おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2018年2月19日月曜日

【混声合唱団名古屋大学コール・グランツェ第40回記念定期演奏会】

2018年2月18日(日)於 豊田市コンサートホール

今日の夕食?
うにの海宝漬とサンマの開き。
それと津軽の酒「桃川」。
こんな日にカレーとか邪道←

ちなみに今日のパンフレット、ハウス食品からの提供でカレーの当たり券300人前が用意されていて、ちゃっかり当方当ててたりします。。。なんだか、ハウス食品×合唱×伊東先生というと、某イベント思い出しますね←

・ホールについて
名古屋から電車でちょいと乗ったところにある、豊田市駅前のホール。トヨスタの最寄駅ですね。豊田の玄関口となる駅で、さすが、駅前はその財力も相まって非常にキレイに整備されているのですが、名古屋へのアクセスの良さも相まってか、時間帯によってはとても静かなこともあります――否、どちらかというと、松坂屋に人が集まっているだけか笑
駅前にそびえ立つ複合ビル「参合館」の9階以上にあるこのホールは、実は非常に優秀なホール。荘厳なパイプオルガンの元に輝くシューボックスのステージが齎す響きは、本当に絶品。しっかりと鳴るし、それでいてかつ響きが上の方にすっと抜けていく。残響も人が入れど充実していて、クラシック聴く上ではこれ以上ないという程に優れたステージです。否本当に、日本一を争うレベルといっても過言ではないのだと思います。東混だったりキングズ・シンガーズが演奏会にこぞって利用するのも頷ける。まさに今注目のホールです。ちなみにその下には能楽堂。これもまた乙なもの。ちなみにこのホール、部屋によっては楽屋からトヨスタを拝むことができます笑
ホワイエもそこそこ広く使いやすい上に、このホール、実は音響も優秀。アナウンス、さらにはマイクパフォーマンスが今年もあったわけですが、それにしても、おそらく備え付けのスピーカーのみで十分対応していて、それも散ることなくしっかりとアンプの音が飛んでくるのもまた、使い勝手の良さに一役買っているところ。こうやって書いていると、まるで欠点がないように思えるけれど、本当に欠点がなくて困っているんだ……笑 なんだろう、敢えて言うなら、ビルの入り口からホールまでが延々とエスカレーターを登らなきゃいけなくて遠いことくらいかな?←

そんな優秀なホールのステージを、文字通りステージいっぱいに140人余り(!)が埋め尽くして開催された今回の演奏会。このところのグランツェステージにお馴染みの「合唱物語」(みなづき先生曰く)も待っているという、例によって盛りだくさんのプログラム。お陰で、アトラクいらずのこの合唱団笑
そんな人数なもので、入退場もサクサクと。さすが、全国をかねてより見続けてきただけはある――否、ただ、人数が多すぎて、これくらいしないと入り切らないだけか笑

・エール
小林秀雄「グランツェ それは愛」(峯陽)

さて、毎年この団はこの曲ですら演奏の仕方を定期的に変えてくる。その意欲の高さは、やはり賞賛に値するところ。今年は、割とオーソドックスに近く。しかし、中間パートではちゃんと弾みに来るところはお見事。ただ、その流れからすると、「グランツェ」の「ェ」がテヌートになっていたのは気になるかなあ。
あと、/i/母音が他の母音に比べて非常に狭く感じたのも気になるところ。もともと、喋る声のままにアンサンブルを聞かせる合唱団ですからねぇ。普通に喋ると平たくなるんですよ、/i/って。

第1ステージ
コンクール報告ステージ
面川倫一「まぶしい朝」(混声合唱とピアノのための組曲『自戒』より・吉原幸子)《G4》
Whitacre, E. "Leonardo Dreams of His Flying Machine"
指揮:伊東恵司
ピアノ:小見山純一

まずは、コンクール報告から。今年もコンクールでしっかりと金賞取ってまいりました。ご立派。しっかし、G4いい曲ですねぇ笑 うちの団、今年コンクール出てないし、県コンの日は表方やってたから全然演奏聴いてないしで、本当よくわからんかったですわ笑
そつのない演奏という点については疑義のないものだったと思います。でも、逆に言えば、それが玉に瑕ともなってしまうのが、このグランツェの演奏の大変なところ。否、非常に素晴らしい合唱だったんです。でも、ちょっとの無配慮が、物凄く重大なこととして聞こえてしまうのも、この合唱団の大変なところ。例えば、鼻濁音だったり、力ごと抜けていくディミヌエンドだったり。ちょっとばかし朝の景色が見えづらかったり、あるいは、やっぱり/i/母音が潰れがちに聞こえてしまったり。レオナルド、が、すごくカタカナに聞こえてしまったり。
全体として、「中間」の表現のあり方について、物凄く考えたい演奏でした。例えば、レオナルドも、最初の勢いはその人数の力を最大限使って、そりゃもううるさいくらいでしたけれども、でも、それだけでない表現が欲しい。母音にしたって、/i/と/u/、あるいは/e/や/o/寄りの音など、それだけで大まかに言って四種類出来る機微だったり、レオナルドの母音の選択は、この言葉にかぎらず、母音全体に渡ってもっと研究の余地がある。朝の風景とやらだってそう。記譜上のデュナーミク以上の何かにもっと突っ込むことが出来れば、あるいは、突っ込もうと意欲を持つことが出来れば。もっと凄味があったような気がする。
確かに、人数が多いと非常にやりづらい部分に対する訴求である。でも、逆に言えば、この団、音圧だけで訴求できるから強い。人数って、結局は、武器になるんですよね。正直。

第2ステージ
信長貴富・混声合唱組曲『ねがいごと』(木島始)
指揮:真野朱音
ピアノ:阿部夏己

でも逆に、その人数を、もっと有効活用すべきではあるんです。この曲が、まさにそう。
非常に奥行きを持った曲。響きの中に揺蕩う厄払いの、絶望の只中に感じる限りある永遠。そして、丸裸になるがむしゃらな祈り。それをすべて一直線の強音に頼って表現していては、決して深みのある表現とはならないのは自明的です。そう、逆に、大人数だから出来るピアノがある。もっと言えば、少し、詩に対するリアリティの持ち方が足りなかった。
大人数って、相互に依存しあうためにいるわけじゃないんですよね。物凄く一般的な言い方をすれば、個の力を集合させるためにある。どことなく、これだけの人数がいると、他の人がどうにかしてくれるという音を鳴らしてしまっている場所が、無意識のうちにも出てきてしまっている。それがとどのつまり、鼻濁音や、段々と埋もれてくる子音や、高くなるほど無防備に広がる/i/だったりする。
不用意な音というのは、それがなんであれ、その音に対して注意がいっていないことと同義です。その音に対してどういう態度で向き合うかというのを、常日頃から意識していられるか。細かい音であればあるほど、日頃からの何気ない、無意識的な配慮により支えられていると心得るべきでしょう。
そして、それは、積極的に表現していくべきところでも同じです。最後の「よろこび」へ向けられた壮大なカデンツは、内声がしっかり外声を支えにいかないといけない。そのとき、ちゃんと全員が同じ方向へ向かっていくクレッシェンドを出すことが出来たか。なによりも、どこへでも行けるというそこはかとない自由を表現したその箇所にあって、決して生半可なクレッシェンドではないわけです。否、レオナルドであそこまでのフォルテが出せたこの団だからこそ、それは、決してできなかったことなのではないのだと思います。

インタミ10分。体感、やっぱり短い。否、その理由もわかりました――若干、予ベル鳴らすの早いですよね?笑

第3ステージ・アラカルトステージ〜委嘱初演活動の軌跡〜
千原英喜「それはむかしの」(『うみ・そら、神話』より・みなづきみのり)
松本望「Tempestoso」(『天使のいる構図』より・谷川俊太郎)
相澤直人「チョコレート」(『小さな愛、4色』より・みなづきみのり)
髙嶋みどり「孤独」(『夢にこだまする』より・みなづきみのり)*
山下祐加「羽ばたけ、力の限り」(『夢見る翼の歌』より・みなづきみのり)*
信長貴富「リフレイン」(『等圧線』より・覚和歌子)
指揮:山崎浩、伊東恵司*
ピアノ:阿部夏己、小見山純一*

しかしまぁ、このステージもずるいもんだ笑 記念ということで、団長の司会のもとで繰り広げられるのは、のべ10年近く委嘱活動をし続けてきたその履歴を一堂に会するという、この団ならではの企画。その点ある意味では弊団でもやること自体はできるとかなんとか←
この団の委嘱の特徴として、途中から合唱物語をやり続けてきた関係もあり、非常にスケールの大きい作品が大きいことが上げられます。しかも、「天使のいる構図」や「リフレイン」など、通常の作品として発表されたものも、比較的スケールの大きい作品がやはり多い。人数が多いからこそなせた業か、あるいは、このような曲をやることによって人数が多くなっていったのか――思えば、10年前の頃より『蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩』を取り上げたときから、定まっていた運命なのかもしれません笑
なかでも、「Tempestoso」は突出して課題が出やすく、難しい曲。ちょっと、食いつきが悪かったり、メリハリの少なさが気になりました。特に、後者は顕著で、中間部にあるピアノの技巧の裏にあるパルランド的風景――様々な渇望を口々につぶやく箇所のつぶやきに、必然性が見られないのが非常に気になりました。漫然と喋ってしまっているような。それでは、表現とは言えない。
でも、「リフレイン」の最後の和音は、これ以上ないくらいに絶品の和音が、響きの良い豊田市コンサートホールに響き渡っていた。どちらかというと素直なテキスト・曲の多いステージという意味でも、非常にそつなくこなすことが出来たのではないでしょうか。

インタミ10分。そりゃ、どんなに難しい転換でも10分で済ませてしまうのは、さすがの実力ではあるのだけれども、やっぱり短いですよ、10分×2は笑

第4ステージ
相澤直人・混声合唱とピアノのための『僕らのカレークエスト』(みなづきみのり)《初演》
「カレー作りなら簡単さ」
「海は僕らを誘っている」
「カレーとライスが出会うまで」
「カレーライスには福神漬」
「甘いのが好きなの?」
「忘れられないあの味」
「おなかがすいたよ」
指揮:伊東恵司
ピアノ:水戸見弥子
演出:二口大学
朗読:広田ゆうみ

そして、このステージ。そう、なんだかんだ、卑近な感情って、扱いやすいんですよね。演奏家にとって。
とりあえず作品について。「美味しいカレー」とは何か、を、カレーの作り方、歴史、味付け、うんちくなどを通して探っていく一曲。なんというか、これだけはもう絶対に言っておきたいのだけれども、なんというか、こういう、少々積極臭いテキストには若干食傷気味といったところ――苦笑
でも、そんなテキストの中にあって、ぶち壊していくのが、そう、やっぱり、この人の力なのです。テキスト全体に、非常に幅広いトピックを扱っているのも事実。その幅広さを、幅広い音楽ジャンルからアプローチしていくことによって、見事、全体を引き締めつつも、バラエティ豊かで夢想の広がる世界を作り出している。当方明白に見つけたとは言わないのですが、プログラムノートだけを追っかけても、一つの主題を変奏してみたり、ミュージカルから典型的な合唱、ミクソリディア旋法と言ってみたりFFといってみたりDQと言ってみたり主に作曲家のスクエニ根性に塗れたその趣味が顕在化したり(ちなみに私は任天堂派です←)。歌だけでまるで、ひとつの壮大な物語を持っているストーリー。福神漬ではロックだし踊り出すし。ちなみにあれめっちゃ好き笑 そして、そんな無茶ぶり多種多様ぶりに対応できるのは、相澤先生と相伴する回数実に多い水戸見弥子先生ならではなんですよね。否本当にいいコンビですわ。
そう、それでも、扱っているのは、非常に卑近な感情なんです。ある意味どこにでもあるような身近な感情に、カレーのヒントを辿るもの。だから、とっても歌いやすいんですよね。でもある意味で怖いのは、とても紋切り型の表現となってしまう点。曲に助けられて勝手に表現がつくものだから、そこで、ちゃんと表現しきれていると勘違いしちゃうんですね。否、ある意味で、表現は出来ているんだけれども、何故か、いつまでも同じ音が鳴っているように錯覚してしまう。もうひとスパイスほしかったなぁ。――否、別に引っ掛けたわけじゃないですよ?笑
そう、この、ひとスパイスのヒントは、演技からも見て取ることは出来る。否、喋り方は、決して悪くない。そりゃ、プロの演出家がついていればそうもなる。問題は、その裏、立ち方。ただ突っ立つだけで、どれだけ演技できるか。共感してウンウン頷けというつもりもない。でも、そんな時に、非常口めがけて虚空を見ていても、それは又違う話。悲しい話に悲しい真顔、嬉しい話に嬉しい真顔。その少しの機微を表現できるか、そのひとりひとりの努力は、全体の画を少しだけ良くすることに寄与できるのではないかと思います。

アンコール
相澤直人「おかわりの歌」(みなづきみのり)《初演》
指揮:伊東恵司
ピアノ:水戸見弥子
松本望「Finale」(『天使のいる構図』より)
指揮:真野朱音
ピアノ:阿部夏己

1曲目は委嘱のアウトロ的な曲。すごく冷静に見てみたら、かなり難しいことやってる(主に声域)やっているはずなのに、そういうふうに歌うわけでもなく、勢いで歌いきってしまうのは、非常にいい意味で、若さ故というべきか。それでいて、非常に古典的かつ長大なカデンツ! 簡単に楽しめるけれども非常に奥の深い、委嘱組曲の魅力をそのまま凝縮したような佳曲。
そして、「140人を超える大所帯となってしまった(笑)」という悲痛な訴え(?)を残した正指揮社による、鬼畜系アンコール笑 アレかな、3ステ選曲過程で一回練習したのかな笑 大所帯になるとこういう無茶ぶり系アンコールが増える傾向にあります(当社調べ)。でもこれね、なんだかんだ一番いいんですよね。。。そこら辺、この団も学生団。アンコールになって、気持ちが乗っているのがよく分かる。そして、ひとりひとりにやっぱり思いがあって、時折涙が光るんです。どんなにコンクール強かろうと、大人数だろうと、どこもそれは、変わらない。

ロビーコール
北川昇「ここからはじまる」
「Ride the Chariot」
「グランツェ それは愛」

ってかね、なによりも、この人数でロビコ演るなんてだれも思わないじゃん? 普通に中で挨拶してたからね?笑
そんなに狭くないとはいっても、そんなに広くもないんだよ?笑 しかも、天井は間違いなく低いのに、胴上げなんてやっちゃうから爆 天井に手ついてるじゃないの笑

・まとめ

突然でなんなんですが、動画を紹介しますね。界隈では非常に有名な動画です。
バーバーショップでは知らない人がいないであろう名曲「Sound Celebration」を、基本4人からなるバーバーショップコーラスが同時にセッションするという演奏。言ってみれば全体合唱なのですが、ただ、いろいろな形態があるものの、基本は一人1パートからなるカルテットで構成されるバーバーショップ。したがって、オーダーはチームごとで、一人ひとりが独立して1パートが歌っているのが集合しているというのが、この動画における演奏の特徴です。
この動画、だから、何がスゴいかと言えば、一人ひとりがガッツリ歌っているものが、揃えると、非常にキレイに聞こえているという点。基本的に、自分たちのパートに自分たちが責任をもって歌って、それが、バッチリ揃う。それだけ、表現の方向性が統一されているし、しかも、自分たちが責任をもって表現している。だから、なんてことないピアノがとてもしっかりした音となって聞こえてくるし、フォルテの音圧だってものすごい。表現というでもなく推進力があって、きらびやかに駆け抜けていく。
どんな大人数であれ、合唱における表現ってこういうものでありたいんです。確かに、全体でひとつの表現を作るものではあるんですけれども、決して、それは、個がおろそかになるものではない。あくまで、ミクロの集合体がマクロとなる。その意識を、強く持って作品を作りたいのです。個がいなくなると、全体が破綻する。
その意味、今日の演奏会は、とても全体に向かっての配慮が行き届いたものではあったと思います。でも、それがあるべき姿なのかと言われると、私はそうとは思わない。もっと強い渇望のもとに表現していった、その結果が、アンサンブルとして渾然一体となり、私たちの前に現前する、そういうものであってほしいんです。
全員が全力で表現したものが一致して、ひとつの表現となって襲いかかる時、それは、単にひとつの表現として揃ったものより、遥かに強力に、そして、大きなものとなります。――否だって、揃うことができるんですもの。ひとつ、原点回帰に近いのだと思います。今日のテキストじゃないけど、カレーとおんなじ。短絡的なレシピを求めるのではなく、その原体験にある記憶を引っ張り出して、最高の歌を紡いでいく――なんだ、私も随分説教臭くなったものですね苦笑

2018年2月6日火曜日

【合唱団MIWO第33回演奏会】

《昭和の合唱曲たち》
2018年2月4日(日)於 三井住友海上しらかわホール

本当、難産だったよ……
なにがって、このレビューが笑
一部の人にはお待たせしました。日曜日は MIWO へ。言わずと知れた? 全国的に有名な合唱団ですね。1997年にコンクールを卒業してからもその名を轟かせてやまないこの団、今も積極的に課題曲を演奏し、そして、大谷研二先生や岩本達明先生のもと非常に幅広いジャンルを届けてやまない、なおも非常に積極的な活動を続ける合唱団です。昨今は自主公演を主軸に活動するものの、一方で、十分に合唱人に知れ渡るその知名度たるや、それだけ、この団の活動が、実力に裏付けられている証左と言えそうです。そんな MIWO が、昭和のいぶし銀の名曲たちを披露する、それも名古屋で。何もしないでも、注目の講演と相成りました。
さて、この日の朝はビラ込みの後、栄へ。三越の上にある「東洋軒」で美味しい洋食を戴いた後、演奏会へ。そして、名駅へ立ち寄り、帰宅したのでした。と書くと、なんだかどことなく優雅な雰囲気を漂わせているのですが、否、そんな話ではけっしてない。その間。ずっと、あるものを探し続けていたのでした。
何をって?

・ホールについて

しらかわって、本当に書くこと減ってきましたねぇ……笑 一時期のいずみホールより、よっぽど行っている、というか、書いているような笑 最近のトピックだとなんでしょう、自走式立体駐車場が隣に出来たことくらい?笑 でも曰く、路上パーキングの方が便利という人もいるので、なんとも言えんところ……。
ってそうそう、そういえば、最近の名古屋界隈だと、ホールの改修問題が大きな話題になっています。現在、愛知県芸術劇場が改修に入っているのを皮切りに、各地の文化小劇場も改修に入りはじめ、さらに御園座は建て替え、中日劇場も名鉄劇場も一般利用閉館とあって、市民会館やしらかわホールなど、まだ改修に入っていない名古屋市内のホールに人気が集中しているのです。はては、名古屋市外にも優秀なホールが多く出来上がってきましたが、それにしても、逆にそれが災い(?)して、もともと適切なホールの絶対数が多いわけではない愛知県では、熾烈なホール争いが繰り広げられています。そして、そんなしらかわホールも、芸文に入れ替わるようにして改修に入ります。ホールの規模こそ違うものの、名古屋地域のクラシック界において今や確固たる地位を占めるしらかわホールの改修。今後も、名古屋地域のクラシック界の受難の時は続きそうです。

入退場は、信じられないくらいにサクサクと。むしろ、女声が若干早足で歩いているといったところか。それくらいで、聴衆にとってはちょうどいい入場のテンポになります。

第1ステージ
大中恩・混声合唱曲「島よ」(伊藤海彦)
指揮:岩本達明
ピアノ:浅井道子

どの演奏会でもそうかもしれませんけれど、最初の一音で、結構その演奏会の出来って予想できる物があるんですよ。たといユニゾンだったとしても、その微妙なブレだったり、響き方のポイントだったり、あるいは、その先の最初のモティーフの強勢の作り方だったり、勿論、全部が全部ってわけじゃないんですけど、それだけで掴める情報っていっぱいあるので、その点、とても情報量の多い場所であるのは間違いないところ。
ともすると、この演奏会は、一番最初の弱勢での音の張り、これがその出来のすべてを物語っていたのです。「島よ」と重ね、曲全体の主題を呼び出す、重要な、しかし、なんてことないハーモニー。これが、とにかく絶品だった。弱音で入るとなると、どことなく音がへばってしまい、か細く聞こえてしまいがちなところ、細いんだけれどもしっかりと鳴っている。否、どこか遠くから聞こえてくるような立体感がある。小さいわけじゃない。後鳴りしているわけでもない。ピンとキレイに張っている、とても柔らかく、豊かな響きが、はるか遠くから島をみはるかして、内面へ向けて段々と近づいてくる、そんな遠近感を覚える。あっという間に、風景が変わっていくんですね。ホールよりも、ずっと広い場所にいるような気がする。青空が、白波が見えるような気がする。そんな情感が、豊かにしっかり伝わってくる。
技術的にも、弱音が鳴らせるというのが、最高の強みなんですよね。弱音がしっかり鳴らせるということは、強音もしっかり鳴らせるということでもある。弱音を鳴らせるだけのしっかりとした基礎に支えられた強勢だから、発声に無理ないフォルテが鳴る。だから、いつまでも、響いて、遠近感のある音が鳴っている。音に奥行きがあるんです。近くで鳴っている感じがしない。

第2ステージ
三善晃・混声合唱とピアノのための『動物詩集』(白石かずこ)
指揮:大谷研二
ピアノ:浅井道子

そして、そんなしっかりと力のある発声ができるから、こういうことをやると本当に軽い音を鳴らせる。まず何より、非常にいい意味で、音が軽い! そりゃもう、ネチネチと表現させたらいつまでもそうできるような曲ではあるし、実際に、女声を中心に非常に有声子音を伸ばし、ポルタメントを多用するネチっこい表現をすることになるものの、それが決して後に残らない。最初からしっかり鳴らせるから、後切れも非常にアッサリとしたアンサンブルになる。そして、そういう、いわばサバサバした表現だからこそ、どんなにガツガツ表現したとしても、おもったよりくどくならないし、残った時間を使って次へ向けてしっかり準備が出来る。
表現の許容範囲は、非常に柔軟性の高いものでありました。単に強い、弱い、というだけでもなく、十六分音符、八分音符、とかっちりハマっているわけでもない。それぞれの要素が音楽的に意味を持ち、生き生きとその含意を語りかけてくる。その意味を明示するかのように、整然と配置されている各要素を、意思を持って拾うから、記号が、実態を持って私たちに語りかけてくるものとなります。
例えば三連符で例えると、「当該箇所が三連符たる意味を知らずとも記号を追いかけることで、作曲家の意思に近づける」ではないんですよ。そんな表現について無責任なものではない。「ここの表現の意図を汲むために、この表現では十六分音符ではなく三連符が使われている」というような解釈が必要です。だから、ただの三連符以上の効果が、三連符の「向かう先」が分かる。それを実現するためには、文字通り、基礎体力が欠かせないんですよね。

インタミ20分。しらかわはホワイエが広いから、歓談するにも落ち合うのが大変だという話笑 最近だと、電波遮断装置も置いてあったりしますからね。

第3ステージ
柴田南雄・無伴奏混声合唱のための『優しき歌・第二』(立原道造)
指揮:岩本達明

お次は、表現の機微をまるごと音楽にしたような柴田南雄の佳曲。実験的な試みも臆することなく挑戦した柴田だからこそ、単なる和声に留まらない、独特な表現が光ります。その表現をしっかりと再現するためには、合唱団の各員が、その表現について十分理解し、共有しながらも、独立して表現していかないといけない。合わせて傍らで出しているだけでは、そもそも音にならない部分がありますからね。
音量を合わせようとして合わせるから、例えば三曲目はステレオ表現を合唱団で模すように出来ていますが、そういった表現ができるというわけではないんですよね。「出してから合わせる」という言い方は、しっかり出すことにこそ意味があるんです。しっかり自分自身で支持できる音が鳴らせるから、合わせた時に、十分なボリュームをもって聴き応えのある音が鳴らせる。特に、この曲、各パートが独立して歌う場所が存外に多い。すると、余計に各パートの責任は強いものになります。
前ステージで出てきた、素晴らしい弱音を出す能力と、表現の柔軟性は、まさにここで活きてきます。小さい音から大きい音まで幅広く出せて、それを使いこなすための幅は最大限保証されている。各パートに最大限表現の幅が保証されているから、パートが分散しても表現の幅が小さくならず、限りなく大きな表現も再現することが出来る。とどのつまり、自分で責任を持ってパートを表現するということでしょうか。合唱団全体の表現の前に、まずは自分たちの表現がある。響きを合わせるというより、響きが合っている。結果として、表現が一つに合っている。

第4ステージ
荻原英彦・混声合唱組曲『光る砂漠』(矢澤宰)
指揮:大谷研二
ピアノ:浅井道子

そして、これがねぇ、本当に良かった。それ以外の何者でもないんですよ。この叙情、一体どこから出てくるんでしょう。ただ、揺蕩う音の中に身を置いていたい感じ。なんだかね、決して、抜群に、すっげぇ!っていう演奏しているわけでもないんですよ。でも、悪くないのは勿論、寧ろ、飽きが来ないし、否、寧ろどんどん次が聴きたくなってくる。
音楽の基本はレガートだって某氏が仰ってまして。個人的には、その言葉を全面的に肯定するには至っていない。でも、なんだか、今回だけは、その言葉を信じても良いような気がしてくるんです。徹底的にレガートでつながれた美しい世界が現前する時、それは、まるで、印象派絵画を美術館で見ているような感情に近いんです。美しいものを美しいまま、作品の印象をそのまま絵にするのがそれだとして、それを見る時、対象が何であるか判然しない状態の中で、美しさの源流が何であるかを探して、それでも結局、美しいという一言に気付く、そんな感覚。その意味では、もう、何も言い難い美しさなんです。もしかしたら演奏のアラとかあったのかもしれないし、細かく聞けば多分場所が場所だけに見つかったような気がする。でも、そんなことどうでもいい。そこが主眼ではないんです、この音楽は。どちらかというと、出会ったことない感覚なのかもしれません。

・アンコール
荻原英彦「優しき歌・序の歌」
指揮:大谷研二
大中恩「ドロップスのうた」
指揮:岩本達明
ピアノ:浅井道子

否、もう、なんだか浮足立っちゃって、とても興奮した状態で演奏を聴いていたように思います。そして、演奏が終わって、久々に思いました。「終わってくれるな」と。否、でも、終わったら、とてもスッキリした気持ちにもなった――不思議な感覚でした。

・まとめ

ああ、いい音楽を聴いたなぁ!そんな思いにいっぱいになって外へ出ました。そして、何を書こう、と、思いながら、延々と引き伸ばしてしまい、今に至ります。
なんだかね、普段、中々こんな思いに至ることも少ないんです。ANIMAE と MODOKI のジョイントで得た印象とも又違う。ただ、よかった。もしかしたら、ちゃんと探したら、アラとか見つかってくるのかもしれませんけれども、なんだかもう、そんなのどうでもいい。ただただ、いい音楽を聴いた、そんな感想だけ純粋に持って、とてもさっぱりした気分になって終わっていった演奏会でした。
演奏会が終わると、良かれ悪かれ、あれ書こうとかこれ書こうとか、色々結構出てくるんですけれども、それが全然なかった。ただとにかく、総合して、いい音楽聴いたな、って気分で終わっていく。何の後腐れもなく。決して、印象が薄いわけじゃないんです。確かに、あのときの音というのを、今でも思い出すことが出来る。でも、生活の、記憶の中に、確かに残ってはいるものの、すっかり溶け込んで、まるで、昔から知っていたかのような気にさせられる。でも、この印象、これまでに持ったことのあるものではない。だから、とても不思議な感覚なんです。
なんだか、それでいいんだろうな、という気がしています。確かに、心の奥底に楔を打ち込むような激烈な音楽表現は確かに存在するし、その良さを否定するつもりはサラサラない。でも、生活の中に、まさに激情という言葉のよく合う昭和の合唱曲群の中にあって、表現の核心を、シンプルに、しかしこぼすことなく表現する時、それは結局、何ら私たちの生活と離れた音楽ではないのだと気付かされます。そんな、心のなかにすっと染み込んで、また、明日を生きる活力になり、そっと寄り添ってくれるような音楽。
難しいんですよね。だって、音楽って自己表現ですもん。でも、MIWO とて、その人達の表現が埋没しているわけでは決してない。否むしろ、なみいる上手な合唱団と呼ばれる中でもトップクラスに表現が強い団だと思います。そんな中で、決して後に引かないというのは、とどのつまり、自己表現と曲の表現をうまく一致できているからだと思います。曲の中に、うまく自分の感情をマッピング出来ているといえばいいでしょうか。独りよがりでもなく、矮小な自己表現でもない。中々出来ることではないことをやってのけるのは、MIWO がただ表現のために音楽を捧げている、その所以なのではないでしょうか。