おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2017年9月18日月曜日

【興文混声合唱団第1回演奏会】

2017年9月18日(月祝)
於 大垣市スイトピアセンター 音楽堂

わたべ、最近ブログを書いていない件。
「月曜から夜ふかし」的に)

いや、実際、あいこんからずっと書いてなくて、ああ、そろそろ書かないとなんか色々とアレかなぁと思って(?)、軽井沢にパソコン担いでいったり大阪にパソコン担いで行ったりしたんですけれどもね、それにしても、結局、「まふゆでござい」みたいな記事は書いていなかったわけですよ。そう! うちのブログの特徴といえば、皆様に知られていないような演奏会を掘り出して御紹介するのが使命、それは、大阪だろうと名古屋だろうと大して変わらないわけです。
その意味では、とどのつまり、

わたべ、最近ブログの本分を忘れている件
(「月曜kry)

……そんなこと言い出したらきりないっていうか、なんというか、当方としたらぶっちゃけ、行きたい演奏会に行っていただけなんで罪悪感もへったくれもあったものではないのですが笑
そんなわけで、今日は罪滅ぼしに(?)興文混声合唱団。数年前だかに颯爽と登場し、岐阜県代表をかっさらっていったことから一躍その名を馳せた合唱団。もとは大垣市立興文中学校の合唱部が母胎となって立ち上がった合唱団。なるほど、その点、実力は担保されているわけです。今でも興文中からの人材供給(←)は続いているようで、以前訊いたところによると、なんと高校生も入っているんだとか。わーお。そんな、団の歴史・人員ともにフレッシュなこの合唱団、ついに第1回演奏会の御盛会と相成りました。

・ホールについて
岐阜のホールといったらサラマンカホールという程度には岐阜に詳しくない当方(ホント申し訳ない)、ある意味、岐阜のホール開拓も兼ねてのコンサートでした。そう、ホール開拓も久々だから感覚が鈍るといいますか、このホール、気をつけなきゃいけません。なにがって、アレです、「文化ホール」というのもあるのですが、今回はそちらではありませんので……え、間違えかかった人間がいるって?……照れるなぁ←
割と古めの外部仕上げからは一見想像がつかない、浅めのブラウンとシャンデリアが彩るシューボックスタイプのホール。座席も400程度とみられ、コンパクトかつ響きが優先されたつくりという、存在価値の高いホールです。床のPタイル目地がやひな壇の蹴込が少しくすんだ感じなどからは、ちょっとした古さを感じますが、でもこのホール、ちゃんと歴史に育てられているのだなぁと感じることが出来ます。椅子の座り心地もいいし……敢えて言うなら、ちょっとホワイエが狭めなのがマイナスかしら。
で、響きはどうだというと、これがまた非常に素晴らしい響き。素直に残響が抜けていき、それでいて音圧もある。そう、たとい響いたとしても「音圧もある」ホールというのは、けっこう貴重なものなんです。響くホールというと、往々にして、実は意外と鳴っていないというか、ちゃんと響いているから問題ないようにみえるけれども、実は音圧という
意味ではステージ側に篭ってしまっていたりするステージって少なくないんです。でも、このホールは、ちゃんと、両輪をしっかりこなしている。その意味では、音楽のジャンルを選ばないで、ポップスからクラシックまでなんにでも使える、古くありながらにして今でもその可能性を感じられる、ポテンシャルの非常に高いホールなのだと思いました。そして、ちゃんと鳴らしてくれるということは、どんな音でも拾ってくれるホールということ。逆に言えば、変な鳴らし方しても聞こえてきてしまうホール……ある意味、おっかないホールでもあります。
あえていうなら、その、暗転した時の光の落ち方はスゴいんだけど、その時に反響板のスキマから裏の照明が漏れて来ているっていうのは……ま、まぁ、歴史がある証拠、というこで(汗)

指揮:竹中久美、高井裕也*
ピアノ:大塚宏美、高橋明日香**


この合唱団、なによりまず素晴らしいのがステージ内移動。20人ほどのオーダーが、よどみなく5秒ほどでさくっと並んでしまう様は、みていて非常に清々しい。これだけで、胸のすく思いです。

・Opening
いずみたく(arr. 上田真樹)「見上げてごらん夜の星を」(永六輔)**

まずは舞台客照暗転から、ペンライトが北斗七星のように(ホントに鍵型をしていた!)輝きをみせ、段々と舞台照明が上がっていく。その中に、ピュアで透き通った女声合唱が降り注ぐように聞こえてきて、やがて男声へと受け継がれていく。合唱は交わり合い、そして、まだほの暗さを残しているかのようなさり気ない舞台照明の中で輝きを増していく。そしてまた夜が訪れ、北斗七星の輝きの元に、静かに消えていく――。
否、本当に美しかった。まずなにより、演奏会において気がかりなのが、この、演奏を聞こうという気にさせてもらえるかどうか。その意味では、視覚的にも聴覚的にも、演奏会を聴こうという傾聴の姿勢を作ってくれたこの演奏は見事でした。もう、ピアノの譜面用照明ですら演出だと思わせてくれるような、そんな幻想的な響き。男声の、特にテナーの響きが若干浮きがちだったような気がするのだけれども、それはまぁこの際措いておきましょう。全体として、ヒジョにいいアンサンブルでした。

そうそう、この演奏会、アナウンスによる全ステージ解説つきでした。一瞬だけ、くどいかな? と思わんでもないものの、そこは、若い団員の多い合唱団、親御さんが見に来られるようなこともあったりして、これはこれで、聞き所が手に取るようにわかって、良いことには良かった様子。

第1ステージ
三善晃「子どもは……」(谷川俊太郎/混声合唱組曲『五つの願い』から)
信長貴富・混声合唱とピアノのための『くちびるに歌を』から
「白い雲」(ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳詩)
「わすれなぐさ」(ヴィルヘルム・アレント/上田敏訳詞)

まずは、コンクール報告演奏から。今年は銀賞だったそう。ご立派。
僭越ながら弊団も呼ばれたイベントで、愛知県コンクールの試演会というのがありまして、愛知県の若手中心となってコンクール前に演奏を披露し合おうというものだったのですが、実はこの3曲、既にそちらで聴いていたものになります。その意味では、2度目。でも、2度目でこそ、新鮮な驚きを求めるというのが、人間というものでなくって?笑
ただ、そういう観点からすると、まだまだ一皮むけていなかったかな、という印象。いずれも、記譜上の表現については、決して(本当に!)不足なく、満足できるものなのですが、見えてくるべき「それ以上の表現」というものにイマイチ物足りなさを感じてしまいました。確かに、とても子音をよく出せていて、とても気持ちよくクレシェンドしているのだけれども、その、子音やクレシェンドはじめデュナーミクに「必然性」を感じられなかったというのが正直なところ。
いずれも、あっさりと進行できるメロディの裏に、とても力強い言葉の篭った曲たちです。ともすると、あっさり聞かせるのは誰にでも出来るところで、聴衆には、それ以上の何かを訴えなければいけない。その意味、このG3最大の決め所は「いかなる神をも信ぜぬままに」の一言、この上昇音型の表現にかかっていると常日頃申しているところなのですが、まさに、こういった部分で、段階的に音をハメ、クレッシェンドしていると言うだけの表現にとどまってしまう点など、その象徴だと言えるのではないでしょうか。この表現がなぜこんなに強い、禁則すれすれ(否禁則か?)の書き方をしているのか――だって、いわばアナーキズムですよ?――、そのところに思いをはせ、表現すると、形こそ種類があれ、もっと立体的な表現が出来てくるはずなんです。そこにあるデュナーミク、そして和声、旋律、それぞれの要素は、テキストと密接にリンクしている。それを、ちゃんと音で表現してこそ、真の表現に近づくのだと信じています。ドイツ語の問題も然り。母音の深い/浅いを、優秀な作曲家はちゃんと意識して作曲しているのではないでしょうか。
でも、音をハメることによる表現は秀逸。だから、「わすれなぐさ」のヘテロフォニーなどは、逆にこの団の将来を期待させる素晴らしい響きでした。だからこそ、期待しちゃうよね――『くちびるに歌を』の全曲演奏笑

第2ステージ
岡野貞一(arr. 上田真樹)「故郷」(『歌い継ぎたい日本の歌』から)(高野辰之)**
岡野貞一(arr. 高井裕也)・無伴奏女声合唱のための「紅葉」(高野辰之)*
渡辺岳夫(arr. 信長貴富)「ゆけゆけ飛雄馬」(東京ムービー企画部/無伴奏混声合唱のための『アニソン・オールディーズ』から)
arr. 青木雅也・混声合唱のためのメドレー『北海道物語(ストーリー)』**
島津伸男「函館の女」(星野哲郎)
さだまさし「北の国から―遙かなる大地より―」
松山千春「大空と大地の中で」
森繁久彌「知床旅情」
吉田拓郎「襟裳岬」(岡田おさみ)

一転、歌謡曲ステージというか、民謡ステージというか。でも、どこだったか、我々の感覚では民謡と言えない曲たちを民謡とのたまっていた某合唱団もいたし、たぶんこれは民謡なのだろう……笑
なにも男声が悪いというわけではないのですが、「ゆけゆけ飛雄馬」で、どうしても向陽高校を思い出してしまいました。同じくウケ狙いに満ちた諧謔に満ちたアレンジで、それでいて重厚なハーモニーが織りなす同曲。ガンガンの音圧でせめて、ただひたすら鳴る音でノリも全力疾走で突っ走っていった向陽高校に対して、どうしても、興文混声の音はまだ、「垢抜けた」音を出していたように思いました。それはそれで活きる場面は、前述の「見上げてごらん」のように、あるにはあるのですが、それでも、この曲ではどこか違うような。さっきの話ではないですが、記譜上の表現から離れた部分というのが、やはりキーワード。きれいな音では決められない、言ってみれば、崩れてしまうギリギリの音を使ってゴリゴリ鳴らすくらいの男気があっても、例えばこの曲の表現にあってはいいような気がします。その移転、求められているのは、どういう音楽にどういう表現・音色を使うのが適切なのか、それを考えるだけの自発性にでもあるのではないかなと思いました。
その点、「紅葉」のハマり方は良かったですし、さらに、前述の意味でいうなら「函館の女」には希望が持てたのですけれどもね。でも、そんな偶然でいい音が鳴る領域から、自ら仕掛けて表現しに行けるような領域へ辿り着くには、ひとえに表現における自発性が求められているような気がしています。

インタミ15分。知り合いが多かったような気がするので、チキンな自分は座席に座っておとなしくしていました←

第3ステージ
藤嶋美穂・混声合唱組曲『あさきよめ』(室生犀星)
「序―悲しめるもののために―」
「老いたるえびのうた」
「子守唄」
「五月」
「あさきよめ」

否、この曲くらいは、手放しで賞賛してもいいのかもしれませんね。
当方としては全くノーマークだった同曲。パナムジカから出版され、音源もパナムジカから提供されているようです。これがまた、なにより、美しい曲でした。ある意味ではすごく典型的なんですけれども、序曲から終曲までの構成がしっかりしていて、流れるピアノのアルペジオの中に、室生犀星の、繊細ながらも力強い表現が印象的です。旋法的でありながらも、肝心な部分では骨太な和音がしっかり鳴ることで、楽曲に奥行きを与え、そして、その奥行きを以て、日本語の持つ深刻さをより深く表現している――本当、こういう曲が日本から減って久しい、しかし、日本にこれから残っていくべき、真の意味で古きよき日本の合唱表現です。
最初の曲はヴォカリーズ。しかし、この団、響きをまとめるのは得意なので、その点、このヴォカリーズからまず引き込まれます。2曲目以降も、最初の方でこそ、平板かな、とも思ったのですが、ただ、聞けば聞くほど、この曲の奥深さにも助けられて、どんどんと充実した表現へと昇華されていく。縦で揃うところでびしっと揃うから、なにかと流れてしまいがちなアルペジオ系の曲にもしっかりと楔を打つことが出来る。ナニ、音で日本語を表現するということについては、日本人は昔から得手とするものがあるのです。この合唱団の表現と自然にマッチしたこの楽曲が、第1回演奏会を(おそらく、テーマからして「図らずも」)大団円へと導いていく。「生きて生き抜かなければならないことだけは確かだ。」(「あさきよめ」)との言葉のままに、力強いメッセージが心の中にやどりました。
思わず、この曲のさらなる再演を願う――そんな方にもこころが動く、非常に素晴らしい演奏でした。だって、いい演奏でないと、なかなかそうは思えませんもの、正直なところ笑

encore
信長貴富「こころよ うたえ」(一倉宏)

そして同曲。試演会のときの合同演奏曲――などというでもなく、若手合唱団においては最早定番となりつつある曲ですね。だってそらもう、俺達の時代だ!――とばかりにガンガン鳴らしているのが、もう、それだけで十分お腹一杯でしたもの笑 最後のテナーなんてもう、スゴいガンガン鳴らしてましたけど、それでも十分、他パートも負けてなかったですからね笑 これぞ、真の大団円。

ロビーコールはなく、そのままお開きと相成りました。ロビー、狭いですからね笑

・まとめ
自分も、っていう自負があるから、あんまりこういう言い方したくないんですけどね、端的に言えば、やっぱり、こういう言い方しか出来ないんですよね。
「若い!」――もうね、この一言に尽きるんですわ笑
(認めたくないけど)僕よりも若い。若いから、自分よりもいい意味で考えないで音を出すことが出来る。だから、自分が思っている「いい音」を純粋に突き詰めることが出来る。否、たしかに私(たち)も、いい音を追求して日々練習に励んでいるわけですが、それでも、ここをこうしたらいい音が鳴るとか、あれをああすることでいい音が鳴るとか、色々考えてしまう。だから、自分が出している音がいい音かそうでないかを、要素要素で判定するようになる。でも、それは、なかなか、若さ故の直感で見出す「いい音」に近づけるかというと、そうとも限らない。漸近は、いつまでたっても漸近でしかないんです。良いものに辿り着くには、究極には、その良いものにダイレクトに到達するよりない。
でも、一方で、この若さ故の直感にも欠点はある。それは、「何が良いのか分からない」ということ。何が良くて何が悪いかというのは、直感ではない。直感では、これは良い、これは悪い、というのは分かるかもしれないけれども、何をどう改善したらいい音が鳴る、というのを感じ取ることは出来ない。だから、直感というのは難しい。直感で分析ができないのと同様に、分析では直感にはたどり着けないんです。なんというジレンマ。それを知ってしまったときの悲しみや。
なにがしか限界のようなももにたどり着いたとき、人は分析的思考に手を出すようになるのだと思います。ただその瞬間、残念ながら「直感」は捨てなくてはならない。――この団とて、そういうときが来るのだと思います。でも、そのとき、この団はもっと伸びるのだと思います。直感でたどり着けなかった理想に限りなく近い音に辿り着く時、それはそれで、これまでとは違った世界が拓けるのではないでしょうか。
……なんか、観念的なこと書いてますなぁ、病んでるのかな←
否、でも、ホント、若いとなんでも出来るって事実だと思うから、がんばってくださいね、これからも。

……歳取ったなぁ←

・メシーコール
ラーメン at 「たこん家」

さて、名古屋で用事があるまではまだ時間がある、昼を食べていないし何か食べよう……と、大垣駅前を徘徊。でも、大垣駅前って、だいたいの店が、ランチを終えたらディナーまで店を閉めるんですね。そんなわけで、開いている店で面白そうな店を探していました。――そう、面白そうな店を笑
そこで見つけた、明らかにたこ焼き屋なんだけれども、そこに見えるのれんは間違いなく「ラーメン」。一瞬通り過ぎて、でもどうしても気になってしまって――入った時に、真っ先にラーメン「だけ」を頼んだ人間も、なかなかいますまい(たこ焼きも美味しそうではあったんだんだよなぁ……笑)
でね、このラーメン、最高だったの。なんていうの、昔ながらのラーメンってまさにああいう味。自分の出身大学の近くに、今は閉めちゃったか、すっごい古くからやってた居酒屋があるんですが、そこのメニューにラーメンがあるんですね。それが、抜群にうまくて。まさに、そのときの味を思い出す。まったく奇をてらってないし、背脂なんてまったく浮かんでないんだけれども、出汁とまっすぐな旨味が、ただひたすら食わせる。健康に良いとか悪いとか知ったもんじゃない、あのラーメンのスープを飲み干したい。それだけ。
本当、入ってよかったラーメン屋でした……違った、たこ焼き屋でした←