おおよそだいたい、合唱のこと。

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主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
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ゆっくりしていってね!!!

2021年7月23日金曜日

【合唱団やえ山組第9回演奏会 愛知公演】

2021年7月23日(金祝)於 豊田市コンサートホール


 「新しい日常」が謳われ、少しずつ日常を取り戻そうとするこの社会。一方で、コロナ禍にあって、オリンピックも無観客になるなど、なお、以前のような生活を取り戻しきれないのも現状。そんな中、このブログにあっても、ネタを探しあぐねていました。

 もっとも、書けるような演奏会がまったくなかったわけではないものの、予定が合わなかったり、遠方ということでなかなか現地に向かうという時制柄でもなかったり、単に気分が乗らなかったり(そうやって落とした演奏会は、以前にもいくつかありました苦笑)、あるいは自分がオンステしてたり。私としても、まともに聞いた演奏会は、前書いた第九のほかは、器楽だったり、スキマスイッチだったりと、なかなかブログにするようなものでもなかったり。

そんなわけで、客席にフルで座って、まともに「合唱でござい」な演奏会を聞かなくなってかれこれ1年半くらい経っていたようです。でも、せっかく書くからには、なにかセンセーショナルなネタがないかな、とちょっと欲張ってもいたところです。こう、「全国クラスの合唱団がふらっと愛知にやってきて、フルボリュームの演奏会をガッツリ歌い倒していく」ような演奏会。

……ん?「やえ山組愛知公演」……?


……そうだよ、

こういうの待ってたんだよ!


 嘗て「広域指定合唱団青山組」という実に物騒な名前でデビューした合唱団と、そこに感銘をもたらした「やえいシンガーズ」がジョイントする形で発足した合唱団。なんか、もっと昔からあったような気がしましたが、「やえ山組」としては2017年が発足のようです。発足初年度にいきなり全国へ行き、2年目には全国金賞、3年目にはオケを連れて全国へ行く、と、曰く「会場を騒然とさせる」インパクトを常にもたらすこの合唱団(最後のは思い出す限りにおいても間違いなく騒然となったものと思料される)。

 2020年にわたっっても色々と仕込んでいたようですが、コロナでまるっとすっ飛んでしまい、昨年5月からまともに演奏ができていなかったようです。そんな中、「東京で世界的なスポーツ大会ができるなら合唱だってできるはずだ」というなんともヤクザな開催基準のもと、今回の演奏にこぎつけたとのこと。そんな再起の地に、愛知県が選ばれたというのは、実に僥倖というほかありません。個人的に。


・ホールについて

 名古屋から電車で1本、名古屋市営地下鉄鶴舞線と相互直通運転する豊田線の終着地にある豊田市駅からピデストリアンデッキ直通。こう聞くと、名古屋からのアクセスがすごく良いように聞こえるのですが、出不精な名古屋人からはなぜか「遠い」と言われるホールです。アクセスの体感的には、川口リリアとか、宝塚ベガホールとかと同じくらい。……え、遠い?笑 

 どうも見た感じ、このホールで聞いた演奏会をレビューしたことはいくつかあるものの、ホールのレビューを書いたことはないようです。ということからもわかるとおり、何かとプロに愛されるホールです。その理由は、ひとつにはまさにこの響き。1,000人規模のシューボックス型という、少なくとも愛知県においては非常に稀な形態をとっていて、かつシャンデリアやバルコニー等の配置の工夫により、限りなく残響が美しい。聞いていて2秒近い残響だとわかる、それに加えて残る音に雑音がない、まさに、理想的な残り方をしてくれます。

 一方、その響きに甘えていられるかというとそういうことはなく、歌った音は意外とそのまま聞こえてきます。ちょっとミスったり、音圧が低かったり、そういった「ちょっとしたミス」を隠してくれる響き方ではないので、この点、満点の歌い方ができるとものすごく答えてくれるけれども、少しでもミスがあると、それがそのまま跳ね返ってしまうホール。手厳しい。

 ところでなんとなく、このホール、低音が響きづらいような気がしました。気のせい?


 入り口の検問の列がひとつしかないことが災いして、少し入場に手間取ったのは残念。一番最初からいた人を10分経っても捌ききれていなかった、それでいて開場から開演まで30分しかなかったのはさすがに時間制約に厳しいものがあったように感じます。とはいえ、結果オンタイムで開演できていたからいいのかなぁ……。

 このご時世、ホールの3割程埋めました。もともとのキャパと、「遠い」と言われる部分を差っ引けば、十分及第点です。


・歓迎演奏 Ensemble Spicy

三宅悠太「生きる理由」(新川和江)

Pizzetti, Ildebrando “Ulultate, quia prope est dies Domini”

Makor, Andrej “O lux beata Trinitas” (Saint Ambrose)

指揮:藤森徹

ソロ:田村幸代(客演)


 地元で有名な、通称「あんすぱ」。中部金賞を受賞する程度には実力のある団体ですが、団員の入れ替わりが何かと激しい合唱団でも有名(悪い意味ではなく、あくまでそれを是としている合唱団ではありますが)。名称の由来に曰く「練習後にあんかけスパゲッティーを食べることを目的にした合唱団」とのこと。そんなことだろうと思った笑 

 全体として、よく「取れている」という印象。ところどころ発声が乱れる部分があったものの、全体として十分なぞれているし、特に2曲目に関しては、ボリュームもインパクトも十分。逃げずに表現しているな、というのがよく分かる音楽になっていました。ただ、逆に言えば、音楽が「取れている」程度で止まっていたのも事実。1曲目は、この中で唯一コンクールに乗せない曲ということもあったのか、特に声に芯がなくて物足りなかったです。せっかくソロがさわやかに鳴らしているところ、そこに追従しているというよりは、なんとなく合わせに行っている感じが残念。3曲目も、全体として平板に流れていた気がするので、より歌いこんでもいいかなと思います。具体的には、もう少しテンポを落としてもいいかもしれません。

 なんにせよ、もう少し歌い込みが必要だなと思いました。量的にも、質的にも。


組長挨拶ののち、演奏へ。


指揮:岩本達明


1st.

Bach, J.S. “Credo” from “Messe in h-Moll”

1. Credo in unum Deum.

2. Patrem omnipotentem

4. Et incarnatus est

5. Crucifixus

6. Et resurrexit

8. Confiteor

9. Et expecto

オルガン:星野友紀


 この時代の音楽くらいまでは、デュナーミクで感情的に語ると、逆にアンサンブルがバラけてしまうというジレンマを抱えています。逆に言えば、個々の感情表現を抜きにして、音楽だけで語らなくてはならない。この点、いわゆる「心を込めて歌う」と違ったトレーニングが求められ、通常のアマチュア合唱団だと、何もできずに終わってしまうというのが常だったりします。

 この点、なんなら団員の一部がアマチュアとはいえないレベルにもあるこのやえ山組、表現において使うことのできる数少ないポイントをフルに使った素晴らしい演奏でした。早いパッセージの音階取り、多重子音の入れ方、追いかける旋律がどういう動きを以て入っていくか、そして、メロディの見せる自然な起伏――いずれも指揮者がコントロールしきれない音楽のイントネーションを表現していく点、団員ひとりひとりに備わった音楽性が、自然とこの曲を謳わせていくのだなと思いました。

 特に “Et resurrexit” は絶品。どちらかというと技巧的な曲であることは確かな一方、たしかに必要とされる技術的な歌い込みをしっかりこなしながら、表現すべき音楽を確かに鳴らしに行く。それは決して「取りに行く」だけの音楽とは対極をなす、生きた音楽のみせる姿でもありました。

 あえて言うなら、最初のボリュームが小さかった。ホントそれくらいです。


encore.

Bach, J.S. “Dona nobis pacem” Messe h-moll


 この曲であえて注目したいのが、最後の終止。一見あたりまえの音ではあるのですが、音の始まりから終わりまで、自然なピッチで、自然にハモって、それが当たり前に整っていてきれいというのは、当たり前のように思えて、意外とできていない団が多かったりします。整った音が当たり前に出せるということが、こんなに貴重な財産だったのかと、ハッとさせられる音響です。


2st.

Poulenc, Francis “Quatre motets pour un temps de pénitence”

ソロ:田村幸代


 何がすごいって、プーランクにして音に振り回されていないこと。「その先」が確実に見えてくる素晴らしい出来でした。特に1曲目の、緩急の音楽の切り替えが、目の前にしっかり見えてきた点、しかもそれを、技巧を優先して表現しているように見せず、自然にこうあるべきだ、という音楽をあるがまま表現しているのが何より印象的でした。

 否でも、あえていうなら、ベースがもっと張れるとよかったのかなとは思います。多分、ホールのせいなのですが、ベースの響きがホールに吸われてしまって、ベースが見せる独特な跳躍が見えてこず、結果として和声が隠れたという面も、一面にはあるような気もしています。

 とはいえ、アンサンブルの縦が、無理に揃えに行かずとも自然に合っている点、音楽の全体像を全員が(暗黙的にも)共有できている証なのだろうなと思います。

 そして、こういうプーランクだからこそ、前プロ後半という、比較的前半のプログラムでも苦なく聞いていけるのだと思いました。もっとも、このプログラム、この曲がハマるのはここくらいしかないので、この点、非常に緻密に組まれたプログラムともいえます。


インタミ15分。

前半が「洋の対極」的な 音楽を2つ並べたものだとしたら、後半は「和の対極」を2つ並べた音楽。……意識してたんですよね?笑


3st.

間宮芳生「合唱のためのコンポジションI」


 バランスの問題だとは思うのですが。

 作曲家をして「アカデミックな発声ではない表現の追求と、その実験の出発点」と評する、コンポジションシリーズの1曲目。そうであるからにして、「どれくらいアカデミックな発声を抑制するか」というのが、どうしても命題のひとつになります。そして、五線譜に書いてあるからして(でもって、結構協和音が鳴るからにして)、そのバランスは、簡単なようで案外難しい。常にがなっていればそれで成立するわけでもないですからね。

 個人的に、今日の演奏は「キレイすぎる」というのが結論です。特に女声は、もっと崩しに行けたような気がしています。前のステージからして、バッチリハモっていてとてもキレイだったのですが、そして、それも表現としてアリなのですが、この曲の答えが本当にそこにあったのだろうかというのは、少しばかり疑問が残ります。

 いわゆる「アカデミックではない発声」にしても、その表現の大半を「しゃくり」に依存しているようで、第3楽章あたりから、だんだん縦の揃い方が雑になっていったような気がします。この点、こういう日本的な表現の大半をソロに依存していたのもまた真実だったような気がします。

 この点、特にテナーソロは、信じられないくらいハマり役でした。さらに言うなら、この表現のあり方論も、「書くことないから難癖つけたんだろ」と言われてぐうの音もでないくらいには、全体の完成度高かったなぁとは思ってます。天邪鬼ですね、我ながら。


4st.

森田花央里「Song Circle “Japonism and Jazz” for mixed chorus and piano

ピアノ:森田花央里

マラカス:大野和仁


 コンチェルトよろしく、ピアノが最前にオーダー。否、コンチェルトでも、ピアノが指揮者より前に出ることってあんまりないか。指揮者が後ろに来るので、合唱団は人によっては指揮の見えないところにオーダーしていることも。よくやるなぁ笑

 編曲初演は東混。それ以来の「出版記念」再演。ピアノが作り出すジャズ的なグルーヴの中に、日本の歌謡がそのまま入り込む感じ。逆に言えば、日本語の歌曲・民謡が「いよっ!」と合わせに行っているところに、ジャズのグルーブを入れ込んで、結果一つにしている感じ。しかも、それが無意識に渾然一体としているのだから、聞き手としては驚くばかりです。最も、聞くに易し、歌うに難しというタイプの典型的な曲で、歌い手からしたら、ピアノを聞きすぎていると、何を歌っているのかわからず振り回されてしまいそうな曲です。

 とはいえ、この点、それぞれが確固たる音楽を持っているやえ山組の団員にしては、特段の障害にならなかったようです。象徴には、スウィングで聞かせる4曲目「鶴崎踊り」のフィンガースナップ。見た目だけの問題に限らず、スナップのタイミング以外、驚くほどバラバラ。それが、逆に、この曲の雰囲気を見事に作り出している。全員がバラバラに鳴らした音楽が、どこにたどり着くのかをよく見通した、アンサンブルの本質を見せられた素晴らしい演奏でした。

 もっとも、最後「八木節」のお手盛り感はちょっとなぁ笑 お祭り囃子そのままに、やりたい放題感が出ていること自体はいいものの、少しざわつきすぎていたような気がしないでもないです。……まぁいいか笑


encore. (with Ensemble Spicy)

三善晃「地球へのピクニック」(谷川俊太郎)


 このご時世、ジョイントして、この曲にたどり着くという事自体が、まこと大団円です。「ここでただいまを言い続けよう/おまえがお帰りなさいをくり返す間」という歌詞が、ここまで象徴的に響くなんて。まさにこの時期にふさわしいアンコールだったなぁと思います。全体的に音の出方が後押しでしたが、まぁ、そこはご愛嬌――。

 ああでも、アンサンブルのピッチが最後に行くにつれて下がらず寧ろ上がっていったのは、なかなか名古屋では見られない光景で、とても良かったなぁと思います笑


 最後は規制退場。あまりに皆さんなれてきたのか、終演しても誰も立たない。順応力すごいな笑


・まとめ

 「新しい日常」について心から考えさせられた演奏会でした。

 このコロナ禍において、合唱活動は、間違いなく「やりづらく」なりました。飛沫拡散防止を気にするために、少なくともオーダーは自由ではなくなり、感染対策の観点でマスクをするため(考え方は分かれるところですが)、子音処理のための口唇及び舌根の動作に少なからぬ障害が発生することとなりました。そして何より、この「合唱はコロナを拡散する」という噂。早くにクラスターが発生したことから、必ずしも間違いではないものの、他の活動と比べ不当に冷ややかな目線を受けていることもまた間違いではありません。

 なにより、合唱であるにしろないにしろ、「(仕事以外で)外へ出る」という事自体に、とても冷ややかな目線が向けられることとなりました。この点、私のようにそこらへんへでかけては合唱聞いてレビューを書くという奇特な趣味をしている人にとって、少なからぬ障害でもありました。ただでさえ演奏会が少なくなったところ、その演奏会に行くこと自体がはばかられる、そして、そのことが当たり前になってしまい、気付けば、演奏会情報を漁る回数が極端に減った私がいました。

 今や「合唱をやるな」という声は少なくなってきました。その一方で、当初言われていた「合唱をやるな」という強いメッセージが、今も私達の尾を精神的に引っ張っているのは、疑いようのない事実でもあります。


 でも、今日の演奏会を聞いて、私達(私だけかもしれない)、なにか、勘違いしているような気がしました。「新しい日常」というとき、アウトプットされるべきものは、あくまで「日常」です。それは、なにか、大きな敵の前に恐れおののき、ビクビクとかろうじてひょっこり顔を出すようなものではなく、私達がこれまでやっていたような、ガツガツと自己表現に耽り、そこに悲喜こもごも様々な感情を相混ぜにしながら、ときに笑い、ときに涙し、そしてともに拍手喝采する、そんなものであるのだと思います。

 確かに、社会的要請により行動の変容を求められる場面は以前より遥かに増えました。ただ一方で、私達が表現し、受容するもの、そのキャパシティは、なにも以前と変わってはいないはずなのです(体力は些か落ちたなぁと最近感じますが、たぶん歳のせいでしょう)。それなのに、「コロナ禍だから」という金科玉条に、私達はややもすると、甘えてしまっているのかもしれません。

 少なくとも、気概と態度については、かくあるべきというものを感じさせられました。なにせ、この演奏会、このやえ山組、コロナ禍の様々な演奏と比べて全く遜色のないものでした。プログラムも、複雑かつ難易度の高いもので、演奏の質も、個人の技量がこれでもかと反映されて、間違いなく高いものでした。もっとも、私がやえ山組を聞くのは今日がはじめての機会でしたが、そんなことどうだっていいくらい、今日のやえ山組は素晴らしい演奏を聞かせてくれました。

 間違いなく言えるのは、このコロナ禍、やえ山組は、できる限界ギリギリのことを無事にやってのけたということです。少なくともこの演奏を前にしては、演奏の質そのものに関しては、この後2週間の感染状況なんて「どうでもいい」(それとこれとは別の話です)。これが、やえ山組が私達に見せてくれた「新しい日常」の音楽です。


 なにより、こうやって、ひとつひとつの日常を限界まで取り返していくことで、私達は、前に進んでいくのだと、そんなことを、心から思いました。噂に聞く限り、今後、到底コロナ禍とは思えないプログラムを引っさげて演奏会を迎える団体が、これでもかと現れてくるようです。私ももっと、頑張らないとなと思いました。


 否しかし、開演前に「演奏後のブラボーはご遠慮ください」とアナウンスを入れていて、たしかにそのとおりでも、自分からいうのもなんかなぁ、と思わず失笑していたところ。まさか、本当にブラボーを必死に飲み込むことになりますとは。