おおよそだいたい、合唱のこと。

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主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2023年3月21日火曜日

【合唱団花集庵第6回演奏会】

 2023年3月21日(火祝)於 電気文化会館ザ・コンサートホール

「あなたに歌を聴かせたくて」


やっと!


 さて、名古屋ではもはや知らない人も少ないであろう団の演奏会です。全日本では中部を争う、そしてTICCでも優秀な成績を収め、さらには団指揮者が東京カンタート指揮者コンクールに出る予定という、なんかもう、いつも話題に事欠かない団です。とはいえ、この団も例外なくコロナの影響を受け、あの高嶋先生が振るというこの演奏会も、もともと2回の延期を経て12月に開催予定だったものを、直前にコロナ疑い者が複数出たということで、あえなく3度目の延期に伴い、きょうめでたく開演に至ったもの。まず、その事実だけで、この日を迎えられたという事実に、拍手を贈りたいと思います。

 とは申せ、この演奏会、私にとっても「外せない」演奏会。花集庵のレビューは、実は、何度も書く機会があったにもかかわらず、ついに今日に至るまで、単独演奏会のレビューを書くことができずにいたのです。じつはそのうちの一回は、「オープニングを聞き逃した」という理由でレビュー対象から外しています。自分でかってに決めているだけではありますが、全部聞くことができなかった演奏会はレビュー対象外になっています。12月の延期前にも行こうとしていたところ、それも延期に。実に私自身も、延期に延期を重ねた上で、さらには直前の胃腸風邪を乗り越えて、満を持して(?)迎える、花集庵初レビューのときであります笑

 そんなわけで、単独演奏会は初めてレビューするというのに、妙に知った気持ちになっている、そんな合唱団のレビューです笑


・ホールについて

 名古屋は伏見にあるもうひとつのクラシックホール。とはいえ、こちらのほうが老舗でしたか。1986年開館の、クラシック専用シューボックス型ホール。300〜400席と、しらかわホールより一回り小さく、ちょうど、ピアノ・ソロなどには至適の規模感。何度か書いているホールではありますが、意外とこのレビューでは登場頻度が少ないような気がします。名古屋市だと、この規模のホールという意味では、ことアマチュアでは価格優位性の観点から、文化小劇場が圧倒的優位を占めているんですよね。

 しかしながら、このホール、間違いなく、名古屋のクラシックを語る上では欠かせない。名古屋市、否、全国的に見ても、と言ってしまっていいでしょうか。この規模感のホールの中では、抜群の音響を誇ります。大理石造りの内装が織りなす、丁度いい、しかし、贅沢な残響は、まさに絶品の一言。しかも、このホール、なにが素晴らしいって、どこに座っても、後悔するということがまず間違いなくない。庇の下に隠れるのが、せいぜい最後尾のみというところ、その美しい響きをどの位置からも堪能できるというのが魅力の一つです。

 そして、このホールのもうひとつの利点。ケータイが鳴ることが昔から非常に少ない。なぜか。――地下にしてケータイの電波が届かないから笑 困るといえば困りますけれども、デジタル・デトックスも兼ねて、クラシックはいかが?笑


 裏で岡混が演奏会をしているにもかかわらず、少なく見積もってもキャパ8割を埋める、上々の人入り。期待度の高さが伺えます。


 あ、そうそう、開演に先立ちまして。

 今回のレビュー、「まとめ」から読むことをオススメします……なんか、自分でもよくわからないくらい辛口になってます。


Opening

Makor, Andrej "O Emmanuel"

指揮:荒木旬


 噂によると、このホール、平時から客席を使ったパフォーマンスが禁止されているとかなんとか。しかしながら、この団、暗転から独唱→輪唱のうちに明転→展開……相変わらず、こういう演出好きなんだなぁ笑

 で、肝心の音なんですが、これまた「妙に知った気持ちになっている」がゆえともいえる、ちょっと違和感。受容側の立場で言えば、聞き心地も、曲の長さも「小品」といいうる曲なんですが、その中に、表現上、旋律の歌い方やクラスター形成時の声の張り方など、それなりに体力を使う曲です。こういうとき、僕のイメージの中のこの団は、とんでもない集中力をみせるんです。で、圧倒的な説得力を持ってして語らしめて、気付いたら曲が終わっている。

 でも、こと今日については、そんな感じがあまりない。なんだか、微妙な子音のズレや、ロングトーンで息が続いていないような音のゆらぎが見えたり、音が切れるタイミングが、なにか揃わなかったり。なんだか、事あるごとに、「アレ?」となって、集中力が切れる、そんな感じの音作りが気になりました。


I

Victoria, Tomás Luis de "O magnum mysterium"

Poulenc, Francis "Salve Regina"

三善晃 "Go Down Moses"

Narverud, Jacob "Harvest(The Moon Shines Down)"

Chilcott, Bob "We are" (Maya Angelou)

指揮:山崎真一


 うん、やっぱり、そうなんですよ。前のステージを引きずっているというのは確かにあるんだけど、このステージになってもなお、いつもの花集庵なら感じることのできる、あの独特の没入感、アレが感じられない。

 いや多分、悪くないんですよ。並の合唱団だったら絶対に、まず「上手」って書いてから筆をすすめる、そんな演奏。でも、花集庵にもとめているのって、そういうことじゃないんです。例えば、花集庵には、そんな、ハラにチカラ入ってないようなロングトーン求めていないし、ラテン語や英語がカタカナに聞こえる感じも求めてないし、なんというか、音の大きくなるところでガーッと鳴らして「これでいいんでしょ?」みたいな大味な曲作り、求めてないんです。

 とかく、曲のディティルの作り方が徹頭徹尾気になってしまう演奏でした。いや確かに、並の合唱団なら、最後の曲の勢いある感じでサクッと終わって、ああ、良かったなって終わる、それくらい、ある程度「聴かせる」感じにはなってたと思うんですけれども、でも、本当に求めているモノってソレだった?という、そんな、演奏に対して、もっと集中できる場所があったような、そんな演奏でした。

 この点、メモには「弱音に対する意識がもう少しある方がいい?」というメモが残っています。


II

松下耕「あなたに歌を聴かせたくて」(Rabindranath Tagore)

信長貴富・混声合唱とピアノのための『くちびるに歌を』*

指揮:荒木旬

ピアノ:玉田裕人*


 で、その「弱音」に対する意識、このステージになってもなお気になってしまう。どちらの曲にしてもそうなんですが、弱い音の扱いが、強い音のカウンターパートにしかなっていない。強い音いっぱい出したら、そのあとが弱い音になる、みたいな。

 そういう表現だと、「秋」ではどうしても破綻してしまう。前も同じ表現を使ったと思うんですが、この曲は、強い音をしっかり出して「計画的に破綻」する表現をする箇所が中間部にあるのですが、その部分で重要になってくるのが、弱い音の歌い方。ここに説得力がつかないと、強く歌った音が、ただ怒鳴っているだけになってしまう。有り体に言えば、聴衆が置いてけぼりになってしまいます。で、今回は、厳しめに言えば、現にそうなってしまっていた、というのが感想です。こと強い音のみについていうなら、複雑な現代音楽の只中にあってただ黙々と叩き続けるマエストロ下野竜也的表現が欲しい(伝わるのかコレ?)――要は、熱い中に冷静さを求めたいのですが、今回は完全にタガが外れてしまっていた印象です。

『くちびるに歌を』全体を通して言えば、ぶっちゃけてしまえば、途中をどう歌っても、「くちびるに歌を」のカデンツさえちゃんと歌えればステージ全体が引き締まる、そんな曲です。でも、経過がどうでもいいかというと、そんなことはなくて、ひとつ引っかかってしまうと、ズルズルと言ってしまう。あれ、テンポずれてないかな、とか、あれ、ドイツ語の発音これでいいのか、とか、とかく、これくらいに「ちゃんと歌える」合唱団なら、終曲のなんとなくすごい雰囲気だけで、強引に組曲を終わらせるような構成にはしてほしくなかったな、というのが、偽らざる思いです。


 休憩15分。今日はお子さんたくさんのにぎやかな――否、思った以上に静か! みんな偉い!

 しかしまぁ、世の中の幼子たちはどうしてそうも静かに演奏会を聴けるんですかね。我が子では考えられない笑


III

木下牧子「おんがく」(まど・みちお)<女声>

北川昇「歩く」(谷川俊太郎)<男声>

shin「今日」(谷川俊太郎)

宮沢和史「島唄」*

玉置浩二「メロディー」*

中島みゆき「ファイト!」*

指揮:高嶋昌二(客演)

ピアノ:玉田裕人*


 実はきょうの演奏会、どのステージを誰が振るのかアナウンスされておらず(ですよね?)、まぁ言ってしまえば、客の関心のひとつは、「あの」高嶋昌二がどのステージに出てくるのか、という点にあるわけなんですが笑、(個人的には)まさか第3ステージで出てくるとも思わず、びっくりしました。正直、『地球へのバラード』だけかと思ったけど、「ファイト!」歌うのに、せっかくお呼びした高嶋先生に振っていただかないのは、ねぇ笑

 で、このステージ、最初の「おんがく」の出だしの指揮と、そのあとの歌声で、ハッとするんです。ああ、そうだ、何か足りない、もやもやしていたものはコレだったのか、って。最初の音の「息の吐かせ方」とでもいいましょうか、その、流れの作り方が、これまでの演奏とはまるで違ったように聞こえたんですよね。しかも、最初のテキストって、「かみさまだったら」って、どっちかといえば破裂系の音ですよ? それが、自然な息の流れのままに、まるでため息を付くように出てくる。この団の強みと対比したら、若干弱目の音なんだけれど、これまでだったらヘタっていたはずのトーンが、決してヘタることなく、最後までちゃんと出ている。

 経験豊かな歌い手が集まっている合唱団です。あえて言ってしまえば「たかだか」指揮者が変わった程度で、ここまで音が改善するなんて、そんなことないはずなのに。でも確かにかわった、目の前の音は嘘ついていない。コレを、客演のおかげだ、というふうに片付けていいような合唱団ではないはずなんです。でも、やっぱり、後半のステージの弱音は、前半のソレとは一線を画する、秀逸な出来でした。なんだかもう、ソレだけで心がいっぱいになってきます。ああ、ようやく、出会いたかった音に出会えたんだ――と。

 特に評価したいのが、「ファイト!」1番のサビ。この曲のネタバレにもなるのであまり申しませんが、この部分のサビは絶対に強く歌ってはならないところ、それをちゃんと表現できていた、その時点で(むしろ最後を聞くよりもはるか前に)今回の「ファイト!」は大成功だ、と確信できました。

 え、権威に気圧されているだけだって?……まぁそうかもしれないんだけどさ。


IV

三善晃・混声合唱のための『地球へのバラード』(谷川俊太郎)

指揮:高嶋昌二(客演)


 で、こういう、「勢いのある曲」ってのは得意なこの団ですから、当然、演奏会全体の大団円とするにはうってつけなわけです。もう、前のステージの「ファイト!」の終わりからそうでしたけど、ちゃんと制御できている以上、この団が持つフォルテのチカラは、名古屋はおろか、全国のアマチュア混声合唱団の中でも随一のエネルギーを持っていると思います。このチカラがあるからして、全日本にしろTICCにしろ、しっかりとした成績を収めてくる。この爆発的なエネルギーが強みなのは、本当に間違いない。

 でも、(今日のレビューの流れからしても)今回の演奏で一番評価しなければならないのは、1曲目「私が歌う理由」の第1主題リフレイン。この曲は冒頭で強→弱と同じ主題を繰り返すのですが、その「弱」の部分が、ヘタれることなくしっかりと歌い込めていた。これこそ、「前半になくて後半にはあった何か」でして、本当に、こういうところで休んでしまっているような音が鳴っていたのが、後半において劇的に改善している感がありました。だからこそ、例えば5曲目の冒頭のクレシェンドは、まるで4曲目を継ぐかのような有機的なつながりを以て聞こえてきて、他団をおいてなかなか類を見ない、その組曲としての有機的なつながりを表現するに至りました。

 そして、この、弱い音に対する意識が向くからこそ、この団における最大の強みである「強い音」が生きてくるんです。5曲目の中間部は、思い返せば、もっと音量を絞っても良かったのかもしれないけれども、これまでの演奏で確かに「説得力のある弱音」を取り戻せたからこそ、しっかりと説得力をもって伝わってくる音になってくれました。そう、流れのうちに書ききってしまいましたが、なんだか、この一連のステージの流れこそして、「地球へのピクニック」のエネルギーが伝わってくるようでもありました。


 歌い手から指揮台へ向かう荒木さん、「地球へのバラードで声がやられてしまって」……ってか、そら、こんだけ歌いまくってたらそうなりますよ笑


encore

Ed Sheeran "Supermarket Flowers"

指揮:荒木旬


 創団時から歌いつないでいる曲。団内の解釈に曰く、「思い出が明日への糧になる」。そう、色々書いてしまいましたけれども、何より、3回も延期して、ようやく実現した演奏会ですものね。まず何より、その事実を糧にして、明日の演奏へ向かっていって欲しい――否、なにより、その歌い継いできたナチュラルな音楽が、これまでの熱演に対するアイスブレイクとしてもちょうどよかったのかも。


・まとめ

 いやね、ホント難しい演奏会なんですよ。レビュアー泣かせっていうか。「いい演奏会」って書いてしまうのは、とてもかんたんな構成だし、そうやって圧倒してしまうチカラを、この合唱団は間違いなく持っているから。

 はっきり言ってしまって、レビューか演奏かどっちが先立つかといえば、間違いなく演奏の側なのであって、その上でレビューなんて絶対に必要なモノとはいえないわけです。当然、今日の演奏だって、大団円で、ああ良かったってのが間違いなく世の大勢なのであって(それは客席の温度感から十分わかるわけだし)、ここで妙に水を差すようなことを言っても自分はおろか、もしかすると誰の得にもならないようなことをやっているんだなと、そりゃもう肌身にして感じるわけです。「ピクニック」のコーダがこの演奏会のすべてを物語るものであって、それに圧倒されて、ああ、すごかったなぁ、って、そりゃ、自分だって、そっちのほうが遥かに気持ちよく終われるんじゃないかなと思うんです。前プロにしたって、あの大曲「くちびるに歌を」を堂々にも前半に持ってきて、それをガーッと歌ってしまって、ああ、すげぇわこの団、で、終わればいいんだと思うんです。

 でも、やっぱり、だからこそ、言っておく必要があると思ってます。それが、名古屋だけでなく、この日本の合唱界のためになると思って、しっかり言わなきゃいけない、今日のレビューは、そんな気持ちで書き始めています(しかも、この「まとめ」から書き始めている)。

 間違いなく、良かった。みんなで「えいや」で声を出したときに、とんでもないチカラを出す、そんなエネルギーを、この団は持っている。じゃあ、その音を、「そうじゃない部分」で使えたら、この団は、もっと素晴らしい音を出せるんじゃないか。山崎・荒木・高嶋3人の指揮者のもとでの音作りを全部聞ききって、それでも厳として残る(残ってしまった)このモヤモヤは、決して、自分の中で偽ることのできない、今日の演奏会に対する感想です。

 もうね、めちゃくちゃ勇気いるんです。ああ、よかった、みたいな感想が明らかに巷で溢れている演奏に、カウンターパート的な言葉をかぶせるのって。特に今日みたいな、マエストロ級の指揮者が出てくるようなところって、多かれ少なかれ、忖度しているような気持ちが顔をのぞかせているのが、自分でも十分わかる。でも、だからこそ、ちゃんと言っておきたい。そんな思いで書ききっておきました。書ききっておきたい。書き切ろう。

 この演奏会を大団円で終わらせない先に、この団の未来がある。――でも、そんな言葉ですら、カッコつけないと出てこない、そんな、素晴らしい演奏会でした。


 以上、長い長い言い訳でしたー!!

2023年3月4日土曜日

【東京混声合唱団 名古屋特別演奏会】

2023年3月4日(土)於 三井住友海上しらかわホール


尾高惇忠・混声合唱のための「光の中」

三善晃・合唱組曲『五つの童画』

Duruflé, Maurice "4 Motets sur des themes gregoriens" op. 10

尾高惇忠・混声合唱曲集『春の岬に来て』


指揮:広上淳一

ピアノ:野田清隆


 合唱音楽自体を、いわゆる合唱指揮者以外が振る機会というのは、意外と多くない。東京の有名大学合唱団が定期で客演を委嘱することはあるものの、いわゆる「座付き」の指揮者のみで十分回る公演回数しかない団も多いこともあってか、はたまた、「合唱は器楽とは違う」という先入観ゆえか、いわゆる「器楽の」指揮者が呼ばれる機会というのは、プロを含めて限られている。

 だが、芸術分野全体としてみたときに、果たしてそれでいいのだろうか、とは、しばしば指摘される問題である。いわゆるオケの指揮者であっても、大作にはしばしば合唱がつき、ハイライトを含めればオペラの上演回数は決して少なくないし、年末には毎年のように第九を「振らされる」。そのような状況にあって、「合唱は合唱指揮者任せ」というマエストロはたしかにいるものの、それでいいのか、という視点を持つ指揮者は決して少なくない。その筆頭が、東京混声合唱団音楽監督・山田和樹といえるかもしれない。

 とはいえ、こと東混に関して言えば、歴史的に活躍してきたプロ合唱団というだけあって、器楽文化との交流は盛んである。創団自体、東京藝術大学声楽科がはじまりであり、日本プロ合唱連盟が当時の隆盛を失っている今にあっても、各楽団との共演は盛んである。しかしながら、東混にあっても、日本における、否、世界的にみても、合唱という編成の特殊性ゆえ、これまでの指揮者陣は、いわゆる合唱指揮者が長く担ってきた。念の為いうが、それ自体に否定的な意味はまったくなく、むしろそうであるがために、他編成においては類を見ないほどの回数を誇る初演をはじめとする、東混、ひいては世界の合唱文化が伸長してきたのはいうまでもない。

 そんな中にあって、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの広上淳一とのコラボレーションというのは、それ自体話題性の大きいものである。オペラ指揮を通じた合唱との交流のほかに、尾高惇忠にピアノと作曲を師事した、その経歴、そして、その当時の合唱音楽の隆盛を省みるに(もっとも、その時代は他編成においても初演が多かった時期ともいえる)、決して合唱とは無縁になれない音楽生活を送っていたことは想像に難くない。事実、尾高惇忠の師匠筋に当たるのは三善晃であり、まさに日本の合唱音楽の只中にあった音楽である。


***


 さて、ここまで、今回の広上淳一というキャスティングが、いかにも特異なものであるかのように語ってきたわけっであるが、はたして本当にそうであったのだろうか。ただ、オケの指揮者が合唱を振るというだけで、ここまで特異であると捉えるのは、いささかオーバーなような気もするし、その実、非常に新鮮な体験であったように思う――否、なにもマエストロは、特異なことをしたわけではない。当たり前のことを、ただ愚直に追い求めていた。

 広上淳一の師である尾高惇忠の曲を最初と最後に、その師匠の曲を挟む形でのプログラムは、ただそれだけで、20世紀の合唱音楽の精神的な部分を俯瞰するものであった。ロマン派から続きつつ、常に宗教性を伴いながら発展してきた合唱音楽が、近代詩歌と邂逅し、その響きに日常性をもたらしたという一連の流れは、もはや日本に限ったものでもない、ひとつの音楽の流れともいえよう。その音楽の流れを、マエストロはいったいどこでつかみ、それを正確に表現するに至ったのか――これぞ、日本を代表する指揮者の、これまでの研鑽の成果というべきか。


 その意味にあって、第2ステージの『五つの童画』は難しい曲である。確かに演奏も難しいのだが、こと日本を代表するプロ、というのみならず、初演団体であって、同曲の再演回数も多く、技巧の上で不安はない(それも、初演指揮者からの薫陶を常に受けうる立場にある)。しかし、逆に言えば、観客も、プログラム全体の中にあっても間違いなく「聞かれている」曲であることから、つまるところ、同演奏会の評価という観点で肝になるのは、どうしても同曲の成果如何によるところが大きいのである。果たして、同曲が、普段合唱を振っていない指揮者がどのように表現するかというのは、一種、数奇の目で見られることは否定しきれない事実であろう。

 と、演奏会が終わったあとに記載するのも、実に奇妙な気持ちにさせられる。なにも隠すことはできますまい、今回の同曲の演奏は、これまでの再演の中に並べても随一の出来であったと考えている。同曲のもつ超絶技巧という側面は、往々にして同曲の解釈そのものを「難しい」ものにしてしまう。聴衆も指揮者も、眉間に皺を寄せながら、難しい気持ちになりながら、「童」画を聞く、そんな機会が、はからずも多くなってしまっていたように思う。

 しかしながら――まさに、先入観のない――これまでも多くの超絶技巧をさばいてきたマエストロであるが故、その奥に見事「童」画を見出した。確実にテンポを叩きながら、技巧を表に出すわけでもなく、文字通り踊るように同曲を表現してみせる。「風見鶏」でやや抑えめであったテンポは、自然にテンションを上げながら「どんぐりのコマ」へ昇華される。独特な旋法的表現以上に、同曲のもつ表現性そのものが表に立つという演奏は、新鮮でありながら、しかし、まさにこの曲の表現として、自然かつ当然のものであるがごとく、したり顔をして、我が意を得たりと、にやけつきながらこちらを見ている。私たちがようやく見出した同曲の表現に、合唱にして異例、そして同日最多、カーテンコールが4度も呼ばれたのは、もはや必然というべきであろう。特筆し、歴史にすらその名を残すべき名演であった。


 そもそもこの演奏会時点、合唱を普段から振る指揮者以上に「合唱とは何であるか」を思い出させてくれる演奏を届けてくれたように思う。第1ステージの「光の中」における、オケ由来の、たゆたうように流れる豊かな響き、そこから、マエストロの開襟に合わせてホール全体を包み込む響き――合唱におけるマスクの改良にいち早く取り組んだ同団がまっさきにマスクを外して表現する、その世界の広々とした様子は、まさに、私たちが目指そうとしている合唱表現そのものの喜びである。直接的な表現を、まったく避けることなく、まっすぐに表現するその様子は、その音がそこにあるべき、という必然を見事に表現してみせた。

 その他のステージが比較的技巧的な響きを鳴らす中にあって、第3ステージは、ある種熱狂の中に迎えたところにあって、典型的な美しさを求めた曲である。先導唱に続き豊かに奏でられるその和声は、これらの音楽がもたらす日常性を如実に、かつ正確に表現する。マエストロをしてプレトークにその閉館を惜しんだしらかわホールの音響は、まさにこのような演奏のためにある。ホールがまさに楽器として、自然な流れのままに鳴ることをして「ホールが楽器である」ことを意味を知る。その残響は、演奏を聞いたあとの、心の残響そのものである。

 第4ステージは、歌曲的に自然の流れのままに鳴る音楽でありながら、一方では、例えばファンファーレ的であったり、例えばパルランドであったり、「声楽にしかできない表現」が随所に集められた、自然の中にある豊かさを表現する曲群である。まさに、東混の得意とするところともいえよう、日常に潜む音楽性・芸術性を、美しく昇華しながら、充実した音響で、ある種土着的な要素も含めながら鳴らしていく。決して特別なことをしないものでありながら、記譜上の表現がおそらくは「音符の間」も含めて自然に解釈されていくその様は、先述した音楽の必然性を強調する。


***


 いずれの曲たちも、音楽がみせる日常性を、あるがままに表現することに成功していた。再三書いたところではあるが、『五つの童画』においてその表現を残したのは傑作というほかあるまい。むしろ、少なからず、新奇の目で今日のキャスティングを見ていたことに、いささか反省をしなければならないのかもしれない。音楽というものは、編成に関係なく、それ自体普遍であり、いずれの表現も、その普遍性の帰結であるという、当然のことに気づくのに、2時間もかけなければならなかったというのは、当方の勉強不足というか、――否、もう、今日それを気づけただけでよしとしよう。

 少しずつ、日常が戻ろうとしている。新たに戻ってきた日常を、散々非日常を体験してきた私たちは、新たな目でどのように眺めるのか。東混が遠征に来た、それ自体が名古屋に住む者にとっては非日常なのかもしれないが、あらゆる場面において、時は流れて、音楽が響く――そんな「当たり前」そのものを、私たちは、これからも見つめていく必要があるのかもしれない。

 

 そういえば、コロナの前から、東混の演奏会は「意外と」人を集めないことがある。そう考えると、今回の集客もまた、日常なのかもしれない。半数も埋まらない集客は、しかし、この演奏にして適切だとも思わない。――そういえば、コロナ前は、怠惰な日常に痺れをきらし、変化(トランスフォーメーション)を求めて日本全体がうごめいていたような気がする。だとすると、意外と、この日常に疑いの目を持つこともまた、相反的に、「日常」と表現できるのかもしれない。