おおよそだいたい、合唱のこと。

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ゆっくりしていってね!!!

2023年7月23日日曜日

【あふみヴォーカルアンサンブル第9回演奏会】

〜創立25周年記念 古へのイタリア〜

2023年7月23日(日)於 米原市民交流プラザ(ルッチプラザ)・ベルホール310


・メシーコール

「ばがぼんど」日曜限定ランチ(米原市ルッチプラザ内)


 さて本日、クルマを走らせてやってまいりました。それも節約(?)で下道を走ってまいりまして、なにやら岐阜県庁前だったり関ヶ原だったり伊吹山だったりと誘惑が多い中(しかし、伊吹山近くでも30度超えとは……)、せっかく滋賀なので滋賀のどこかで……!と尽く我慢のドライブ。こういうときこそ逆に、名古屋にでもある吉野家とか、ゆで太郎とか、入りたくなるんですよね(笑)

 しかし、ここは天下分け目の近江長岡(?)、そういえば、以前も思ったんです、楽市楽座の安土桃山は今や遠き日の話であることを……(若干失礼)、そんなわけで、しかもクルマで、通り道で入れる滋賀県内ホール至近の店というのを見つけられぬまま駐車場に入り、結局、昼食抜きの覚悟でホールin。そう、開けた旧街道、滋賀の盆地は暑いのです。

 でも、米原市は良かった。公共施設に、まだ食堂の入る余地を許していました。此度、見つけたこのお店。まさに、ホール内食堂。何かと管理が大変なようで、このところあまりお見かけすることのなくなってきた施設です。大きく開けたフランス窓の、あたかもテラス席のような店内。そこでいただく日曜限定ランチ(どうやら最後だったようです)のメインは、とうもろこし天ぷらの和定食。赤だしにイカの和え物、さつま揚げ、もずくときゅうりの酢の物に、別のお客さんと店員さんとの話に曰く、この辺で採れたお米。

 そう、なんだか世の中がザワツキ始めてい るなか、このところに珍しく、1週間に3日のペースで飲み会が入った当方(否少ないのでしょうが笑)、なんだか荒れる内蔵に優しい、沁み入る味。なんだか体が求めている味を無事に摂取し、ホールへと吸い込まれていくのでした……。


 そんなわけで、帰りがけは大垣にて筆を執っております。土地勘がバグる!笑

 さて、当方3回目の「あふみ」の演奏会。とはいえ、一昨年は配信だったので、今回が2回目のような気分です。だから余計に気づかなかったんですが、今回の会場、前回と一緒なんですね……!2年越しの邂逅!

 今回、営業を頂戴して伺いました……と、ここで、わたべは普段から「営業は受けぬ」と言っているではないか、という声が聞こえてきます。ええ、そのとおりです。営業を受けても断るときは断ります。でも今回のプログラム、最初聴いたときからビビッと来るわけですよ。ここで、その営業を頂戴した際のわたべのコメントをば。


「以前コロナでブッチしてしまってる経緯からしても、あと、なんかこう、この時代を300年くらい間違えた感じのプログラムからしても、いかないと……!笑」


 まさに、某有名合唱ブロガー様のご意見(曰く「演奏曲アピールはファンサ」)、当意を得たり!笑 そうです、近江長岡は歴史の街、今日はクルマで関ヶ原を超えてきたことからしましても、恐らくは、合戦の世まで遡っての演奏会参加であります。国も違うけど。いいか、南蛮文化ってことで(適当)


・ホールについて

 実はすでに体感していたはずのこのホール、でも、とてもそうとは思えない……やはり、ライブはライブで聞かないと(笑)

 近江長岡駅から徒歩10分。そういった意味では駅チカなホールです。先程来申しているとおり、今回、クルマで行ったので駅前感をなかなか感じぬままホールに入りました。といったものの、来し方を地図で振り返ってみると、意外と駅チカを走っていたようです。おそらくこの駅、かなり古い「駅前」ともいえるようで、最後は古くから栄えた長岡の町並みを駆けるような感じと相成りました。この一週間後には、目の前にバイパスが開通するようで、おそらくクルマでのアクセスも良くなるんじゃないかなと思います。駅前通りは普通車でも十分狭く感じるレベルでしたし。

 貸室にとどまらず、健康診断や予防接種、キッズエリアに健康教室も開催する多目的施設の中にある目玉のホール。そういう意味では、どこかOKBふれあい会館を彷彿とさせます。内装も、サラマンカホールほどガッツリとクラシックホールではないものの、質素ながらシューボックス型のステージを備えており、音楽から講演会まで幅広く対応できそうなホールです。ちなみに名前のとおり、フルキャパで310席(固定席のみ)のようです。

 響きとしては、豪奢でもなく、質素に確かに響く感じ。個人的に一番好きな響きです。特に今日のプログラムを見ている限りでも、あまり残響が鳴りすぎると、少しくどく感じてしまうかなというのが正直なところで、その意味でも、とても安心できるホールです。個人的感触としては、あんまりないんですけど、どうも滋賀県にはこういう名ホールが多いような気がします。びわ湖ホールを筆頭に、文化施設に恵まれた、いいところです、滋賀県。


 本日、配信もしていたということで、結構ガッツリと収録を入れていました。吊りマイクにとどまらず、舞台正面にマイクを立ててステレオで、さらに特徴的なのは、上手・下手にひとつずつバウンダリーマイク。決して経験が多いわけでもないのですが、バウンダリーマイクの配置は、なかなか珍しい録音セットかも?


 で、今日の演奏会、曲目からしても2時間程度の標準的な長さの演奏会なわけですが、あふみ名物といえば、アンサンブルトレーナー・石原祐介先生がコンサートナビゲーターとなり行われる演奏曲目解説(本人曰く「つなぎ」)! オープニングトークに、着替えの合間に、楽器セッティングにと、ありとあらゆる幕間に登場し、演奏曲目について喋り倒していただけます。これがまた、もちろんアンサンブルトレーナーをなさっているからとはいえるものの、原稿もなしに延々楽曲について語りまくる。以前は講義形式にスライドまで用意されていたりしましたが、今日はトーク一本。もう、このトークを聞くこともふくめて、という意味では、時間以上の充実感を見せてくれるものです。以下に記載の楽曲背景なんかも、プログラムと合わせて、ほぼ追加取材ナシで乗り切れるくらいには、内容が充実しています笑


◆イタリアのマドリガーレ集◆

Arcadelt, Jacques "Il bianco e dolce cigno"

Rore, Cipriano de "Ancor che col partire"

Ferrabosco, Domenico Maria "Io mi son giovinetta"

Marenzio, Luca "Zefiro torma e'l bel tempo rimena"


 いわゆる世俗曲ではあるものの、どれも16世紀の曲ということで、未だ教会音楽の範疇からは抜けきれず、その中で、修辞法を存分に駆使して多様な表現を生み出してきた音楽たち。そういう意味にあっては、ルネサンスの萌芽ともいえる時代背景にある音楽ということで、古楽にやたら強いあふみの得意とする音楽ともいえます。

 この時代の音楽、ひらたく言えばtuttiで合わせて直接的に和声を鳴らすことがまだまだ少ない。その点、どの音楽においても、近世以降のそれ以上に、各パート、各歌い手が積極的に音楽を作っていくことが求められます。調性こそあれ、和声学が十分に発展していなかった時代の音楽ということで、必ずしも和声のチカラを借りることができず、だからこそ、旋律それ自体の流れを直接的に表現しないと、音楽そのものが停滞してしまう時代に合ったと言い換えて差し支えないでしょうか。

 何が言いたいかというと、あふみの団員は、そういう時代の音楽をやることに以前から非常に慣れているということです。この団に邂逅した当初から書き続けていますが、本当に、どの歌い手も、自分たちで音楽を作っていくことを本当に心得ているから、本当に自然に、生きた音楽が出来上がっていく。その中で、先述の、修辞的な旋律で、自然体に狙いに行っている様子も、逆にちゃんと見えてくる。

 音楽のベースが、音そのものでなく、旋律の流れにあることがはっきりわかる。バチっと倍音が実音として鳴るような音楽ではないけれども、たしかに響いたセッションができている、その様子が、少々のゆらぎを覚えつつも、心から安心できる終止音形を生み出しています。アタマで合わせるというより、カラダで合わせているその感じが、この音楽を聴衆に染み渡らせます。

 とはいえ、だからこそ、最後の曲はコーダで少し力みすぎていたような。流れの中のベクトル、というのが最後の最後に失われてしまったような気がします。まぁ、これも綻びということで……?笑


◆パレストリーナ モテット集◆

Palestrina, Giovanni Pierluigi da

"Veni sponsa Christi"

"Ego sum panis vivus"

"Super flumina Babylonis"

"Loquebantur variis linguis"


 おなじみパレストリーナ。これまた、楽譜にすると難しく、しかし、合わせていく中で、音の流れを掴んでいくような曲です。当たり前のようにコンクールの課題曲としても取り上げられることが多いわけですが、ことそのような場面だと(余計に)タテを合わせなきゃ、という意識、しかもその合わさるタテがバリエーションとしてもメチャクチャ多く、なにが見られてるか分からないとばかり疑心暗鬼になりながら調整していくわけですが(こう書くと碌でもないな笑)、石原先生に曰く(実はこのステージの解説ではなかったのですが)、「音のゆらぎを楽しむ」音楽とも言える由。指揮者もいない中で合わせてきた、旋律の模倣を主とする音楽にあって、その過程におけるアンサンブルは、タテの微妙な揺らぎは、それすら新しい音楽を生み出す要素となる云々。

 まさに、その実例が、この団の音楽にあるとも言えそうな気がしています。特に着目したいのは、内声の堅実な動き。放っておいても目立つ外声と違い()、内声がしっかりと旋律を生み出さないと、特に内声をよく動かすパレストリーナの音楽は、非常に空虚なものになってしまうような気がします。この点、あふみの音楽は、非常にパートバランスが「ちょうどいい」。なにか、細かいことをこねくり回すような、あそこではあのパートが大きく、とか、このパートは控えて、とか、そういうったことではなく、先程の「カラダで合わせる」アンサンブルに徹した、非常に自然なバランスに収斂していく音楽の感じ。この音楽の自然な着地点がどこであるかを、すべての団員が心得て音楽をしているのが、本当によくわかる。なるほど、これがパレストリーナの音楽なのか、と膝を叩くような思いです。

 とはいえ、さすがに人数的な制約というのもあるのかな、というのが、この演奏。あふみ、男声は各パート1名ずつ。もっとも、このお二人は知る人ぞ知るガチガチの歌い手ということで、演奏については申し分ないのですが、いかんせん、パレストリーナの旋律は一人で歌うには長すぎるのです……笑


◆ナポリ民謡集◆

arr. Przemyslaw Scheller "O sole mio"

arr. 増田順平

「海に来たれ」

「遥かなるサンタルチア」

arr. 堀内貴晃「フニクリ・フニクラ」


 さて、時代を300年くらい遡った、という表現をしていましたが、どうも少々認識としては違っていたようで、先生に曰く、一番新しい曲で1900年代のものがあるようです。その点、実は100年くらいしか遡っていないようにも思えますが、それでも戦前、ギリギリ帝国主義が台頭するかどうか、しかもシチリアでもマフィアが出てくるかどうかといった中にあって、「古へのイタリア」を表現しているという意味では、時代感覚を同じくしているのかもしれません。こじつけ?

 ともあれ、主催のナンバリング演奏会では一切緩むことのないプログラムが顕著なあふみにおいては比較珍しい(気がする)緩徐ステージ。しかしながら、内容はしっかり「古へのイタリア」を標榜するに余りあるプログラム。いやはや、お見事。

 肝心な演奏は、それ自体往時のポップスということもあり、軽やかに、しかしあふみの長所である十分なフレージングを武器にして、正反を紫に染めたビジュアルとともに、ナポリの叙情を歌い上げます。そうなんです、この団、身構えることのないフレージングが魅力であるからして、こういう曲を歌わせても本当に自然に、叙情を歌い上げられるんです。マンマミーア!

 一転、正反を赤に染め上げ歌われた「フニクリ・フニクラ」はその点、この演奏会で一番のポップス曲。ヴェスピオ火山登山鉄道「フニコラーレ」の集客のためのコミックソング。そのことを踏まえると、横の流れに秀逸なあふみといえど、もう少しタテにマルカートを作ったほうが良かったような気がしました。しかしまぁ、この曲を良くも指揮者なしでここまで合わせますこと……笑


インタミ15分。

とはいえ、予ベルが5分前に鳴ると石原先生が出てくる仕様のため、実質10分休憩でした笑


◆イタリアバロックの宗教音楽◆

Lotti, Antonio "Miserere in sol minore"


 バッハと同時代の作曲家たちを揃えた後半。1曲目はそんな時代にして12分の大曲です。しかもプログラムをして「正式な出版がないと思われる」なんて書いてしまう。ホント、この団の選曲はどうなってるんだ、探してくる側も、それを承認する側も笑

 さて、未だ楽典が成立を見るかどうかという時代ともあって、パレストリーナにおける模倣の延長で、ほぼほぼ一本の表現で世界観を描き通しているわけですが、その中におけるわずかな書法・表現の差を、あふみは見事に描き分けてしまいます。さすが、この時代の音楽に馴染んでいるだけあって、その微妙な差にあっても、おそらく野性的に、機敏に感知して、「あんまり気にせずに」無意識に表現していきます。もちろん、その努力の跡は、テンポや音色の変化の中に見られるわけですが、考えても見れば、指揮者もナシにここまで機動的に変えられるのは、団員に内在する音楽性、あるいは、団員に音楽を内在させてしまうそのリハーサルにあるとも言えそうです。何も力むことなく、時代を飛び越えた音楽を文字通り表現してしまうのは、この合唱団ならではの魅力といって余りあるものです。「阿吽の呼吸であってくる、微妙なズレが和音に貢献する」、そんな音楽史的背景を持つ同曲を見事に言い当てるあふみのアンサンブルです。


Durante, Francis "Magnificat in Si bemolle maggiore"

バロックチェロ:上田康雄

チェンバロ:吉田祐香


 そしてこの団ならではの大団円。バッハと同時代といわれども、そのマニアックな選曲もさることながら、この編成の特異さは、相も変わらぬあふみの名物というに余りあるものです。個人的に聴いた中でも、チェンバロ(第6回)、ヴィオラ・ダ・ガンバとポジティフオルガン(第8回)という編成、今回はさすがに慣れてきた感じがします。バロックチェロなんて聴いたことないはずなのに←

 そういう意味では、この編成で音楽を聴けたというだけで十分大団円なのですが、解説に曰く「器楽の発達に伴うアーティキュレーションの進展に伴い、歌と器楽がお互いに表現を借用し合う関係性」というのも相まってか、編成以上に本当に華やかなステージです。そりゃ、これまですべて少人数アカペラで歌いきっているというのもあるのかもしれませんが、否、それ以上といっていいでしょう、華やかなトリルやアルペジオ的な旋律が、まるでオーケストラを聴いているような、豪華な音像を見せてくれました。伴奏として入っている楽器の貢献もあるのでしょうか。演奏技術もさることながら、いずれの楽器も、古楽でありながら非常に開放的な響きを持つ楽器で、それが音楽にさらなる広がりを見せているようでした。そういった意味では、時代とともに表現も進歩し、400年前の音楽にまるで未来を見るようなワクワク感をもたらしてくれ、演奏会自体も見事な大団円。


・アンコール

「琵琶湖周航の歌」

 そういった意味で、毎度おなじみの音楽で締めるというのも、逆に演奏会としての締りをもたらしてくれるというものです。今回はバロックチェロも旋律に加わります。ともすれば、まるで宮沢賢治の世界観……なんて。


 ロビーでの御挨拶も復活。それを尻目にそそくさと(営業を持ちかけた方に挨拶もせず)失礼し、一路帰路につくのでした……あ、途中で給油しているのはナイショ←


・まとめ

 アンコール前に団長さんが仰っていました「私達はアマチュアだから、この演奏を作り上げるのに時間がかかる――そのことを逆手に捉えて、アマチュアだから時間がかけられると捉えている」という言葉を反芻しています。

 これだけ時代背景も、その時代背景の中における楽曲たちの立ち位置も豊かなものばかりのステージ。何かと頭でっかちになって中身が伴わないか、あるいはその逆、時代のことを考えずにただひたすら音を鳴らすか、そのどちらかになりかねないという危うい関係性の中にあって、この団がもたらす音楽は、まさに、時間の中に彩られるものと言えるのかもしれません。

 多分、並の合唱団がこのプログラムをやっても、どっかで破綻が生じると思うんです。それは、古楽専門の合唱団であっても、現代音楽を中心に取り扱う合唱団にあっても、あるいは、その中間を標榜している(はずの)合唱団にあっても共通したことで、この演奏会は「あふみでないと取り扱えない」ものにまでなっているのではないかと思うほどです。下手するとプロですら手出しできない領域にある。妙に言語化しづらくて困るのですが、2〜3世紀近く時代を飛び越えている中にあっても、たしかに通底している「古へのイタリア」の世界観が、たしかにこの演奏会にはあったように思います。たしかに古楽を得手とはしているものの、過去の演奏曲をみても、それが全てとも言えない中にあって、この演奏会がたしかに一つの空気感をもって成立し、しかもそれで250名は超えるであろう集客をもたらしたという事実が、逆説的に、あふみが積み重ねてきた「時間」を物語っているようにすら思います。

 音楽それ自体がみせる充実感、それを表現しようとするがために力んでしまうというのは世の常であったはず、その常を、あふみは軽やかに飛び越える。その軽やかさは、まさに25年の間に積み重ねてきた経験、ノウハウ、あるいは、団員がもたらす相互作用そのものと言えそうです。そう、ノウハウは、言語化できないから、ノウハウなのです――そういった意味で、この演奏会は、ライブであるからこそ価値のあるものなんです。やはり、あらゆる演奏会は、ライブそのものに、価値を見出すことができる。録音を否定するつもりはない。でも、間違いなく、この演奏会は、ライブとして大きな価値を持つものでした。

 もう、言葉は要らないかもしれない。ただ、体感できた、そのことに大きな価値を見出す、素晴らしい演奏でした。

2023年3月21日火曜日

【合唱団花集庵第6回演奏会】

 2023年3月21日(火祝)於 電気文化会館ザ・コンサートホール

「あなたに歌を聴かせたくて」


やっと!


 さて、名古屋ではもはや知らない人も少ないであろう団の演奏会です。全日本では中部を争う、そしてTICCでも優秀な成績を収め、さらには団指揮者が東京カンタート指揮者コンクールに出る予定という、なんかもう、いつも話題に事欠かない団です。とはいえ、この団も例外なくコロナの影響を受け、あの高嶋先生が振るというこの演奏会も、もともと2回の延期を経て12月に開催予定だったものを、直前にコロナ疑い者が複数出たということで、あえなく3度目の延期に伴い、きょうめでたく開演に至ったもの。まず、その事実だけで、この日を迎えられたという事実に、拍手を贈りたいと思います。

 とは申せ、この演奏会、私にとっても「外せない」演奏会。花集庵のレビューは、実は、何度も書く機会があったにもかかわらず、ついに今日に至るまで、単独演奏会のレビューを書くことができずにいたのです。じつはそのうちの一回は、「オープニングを聞き逃した」という理由でレビュー対象から外しています。自分でかってに決めているだけではありますが、全部聞くことができなかった演奏会はレビュー対象外になっています。12月の延期前にも行こうとしていたところ、それも延期に。実に私自身も、延期に延期を重ねた上で、さらには直前の胃腸風邪を乗り越えて、満を持して(?)迎える、花集庵初レビューのときであります笑

 そんなわけで、単独演奏会は初めてレビューするというのに、妙に知った気持ちになっている、そんな合唱団のレビューです笑


・ホールについて

 名古屋は伏見にあるもうひとつのクラシックホール。とはいえ、こちらのほうが老舗でしたか。1986年開館の、クラシック専用シューボックス型ホール。300〜400席と、しらかわホールより一回り小さく、ちょうど、ピアノ・ソロなどには至適の規模感。何度か書いているホールではありますが、意外とこのレビューでは登場頻度が少ないような気がします。名古屋市だと、この規模のホールという意味では、ことアマチュアでは価格優位性の観点から、文化小劇場が圧倒的優位を占めているんですよね。

 しかしながら、このホール、間違いなく、名古屋のクラシックを語る上では欠かせない。名古屋市、否、全国的に見ても、と言ってしまっていいでしょうか。この規模感のホールの中では、抜群の音響を誇ります。大理石造りの内装が織りなす、丁度いい、しかし、贅沢な残響は、まさに絶品の一言。しかも、このホール、なにが素晴らしいって、どこに座っても、後悔するということがまず間違いなくない。庇の下に隠れるのが、せいぜい最後尾のみというところ、その美しい響きをどの位置からも堪能できるというのが魅力の一つです。

 そして、このホールのもうひとつの利点。ケータイが鳴ることが昔から非常に少ない。なぜか。――地下にしてケータイの電波が届かないから笑 困るといえば困りますけれども、デジタル・デトックスも兼ねて、クラシックはいかが?笑


 裏で岡混が演奏会をしているにもかかわらず、少なく見積もってもキャパ8割を埋める、上々の人入り。期待度の高さが伺えます。


 あ、そうそう、開演に先立ちまして。

 今回のレビュー、「まとめ」から読むことをオススメします……なんか、自分でもよくわからないくらい辛口になってます。


Opening

Makor, Andrej "O Emmanuel"

指揮:荒木旬


 噂によると、このホール、平時から客席を使ったパフォーマンスが禁止されているとかなんとか。しかしながら、この団、暗転から独唱→輪唱のうちに明転→展開……相変わらず、こういう演出好きなんだなぁ笑

 で、肝心の音なんですが、これまた「妙に知った気持ちになっている」がゆえともいえる、ちょっと違和感。受容側の立場で言えば、聞き心地も、曲の長さも「小品」といいうる曲なんですが、その中に、表現上、旋律の歌い方やクラスター形成時の声の張り方など、それなりに体力を使う曲です。こういうとき、僕のイメージの中のこの団は、とんでもない集中力をみせるんです。で、圧倒的な説得力を持ってして語らしめて、気付いたら曲が終わっている。

 でも、こと今日については、そんな感じがあまりない。なんだか、微妙な子音のズレや、ロングトーンで息が続いていないような音のゆらぎが見えたり、音が切れるタイミングが、なにか揃わなかったり。なんだか、事あるごとに、「アレ?」となって、集中力が切れる、そんな感じの音作りが気になりました。


I

Victoria, Tomás Luis de "O magnum mysterium"

Poulenc, Francis "Salve Regina"

三善晃 "Go Down Moses"

Narverud, Jacob "Harvest(The Moon Shines Down)"

Chilcott, Bob "We are" (Maya Angelou)

指揮:山崎真一


 うん、やっぱり、そうなんですよ。前のステージを引きずっているというのは確かにあるんだけど、このステージになってもなお、いつもの花集庵なら感じることのできる、あの独特の没入感、アレが感じられない。

 いや多分、悪くないんですよ。並の合唱団だったら絶対に、まず「上手」って書いてから筆をすすめる、そんな演奏。でも、花集庵にもとめているのって、そういうことじゃないんです。例えば、花集庵には、そんな、ハラにチカラ入ってないようなロングトーン求めていないし、ラテン語や英語がカタカナに聞こえる感じも求めてないし、なんというか、音の大きくなるところでガーッと鳴らして「これでいいんでしょ?」みたいな大味な曲作り、求めてないんです。

 とかく、曲のディティルの作り方が徹頭徹尾気になってしまう演奏でした。いや確かに、並の合唱団なら、最後の曲の勢いある感じでサクッと終わって、ああ、良かったなって終わる、それくらい、ある程度「聴かせる」感じにはなってたと思うんですけれども、でも、本当に求めているモノってソレだった?という、そんな、演奏に対して、もっと集中できる場所があったような、そんな演奏でした。

 この点、メモには「弱音に対する意識がもう少しある方がいい?」というメモが残っています。


II

松下耕「あなたに歌を聴かせたくて」(Rabindranath Tagore)

信長貴富・混声合唱とピアノのための『くちびるに歌を』*

指揮:荒木旬

ピアノ:玉田裕人*


 で、その「弱音」に対する意識、このステージになってもなお気になってしまう。どちらの曲にしてもそうなんですが、弱い音の扱いが、強い音のカウンターパートにしかなっていない。強い音いっぱい出したら、そのあとが弱い音になる、みたいな。

 そういう表現だと、「秋」ではどうしても破綻してしまう。前も同じ表現を使ったと思うんですが、この曲は、強い音をしっかり出して「計画的に破綻」する表現をする箇所が中間部にあるのですが、その部分で重要になってくるのが、弱い音の歌い方。ここに説得力がつかないと、強く歌った音が、ただ怒鳴っているだけになってしまう。有り体に言えば、聴衆が置いてけぼりになってしまいます。で、今回は、厳しめに言えば、現にそうなってしまっていた、というのが感想です。こと強い音のみについていうなら、複雑な現代音楽の只中にあってただ黙々と叩き続けるマエストロ下野竜也的表現が欲しい(伝わるのかコレ?)――要は、熱い中に冷静さを求めたいのですが、今回は完全にタガが外れてしまっていた印象です。

『くちびるに歌を』全体を通して言えば、ぶっちゃけてしまえば、途中をどう歌っても、「くちびるに歌を」のカデンツさえちゃんと歌えればステージ全体が引き締まる、そんな曲です。でも、経過がどうでもいいかというと、そんなことはなくて、ひとつ引っかかってしまうと、ズルズルと言ってしまう。あれ、テンポずれてないかな、とか、あれ、ドイツ語の発音これでいいのか、とか、とかく、これくらいに「ちゃんと歌える」合唱団なら、終曲のなんとなくすごい雰囲気だけで、強引に組曲を終わらせるような構成にはしてほしくなかったな、というのが、偽らざる思いです。


 休憩15分。今日はお子さんたくさんのにぎやかな――否、思った以上に静か! みんな偉い!

 しかしまぁ、世の中の幼子たちはどうしてそうも静かに演奏会を聴けるんですかね。我が子では考えられない笑


III

木下牧子「おんがく」(まど・みちお)<女声>

北川昇「歩く」(谷川俊太郎)<男声>

shin「今日」(谷川俊太郎)

宮沢和史「島唄」*

玉置浩二「メロディー」*

中島みゆき「ファイト!」*

指揮:高嶋昌二(客演)

ピアノ:玉田裕人*


 実はきょうの演奏会、どのステージを誰が振るのかアナウンスされておらず(ですよね?)、まぁ言ってしまえば、客の関心のひとつは、「あの」高嶋昌二がどのステージに出てくるのか、という点にあるわけなんですが笑、(個人的には)まさか第3ステージで出てくるとも思わず、びっくりしました。正直、『地球へのバラード』だけかと思ったけど、「ファイト!」歌うのに、せっかくお呼びした高嶋先生に振っていただかないのは、ねぇ笑

 で、このステージ、最初の「おんがく」の出だしの指揮と、そのあとの歌声で、ハッとするんです。ああ、そうだ、何か足りない、もやもやしていたものはコレだったのか、って。最初の音の「息の吐かせ方」とでもいいましょうか、その、流れの作り方が、これまでの演奏とはまるで違ったように聞こえたんですよね。しかも、最初のテキストって、「かみさまだったら」って、どっちかといえば破裂系の音ですよ? それが、自然な息の流れのままに、まるでため息を付くように出てくる。この団の強みと対比したら、若干弱目の音なんだけれど、これまでだったらヘタっていたはずのトーンが、決してヘタることなく、最後までちゃんと出ている。

 経験豊かな歌い手が集まっている合唱団です。あえて言ってしまえば「たかだか」指揮者が変わった程度で、ここまで音が改善するなんて、そんなことないはずなのに。でも確かにかわった、目の前の音は嘘ついていない。コレを、客演のおかげだ、というふうに片付けていいような合唱団ではないはずなんです。でも、やっぱり、後半のステージの弱音は、前半のソレとは一線を画する、秀逸な出来でした。なんだかもう、ソレだけで心がいっぱいになってきます。ああ、ようやく、出会いたかった音に出会えたんだ――と。

 特に評価したいのが、「ファイト!」1番のサビ。この曲のネタバレにもなるのであまり申しませんが、この部分のサビは絶対に強く歌ってはならないところ、それをちゃんと表現できていた、その時点で(むしろ最後を聞くよりもはるか前に)今回の「ファイト!」は大成功だ、と確信できました。

 え、権威に気圧されているだけだって?……まぁそうかもしれないんだけどさ。


IV

三善晃・混声合唱のための『地球へのバラード』(谷川俊太郎)

指揮:高嶋昌二(客演)


 で、こういう、「勢いのある曲」ってのは得意なこの団ですから、当然、演奏会全体の大団円とするにはうってつけなわけです。もう、前のステージの「ファイト!」の終わりからそうでしたけど、ちゃんと制御できている以上、この団が持つフォルテのチカラは、名古屋はおろか、全国のアマチュア混声合唱団の中でも随一のエネルギーを持っていると思います。このチカラがあるからして、全日本にしろTICCにしろ、しっかりとした成績を収めてくる。この爆発的なエネルギーが強みなのは、本当に間違いない。

 でも、(今日のレビューの流れからしても)今回の演奏で一番評価しなければならないのは、1曲目「私が歌う理由」の第1主題リフレイン。この曲は冒頭で強→弱と同じ主題を繰り返すのですが、その「弱」の部分が、ヘタれることなくしっかりと歌い込めていた。これこそ、「前半になくて後半にはあった何か」でして、本当に、こういうところで休んでしまっているような音が鳴っていたのが、後半において劇的に改善している感がありました。だからこそ、例えば5曲目の冒頭のクレシェンドは、まるで4曲目を継ぐかのような有機的なつながりを以て聞こえてきて、他団をおいてなかなか類を見ない、その組曲としての有機的なつながりを表現するに至りました。

 そして、この、弱い音に対する意識が向くからこそ、この団における最大の強みである「強い音」が生きてくるんです。5曲目の中間部は、思い返せば、もっと音量を絞っても良かったのかもしれないけれども、これまでの演奏で確かに「説得力のある弱音」を取り戻せたからこそ、しっかりと説得力をもって伝わってくる音になってくれました。そう、流れのうちに書ききってしまいましたが、なんだか、この一連のステージの流れこそして、「地球へのピクニック」のエネルギーが伝わってくるようでもありました。


 歌い手から指揮台へ向かう荒木さん、「地球へのバラードで声がやられてしまって」……ってか、そら、こんだけ歌いまくってたらそうなりますよ笑


encore

Ed Sheeran "Supermarket Flowers"

指揮:荒木旬


 創団時から歌いつないでいる曲。団内の解釈に曰く、「思い出が明日への糧になる」。そう、色々書いてしまいましたけれども、何より、3回も延期して、ようやく実現した演奏会ですものね。まず何より、その事実を糧にして、明日の演奏へ向かっていって欲しい――否、なにより、その歌い継いできたナチュラルな音楽が、これまでの熱演に対するアイスブレイクとしてもちょうどよかったのかも。


・まとめ

 いやね、ホント難しい演奏会なんですよ。レビュアー泣かせっていうか。「いい演奏会」って書いてしまうのは、とてもかんたんな構成だし、そうやって圧倒してしまうチカラを、この合唱団は間違いなく持っているから。

 はっきり言ってしまって、レビューか演奏かどっちが先立つかといえば、間違いなく演奏の側なのであって、その上でレビューなんて絶対に必要なモノとはいえないわけです。当然、今日の演奏だって、大団円で、ああ良かったってのが間違いなく世の大勢なのであって(それは客席の温度感から十分わかるわけだし)、ここで妙に水を差すようなことを言っても自分はおろか、もしかすると誰の得にもならないようなことをやっているんだなと、そりゃもう肌身にして感じるわけです。「ピクニック」のコーダがこの演奏会のすべてを物語るものであって、それに圧倒されて、ああ、すごかったなぁ、って、そりゃ、自分だって、そっちのほうが遥かに気持ちよく終われるんじゃないかなと思うんです。前プロにしたって、あの大曲「くちびるに歌を」を堂々にも前半に持ってきて、それをガーッと歌ってしまって、ああ、すげぇわこの団、で、終わればいいんだと思うんです。

 でも、やっぱり、だからこそ、言っておく必要があると思ってます。それが、名古屋だけでなく、この日本の合唱界のためになると思って、しっかり言わなきゃいけない、今日のレビューは、そんな気持ちで書き始めています(しかも、この「まとめ」から書き始めている)。

 間違いなく、良かった。みんなで「えいや」で声を出したときに、とんでもないチカラを出す、そんなエネルギーを、この団は持っている。じゃあ、その音を、「そうじゃない部分」で使えたら、この団は、もっと素晴らしい音を出せるんじゃないか。山崎・荒木・高嶋3人の指揮者のもとでの音作りを全部聞ききって、それでも厳として残る(残ってしまった)このモヤモヤは、決して、自分の中で偽ることのできない、今日の演奏会に対する感想です。

 もうね、めちゃくちゃ勇気いるんです。ああ、よかった、みたいな感想が明らかに巷で溢れている演奏に、カウンターパート的な言葉をかぶせるのって。特に今日みたいな、マエストロ級の指揮者が出てくるようなところって、多かれ少なかれ、忖度しているような気持ちが顔をのぞかせているのが、自分でも十分わかる。でも、だからこそ、ちゃんと言っておきたい。そんな思いで書ききっておきました。書ききっておきたい。書き切ろう。

 この演奏会を大団円で終わらせない先に、この団の未来がある。――でも、そんな言葉ですら、カッコつけないと出てこない、そんな、素晴らしい演奏会でした。


 以上、長い長い言い訳でしたー!!

2023年3月4日土曜日

【東京混声合唱団 名古屋特別演奏会】

2023年3月4日(土)於 三井住友海上しらかわホール


尾高惇忠・混声合唱のための「光の中」

三善晃・合唱組曲『五つの童画』

Duruflé, Maurice "4 Motets sur des themes gregoriens" op. 10

尾高惇忠・混声合唱曲集『春の岬に来て』


指揮:広上淳一

ピアノ:野田清隆


 合唱音楽自体を、いわゆる合唱指揮者以外が振る機会というのは、意外と多くない。東京の有名大学合唱団が定期で客演を委嘱することはあるものの、いわゆる「座付き」の指揮者のみで十分回る公演回数しかない団も多いこともあってか、はたまた、「合唱は器楽とは違う」という先入観ゆえか、いわゆる「器楽の」指揮者が呼ばれる機会というのは、プロを含めて限られている。

 だが、芸術分野全体としてみたときに、果たしてそれでいいのだろうか、とは、しばしば指摘される問題である。いわゆるオケの指揮者であっても、大作にはしばしば合唱がつき、ハイライトを含めればオペラの上演回数は決して少なくないし、年末には毎年のように第九を「振らされる」。そのような状況にあって、「合唱は合唱指揮者任せ」というマエストロはたしかにいるものの、それでいいのか、という視点を持つ指揮者は決して少なくない。その筆頭が、東京混声合唱団音楽監督・山田和樹といえるかもしれない。

 とはいえ、こと東混に関して言えば、歴史的に活躍してきたプロ合唱団というだけあって、器楽文化との交流は盛んである。創団自体、東京藝術大学声楽科がはじまりであり、日本プロ合唱連盟が当時の隆盛を失っている今にあっても、各楽団との共演は盛んである。しかしながら、東混にあっても、日本における、否、世界的にみても、合唱という編成の特殊性ゆえ、これまでの指揮者陣は、いわゆる合唱指揮者が長く担ってきた。念の為いうが、それ自体に否定的な意味はまったくなく、むしろそうであるがために、他編成においては類を見ないほどの回数を誇る初演をはじめとする、東混、ひいては世界の合唱文化が伸長してきたのはいうまでもない。

 そんな中にあって、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの広上淳一とのコラボレーションというのは、それ自体話題性の大きいものである。オペラ指揮を通じた合唱との交流のほかに、尾高惇忠にピアノと作曲を師事した、その経歴、そして、その当時の合唱音楽の隆盛を省みるに(もっとも、その時代は他編成においても初演が多かった時期ともいえる)、決して合唱とは無縁になれない音楽生活を送っていたことは想像に難くない。事実、尾高惇忠の師匠筋に当たるのは三善晃であり、まさに日本の合唱音楽の只中にあった音楽である。


***


 さて、ここまで、今回の広上淳一というキャスティングが、いかにも特異なものであるかのように語ってきたわけっであるが、はたして本当にそうであったのだろうか。ただ、オケの指揮者が合唱を振るというだけで、ここまで特異であると捉えるのは、いささかオーバーなような気もするし、その実、非常に新鮮な体験であったように思う――否、なにもマエストロは、特異なことをしたわけではない。当たり前のことを、ただ愚直に追い求めていた。

 広上淳一の師である尾高惇忠の曲を最初と最後に、その師匠の曲を挟む形でのプログラムは、ただそれだけで、20世紀の合唱音楽の精神的な部分を俯瞰するものであった。ロマン派から続きつつ、常に宗教性を伴いながら発展してきた合唱音楽が、近代詩歌と邂逅し、その響きに日常性をもたらしたという一連の流れは、もはや日本に限ったものでもない、ひとつの音楽の流れともいえよう。その音楽の流れを、マエストロはいったいどこでつかみ、それを正確に表現するに至ったのか――これぞ、日本を代表する指揮者の、これまでの研鑽の成果というべきか。


 その意味にあって、第2ステージの『五つの童画』は難しい曲である。確かに演奏も難しいのだが、こと日本を代表するプロ、というのみならず、初演団体であって、同曲の再演回数も多く、技巧の上で不安はない(それも、初演指揮者からの薫陶を常に受けうる立場にある)。しかし、逆に言えば、観客も、プログラム全体の中にあっても間違いなく「聞かれている」曲であることから、つまるところ、同演奏会の評価という観点で肝になるのは、どうしても同曲の成果如何によるところが大きいのである。果たして、同曲が、普段合唱を振っていない指揮者がどのように表現するかというのは、一種、数奇の目で見られることは否定しきれない事実であろう。

 と、演奏会が終わったあとに記載するのも、実に奇妙な気持ちにさせられる。なにも隠すことはできますまい、今回の同曲の演奏は、これまでの再演の中に並べても随一の出来であったと考えている。同曲のもつ超絶技巧という側面は、往々にして同曲の解釈そのものを「難しい」ものにしてしまう。聴衆も指揮者も、眉間に皺を寄せながら、難しい気持ちになりながら、「童」画を聞く、そんな機会が、はからずも多くなってしまっていたように思う。

 しかしながら――まさに、先入観のない――これまでも多くの超絶技巧をさばいてきたマエストロであるが故、その奥に見事「童」画を見出した。確実にテンポを叩きながら、技巧を表に出すわけでもなく、文字通り踊るように同曲を表現してみせる。「風見鶏」でやや抑えめであったテンポは、自然にテンションを上げながら「どんぐりのコマ」へ昇華される。独特な旋法的表現以上に、同曲のもつ表現性そのものが表に立つという演奏は、新鮮でありながら、しかし、まさにこの曲の表現として、自然かつ当然のものであるがごとく、したり顔をして、我が意を得たりと、にやけつきながらこちらを見ている。私たちがようやく見出した同曲の表現に、合唱にして異例、そして同日最多、カーテンコールが4度も呼ばれたのは、もはや必然というべきであろう。特筆し、歴史にすらその名を残すべき名演であった。


 そもそもこの演奏会時点、合唱を普段から振る指揮者以上に「合唱とは何であるか」を思い出させてくれる演奏を届けてくれたように思う。第1ステージの「光の中」における、オケ由来の、たゆたうように流れる豊かな響き、そこから、マエストロの開襟に合わせてホール全体を包み込む響き――合唱におけるマスクの改良にいち早く取り組んだ同団がまっさきにマスクを外して表現する、その世界の広々とした様子は、まさに、私たちが目指そうとしている合唱表現そのものの喜びである。直接的な表現を、まったく避けることなく、まっすぐに表現するその様子は、その音がそこにあるべき、という必然を見事に表現してみせた。

 その他のステージが比較的技巧的な響きを鳴らす中にあって、第3ステージは、ある種熱狂の中に迎えたところにあって、典型的な美しさを求めた曲である。先導唱に続き豊かに奏でられるその和声は、これらの音楽がもたらす日常性を如実に、かつ正確に表現する。マエストロをしてプレトークにその閉館を惜しんだしらかわホールの音響は、まさにこのような演奏のためにある。ホールがまさに楽器として、自然な流れのままに鳴ることをして「ホールが楽器である」ことを意味を知る。その残響は、演奏を聞いたあとの、心の残響そのものである。

 第4ステージは、歌曲的に自然の流れのままに鳴る音楽でありながら、一方では、例えばファンファーレ的であったり、例えばパルランドであったり、「声楽にしかできない表現」が随所に集められた、自然の中にある豊かさを表現する曲群である。まさに、東混の得意とするところともいえよう、日常に潜む音楽性・芸術性を、美しく昇華しながら、充実した音響で、ある種土着的な要素も含めながら鳴らしていく。決して特別なことをしないものでありながら、記譜上の表現がおそらくは「音符の間」も含めて自然に解釈されていくその様は、先述した音楽の必然性を強調する。


***


 いずれの曲たちも、音楽がみせる日常性を、あるがままに表現することに成功していた。再三書いたところではあるが、『五つの童画』においてその表現を残したのは傑作というほかあるまい。むしろ、少なからず、新奇の目で今日のキャスティングを見ていたことに、いささか反省をしなければならないのかもしれない。音楽というものは、編成に関係なく、それ自体普遍であり、いずれの表現も、その普遍性の帰結であるという、当然のことに気づくのに、2時間もかけなければならなかったというのは、当方の勉強不足というか、――否、もう、今日それを気づけただけでよしとしよう。

 少しずつ、日常が戻ろうとしている。新たに戻ってきた日常を、散々非日常を体験してきた私たちは、新たな目でどのように眺めるのか。東混が遠征に来た、それ自体が名古屋に住む者にとっては非日常なのかもしれないが、あらゆる場面において、時は流れて、音楽が響く――そんな「当たり前」そのものを、私たちは、これからも見つめていく必要があるのかもしれない。

 

 そういえば、コロナの前から、東混の演奏会は「意外と」人を集めないことがある。そう考えると、今回の集客もまた、日常なのかもしれない。半数も埋まらない集客は、しかし、この演奏にして適切だとも思わない。――そういえば、コロナ前は、怠惰な日常に痺れをきらし、変化(トランスフォーメーション)を求めて日本全体がうごめいていたような気がする。だとすると、意外と、この日常に疑いの目を持つこともまた、相反的に、「日常」と表現できるのかもしれない。

2023年2月26日日曜日

【あいち混声合唱団 第6回演奏会】

<団創立10周年>

2023年2月26日(日)於 瑞穂文化小劇場


 どもども!おひさです!

気がつけば、マスク着用が一部を除いてお願いベースでもなくなり、いよいよ、アフターコロナの生活様態に向かおうというところとなってきました。となると、いよいよ、合唱人も黙っていられません(文字通り!)。これまで以上に、歌そのものが求められる環境になってこようというところ、つまるところナニが言いたいかというと、

このブログも、いよいよ更新頻度を上げていかないと見捨てられる!!

……え、もう見捨てられてる?そんなぁ……確かに、ことし一番の注目記事は「しらかわホール合唱祭」事前調査の周知だけどさ笑

そんなわけで、しらかわホール合唱祭のビラ込みついでに(言い方!)、演奏会にも伺わせていただきました。そうです、愛知にも「あいこん」はあるんです!

かれこれ6回の演奏会を数える同団、創団から数えて10周年だそうです。もうコロナ関係なく、10年でしぼんでしまった合唱団というのも多く見てきたので、その点、まず2桁活動されただけでご立派です。

ところで、ワタシ、チラシ見て、大いなる勘違いしてたんですね。なにかって、左側に「歴代曲ステージ」、右側に「メインステージ」とある。さしづめ、2ステージ制かなと思っていたんです。ミニコンサートかな、と。まぁコロナ対策が云々言っててもまだたいへんな感染症だしな、と。

ところがどっこい。

充実の4ステージ構成。残りの2ステどっから来た笑

いやぁ、これで入場無料ですかぁ。お金とっちゃってもいいんじゃないっすか!笑


・ホールについて

もう、このホールのこと、何度書きましたっけ。今日、ビラ込みでは車で伺ったところ、その後車を置いて、公共交通機関で再訪。それが功を奏しまして、隣で開催されていたスポーツイベントの影響もあってか、併設図書館も閉館に向かう中にあって、なんと駐車場は満車。って、否、駐車場はホールと図書館のものであって、スポーツイベントの駐車はだめですからね!?(実際、ビラ込み時にはユニホーム姿も確認できていたのが、いやはやなんとも)

このホール、ホント、ホワイエが狭いこと以外は非常に優秀なホールでして、もっと評価されてもいいと思うんですよね。とにかく響きは、これからしらかわホールがなくなってしまって、名古屋でクラシックを鳴らせる300席以上のホールが貴重になってくる中にあって、熱田文小や中川文小に並ぶ、クラシック向けの名ホールだと考えています。とはいえ、このホール、来年から改修工事に入るそう。もうそんなに経ったの……?

ところでこのホール、来るときに注意されたいのは、時間をつぶす場所。新瑞橋まで行けば色々なお店がありますが、チェーンの喫茶店は少ない印象があります。新瑞橋のイオンも、サンマルクカフェが気付いたら閉店していまして、ますます居場所不足に拍車をかけている印象です。もっとも、そういうときは新店開発というのもまた一興ですけどね。是非に情報お待ちしております。ちなみにワタシ、最近スタバのモバイルオーダーはじめまして、このレビュー書こうと思って検索したものの、そのスタバ空白地帯っぷりにしばらく絶句してました笑 結局、コメダ(本日2回目の入店)で書いております笑


30人程度。全員マスク着用でしたが、まず間違いなく、それは関係なかったなと思います。


そうそう、今日、なんとあまりにもフラッと来すぎたためか、ノートとペンを両方忘れるという事態に陥っていたため、レビューが主として記憶に頼ったものとなっています(いつもはレビューのためにガチガチにメモしてます)。とはいえ、こまめに入っていた休憩の間に、ノートの代わりに持っていた(?)ノートパソコンを取り出してメモしていたので、実はたいして量は変わりないという噂も……笑


あと1点。今日の演奏会、アットホームな雰囲気で、子供連れも多く、たまににぎやかな声も入っていて、とても楽しかったです。否、そこまではいいんです。子どもたちとっても静かに聞いていたと思うし(ウチの子だったら間違いなく、歌ってる途中に脈絡なく「アンパンマンのマーチ」をリクエストして勝手に歌い出す)。今日、一部のオトナな方たちが写真を撮るとか、録画をするとか、そういうのがとても気になりました。明白に禁止行為とは謳っていなかったものの(アナウンスで言ってたかな?)、それにしたって、スマホのシャッター音とか、録画時の画面の明かりとか、それだけで非常に気が散るのに、オフィシャルとも見えない人が横並びで録画するとか、あるいは入退場時の比較的静かなときにパシャパシャ鳴るだとか、そういったことは、そもそも演奏会慣れ以前の問題かと思います。表方が気付いたタイミングで、最低限、影アナなどで対処すべきだったように思います。

あと、今日オフィシャルの記録を撮っていた方の、スチルについては客席ではサイレントシャッターにしていただきたかったところ。これは、団としてちゃんとリクエストしておいたほうがいいと思いました。ざっと見た感じ、あの形状からしてα6000シリーズ、α6000を除けば、サイレントシャッターを積んでいる機材のようなので。


まぁともあれ、団長さんの陽気なアナウンスでスタートです笑 コインパーキング代を請求したら払ってくれたらしいですが、請求する人いたのかな……爆


指揮:永井佑汰、松井透*

ピアノ:村上由紀(客演・第1ステージを除く)


第1ステージ アンサンブルステージ

高井達雄(arr.信長貴富)「鉄腕アトム」(谷川俊太郎)*

宮沢和史(arr.信長貴富)「島唄」*

中島みゆき(arr. 信長貴富)「麦の唄」

上田真樹「花と画家」(谷川俊太郎)

信長貴富「木」(谷川俊太郎)


最初出てきた1つ目の音が、弱音ながら充実した和声で、まずもってびっくり。それだけで、来た価値があるなと実感させられました。

全体として課題があるとすれば、内声と外声の連絡といったところでしょうか。しばしば「聞き合い」と呼ばれるところですが、いまひとつ、リズムが揃わなかったり、和声が微妙にずれていたり、声質がずれていたりといったところで、首をかしげてしまう場面がいくつかあったのは否定できません。「アトム」の2番アタマのベースの裏とか、「麦」の鍵盤ハーモニカソロのために指揮が外れた部分とか、率直に、割とハラハラさせられました。

でも、それを凌駕するほどに、しっかり書き起こしておきたいのは、その、表現や気持ちを伝えてやろうという気持ち。往々にして、技術を伴わずにそういうことをやると、空回りして、独りよがりになりがちなんですが、これ、本当にいい意味で、気持ちだけで歌いきってしまう。理屈抜きにこういう事ができてしまう合唱団って、本当に珍しくて、これまで見たことないくらいに、気持ちが音とハマってました。なんだろう、理屈じゃ説明がつかない表現、言語化できない何か(ブロガーなのに)、刮目させられました。


インタミ10分。


第2ステージ ジブリステージ*

久石譲(arr.寺嶋陸也)「君をのせて」(宮崎駿)

久石譲(arr.白石雅樹)「いのちの名前」(覚和歌子)

加藤登紀子(arr.倉知竜也)「時には昔の話を」

Bill Danoff, Taffy Nivert and John Denver(arr.倉知竜也)「カントリー・ロード」(鈴木麻実子(宮崎駿補作))


ジブリ4曲をひとつなぎにメドレーで。原曲も決して長いわけではない曲をひとつなぎにするということで、より短く感じる、文字通りの「アラカルト」ステージでした。

さて、そんなステージ、この団としてはある意味最も得意とする領域なわけでして、それはもう非常にノリノリで歌っていたわけですが、一点、非常に気になるのが、16分音符の処理。否、別に長さが間違っていたわけではないものの、ともすると、どうも、やたら短かったような気がしてならない。多分ですが、こういった16分音符でリズムを跳ねる曲たちは、各16分音符にテヌートがついているくらいの気持ちで歌ったほうがハマる気がしています。もっと有り体に言うなら、16分音符も気持ちよく歌いこむって感じでしょうか。

多分ワタシ、ジブリステージに出会うたびに同じこといっています。なんだろう、もっと、映画の雰囲気に酔ってしまったほうがいい音が鳴るのかもしれない。逆に。


5分の換気休憩。アナウンスなしで乗り切ってもよかったかも。


第3ステージ 歴代曲ステージ

千原英喜「はっか草」(野呂昶・混声合唱とピアノのための組曲『みやこわすれ』より)*

TAKUYA(arr.井上一平)「Over Drive」(YUKI)*

信長貴富「未来へ」(谷川俊太郎・混声合唱曲集『かなしみはあたらしい』より)

まつしたこう「ほらね、」(いとうけいし・『歌おうNIPPON』プロジェクト)


団員間投票の結果選ばれた、歴代の人気曲で構成。それぞれ、第5回、第4回、第2回、第1回(アンコール)演奏曲とのこと。沈黙の第3回……(マテ

指揮者のMCで繰り返していたところ、こういう親しみやすいが「大好き」ということで、大好き、という気持ちがよく出たステージでした。ある意味選曲自体も人気投票によるということを考えると、もしかしたら、このステージが一番仕上がってるんじゃないかしらと思うくらい。――もっとも、全部歌ったことのある団員もいることを考えれば、まぁ自然なことか。

何よりよかったのが「Over Drive」。この団の選曲自体を左右する肝といってもいいかもしれない。なにより、指揮者がカウント出始めたのもいいし、その後のノリ方もいい。もっといえば、これまでのステージで気になっていた各声部のズレだったり、短い音符の処理だったりというのが、全然気にならない。そう、この曲のノリ――グルーヴをよく表現できていたのだと思います。だとすると、この団がうまく合わせていくキモは、実は90sのノリにある!?(違)

ちなみに余談かつよく知られた話(!?)ですが、最後の曲は、現在に至るまで数少ない「伊東恵司」クレジットの詩であります。え、普段は?……そういえば、周知の事実となってからだいぶ経ちましたね……(遠い目)


Int 15min

「ピエールよしお」さんからの温かい祝電……ふふふ(乾いた笑い)


第4ステージ メインステージ

信長貴富・覚和歌子の詩による混声合唱曲集『等圧線』


そんなこんなで最後の4ステージ。これもまた、「親しみやすい」タイプの曲のひとつです。気がついたら、終曲はなんだか、結婚式の定番ソングになってきているような気がしています。

同曲、特にアタマの曲は比較的しっかりと歌わせに行くタイプの音作りをすることもあって、純粋に、合唱団の実力が出るところ。そんな中にあって、この団の「弱み」というのはどうしても浮き彫りになってきてしまう。特に気になったのが、1ステから少しずつ出ていた、難しい音域に丸裸の、いわゆる「生声」が、男声・女声関係なく出てくるのがとても気になります。どうしても、ハーモニーを構築する音で、そういう響きが混ざるとノイズとなってしまうことから、今後とも鍛錬を積まれたいところです。そう、まさにボイトレ、チカラがものをいう世界のような気がします。

でも、この団、前述のとおり、表現したいことに対する明確なイメージを団員同士が共有できているから、出てくる音というのにイヤな感じは全然ない。同曲にしても、基本的には「うた」がモノをいう曲だけあって、歌うべきところはしっかりと、てらいなくストレートに表現できているから、本当にすんなりと心のなかに落ちてきます。そういう点で、まっすぐな感情を表現する「リフレイン」を歌わせると、こういう団は本当に素直な美しさをみせてくれます。

そう、そして、この団、最後の和音がどの曲も本当にキレイなんです。曲の中間部で色々あったとしても、最後のスッと美しい和音が、しっかりと会場の残響とハマってくれる。これだけで、なんだか納得させられる。


アンコール

菅野よう子「花は咲く」(岩井俊二)


第1回から大事に歌い続けているという同曲。もとフェアウェル発祥の団ということで、思えば10年前は、歌が日本を元気づけようとしていた、そんな時期でした。コロナが明ける今こそ、そんな、当時の感覚が、また思い出されるといいなと心から願っています。


・まとめ

雰囲気もアットホームで、組曲を除けば1曲ずつに拍手がついて、そして、最後は全員いなくなるまで拍手が見送る、そんな、温かい演奏会でした。

でも思えば、こういう、「日常」を感じさせる演奏会が、もともと名古屋の合唱文化に根付いていたものだったような気がしています。これは、少なからぬ大阪の中小規模の演奏会を聞いていたときにあっても、なかなか感じ得なかったところでした。当たり前ですけれど、ステージというのはどこか距離がある存在で、ハレの日に間違いないその演奏は、「舞台」と「客席」の間を隔てることによって、いわば舞台の「特別感」を演出する一要素となっていた――それに対して、この演奏会をはじめとする、愛知県の一部合唱団の演奏会は、そんな「舞台」と「客席」の間を隔てるものを、意識的か無意識か取っ払おうとする傾向にありました。個人的に、そんな手垢のついた感覚を、必ずしも全肯定してはいなかったのですが、でも、あいち混声の、そんな、いい意味で手垢のついた演奏会を聞くにつけ、ああ、こういう感覚もアリなのかな、とか、むしろ、コロナ禍で我々が失っていた感覚って、こういうものかもしれないな、というふうにも思いました。

たぶん、これからも、一定の「対策」は取られていくのだと思います。でも、演奏会のライブ中継やオンラインチケットシステムや事前入場者登録、アンケートの電子化など、コロナが収まっても続いて行きそうな文化(主としてDXの急激な進行)も数多く生まれた一方で、あえて総括してしまえば、やはり、コロナは「奪っていった」ものが多かったように思えて仕方ないです。それこそ、言葉尻を捉えるようですが、「手垢がつく」なんて、唾棄されるもののひとつでしたからね(唾棄するほうがもっとダメか)。

これから、私たちは、多かれ少なかれ「密」を取り戻していくのだと思います。ライブハウスでモッシュをするのはもっと先かもしれないけど(危険なモッシュはこのまま未来永劫復活しなくていいけれども笑)、もしかしたら、私たちの目指す「密」は、意外と早く取り返せるかもしれない、そんな希望を、少しだけ抱かせてくれたような気がします。

アットホームな雰囲気に、幾ばくか水を指すようなこと言ってしまったかもしれません。とても楽しい演奏会でした。