、どんなに難しい曲でも、その世界観を十分に伝えている。「縄文土偶」は本当に素晴らしい演奏。あそこまでの大曲を、名曲だと判断するためには、しっかりとした再演が必要なのはいうまでもありません。そして、そう判断させるだけあって、複雑だった三善晃の音楽が、どんどん自分の心の中に近づいてくる。不思議な体験でした。「黒い王様」から「或る風に寄せて」、「ふるさと」に至るまで、すべてが並列に自らの身体の中に入ってくる体験は、三善晃の、優秀な演奏の個展だからこそ味わえる、不思議な体験です。

 でも、――同時に思ってしまたんです。なにコラの音楽とは、こうも身近に、卑近なものだったのか、とも思わされました。
 否、そりゃ、再現しろ、と言われたら難しいんです。でも、私、なにコラってもっと遠くにあって、ものすごい人たちがものすごい演奏ばっかりしているもんだと思っていたんです。実際、自分がM1の時に聞いたなにコラの演奏って、なんだかとてつもなくて、ただただ圧倒させられるばかりだったような気がするんです。本当、ほかごと考えながらじゃないと演奏聞いてないような自分が、その日ばかりは本当に無心に、集中して聞いていたのも今でも覚えていますし、そのことを人に話したいという衝動から書いたFBの記事は、今の私のこのブログを書くようになたきっかけの一つでもあります。
 でも、今日の演奏は、聞けば聞くほど、そこまで、という感じでもなかったような気がします。否、確かに、快演と呼ばれる部分はあるんだけれども、でも、昔の記憶だと、こんな演奏しなかったでしょ、って部分が少なくなかったのは否定できない。特に、『遊星ひとつ』みたいなことが起こるっていうのは、昔だったら考えられなかった気がします。
 否、きっと、今日始めてなにコラに出会って、きいて、感動したっていう人もいたとは思うんです。そういった意味では、どちらかというと、私が、なにコラを聞いてそういう感情を抱くという日が来るとは思っていなかった、という方が正しいのかもしれない。すると、実は図らずも、私の耳が肥えたというだけなのかもしれません。――そちらのほうが、誰も傷つけずに、幸せになるのですけれどもね。レ・ミゼラブル。