おおよそだいたい、合唱のこと。

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主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
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ゆっくりしていってね!!!

2023年7月23日日曜日

【あふみヴォーカルアンサンブル第9回演奏会】

〜創立25周年記念 古へのイタリア〜

2023年7月23日(日)於 米原市民交流プラザ(ルッチプラザ)・ベルホール310


・メシーコール

「ばがぼんど」日曜限定ランチ(米原市ルッチプラザ内)


 さて本日、クルマを走らせてやってまいりました。それも節約(?)で下道を走ってまいりまして、なにやら岐阜県庁前だったり関ヶ原だったり伊吹山だったりと誘惑が多い中(しかし、伊吹山近くでも30度超えとは……)、せっかく滋賀なので滋賀のどこかで……!と尽く我慢のドライブ。こういうときこそ逆に、名古屋にでもある吉野家とか、ゆで太郎とか、入りたくなるんですよね(笑)

 しかし、ここは天下分け目の近江長岡(?)、そういえば、以前も思ったんです、楽市楽座の安土桃山は今や遠き日の話であることを……(若干失礼)、そんなわけで、しかもクルマで、通り道で入れる滋賀県内ホール至近の店というのを見つけられぬまま駐車場に入り、結局、昼食抜きの覚悟でホールin。そう、開けた旧街道、滋賀の盆地は暑いのです。

 でも、米原市は良かった。公共施設に、まだ食堂の入る余地を許していました。此度、見つけたこのお店。まさに、ホール内食堂。何かと管理が大変なようで、このところあまりお見かけすることのなくなってきた施設です。大きく開けたフランス窓の、あたかもテラス席のような店内。そこでいただく日曜限定ランチ(どうやら最後だったようです)のメインは、とうもろこし天ぷらの和定食。赤だしにイカの和え物、さつま揚げ、もずくときゅうりの酢の物に、別のお客さんと店員さんとの話に曰く、この辺で採れたお米。

 そう、なんだか世の中がザワツキ始めてい るなか、このところに珍しく、1週間に3日のペースで飲み会が入った当方(否少ないのでしょうが笑)、なんだか荒れる内蔵に優しい、沁み入る味。なんだか体が求めている味を無事に摂取し、ホールへと吸い込まれていくのでした……。


 そんなわけで、帰りがけは大垣にて筆を執っております。土地勘がバグる!笑

 さて、当方3回目の「あふみ」の演奏会。とはいえ、一昨年は配信だったので、今回が2回目のような気分です。だから余計に気づかなかったんですが、今回の会場、前回と一緒なんですね……!2年越しの邂逅!

 今回、営業を頂戴して伺いました……と、ここで、わたべは普段から「営業は受けぬ」と言っているではないか、という声が聞こえてきます。ええ、そのとおりです。営業を受けても断るときは断ります。でも今回のプログラム、最初聴いたときからビビッと来るわけですよ。ここで、その営業を頂戴した際のわたべのコメントをば。


「以前コロナでブッチしてしまってる経緯からしても、あと、なんかこう、この時代を300年くらい間違えた感じのプログラムからしても、いかないと……!笑」


 まさに、某有名合唱ブロガー様のご意見(曰く「演奏曲アピールはファンサ」)、当意を得たり!笑 そうです、近江長岡は歴史の街、今日はクルマで関ヶ原を超えてきたことからしましても、恐らくは、合戦の世まで遡っての演奏会参加であります。国も違うけど。いいか、南蛮文化ってことで(適当)


・ホールについて

 実はすでに体感していたはずのこのホール、でも、とてもそうとは思えない……やはり、ライブはライブで聞かないと(笑)

 近江長岡駅から徒歩10分。そういった意味では駅チカなホールです。先程来申しているとおり、今回、クルマで行ったので駅前感をなかなか感じぬままホールに入りました。といったものの、来し方を地図で振り返ってみると、意外と駅チカを走っていたようです。おそらくこの駅、かなり古い「駅前」ともいえるようで、最後は古くから栄えた長岡の町並みを駆けるような感じと相成りました。この一週間後には、目の前にバイパスが開通するようで、おそらくクルマでのアクセスも良くなるんじゃないかなと思います。駅前通りは普通車でも十分狭く感じるレベルでしたし。

 貸室にとどまらず、健康診断や予防接種、キッズエリアに健康教室も開催する多目的施設の中にある目玉のホール。そういう意味では、どこかOKBふれあい会館を彷彿とさせます。内装も、サラマンカホールほどガッツリとクラシックホールではないものの、質素ながらシューボックス型のステージを備えており、音楽から講演会まで幅広く対応できそうなホールです。ちなみに名前のとおり、フルキャパで310席(固定席のみ)のようです。

 響きとしては、豪奢でもなく、質素に確かに響く感じ。個人的に一番好きな響きです。特に今日のプログラムを見ている限りでも、あまり残響が鳴りすぎると、少しくどく感じてしまうかなというのが正直なところで、その意味でも、とても安心できるホールです。個人的感触としては、あんまりないんですけど、どうも滋賀県にはこういう名ホールが多いような気がします。びわ湖ホールを筆頭に、文化施設に恵まれた、いいところです、滋賀県。


 本日、配信もしていたということで、結構ガッツリと収録を入れていました。吊りマイクにとどまらず、舞台正面にマイクを立ててステレオで、さらに特徴的なのは、上手・下手にひとつずつバウンダリーマイク。決して経験が多いわけでもないのですが、バウンダリーマイクの配置は、なかなか珍しい録音セットかも?


 で、今日の演奏会、曲目からしても2時間程度の標準的な長さの演奏会なわけですが、あふみ名物といえば、アンサンブルトレーナー・石原祐介先生がコンサートナビゲーターとなり行われる演奏曲目解説(本人曰く「つなぎ」)! オープニングトークに、着替えの合間に、楽器セッティングにと、ありとあらゆる幕間に登場し、演奏曲目について喋り倒していただけます。これがまた、もちろんアンサンブルトレーナーをなさっているからとはいえるものの、原稿もなしに延々楽曲について語りまくる。以前は講義形式にスライドまで用意されていたりしましたが、今日はトーク一本。もう、このトークを聞くこともふくめて、という意味では、時間以上の充実感を見せてくれるものです。以下に記載の楽曲背景なんかも、プログラムと合わせて、ほぼ追加取材ナシで乗り切れるくらいには、内容が充実しています笑


◆イタリアのマドリガーレ集◆

Arcadelt, Jacques "Il bianco e dolce cigno"

Rore, Cipriano de "Ancor che col partire"

Ferrabosco, Domenico Maria "Io mi son giovinetta"

Marenzio, Luca "Zefiro torma e'l bel tempo rimena"


 いわゆる世俗曲ではあるものの、どれも16世紀の曲ということで、未だ教会音楽の範疇からは抜けきれず、その中で、修辞法を存分に駆使して多様な表現を生み出してきた音楽たち。そういう意味にあっては、ルネサンスの萌芽ともいえる時代背景にある音楽ということで、古楽にやたら強いあふみの得意とする音楽ともいえます。

 この時代の音楽、ひらたく言えばtuttiで合わせて直接的に和声を鳴らすことがまだまだ少ない。その点、どの音楽においても、近世以降のそれ以上に、各パート、各歌い手が積極的に音楽を作っていくことが求められます。調性こそあれ、和声学が十分に発展していなかった時代の音楽ということで、必ずしも和声のチカラを借りることができず、だからこそ、旋律それ自体の流れを直接的に表現しないと、音楽そのものが停滞してしまう時代に合ったと言い換えて差し支えないでしょうか。

 何が言いたいかというと、あふみの団員は、そういう時代の音楽をやることに以前から非常に慣れているということです。この団に邂逅した当初から書き続けていますが、本当に、どの歌い手も、自分たちで音楽を作っていくことを本当に心得ているから、本当に自然に、生きた音楽が出来上がっていく。その中で、先述の、修辞的な旋律で、自然体に狙いに行っている様子も、逆にちゃんと見えてくる。

 音楽のベースが、音そのものでなく、旋律の流れにあることがはっきりわかる。バチっと倍音が実音として鳴るような音楽ではないけれども、たしかに響いたセッションができている、その様子が、少々のゆらぎを覚えつつも、心から安心できる終止音形を生み出しています。アタマで合わせるというより、カラダで合わせているその感じが、この音楽を聴衆に染み渡らせます。

 とはいえ、だからこそ、最後の曲はコーダで少し力みすぎていたような。流れの中のベクトル、というのが最後の最後に失われてしまったような気がします。まぁ、これも綻びということで……?笑


◆パレストリーナ モテット集◆

Palestrina, Giovanni Pierluigi da

"Veni sponsa Christi"

"Ego sum panis vivus"

"Super flumina Babylonis"

"Loquebantur variis linguis"


 おなじみパレストリーナ。これまた、楽譜にすると難しく、しかし、合わせていく中で、音の流れを掴んでいくような曲です。当たり前のようにコンクールの課題曲としても取り上げられることが多いわけですが、ことそのような場面だと(余計に)タテを合わせなきゃ、という意識、しかもその合わさるタテがバリエーションとしてもメチャクチャ多く、なにが見られてるか分からないとばかり疑心暗鬼になりながら調整していくわけですが(こう書くと碌でもないな笑)、石原先生に曰く(実はこのステージの解説ではなかったのですが)、「音のゆらぎを楽しむ」音楽とも言える由。指揮者もいない中で合わせてきた、旋律の模倣を主とする音楽にあって、その過程におけるアンサンブルは、タテの微妙な揺らぎは、それすら新しい音楽を生み出す要素となる云々。

 まさに、その実例が、この団の音楽にあるとも言えそうな気がしています。特に着目したいのは、内声の堅実な動き。放っておいても目立つ外声と違い()、内声がしっかりと旋律を生み出さないと、特に内声をよく動かすパレストリーナの音楽は、非常に空虚なものになってしまうような気がします。この点、あふみの音楽は、非常にパートバランスが「ちょうどいい」。なにか、細かいことをこねくり回すような、あそこではあのパートが大きく、とか、このパートは控えて、とか、そういうったことではなく、先程の「カラダで合わせる」アンサンブルに徹した、非常に自然なバランスに収斂していく音楽の感じ。この音楽の自然な着地点がどこであるかを、すべての団員が心得て音楽をしているのが、本当によくわかる。なるほど、これがパレストリーナの音楽なのか、と膝を叩くような思いです。

 とはいえ、さすがに人数的な制約というのもあるのかな、というのが、この演奏。あふみ、男声は各パート1名ずつ。もっとも、このお二人は知る人ぞ知るガチガチの歌い手ということで、演奏については申し分ないのですが、いかんせん、パレストリーナの旋律は一人で歌うには長すぎるのです……笑


◆ナポリ民謡集◆

arr. Przemyslaw Scheller "O sole mio"

arr. 増田順平

「海に来たれ」

「遥かなるサンタルチア」

arr. 堀内貴晃「フニクリ・フニクラ」


 さて、時代を300年くらい遡った、という表現をしていましたが、どうも少々認識としては違っていたようで、先生に曰く、一番新しい曲で1900年代のものがあるようです。その点、実は100年くらいしか遡っていないようにも思えますが、それでも戦前、ギリギリ帝国主義が台頭するかどうか、しかもシチリアでもマフィアが出てくるかどうかといった中にあって、「古へのイタリア」を表現しているという意味では、時代感覚を同じくしているのかもしれません。こじつけ?

 ともあれ、主催のナンバリング演奏会では一切緩むことのないプログラムが顕著なあふみにおいては比較珍しい(気がする)緩徐ステージ。しかしながら、内容はしっかり「古へのイタリア」を標榜するに余りあるプログラム。いやはや、お見事。

 肝心な演奏は、それ自体往時のポップスということもあり、軽やかに、しかしあふみの長所である十分なフレージングを武器にして、正反を紫に染めたビジュアルとともに、ナポリの叙情を歌い上げます。そうなんです、この団、身構えることのないフレージングが魅力であるからして、こういう曲を歌わせても本当に自然に、叙情を歌い上げられるんです。マンマミーア!

 一転、正反を赤に染め上げ歌われた「フニクリ・フニクラ」はその点、この演奏会で一番のポップス曲。ヴェスピオ火山登山鉄道「フニコラーレ」の集客のためのコミックソング。そのことを踏まえると、横の流れに秀逸なあふみといえど、もう少しタテにマルカートを作ったほうが良かったような気がしました。しかしまぁ、この曲を良くも指揮者なしでここまで合わせますこと……笑


インタミ15分。

とはいえ、予ベルが5分前に鳴ると石原先生が出てくる仕様のため、実質10分休憩でした笑


◆イタリアバロックの宗教音楽◆

Lotti, Antonio "Miserere in sol minore"


 バッハと同時代の作曲家たちを揃えた後半。1曲目はそんな時代にして12分の大曲です。しかもプログラムをして「正式な出版がないと思われる」なんて書いてしまう。ホント、この団の選曲はどうなってるんだ、探してくる側も、それを承認する側も笑

 さて、未だ楽典が成立を見るかどうかという時代ともあって、パレストリーナにおける模倣の延長で、ほぼほぼ一本の表現で世界観を描き通しているわけですが、その中におけるわずかな書法・表現の差を、あふみは見事に描き分けてしまいます。さすが、この時代の音楽に馴染んでいるだけあって、その微妙な差にあっても、おそらく野性的に、機敏に感知して、「あんまり気にせずに」無意識に表現していきます。もちろん、その努力の跡は、テンポや音色の変化の中に見られるわけですが、考えても見れば、指揮者もナシにここまで機動的に変えられるのは、団員に内在する音楽性、あるいは、団員に音楽を内在させてしまうそのリハーサルにあるとも言えそうです。何も力むことなく、時代を飛び越えた音楽を文字通り表現してしまうのは、この合唱団ならではの魅力といって余りあるものです。「阿吽の呼吸であってくる、微妙なズレが和音に貢献する」、そんな音楽史的背景を持つ同曲を見事に言い当てるあふみのアンサンブルです。


Durante, Francis "Magnificat in Si bemolle maggiore"

バロックチェロ:上田康雄

チェンバロ:吉田祐香


 そしてこの団ならではの大団円。バッハと同時代といわれども、そのマニアックな選曲もさることながら、この編成の特異さは、相も変わらぬあふみの名物というに余りあるものです。個人的に聴いた中でも、チェンバロ(第6回)、ヴィオラ・ダ・ガンバとポジティフオルガン(第8回)という編成、今回はさすがに慣れてきた感じがします。バロックチェロなんて聴いたことないはずなのに←

 そういう意味では、この編成で音楽を聴けたというだけで十分大団円なのですが、解説に曰く「器楽の発達に伴うアーティキュレーションの進展に伴い、歌と器楽がお互いに表現を借用し合う関係性」というのも相まってか、編成以上に本当に華やかなステージです。そりゃ、これまですべて少人数アカペラで歌いきっているというのもあるのかもしれませんが、否、それ以上といっていいでしょう、華やかなトリルやアルペジオ的な旋律が、まるでオーケストラを聴いているような、豪華な音像を見せてくれました。伴奏として入っている楽器の貢献もあるのでしょうか。演奏技術もさることながら、いずれの楽器も、古楽でありながら非常に開放的な響きを持つ楽器で、それが音楽にさらなる広がりを見せているようでした。そういった意味では、時代とともに表現も進歩し、400年前の音楽にまるで未来を見るようなワクワク感をもたらしてくれ、演奏会自体も見事な大団円。


・アンコール

「琵琶湖周航の歌」

 そういった意味で、毎度おなじみの音楽で締めるというのも、逆に演奏会としての締りをもたらしてくれるというものです。今回はバロックチェロも旋律に加わります。ともすれば、まるで宮沢賢治の世界観……なんて。


 ロビーでの御挨拶も復活。それを尻目にそそくさと(営業を持ちかけた方に挨拶もせず)失礼し、一路帰路につくのでした……あ、途中で給油しているのはナイショ←


・まとめ

 アンコール前に団長さんが仰っていました「私達はアマチュアだから、この演奏を作り上げるのに時間がかかる――そのことを逆手に捉えて、アマチュアだから時間がかけられると捉えている」という言葉を反芻しています。

 これだけ時代背景も、その時代背景の中における楽曲たちの立ち位置も豊かなものばかりのステージ。何かと頭でっかちになって中身が伴わないか、あるいはその逆、時代のことを考えずにただひたすら音を鳴らすか、そのどちらかになりかねないという危うい関係性の中にあって、この団がもたらす音楽は、まさに、時間の中に彩られるものと言えるのかもしれません。

 多分、並の合唱団がこのプログラムをやっても、どっかで破綻が生じると思うんです。それは、古楽専門の合唱団であっても、現代音楽を中心に取り扱う合唱団にあっても、あるいは、その中間を標榜している(はずの)合唱団にあっても共通したことで、この演奏会は「あふみでないと取り扱えない」ものにまでなっているのではないかと思うほどです。下手するとプロですら手出しできない領域にある。妙に言語化しづらくて困るのですが、2〜3世紀近く時代を飛び越えている中にあっても、たしかに通底している「古へのイタリア」の世界観が、たしかにこの演奏会にはあったように思います。たしかに古楽を得手とはしているものの、過去の演奏曲をみても、それが全てとも言えない中にあって、この演奏会がたしかに一つの空気感をもって成立し、しかもそれで250名は超えるであろう集客をもたらしたという事実が、逆説的に、あふみが積み重ねてきた「時間」を物語っているようにすら思います。

 音楽それ自体がみせる充実感、それを表現しようとするがために力んでしまうというのは世の常であったはず、その常を、あふみは軽やかに飛び越える。その軽やかさは、まさに25年の間に積み重ねてきた経験、ノウハウ、あるいは、団員がもたらす相互作用そのものと言えそうです。そう、ノウハウは、言語化できないから、ノウハウなのです――そういった意味で、この演奏会は、ライブであるからこそ価値のあるものなんです。やはり、あらゆる演奏会は、ライブそのものに、価値を見出すことができる。録音を否定するつもりはない。でも、間違いなく、この演奏会は、ライブとして大きな価値を持つものでした。

 もう、言葉は要らないかもしれない。ただ、体感できた、そのことに大きな価値を見出す、素晴らしい演奏でした。