おおよそだいたい、合唱のこと。

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主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2016年10月15日土曜日

【CANTUS ANIMAE+MODOKI ジョイントコンサート】

2016年10月15日(土)於 ふれあい福寿会館サラマンカホール

聞く前から名演
いやだってさ、東京と佐賀にある、全国随一の実力を誇る二つの団が、だよ? まさかよりにもよってこの岐阜の地で、ジョイントコンサートやりましょうって、普通に考えたら、誰が思う?
……曰く、二つの団の中間地点で自主企画でジョイントやろうとしたら、「クジ運が悪かった」らしいのですが笑 しかしその御蔭で、この話がサラマンカの担当者に伝わり、即断で、ホールとの共催が決定したということ。偶然が見せる僥倖。幸せなのは我々です。名古屋バンザイ!岐阜も名古屋の一部!
アニメは録音で聴いたことがあったのですが、MODOKI は実は、録音ですら聴いたことが無く。ザ・不勉強。しかし、それにしても、録音と実演って全然違いますからね。特に、このレベルの団になってくると、尚更。リハーサルも公開されていて、もはやレクチャーコンサートといったレベルで充実した時間だったようなのですが、しかし、今日は、本番にワクワクしたい、ということで、本番のみを聴くことにしました。それもまた一興、ということで。
この二つの団、もう、私がコメントするようなことではないですね。文吾さんの宣伝記事でもお読みください。そういえば、散々弊ブログの駄文を褒めちぎっていただいているのに、ついに今日もご挨拶できなかった。いつぞ叶うものやら。

ホールについて
岐阜の県庁近くにある公共施設「ふれあい福寿会館」の中に併設されています。今年のJCAワークショップの舞台ですね。どうも貸会議室等をやっているようなのですが、個人的には何をやっているかよくわからない← しかも、下の感想を書いた後でここを書いてるから、調べる気力も沸かない←
県庁が何かとアクセスの悪い場所にあり、しかし国道が近くに通っているため、ホールへのアクセスは、車が一番早いのが現状。アシのない人間は、岐阜駅からバス、あるいは隣の西岐阜駅から徒歩、ないしバスという状況。徒歩で行くと、西岐阜から20分です。一応、西岐阜が全部の列車止まるので問題がさほど重くならずに済んでいるのですが、今日みたいにJRがとまると中々悲惨なことになったりします。
しかし、そのホールは、サントリーホールやいずみホールと姉妹提携する程の実力のある素晴らしさ。ホールの名前のもととなった、スペイン・サラマンカ市にあった「鳴らずのオルガン」をベースとして作られたパイプオルガンを中心とし、同じくサラマンカ大聖堂・サラマンカ大学のものを模したホワイエのレリーフなど、その優美な意匠はさることながら、1階席と小さな2階席からなるホールの響きは、本当に優秀。残響時間も、響き方も、自然で、かつ潤沢な、日本の誇る名ホールです。これだけアクセス悪い中にあって(正直w)、世界中の名だたる演奏家がバンバン訪れる理由は、まさに必然ともいえるでしょう。

先ほど書いたとおり、今回は、ホール主催、団共催のイベント。「ぎふ秋の音楽祭2016《合唱の日》」のうちのひとつとして開催されました。先週は、児童合唱団の演奏会や、雨森先生のワークショップ、さらに今週の土日は、これの他、サラマンカでオーケストラとの共演による『筑後川』と『土の歌』の演奏会や、岐阜県美術館での演奏会が予定されています。明日、この2団は、岐阜県美術館で演奏。贅沢なハーモニーが、岐阜の地で響きわたる二週間も、惜しまれつつ終わりを告げようとしています。
曲の前には各指揮者のトークを挟みながら。2011年3月13日 in 東京(!)以来のジョイントとのこと。その他、曲についてあれやこれや。それはそれで、非常に心意気の入った素晴らしいご挨拶だったのですが、でも、なんだか、それも書くのが惜しいくらい。なぜかって。演奏が。

第1ステージ
三善晃・混声合唱曲『嫁ぐ娘に』(高田敏子)
演奏:MODOKI
指揮:山本啓之

もうまずね、この演奏ですべてやられた。ちょっと、目の前で鳴っている音が信じられないくらいに。
なんというかね、完璧だったんです。色々考えながら聴いていたんですよ。悪く言えばあら捜し。こう、しっかり整った演奏は安全牌をとりすぎて表現が薄かったりだとか、表現がガツガツしている演奏は、逆に、細かいところで荒れた表現に鳴ってしまうだとか。この、どっちだろうな、とか、ヨコシマなこと考えとりました。――杞憂だった。否、邪険だった、横着だった。もう、ひれ伏してしまいたくなるくらいにカンペキな『嫁ぐ娘に』が目の前で鳴っていた。間違いなく、これまで聴いてきた中で一番良かった。
個人の声量は確かに豊かで、しっかり鳴っているんだけれども、それらの音がしっかりパートとしてまとまっていて、ひとつの音として鳴っている。ひとつの合唱団の、「MODOKI」の音だ、っていって鳴っている。それなのに、表現は決してオーバーにならずに、しかし、非常に繊細なダイナミックレンジが、表現の幅をぐっと豊かにする。メゾフォルテ程度の強さと、フォルテの強さが、かくも繊細に歌いわけられ、そして、歌い上げるところで歌い上げながらも、わざとらしく鳴らない程度に、さもナチュラルにピアノが囁く。フレーズの扱い方が抜群に上手いながらも、縦のハーモニーだってピチッと揃う。テンポの歯切れだって、十分すぎる。
楽譜にかかれている以上の音が鳴っていたのだと思います。――否、楽譜が「要求している」音を鳴らしていたというべきか。心の底から歌っている。この難曲を、おのがものとして。あえて書いちゃうんですが、今日イチの演奏は、これだったと思ってます。本当に心奪われました。

第2ステージ
森田花央里「石像の歌」(リルケ、森田花央里・訳詞)
松本望『二つの祈りの音楽』〜混声合唱とピアノ連弾のための〜《改訂版初演》(宗左近)*
演奏:CANTUS ANIMAE
指揮:雨森文也
ピアノ:野間春美*(pr.)、平林知子(sec.)

第1ステージがこんな調子です。――こんな調子の音楽と比べられる身は大変なもんです笑 天下のアニメ様の演奏をしてなお、批評できるところを産んでしまう。だから後攻は怖いんだ笑
なにがって、若干息漏れが多かったっていう、その点なんですよね。特にピアノでは顕著に。森田作品の最初が弱音で始まるものだから、余計にそれが目立ってしまった。で、雨森文也の指揮は、息で合わせる演奏を求める。山本先生の棒よりは、どうしても、精緻さという意味ではズレがある(好みですけどね、これは。それだけ山本先生の棒に惚れ込んでしまったわけですが笑)。
でも、雨森サウンドの、否、アニメの魅力は、その、息で合わせる表現にある。弱音に始まり、徐々に強勢を増していくその音楽に、旋律に、平行三度の進行に、和声に、どんどんと引きずり込まれていく。気付いたら、傾聴のまま、演奏が終わっている。マジックですよ、これは。雨森マジック。
『二つの祈りの音楽』は、今年のアニメのコンクール曲。絶望的な人の死に対する死者の地の底からの呻き、そして、それが昇華され、浄化された祈り。畳み掛けるような旋法と、あまりに上品な和声が、ホールの中に溶け込んで、響きをして我々を包む。超大曲にして、超名曲です。演奏中、涙する団員の姿も。わかる。すごくわかる。曰く、松本望が自分で泣いてたとか。わかる。すごくわかる。
で、この曲も、やっぱりそうなんです。ハマった瞬間のピッチの良さはさることながら、何度もズレそうになりながらも、それでも、宗左近のこのテキストを死ぬ気で表現しにかかる、表現力というより、もう、心意気が、絶品、否、聴き応え。心がそのまま音楽になっている。その点、音楽じゃない。これは、心そのものなのだと思いました。心の先に、声があり、声の合わさる先に、ハーモニーがある。比喩的? いやいや、本当に、「結果合ってる」っていう音がするんです。ハメるのは、後。少なくとも、そう聞こえる。

インタミ。時間不明笑 本当に、アナウンスすらありませんでした……w
皆疑心暗鬼になる中で、どこか、演奏会が終わったかのような充実感で満たされている。ああ、こんなインタミに、ラウンジが空いていたらよかったのに……!笑
以降、合同演奏。もう、各団の演奏だけでお腹いっぱいですが(最後が『二つの祈りの音楽』だから余計に……笑)、そりゃ、ジョイントですからね。合唱祭とかコンクールとか、そういうのじゃないので笑

第3ステージ
マルタン『二重合唱のためのミサ曲』
指揮:山本啓之

この二つの団、よく歌える(そりゃ、全国イチニを争うクラスだし……)だけでなくて、キャラクターも非常に近いんですよね。だから、この二つの団がジョイントしたら、当然、素晴らしい音が鳴るのは約束されているわけです。その中でのこの曲。編成の大きい曲の割には、なにかと名前を聞くこの曲。なんだか、ESTと京都バッハがやっていたというそれだけの理由で、最近流行りなんじゃないかな、と思わされる←
これだけの団が人数にして112人にもなれば、そりゃ、充実のダブルコーラスとなるわけです。一貫して、二群目の女声の音量が相対的にもう少し欲しかったかも? 否々、それにしても、全体の表現の深さはそのままに、それが、ハマり方としても、心意気としても深められていく。あくまでテキストが故だと思っているのですが、なにかと単調になりがちなミサ曲にして、演奏会において十分な存在感を持つ仕上がりになっていたんじゃないかと思います。美しい、だけじゃ終わらないこのミサ。演奏会におけるミサ曲の役割は、実際の典礼とは少し異なるものといって差し支えないと思います。でも実際、これだけ鳴らして、音を楽しむことの出来るミサを聴いていると、ミサに対する向き合い方について考えられる。今回のベネディクトゥスで、「オザンナ」の聴き方が、少しわかったような気がします。
間違いなく超大作のクセして、すごく今日のものはアッサリ聴くことが出来たように思います。否、たしかに重かったですが、それでも、しっかりと、音として楽しむことの出来る構成に仕上がっていたのが何よりか。ハーモニーと表現のバランスがとてもよかったように思います。もう、なんとなく、でしか書けないのですが笑

第4ステージ
三善晃・混声合唱と2台のピアノのための交聲詩『海』(宗左近)
指揮:雨森文也
ピアノ:野間春美(pr.)、平林知子(sec.)

そして、今日の双頭のもう一つ。さっき、『嫁ぐ娘に』が今日イチって書いたじゃないですか。
……この『海』、めっちゃよかったぁ……笑
すっごく遅いテンポではじまって、ゆっくりとはじまったこの曲が、段々とエネルギーをためていって、海の誕生から、生命の息吹をまとい、弾みながら、弾まされながら、どこまでも、命、響いていく。結集されたエネルギーが、発散されて、そして、ホールを歌わせて、命を震わせて、アタッカで入った3曲目の、平林先生の恐ろしい眼光の先に蠢くセコンド、そして、スタインウェイのハンマーノイズを黙らせ、天才的なレガートでつなぐ野間先生のプリモ、そして、堂々と命の讃歌を歌い上げる合唱団、ホール。最後カデンツの先に鳴らされる C、そして C dur。この名演にしてブラボーを飛ばすことすら許されない、支配的かつ最大限の緊張感を以て迎えられ、おそらく5秒と続いたであろう、残響。
……もう、何を書いたら良いんですか! 普段からメモとか色々書いているから、コレだけダラダラ書けるんですけど、感動しすぎて、今回、この曲から演奏メモがないですからね!!w 手元に道具がないなかで、感動を垂れ流すしかないんですよ! 惨めですよ、惨め!←
否そりゃ、冷静になれば、色々書けないこともないんですよ。2曲目は特に改善のし甲斐があると思います。弾みながら/弾まされながらの部分は若干縦がズレたし、対して、2曲目の終わり(3曲目アタマだっけ?)も、女声がもっと鋭く入ってきて欲しい。3曲目の「夢の炎の炎の花」だって、提示されたテンポについていききれない感じあったし、最後の C dur は突き詰めればもっと揃う。特に第5音。でもさ、もう良いじゃん! こんなこと書きたくないのホントは(書いちゃったよ!←)! 感動したんだから、それでいいじゃん! あえていうならさ、すぐ山本先生を喋らせないで、もっと長い時間拍手させてくださいよ先生!笑

第5ステージ
三善晃・混声合唱と2台のピアノのための「であい」
指揮;山本啓之
ピアノ:平林知子(pr.)、野間春美(sec.)

興奮冷めやらない中でのこの演奏。否、この曲の最初のアカペラがアイスブレイクになるなんで、誰が思った?笑
でもねぇ、この曲、とうか、三善晃の作詩の曲って、本当に優しいながらも、深いこと書いてるんですよ。『遠方より無へ』の頃は難しい言葉で深いこと書いてたんですけどね……笑 「ここでであいましたね」にはじまり、「さよならは 別れではないのですね」「さよならは あしたへの声」へと繋がっていくこの曲。心地よいレガートが、火照った身体にちょうどいい。そして、観客をしてすら、このハーモニーとしばらくさよならしなければならないことに、後ろ髪を引かれる。

en.
arr. 三善晃「夕焼け小焼け」(『唱歌の四季』)
指揮:雨森文也
ピアノ:野間春美(pr.)、平林知子(sec.)

雨森先生の言葉を借りれば「もう、何も喋らない方がいいですネ!」なのですが(なお、この後結構喋っていた模様←)。
この曲、テナーがガチャガチャ動くから、結構浮くことが多いんですが、女声が非常に頑張っていたんですね。段々と主旋律が埋没していって、和声で聴くカデンツのような何かになってしまう演奏って正直少なくないと思うのですが笑、この演奏、メロディがしっかり主役を守り抜いていた。一方で、最後の hi C にもっと存在感が欲しかったなというのが、最後の最後に心残り。

とはいえ、最初から最後まで名演。合唱団が全員捌け、指揮者二人が長い礼をする間も、二人が捌けても暫く鳴り止まない拍手が、この演奏会を何より象徴していました。
帰りは、徒歩で西岐阜へ。国道21号線をまっすぐ照らす夕焼が、演奏をリフレインするように非常に美しかった。……逆光で、大垣方面に走らせる人にとっては絶望的だったのでしょうが笑

・まとめ
以前、「良いものを評価するのは難しい」などと難癖をつけて、詩的なレビューを付け始めた時期がありました。その当時、割と評価が低くなかったことから勝手に気をよくし、その後、プロ・プロ相当の演奏会にはこのタイプのレビューを付け続け、今に至ります。別に勝手にやっているだけのブログでこそあれ、あの記事はその意味で、このブログでは割と大きな変節点であったように思います。
書いていることに嘘偽りはなく、実際、いつだって全力投球でやっているわけなのですが、正直、あの手のレビューは、いってみりゃ「逃げ」みたいなものなんだと思ってます。それっぽく書けば、正面から対峙するのを避けることもできるので(だから、プロ限定、などと面倒くさいことをやっています)。
今日の演奏会が終わったとき、真っ先に浮かんだのは、「何書こう?」でした。否、変な義務感というよりは、この演奏会に投げかける言葉は、どんな言葉が適切なのだろう、と。よく言われる、「あの演奏会、どうだった?」という話、適当に「よかったよ」と言っておけば、そりゃ、会話は成立するのかもしれませんが、しかし、それだけじゃ伝わらない大きな感動が目の前にあるとき。それを伝えるのに、「よかった」という言葉がどれだけ弱いことか。
ブログ書く人だけに留まらないし、大きな話をすれば、合唱を聴く人だけに留まらない。良かったものを、どう良かったと表現するか。反射的な怒りや、批判、不平不満が目立つこの時代、このコミュニケーション環境にあって、好評や賞賛は、ますます伝わりづらくある。表立つ批判に晒されて、絶大な評価を得ていたものが潰えることだってある。言葉を尽くして褒める、評価するということは、決して、相手に媚びることではなく、好きなものを守る行動なのだと思います。

とはいえ、僭越ながら言葉を尽くした今、ひとつ、この言葉で逃げさせてください。もう、こうとしか言えないんです。
今日の演奏会、最高でした。