おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2016年8月20日土曜日

【東京混声合唱団 いずみホール定期演奏会 No.21】

2016年8月19日(金)於 いずみホール

指揮:田中信昭
ピアノ:中島香*

多田武彦・混声合唱組曲『柳河風俗詩』(北原白秋、1954/1986)

間宮芳生・合唱のためのコンポジション10番『オンゴー・オーニ』(1981)*

int. 20min.

新実徳英・混声合唱とピアノのための『黙礼スル 第1番』(和合亮一、A.E.44、2015)*

ホーガン・編「ジェリコの戦い」(黒人霊歌)
清水脩・編「ロンドンデリーの歌」(イギリス民謡、大木惇夫・伊藤武雄共訳)
田中信昭・編「カリンカ」(ロシア民謡)
三善晃「ソーラン節」(北海道民謡)
池辺晋一郎「ベンガルの舟唄」(ベンガル民謡)

en.
本居長世(篠原眞・編)『汽車ポッポ』

———

 私が初めて東混を生で聴いたのは、確か2010年のことだった。場所はいずみホール。当時、下手の横好きで学生指揮をやっていた。定期演奏会へ向けて取り組んでいた曲が、上田真樹『夢の意味』であったが、その演奏会は、初演をした東京混声合唱団が同曲を再演する、当時としては数少ない機会であった。最早、どうやって行ったかも覚えていない。もしかしたら、それが初めて青春18きっぷを使った時だったかもしれない。――青春18きっぷ消化計画を毎年のように考える今の身からしたら信じられないほどであるが、実家から出たこともなかった当時は、名古屋から大阪というのは大冒険だった。
 音源でこそ擦り切れる程聞いた曲だったが、A席から聞いた当時の東混がどんな演奏だったかも、正直覚えていない。それはまるで、初めて行ったクラシックのコンサートがどんなだったかを覚えていないくらいに、私にとっては新鮮な経験だった。なんとなく朧気に、その時泊まったいずみホール提携ホテルが割と良いホテルだったような気がするとか、そういったことばかりが妙に思い出される。
 しかし、そんな経験を以て、私は今日に至るまで非常によく東混を聴くようになった。結構な長い間、プロの合唱団を東混以外に知らなかったというのも確かにある(恥ずかしい話だが)。だがそれ以上に、私達が持っていない音を持っている東混、それに対する憧れというものだろうか、あるいは、例えば私が演奏できないオーケストラを聴くようなものなのだろうか。いずれにせよ、東混が見せてくれる新しい世界というのに、私は、初めて聞いた『夢の意味』とほぼ同じような気持ちのまま、没入してしまっている(そうして又こんな駄文を認める)。

***

 あるものに接するとき、人には誰しも、邂逅の瞬間がある。突然の出会いかもしれないし、片思いに片思いを重ねて実現する出会いかもしれない。感動的な出会いかもしれないし、もしかしたら出会いたくなかったものかもしれない。なんにせよ、その最初の出会いの、その印象と、得られた利益、あるいは今後に繋がる課題を「原体験」として、私たちは心の奥底のどこかにその思いを係留し、その「原体験」をきっかけに、様々な思索を深めていくことになる。まっさらな中に得られた経験は、他の経験と結び付けられ、あるいは新たにカテゴライズされて、自身の中に整理され、その先、印象を深めていくにあたっての重要なヒントを自らに再生産する。
 私にとって東混が、本格的な合唱の世界に触れる「原体験」であったように、巨匠・田中信昭をしてまた、「原体験」があったのだ。東混を創始し、自らをして団を引っ張りながら、国内を中心とする多くの作曲家に、合唱作品を書くきっかけを作った――この人がいなければ、武満徹も三善晃も、合唱作品を書かなかったかも知れない――、合唱界における「生きる伝説」である。合唱界の最先端を駆け抜けている田中信昭にあって、音楽の「原体験」は、旧制高校の合唱部における経験であった。その後、東京藝大を卒業し、先述した大成をなす田中信昭であったのだが、なにも、当時の学友がすべて音楽の道に進んだわけではあるまい。しかしながら、当時一個下で合唱部に在籍し、就職してもなお日曜作曲家として音楽の道を捨てずにいた者がいた。
 そう、今日、第1ステージに、「後輩」たる多田武彦の『柳河風俗詩』を取り上げたのは、その意味、実に必然である。田中信昭を育んだ土地で、田中信昭の親しんだ音楽を演奏する。アマチュア合唱の世界では、特に男声合唱に親しんだことのある者にとっては、決して知らない者のいない、名作中の名作である。しかし、それは逆説的に、東混にとっては、まったくもって新鮮な経験であった。事実、東混が多田武彦の作品を取り上げたことなど、あったとしても指折り数える程ではあるまいか。それだけに、第1ステージからして、あらゆる意味で注目させられる演奏会だったのだ。
 全員の入場が終わり、田中信昭が入ってくる。拍手万雷、そして鳴り止むその瞬間、演奏会は田中信昭に支配される。当たり前のように聞こえるかも知れないが、しかし、なかなか理想的にそうはならない、演奏会の空気を支配する力。それだけの力を持っているのが、田中信昭なのである。最初から最後まで、物音の一つも許さない(ように感じる)演奏は、爾来東混が築いてきた、日本の合唱における一つの到達点である。勢いという意味では物足りなさを感じたのは、若気の至りだろうか。しかし、各パートの旋律が自立し絡み合い、音楽が目の前で生きているさまは、フレーズが、決して衰えること無く次へ繋がっていくのは、この団でないと成し得ないところである。
 第2ステージと第3ステージは、日本の合唱を形作ってきた田中信昭という、第1ステージが「音楽愛好家としての田中信昭」だとするなら、「職業音楽人としての田中信昭」を見せるステージである。今回選ばれたのは、2つとも、「うた」が主眼とは言えない――広義での「音画」的作品である。「まじない」がテーマにある『オンゴー・オーニ』は、そのエネルギーをそのまま音にし、音をして超常現象を成し得ようとする試みといってよいだろう。(当時の)アマチュアが、まず演奏の困難な曲を、東混はかねてから得意としてきた。いわば、人間自体の、超常的なものに対する畏怖という「原体験」を、この曲を通じて、私達は追体験することになる。身体をして感動する――以前私が書いたことだが――、そのことをして、この曲は「原体験」そのものとなる。導かれるように掻き鳴らされた音の中に、しかし、アンサンブルにおける心地良い「遊び」が、私達の想像力を深めていく。
 第3ステージは、逆に、最近の作品である(否、オンゴー・オーニも「高々」1981年の作品なのだが)。新実徳英と和合亮一が、2011年震災以降中心テーマに据える、震災・原発事故に対する叫びや呻き、あるいは祈りといった感情への対峙。二部作『黙礼スル』は、その流れの中にある。濁流に、絶望に飲み込まれた人々の叫び、なすすべのないことに対する呻き、そして、すべてを慰めるための祈り。畳み掛けるように掻き鳴らされる畏れや鎮魂に対して、すべてを昇華するようにして演奏される、倍音に満ちた祈り――思わず天井を見上げ、降り注ぐ響きを集めようとする。そこには、言葉にし得ないものの共通する、愛するものに対する「原体験」的感情が宿っている。いいようのない美しさに、いずみホールが満たされたその時よ。
 第4ステージは、お楽しみステージとしての選曲。小品ながら、グルーヴ感やフレージング、そしてソロやテンポの揺らし方、掛け合い、そして変声に至るまで、各所で活躍し、それぞれに力を持つ東混の技術力を余すこと無く魅せつける編成である。当事者をして軽い気持ちで歌うそれらの作品は、ある人にとっては、間違いなく憧れとなる。小品の中にこそ、本物はその姿を隠すこと無く、衆目をしてもハッキリとした形で現前する。そんな演奏が目の前にあることに、私たちは驚嘆し、そのことを「原体験」として備えて、その憧れに近づこうとする演奏家がいると又、それも信じたいところである。

***

「原体験」をして、時代はめぐる。それが、東混60年の積み重ねであり、これからの東混が積み上げていくものである。今年もまた、東混は関西の人に深い感銘を残していった。感動する部分は各々で違う。だが、それでいいのだと思う。そうしてまた、それぞれの心の中にそれぞれの「原体験」を備えて、また、多様な未来が生まれていくのだとしたら。――私たちは、いつだって少年なのだ。「わがふるき日のうた」に心を奪われ、そのことを思い出しながら、新たな理想を開拓していく。
 音楽監督・山田和樹をはじめとして、客にも大物の姿が目立ち、まさに、田中信昭の事跡を思い知らされた演奏会。しかし一方で、この演奏会には、翌日の福知山演奏会を振る高谷光昭の姿をはじめとして、若手の姿も多く見られた。これまでの時代を作ってきた伴走者と、これからの時代を引っ張るトップランナー。世代と世代とが交錯して、合唱の「原体験」を追い求める演奏会。その視線を一身に集める田中信昭の背中は、とても大きく、いつだって、凛々しかった。
 奇しくも、私が自身の名前を委嘱会員名簿に連ねたのを確認したのは、今日がはじめてだった。6年の時を経て、私はこれからも、東混が生み出す全く新しい体験を、今後も見続けることができたらと、心から思う。今日の演奏会だって、何か言葉を連ねようとしたところで、結局、圧倒されっぱなしだったのだ。そんな私は、なおも、あの時の「原体験」を、やはり追い求めているのかもしれない。

2016年8月14日日曜日

【千葉大学合唱団東海市特別演奏会】

2016年8月14日(日)於 東海市芸術劇場 大ホール

・メシーコール
門池「大橋みそカツセット」
名鉄・太田川駅から歩くこと25分。東海市役所・大池公園の北に、ロードサイド型の喫茶店があります。定食もやっている喫茶店、まさに、大通りの真ん中にあり、車で来た時のお昼などに最適な場所です。でも、そんな喫茶店・定食「門池」、実は、それだけではない側面を持っているのです……。
今回、あえて会場を離れる方向へ、この店を訪れました。訪れること、通算2回目。今回のお目当ては、以前回避したこのメニュー、「大橋みそカツセット」を攻略するため。大橋、の名前にピンときた人、……同志ですね?笑 そうです、ここ、私が敬愛してやまないアーティスト・スキマスイッチのヴォーカル・大橋卓弥が嘗て通った店なのです。愛知県東海市の出身にあって、まさに、この店は、いわばタクヤ青春の地。以前、ファンクラブでこの店のことが紹介されていこう、各種メディアへの露出や事務所サマフェス「オーガスタキャンプ」への出店も果たし、着々と、スキマファンの聖地としてのポジションを占めている店です。もちろん、グッズ収集にも抜かりがなく、今回のスキマコーナーは、最新のツアー「POPMAN’S CARNIBAL」仕様でした笑 ちなみに、同じ理由で、中日・浅尾投手の聖地でもあります。
で、この、大橋セット。嘗てタクヤが食べていたメニューを再現したという、「聖地」としての門池における看板メニュー。今日の内容は「大盛ごはん」「味噌汁」「山盛りとんかつ」「キャベツサラダ」「しば漬け」「ミニそうめん」「デザート」……そうです、アホみたいに多いんです!笑 嘗てタクヤは、これに加えてさらにとんかつもう一皿食べてたとか……(戦慄)
そんなわけで、今回は、太田川駅最寄りの新しいホールでの演奏会とのこと、こんな好機になぜ行かぬ、とばかりに、お昼はその店で過ごしたのでした……ちなみに、なんとか大橋セットを打倒した当方、その後開演までの道すがら、腹いっぱいで苦しかったというのはまた別の話……演奏会前に食べるものじゃないな、アレは笑

そんなわけで、千葉大合唱団の演奏会。栗友会の一角が、堂々の名古屋登場です。え、東海市? 細かいことはいいんじゃあ!← しかし、夏の演奏旅行というのは、有名団の特権ですね。羨ましい。いずれ当方もあやかりたいところ。
ちなみに、若干チラシ配りに協力していたら、パンフレットの「スペシャル・サンクス」に名前が連ねられていました……そんな、感謝されるようなこと、したかなぁ……苦笑 ともあれ、こちらこそ、ありがとうございます、ということで。

・ホールについて
愛知県東海市に生まれた新しいホール。名鉄・太田川駅は、最近駅前の再開発による発展著しい場所。特急も止まるため、名駅からだいたい30分もあれば辿り着ける点、さほど遠いという印象もないホールです。そりゃ、名古屋市民からしたら、栄の方が近いじゃん、とはなるんですけれども笑 なお太田川駅、全国的にも珍しい3階建て駅舎・2層式ホームで有名でもあります。
座席数広めで2階席もある多目的ホール。音楽に限らず何にでも使えそうだなぁという割に、比較的よく響くこのホール、前評判からして非常に期待度の高いホールでした。その期待を裏切らない、素直な響き方で、すっと消えゆく、音楽に理想的な音響。ただ敢えて言うならこのホール、音量を拾ってくれるホールではないので、付き合うのは難しそう。鳴らせればそりゃ、いつものようになんてことはないんだけれども、響かせ方が悪いと奥に引っ込んでしまいます。
そして、このホール最大の特徴はこれだと思ってる。1階席が、絶壁! いやぁ、絶壁ホールって結構いろんな場所にありますけど、ここまで清々しく絶壁なホールは久々に見ました。座席規模が大きいから、気分としては、中電ホールや東文小なんかよりもずっと絶壁感がスゴいような気がしています。ただ、絶壁、ということは、舞台公演としては、基本どの席からでも見たいものが見れるということなので、その点では全然ありなんだと思います。
今回の特別演奏会は、栗友会が嘗てこのホールでのこけら落とし公演に噛んでいたことがあることに由来するそう。一種、凱旋的な演奏会です。

学生団に珍しく、エールをやらずに、そのままスタート。入場は、1ステは若干遅めだったかしら? でも、気付いたらあっという間に並んじゃってるから、それはそれで不思議な気持ちに……笑

第1ステージ
高田三郎・混声合唱組曲『心象スケッチ』(宮沢賢治)より
「森」
「さっきは陽が」
「風がおもてで呼んでいる」
指揮:佐々木晶

まずはご挨拶ばかりに。爽やかな、ああ、学生団だ、というサウンドが飛び出してきます。どこまでも明るく、どこまでも素直で真っ直ぐで、逆に、それだけに音楽が擬制されているような。
原則何より、あらゆることをちゃんとこなす器用な合唱団だと思いました。あえてこう言いたい、さすが栗友会。音程もバッチリでよくハモって聞こえる。時折ダレる場所こそあれど、全体としては及第点も及第点、名古屋では中々聴くことのできない水準の、十分満足な演奏を聞かせてくれます。でも、だからこそ、それが課題となってしまうのが、こういうアンサンブルのポイント。あらゆる場所で同じ響きを、少なくともこのステージでは使ってしまっていたから、表現に対する深みがいまひとつ足りなかったように思います。言ってみれば、ディナーミクに頼り切りになってしまっていた。あふみの時に言ったことを逆にとれば、もっともっと、一音一音に対する研究が、高田音楽にあってほしいところです。
とはいえ、そこは学生団。それも第1ステージ。ある意味、「爽やか!」その一点で音楽を作ってしまっても、何ら問題は無く、むしろそれでいいような気がするのですけれども笑

そこで前列の席からガヤガヤと人が立ち上がり、ステージへ。賛助の皆さんが空いたところには、千葉大の団員が。なんか、聞き合っているッて感じがステキです。

第2ステージ・賛助ステージ
演奏:東海市民合唱団
arr. 寺嶋陸也
文部省唱歌「冬の夜」
滝廉太郎「荒城の月」(土井晩翠)
文部省唱歌「村の鍛冶屋」

賛助ステージ。ホールの誕生とともに生まれた市民合唱団。まさに、「合唱」、その言葉の意味を再確認させられる、声を合わせ歌を楽しむ合唱団。所謂技術的な面で言えば、決して高いわけではないものの、しっかりと音はあたっていて、響きも高めなのが好印象でした。そしてなにより、このホールが、そして、音楽をするのが楽しいのでしょう。非常にアツい演奏をおやりになる。人数もあってか、強くしたからといって特に崩れることもなく、エネルギーをそのままボリュームに転嫁できていたのが好印象でした。特に、「村の鍛冶屋」など、本当に音楽を楽しんでいる様子が印象的でした。こういう歌が、またいいんだよなぁ。これまた。

インタミ20分。この規模の前プロにして長すぎないかと思ったところで、イヤイヤ、この時間を使って、指揮台を高くしたり、一部台バラしたり、さらにはオケピットをつくってそこにピアノを運んだりしなければならないのですから、これくらいあって当然ってもんです笑

第3ステージ
池辺晋一郎・合唱(混声)のための探偵劇『歌の消息』(加藤直/台本・演出)

「どこからきたのか?」
「失踪」
「たとえれば」
「ボクは此処に居た」
「此処ではない何処か」
「“意味”のバラァド」
「探偵団」
「さまよう青春」
「無題」
「噂」
「尋問」
「夜のうた」
終章
指揮:栗山文昭
ピアノ:澤瀉雅子
舞台監督:植杉光芳
照明:成瀬一裕(あかり組)

今回の目玉となるステージ。栗山先生がオケピットに入ってくる様子をして既に絵になります。1994年、合唱団OMP(現・合唱団「響」)初演です。12曲に前後くっついて、さらに演出も入る超大作で、何より見るだけで体力のいる曲笑 まして曲ともなれば、池辺先生が栗友会からの委嘱に気合を入れまくったのか(否それは事実だろうな……笑)、古きよき難曲要素を、和声、旋律ともにふんだんに取り入れて、バラードからスウィングまで、妖しくも輝かしいものが光る、独特の質量感を表現しています。そう、歌いこなすだけでも異様に大変なこの曲に、なんと本格的に演出まで入れてしまって(否そういう曲なんだけど)、ひとつの探偵劇を構成します。
技術的な面については申し分ないでしょう。さっきまで、軽いかな?と思わせた部分も、指揮者のなせる業か、再演からくる慣れからか、はたまた、曲が導き出した音色によるものか、この曲によく合った、充実したサウンドが鳴っていました。しかしまぁ、歌うのですら大変なのによくぞ動いてもなお、あのクオリティをキープできるものです……笑
この曲における「歌の消息」について。具体的なストーリーを追っかけるのも、何か野暮な気がします。このステージにあって、様々な「歌」をして、各々のメンバー、そして、各々の観客は、各々の「歌」を探しに行きます。言葉の絶えず交錯する先に、心の奥底にある「歌」に対する記憶が呼び起こされていく。その中にあって、行き先を失っていた歌は、各々の心の中に、その行き先を再発見していく、そんなような気がしています。
ともすると、この曲自体の「歌の消息」は明白です。この曲は、それ自体が体験になる。まさに演出をして、その部分がわかりやすく構築されています。演出がないといけないわけじゃないかもしれないけれど、演出があることによって明白に定義づけられていく「歌の消息」。この演出と、この歌、そしてこのステージは、紛れも無く、一期一会。人によっては、――今日は小さい子も多かった――、どこかで聞いたような気がするけれど、といった「消息」を尋ねるべき「歌」に、この曲自体がなりえます。それは、不幸なことなのか。否。こうして音楽は、その業をなし得るのだと思います。消えゆくものだからこそ、それ自体が「消息」を尋ねる体験であると気付いた時、この曲は、循環的に、この曲自体の「消息」を尋ねゆくものだと思いました。
……などと色々呟いてみましたが、久々に本格的なパフォーミングアーツを見せられました。割とコンパクトな構成だった、というのが、これまた、プロのなせる業なのです。スッキリと、やりたいことだけに主眼を向けることで、しかし、メッセージが逆にハッキリと浮き立つ構成だったように思います。勉強になりました。

アンコールはなく、そのまま終了。そりゃそうか……笑

・まとめ
長いようで短い、短いようで長い、そんな演奏会でした。確かに重いプログラムをやっているんだけれども、一気呵成に見せてくれるもんだから、くどいわけでもなく、しかも作品もグイグイ引き込んでくるもので、余計に短く感じました。とはいえあるプロ曰く、こういうのは、もっと見たいと思わせるくらいがちょうどいいとのこと、とすると、これくらいがちょうどいいのかも。
その、長いような、短いような時間というのも、ひとえに、この演奏会の感動の由来が「身体性」によるものだからかな、と思いました。身体をして感じる知覚の共有、とでも言っておきましょうか。いってみれば、眼前に広がる光景に対して、身体が、さもそれを追体験しているかのように感じるんです。よく、名演に接すると自分も歌いたくなる、だとか、自分も歌ったような気分になる、という表現がされることがありますが、まさに、そのように、自分が具体的に為しているわけではないのに、さも、その只中で経験しているかのような心持ちになる。知覚が、自分の中で認識されるにあたって、身体的な事柄と関連付けられることを、身体性、と呼びたいと思います(似たような哲学的文脈が存在しますが、正確に論旨を追っているわけではないので、あくまで独自解釈として)。
いってみれば、今回の「歌の消息」は、身体的体験に他ならなかったのだと思います。もちろん、歌のみをしても十分ありえる感覚です。歌が、そして、それが見せる和声が、その只中にあって、自身をして、その音画的風景の中にあるように思わせる感情。今回は、池辺作品にも勿論加わるそのような音的側面の身体性に加えて、視覚的・運動的な身体性、すなわち、動きや光に関する身体性も加わりました。処理すべき情報が多いのですね。その分、抽象的に受け取った身体として、感じいるところがおおかった。
とどのつまり、「五感で感じる」ってやつです。五感で感じて、五感が受け止めて、五感が反応する。全身が感動する。単に「動きをつける」といって、表面上で何か楽しい要素をつけようというのでない、心の底から、芸術として、身体性と正面から向き合う表現。それが、栗友会の、千葉大のシアターピースなのかもしれない。千葉大の団員の、FBコメントでも、「シアターピースなんて……と嘗て思っていた」旨の内容がありました。でも違う。これは、芸術なのです。まぎれもなく。
もっと、いろんなシアターピースを見てみたいな、と思いました。もっと、奥底から感じる芸術を。……とりあえず、トリエンナーレのパフォーミングアーツでも見に行こうかな……笑

2016年8月11日木曜日

【あふみヴォーカルアンサンブル第6回演奏会〜音楽と文学のクロスロード〜】

2016年8月11日(木・祝)於 安土・文芸セミナリヨ

……ざわめきが聞こえる……
「わたべ、最近全然合唱の演奏会行って無くね?」
「行ってたとしても海外のプロ組相手にポエム書いてばっかりだし……」
「最近行ったのは……めっせと……え、あとドラフト?」
「え? あれ合唱やってたの?」
「さぁ……?」
……というのはともかく笑 わたべは最近は、プレーヤーにまわったり、聞いている演奏会があっても運営サイドにまわっていたためレビューできなかったり、わざわざ千葉までレビュー対象ではない演奏会を聴きに行って挙句当日になっていきなりビデオ係やらされたりで、実はかなりの確率で合唱をやりまくる生活は送っていたのでした笑 そんなわけで、断じて合唱から身を引いていたわけではないのです(むしろここんところ確か毎週合唱関係の何かしてる←)
そんなわけで、本当に久々の、アマチュア団探訪です。今回は、以前うちの団に宣伝に来てくださって、そのまま流れでチケットを買った、あふみヴォーカルアンサンブルさんの演奏会。ついに今年も18きっぷデビュー笑 遅咲きで、現状の予定だと余す予定ですが、かといって夏休み特に予定もないので、せっかくだから「とあること」して使い潰そうかなと考えていたら、この記事書いてる途中に予定がほぼ確定しました。今回のきっぷ使いきり、確定笑
で、この団の演奏会。これまで嘗て聞く機会こそなかったものの、とても前評判がよい。なんなら県外含めて実績も豊富。何気ワクワクしながら向かったのでした。

・あふみヴォーカルアンサンブル
世の中、アンサンブルブームです。特に愛知県なんかひどいのなんの(否ひどいっていうか笑)。愛知県アンサンブルコンテストなんて、ついに団体数膨らみすぎて、かつてののべ2日開催が延長して、のべ3日開催が決定です。大規模な合唱団でも、アンサンブル練習が重視され、ひとりで歌う力だとか、音楽を前へ進める原動力を養うだとかで、格好の練習材料となる。そして実際、少人数アンサンブルって、うまくいくと演奏が精緻になって、キレイに響くから、最近来日の多い海外アンサンブルを含めて、うまいアンサンブルは本当に好まれます。
かたや、日本において、アンサンブルのみで活動をしている団がどれくらいあるかというと、最近東京のプロ界隈でこそ色々と特色ある団が出てきたものの、現状、決して多いわけではない。どちらかというと、アンサンブルって、スポットでの活動というイメージが強い。そんな中にあって、永らく、指揮者を置かないアンサンブル団としての活動を続けているのが、この団です。実際のところ、同じく滋賀県を本拠とするプロ「びわ湖ホール声楽アンサンブル」と同い年という笑 ルネサンスから近現代、古楽器との共演など、レパートリーの幅も広く、近年では、2012年に福島の全国アンコンに出ているという実力を誇ります。今年ですと、アルティへの出演もあったとのこと。アンサンブルトレーナーに、関西で活躍する石原祐介氏を、ヴォイストレーナーには同じく関西で活躍する矢守真弓氏を置き、今も精力的な活動で注目を集めています。

・ホールについて
さすがに初見のホール。最寄駅はJR琵琶湖(東海道)線の安土駅。米原駅から見て京都側にある、普通列車しか止まらない駅です。この沿線、大垣〜京都で降りたことって、今回が初めてです。……山科で乗り換えたことがあるってのはともかく笑
レンタサイクル店がひしめき合う(それ以外?何のこと?)駅前から徒歩で行くと、田んぼの中を抜けて行くこととなるホールです。何も冗談を言っているわけではありません。すぐ沿線に線路があり、駅前が割と賑わっている名鉄国府宮駅前よりも、考えようによっては状況はひどい(笑)かもしれない。徒歩だと25分かかるし笑(シャトルバスも出ていました。当方行きは徒歩、帰りはバスで)。お米たちは有機栽培でやっているそう。花を落とし、愈実り始めた垂穂に、関係各位の苦労が偲ばれます。
そんな、自然に囲まれた田舎(コラ)にあるこのホール。隣には織田信長の記念館もあり、南蛮文化を象徴してか洋館風の建物が印象的な、ある意味、とても風景にあった外装。かたや中に入ると、ホールは、とてもシンプルな内装。シックな色合いのパイプオルガンが目を引くほかは、壁の装飾も抑えめに、ナチュラルな木の色と、緋のカーテンを引くことのできる壁。規模は大体名古屋の文化小劇場〜豊中のアクアホール程度の大きさと程よい感じ。椅子は、「ザ・市民ホール」な角ばった赤色クッションですが、その規模感といい、予ベルの教会の鐘の音を録音したような荘厳さには眼を見張るものがあります。
そしてなにより、演奏始まる前から期待していたんです僕は。喋り声がすっごく響く笑 ワクワクして待っていたら、なんてことはない。邪魔しない残響がホールいっぱいに響き渡り、そして邪魔することなく高い天井へすっと消えていく。奇しくもホールいっぱいのお客さんに支えられた今回の演奏会、それでも、曲の終わりの残響時間はすっごく長い時間キープされている。抜群の実力を誇るクラシックホールです。出会ってきたホールの中でも指折り数えるもっとも優秀なホールの一つです。
いやぁしかし、これまで行ったホールの中では一番空気が美味しい場所にありました。第一回山の日にはピッタリですね!笑

ホールの9割を埋める大盛況の客席の、一番前にはなぜかプロジェクターが。で、開演前になると、突如としてスクリーンが降りてくる(しかもデカイ)。何が始まるのかとおもいきや……石原先生のプレトークでした笑 開演前に、曲目解説をしようという試みの様子。作曲時期の年表から、作曲家たちの来歴について、スクリーンに映るは、まさに講義スライドそのものといった内容、さすが、京都芸大で非常勤講師をやるだけはある……笑 去年は台風直撃で、某合唱ブロガーさんはついに上陸を断念したあふみの演奏会。今回は、団員一堂「リベンジ」と意気込んでいるとのこと。……って、演奏会は開かれたんだから、「リベンジする必要ないじゃないか笑」(石原)

第1ステージ・ルネサンスの音楽
Sheppard, John “In pace”
Clemens non Papa “Heu mihi Domine”
Mouton, Jean “Quaeramus cum pastoribus”
Wert, Giaches de “Vox in Rama”

スクリーンを上げて笑、まずはルネサンスから。とはいえ、もうやられちゃいました。この、最初の音出した瞬間から。鍛えられた声が揃うとこんなにも美しいのか! 本当に美しいアンサンブルが全体を支えていました。決してはめるだけのルネサンスではない。この時代の音楽って、ハメるだけで案外音楽が完成したように見えちゃうんですけど、実際のところはそんなこと全然なくて、各パートが推進力を失ったらとたんにアンサンブルが衰退していくんですよね。この団は、どのパートもちゃんとフレーズを持っている。だから、ストーリー性の高いところではちゃんとその物語を語るし、たとえヘタったとしても、それをちゃんと持って返す能力だってある。1曲目はたとえば、少しテナーの音がずれたりもしたけれども、全体の和声の進行がなにより聞かせるし、逆に、2曲目では、全体が減衰しそうなところをテナーがしっかり引っ張っていった(こう書くと、テナーが気分屋パートのようだ……笑)。母音の響きには正直バラツキを感じる面こそあるものの、しっかり音楽を進める能力が、例えば4曲目に特徴的な半音進行による転調なども軽やかに、この音楽かくあるべき、ということをちゃんと主張して曲を作り上げていく。まさに、理想的なルネサンスアンサンブルの姿、その原石をここに見る思いです。ホールの響きもあって、まずなにより、このステージで僕はこのアンサンブルに心奪われました。

第2ステージ
高田三郎・混声合唱組曲『心象スケッチ』(宮沢賢治)
「水汲み」
「森」
「さっきは陽が」
「風がおもてで呼んでいる」

賛助に、どうやら乗りたかったらしい、4ステ登場予定のチェンバリスト・小林祐香氏を迎えて笑 このステージから、愈演奏会は本題へ入っていきます。今回のテーマは「音楽と文学のクロスロード」。それぞれ周年イヤーを迎えた有名文学作家からインスピレーションを受けた作品を演奏。日本語からは、宮沢賢治。今年は生誕120周年だとか。彼が詩集をしてこう呼ばしめた、「心象スケッチ」を、高田音楽に珍しく、小品に仕上げた作品。実はなにげに、組曲としては初めて触れる作品となりましたが、この曲いいですね。どうしても性質上重い音楽の多い高田作品にして、ある意味楽しく歌うことの出来て、軽く進んでいく作品たちが小気味よい。いやぁ、こんなこと書いていると、知識不足だと怒鳴られそうですが笑
で、この曲とて、しかし、高田音楽なわけで。聞いているだけでも伝わる、音に対する集中力への要求笑 しかし逆に言えば、それは、このアンサンブルがその音をしっかりと情景にまで昇華させていたということ。ただキレイだとか、ただちゃんと楽語記号を付けられているとか、そういう世界じゃどうにもならない高田音楽の有機性を理解した演奏は、曲と曲で異なる性格をちゃんと表現し、その風景を、空気感を目の前に現前せしめる。なにより白眉は4曲目。高音でも無理することなく、クリアかつよく響くぱりっとしたサウンドが、最後の響きまで美しくしていきました。その繊細さと大胆さの同居が、色彩豊かで晴れやかな高田音楽の風景を、水彩画のごとく描いていきました。

インタミ15分。同じく愛知県から遠征してき某合唱ブロガーさんとお話していました(ということは……お楽しみに!笑)。しかしまぁ、窓の外に見える風景が長閑だ……笑

第3ステージ・現代の合唱音楽
Chilcott, Bob “Before the ice (O magnum mysterium)” (Emily Dickinson)
Komulainen, Juhani “Four Ballads of Shakespeare”
1. To be, or not to be
2. O weary night
3. Three words
4. Tomorrow and tomorrow…

1曲目はダブルコーラス。女声7人、男声4人……この人数で以てダブルコーラス!w まずなにより、これを以てスゴいものです笑 2曲目のコムライネンは、最近逝去したラウタヴァーラ氏の弟子。もちろん一群だけです笑 ディッキンソンは今年没後130年、シェークスピアは今年没後400年の周年イヤーです。たまに、シェークスピアの合唱作品は取り上げられますね。いずれも英語曲のステージ。ディッキンソンはアメリカ、シェークスピアはイギリス、そんなわけで、いずれも英語曲。
……そう、苦しめられる点があるとすれば、この英語! 先ほどちらっと、母音がバラける、といった話を書きましたが、まさにその点がネックとなりました。母音のバラケが特にチルコットで、致命的にアンサンブルがバラける要因となってしまいました(これまでが良かっただけに!)。さらに言えば、チルコットは、一群あたりの人数が減るために、どうしても安定性が減ってしまう。アカペラというだけあって、徐々にピッチが落ちることこそあれ、その落ち方が各パートばらばらであったために、結果、要するによく揃っていないように聞こえてしまいました。コムライネンも、その影響引きずって、ではないにしろ、少しだらけてしまったでしょうか。この曲でも課題は発音。音も含めて少し荒々しくなってしまったのは、やはり、英語曲は難しいと多くの人に言わしめるその所以か。特にこの団は、ラテン語が本当に素晴らしいだけに、尚更。
しかし、決めるべき和音、決めるべき箇所ではしっかりと決めにかかるこの団。こういう、音楽に対する最後の意地というかプライドというか、不思議と、上手い団はどこも持ち合わせているんです。音楽に責任があるというか。

今回の4ステは、チェンバロ伴奏という珍しい曲。4ステ始まる前に、チェンバロ移動、そして、長い長いチューニング。そう、弦を弾いて演奏する大正琴のような楽器・チェンバロは(否チェンバロの方がはるかに先だけど)、どうもちょっとのことですぐピッチが狂ってしまうみたいです。開演前にもチューニングしていたのですが、それでも、わざとずらしたりもしていたのか、結構目立って変わってしまっている音もありで、中々大変な楽器なのだなぁ、というのをまざまざと思い知らされました。そして、チェンバロのもうひとつの大事な特徴。それが、鍵盤をどう押しても音量が殆ど変わらない、という点。つまり。

第4ステージ
Monteverdi, Claudio “Lagrime d’amante al sepolcro dell’amata” (Scipione Agnelli)
1. Incenerite spoglie
2. Ditelo, o fiumi, e voi
3. Dará la notte il sol
4. Ma te raccoglie, o Ninfa
5. O chiome d’oro
6. Dunque, amate reliquie
チェンバロ:小林祐香

オーダーは、チェンバロがアンサンブル側に向き、それを、アンサンブルが囲むようなもの。個人的に「24の瞳スタイル」と呼ぶ(今呼びはじめた)オーダーです。このオーダーにしてなお問題となること、それは、チェンバロの音量の限界という問題。これはもう、チェンバロ編成の宿命なのですが、合唱団の声に負けてしまったところで、その段階でもはやどうすることも出来ないという。いやぁ、チェンバロ編成の実演に触れたのは初めてですが、まさかチェンバロの限界というのがここまでまざまざと現れるものだとは。そりゃ、フォルテ・ピアノ→ピアノ・フォルテの流れへと行くわけですわ笑
音楽については、もう何の問題もありません。チェンバロの機能的な制約はともかく、アンサンブルも、チェンバロとよくセッションできていたし、何より、来て欲しいところに来て欲しい音が、来て欲しい勢いのまま、来て欲しい情感を伴ってやってくる。その安心感と、そのシームレスな音楽の進行が何より気持ち良い。全体をして決して明るい曲調ではなく、曲のテーマ「愛する女の墓に流す恋人の涙」をして、そしてモンテヴェルディの音画的手法からして当然なのですが、逆に言えば、その静謐さ、先を見通す危うい透明感が音楽としてとても美しかった。
各パートがしっかりと主張するところがあるから、全パートのtuttiがよく際立つ。キレイながらしっかりと主張することを厭わないのが、何よりこのアンサンブルの魅力なんです。最後にして、その実力が本当によく顕れた名演となりました。

そのまま代表あいさつ。さらに、アンコール曲名発表。だがこれが、なんと、編曲者を聞きそびれてしまった!

・アンコール

所謂「きらきら星」。だが、このサウンドをして、そしてこのアレンジをして、この曲は本当に絶品なんだ! フレーズがしっかりと収まること、風景描写的に響く「twinkle」の囁き、そして、それらがしっかりと責任感を以て鳴るということをして、全体としてとても綺麗に鳴る。一般受けをし、さらに技術をも再確認させられる。この演奏会にして締めにふさわしい作品。
しかし本当いいアレンジ。編曲者情報求ム。否これは、ブログのためではない、個人的趣味だ!←
※2016.8.12 追記:この後、N氏(星◯一の主人公ではない笑)から情報提供を受け、編曲者が判明! 2013年の作品だそうで、Westminster Choir による録音が作曲家本人名義で上がっています。ちなみに、上に貼り付けたリンクは、N氏からの情報提供に際して頂いた音源。関西で隆興しつつある某団、ですね笑

そのまま終演。しかし、米原からは豊橋行きの新快速に乗れただけあって、本当あっという間に名古屋に帰ってきました。卓球の愛ちゃんを見終わってから家を出て、名古屋に帰ってきたのが18時半ころ。実に外出時間9時間程度。もうなんか、近所に遊びに行ったような気分ですね笑

・まとめ
本当に、ひょんなことから手にした演奏会チケットだったものの、行ってよかった! まさかこんな場所で(失礼)絶品のアンサンブルに出会えるとは思わなかったもので。美しいサウンドと、なにより主張するメッセージが同居する、まさにそれは、アンサンブルの理想形のようなものでした。うまくやらないと大人数の合唱団以上に音楽が停滞してしまう少人数アンサンブルにあって、このアンサンブルについては、その心配は全く無し。着実に進んでいく音楽が、そのメッセージを確かなものとしていきました。
いってみれば、このアンサンブルは、心で揃えているんです。詩の、曲の心を理解し、眼と耳をふんだんに使って、団員の心を、五感を研ぎ澄ませながら感じ取って、ようやく一つの音を、一つの旋律を生み出す。その慎重さにして、決めるべきところで思いっきり決めにかかる大胆さ。水彩画と先ほどは表現しましたが、いってみれば輪郭に関しては水墨画のように、薄墨と濃墨が折り重なって生まれる絶妙な風景描写。
美しい中にあって、でも決して、キレイだけで終わらない。キレイなだけの合唱団って、正直いっぱいあるんです。音をキレイにすることの努力というのは、そりゃもう、痛いほど分かっているんですが、それでも、キレイなだけで終わってしまう合唱団って、本当に、キレイなだけなんです。キレイな中に、この曲をどう表現したい、こう表現することこそが、この曲を音楽たらしめる要因だ、そういった意思がなければ、音楽はいきいきと響いてこない。フレーズ一つ取ってもそうなんです。このフレーズがどう収まるべきか、そう収めるためには、前の音をどういう音色で鳴らしていけばよいか……その試行錯誤の末に生まれるのが、血脈流れる人間的な音楽。なにも、所謂無機的な音楽がアカンわけじゃないですし、それはそれで素晴らしい。でも、今たとえばコンクール音楽の限界のようなものが叫ばれるとき、多く共通するのは、このような無機的な音楽におけるグラス・シーリングなのではないでしょうか。
音楽は、常に主張とともにある。それは決してお題目でも、現代における理想でもなく、音楽における、現前する課題なのだと思いました。

・メシーコール
そば処さわえ庵「あわび茸ざるそば」
あんまり書いてなかったんですが、実は最寄りの安土駅周辺、食べ物屋がまるでありません笑 それこそ、デイ◯ーヤマザキすらない。いったいこの近辺に住む人々はどうやって飢えを凌いでいるのか……否まさか、皆が皆コメ農家ってわけではありますまい笑
ってことで、駅前になんとかあった蕎麦屋で昼食。「竜王そば」という郷土そばがあるそうで。そして、あわび茸という、珍しい地の絶品きのこを載せて。濃厚かつ歯ごたえのあるあわび茸と、爽やかであっさりとした竜王そばがよく合った、なんとも素朴な味わい。それでいて、蕎麦湯も蕎麦茶もよく香る竜王そば。まさに、旅の途上に食べる蕎麦は、主張しないながらも、それでいて、ほっこりと、心の奥底の印象に残るものであって欲しいのです。まさにそんな、安心できる味わいでした。あ、近江牛食べたい方、ご安心ください。この店、近江牛蕎麦ありますので!笑

2016年8月2日火曜日

【カンテムス少女合唱団 Japan Tour 2016 名古屋公演】

2016年8月2日(火) 於 三井住友海上しらかわホール

〈歓迎演奏〉
豊田市少年少女合唱団
指揮:永ひろこ
ピアノ:掛川遼平*
信長貴富「君待つと」(『万葉恋歌』・額田王)
Gyöngyösi, Levente “Convertere, anima mea”
Kubizek, Augustin “Gloria”(Coelius Sedulius)
Tamulionis, Joans “RÁPATA PA”(José Antonio Garsía)
三善晃「音あそび」*

名古屋混声合唱団
指揮:大橋多美子
間宮芳生『12のインヴェンション』より
「知覧節」(鹿児島県民謡)
「おぼこ祝い唄」(青森県民謡)
「米搗まだら」(長崎県民謡)
「まいまい」(富山県民謡)
「のよさ」(長野県民謡)

Cantemus Girls’ Choir
Cnd. Szabó Dénes
Pf. Obbágy Márta
Kocsár, Miklós “Kyrie” “Sanctus” from Missa in A
Tóth, Péter “Panis Angelicus” “Gaudete”(Premiere on Tour)
Caccini, G. “Ave Maria” w/ Fl. and Pf.
Busto, J. “Salve Regina”
Kodály, Zoltán “Hegyi éjszakák”
Gyöngyösi, Levente “Dominus Jesus in qua nocte”(Premiere on Tour)
Gyöngyösi, Levente “Aesperges me” w/ Pf.
Holst, G. “Ave Maria” w/ Pf.

int. 15min

Karai, József “Estéli nótázás”
Kocsár, Miklós “Téli alkony”(Suite)
間宮芳生「五木の子守唄」
arr. 若松正司「さくら さくら」
Kodály, Zoltán “Táncnóta”

en.
菅野よう子「花は咲く」
「ふるさと」(cnd. 大橋多美子)
Kocsár “Jubilate Deo”
(ending choir)
〈カンテムスのプログラムはステージ上で発表されたものの聞き書きであり、誤りが含まれる可能性があります〉
〈2016. 8. 12 一部校正 thanks to M. T.〉

***

 歌は、人が創りだしたものである。そして、その始まりは、とても純粋な動機からだった。――なにも、所謂楽語としての「動機」をのみいうのではない(ギリシャ時代におけるもっとも古典的な音楽は、二度の上がり下がりによる動機=モティーフだったという)。何か音を奏で、その連関が、人を楽しませ、わくわくさせ、共感させ、強く心を震わせる――人間の情動のすべてに語りかける音楽は、まさに人間感情の自然な動機から導き出されるだけでなく、人間感情の素朴な動機を強く揺さぶる。それを人は感動と呼び、なみいる芸術のなかで音楽を芸術たらしめる要素である。
 音は、それをして感動たらしめることに加えて、様々な表情を持つ。様々な形で現れる和声・対位に加え、音色だって楽器でさえ弾き方によってその表情を全く変えるのに、「歌」には、言葉という表情すら加えられる。ルネサンスの頃から特に強く、言葉を止揚・抽象化して音楽の中に落とし込み、言葉の持つ情動を表現することが増えてきた。その試みの最たるものとして挙げられるのが、宗教音楽であり、モテットであった。

 言葉は、独特のリズムを持つ。そしてそのリズムを表現するのが、一般的に作曲と呼ばれている。日本語の楽曲においては特に顕著で、文明開化以後当初、日本の歌曲・童謡といえば、日本語のアクセントに音楽を加えていくという作り方が主流であった。欧州とて例外ではない。当初つくられた聖歌はまさに、教義の音楽化にその主眼が置かれていたわけであって、それは、言葉に音を載せる作業であることにほかならない。
 その流れは、徐々に変わり、ルネサンス前後を機に大きく開花する。言語のアクセントによる長短の工夫、あるいはメリスマ(≒音節の引き伸ばし)の長大化によって、テキストにおける言葉の濃淡を作曲家がコントロールすることを可能にした。それに、古代より続くアルシス・テーシス(称揚と休息)の概念と結びつき、音楽による言語の扱いは愈複雑性を増し、ゼクエンツ(シークエンス、繰り返し)の多用、和声法の発達も相まって、現代へと続く複雑かつメタ的な言語世界の構築へと発展してゆく。
 音楽の中で言語を美しく聞かせようと思えば、歌詞を明瞭に発音するだけではとても足りないのである。必要なのは、音楽の中で言語世界が再現されることにあり、それは、音楽の「息遣い」を知り、演奏することでもある。いわば、言語が日常生活の中に溶け込んでいるだけでは不十分なのだ(勿論、十分アドバンテージにはなるだろうが)。私達の生活のなかに、その音楽が溶け込んでいなければならない。私達の心の奥底にある音楽を、楽譜の、あるいは旋律の指示のまま、呼び起こさなければ、その音楽は「いま・ここ」の存在となり得ないのではないか(だから時折、卒業式だとか合唱コンクールだとかいう場でも、技術度外視で、無碍に感動できる音楽なんてものが生まれたりする)。

 カンテムスの音楽は、モテットとハンガリーの曲を主軸レパートリーとした、徹底的に世俗的な音楽である。もちろん、ミサ曲も演奏するが、それは決して彼女たちの生活からかけ離れたものとは言えない。当たり前のようにそこにある音楽を、当たり前のように歌っていながら、あまりにも洗練されたその音楽に、私たちは心の底から陶酔するのである。様々なレパートリーの中から、その時々に応じてプログラムを選ぶスタイル自体は、音楽小学校を母胎として誕生したプロ顔負け――否、プロ以上の実力を誇るカンテムス・ファミリーのポテンシャルにほかならないが、それは、徹底的なリハーサルの成果というようなものではない。その音は柔らかく、繊細で、しかしとても力強い、矛盾同士が同居してひとつの芸術を作り上げている音である。それらの音が強く共鳴し、曲の和声を最大限に引き出し、ホール全体をならしてゆく。言ってみれば、呟いた音が、そのまま和声になっているようなのだ。それは決して劇的な体験ではない――しかし、えも言われぬ充実感が私達を包む。
 そう、私達は、彼女たちの日常を垣間見ているのである。時に祈り、時に遊び、時にたおやかに伸びゆく、彼女たちの日常を。歌の中に生き、歌とともに育つ彼女たちは、ホールの場においてもなお、その素顔を隠さない。むしろ素顔をして、私達の意識の中に忍び込む。そして、私達は、まるで嘗て昔からその音を求めていたかのように、聞き惚れる。フレーズが、和声が、絶妙に膨らむモティーフが、心の隙間を埋めるように、私達の当たり前の感情に寄り添う。その歌は意思を持ち、響きをして、ホールという非日常の中で、日常を遊ぶ。

 披露された数多くの曲の中にあって、特に新曲たるジェンジェシ「主イエスはその夜」は、今回の演奏の象徴といえるのかもしれない。静かな低声の通奏の中に浮かび上がるメロディが、和声の力を借りて、素朴ながら印象深い旋律を奏でる。それは決して華美とは言えないものの、しかし、確かに膨らみ、旋律が明確な意志を持って自立している。まるで息遣いのように響く音楽が、かつてからそこにあったかのような必然性と、しかし、確かにそこに新しく顕れた存在感を以て、すんなりとにじむ。その素朴さと美しさを、いつまでも独り占めできるのなら、と、ふと思う。
 そう、その音楽は、どこまでも私的な体験なのだ。私しか知り得ない感情の奥底へ、カンテムスの音楽は届くのだ。だれもが持つ私的感情に届く時、カンテムスの音楽は個人的体験となって私達の記憶に残る。それは、歌い手ですらそうなのかもしれない――思い出であり、原体験でもあるその音楽は、自分だけの体験となって、自分のもとに残るのだと思う。

 私達は、果たして、音楽のある日常を、どこまで認識できているのだろうか。決して技術的に悪くなく、よく和声が響いていた豊田市少年少女合唱団と名古屋混声合唱団の歓迎演奏にも、どこか硬さを感じてしまう。推進力、という言葉をよくこういう場合は用いていた。推進力が足りない、音と音の繋がりを、と、よく言っていた。しかし、それはもっと単純な話なのかもしれない。旋律を、おのがものとする力――まさに「歌心」といったものだろうか、それは、私達自身が、音楽に求める感情そのものに対する問い直しのことともいえる。自然に出てくる歌心を、表現しきるのは、容易いように見えて、常に自身との対話を必要とする、深淵な作業でもある。

 それは、やはり、日常の中に生きている音楽にこそ、答えが隠れている。音楽のきっかけは、日常にこそあるのだから。