おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2019年9月14日土曜日

【劇団四季「パリのアメリカ人」名古屋公演】(ネタバレなし)

2019年9月14日(土)夜公演
@名古屋四季劇場


 パリの都は美しい、と誰もが宣う。

 そんなパリの都に憧れて、多くの人が夢を求めて身を置いた。そして、大きな夢が叶う中で、多くの夢が散っていった。歴史に語られることではないが、美しさの影に潜む、曲げようのない真実だ。パリの都は美しい。その美しさを光らせる多くの影が、かの街には横たわっている。
 何も、今に始まった話ではない。あるいは、多くの夢が生まれ育ち始めていた時代にあっては、その影の大きさは、今よりも甚大なものであったかもしれない。多くの人は、散った夢を語らない。その大きな影の上に横たわり、私達は大きな光に万雷の拍手を送る。
−−故に、どこのどんな夢にしたって、そうかもしれない。叶えられない夢を噛み締めて、叶えられた大きな夢を称える人の、生々しい命の輝き。

 二度の大戦のあとという時代は、どんな場所にあっても、大きな喪失の中にあった。我々の先祖が経験し、そして語り継いできた喪失、そしてそこからの恢復と、二度の大戦に渡り物質的にも精神的にも一度崩壊した大陸ヨーロッパの風景が重なり合い、舞台は、あっという間に立体感をなしていく。−−崩壊と混乱の中で見つけたささやかな希望が大きく膨らみ、虚無から一歩踏み出す力を得ようとするまさにその時、時代はその力により、大きく美しく輝き始める。
 誰もが、夢を見る時代だった。何もないのだ。生きていくためには、夢を見るほか仕方ない。何もないのだ。それらの夢は、多くの希望を生み出した。何もないのだ。ささやかなことから、期待が、希望が、たちまち踊り出し、小さなところから、大きく時代が動き出していく。
 誰もが、価値観を疑った時代だった。多くの物質が崩壊するのと同時に、多くの価値観が崩壊していった。昨日まで世の中の常識だったものが、時代の名の下に簡単に破滅させられる。誰もが疑いを捨てられない。その中で、ささやかな真実を見つけるために、心がざわめく。
 誰もが、新しさを求める時代だった。疑われた価値観のもとに新しいものを生み出すためには、その疑問を顕在化するにはとどまらない。時代は、縁となる新たな世界を追い求め、描き、奏で、作り、見せていった。

 夢は、少しずつ形となり、新たな価値観が生まれ、新しさがニュー・スタンダードを生み出した。人々の意識は少しずつ変わり始め、育ち、大きな希望が光となってもたらされていった。でも、何も、なにか騙るわけではない。プロセニアムの中が燦然と輝くためには、舞台機構には大きな闇が必要である。私見に過ぎないが、素晴らしい演劇空間は、漆黒の闇の中に生まれる(時折、私達もまた、その闇の中のひとりである)。
 希望という光を願うものをも、誰もが輝けるわけではない。ときには、美しく輝くもののために、闇の中に模索する時間が必要なこともある。否、もっと言うなら、誰かの光のために、ある者はその場所では永遠に輝けないものだってあるかもしれない。だから、スターダムの物語は、その反動に、ときとしてとても残酷な闇をもたらす。
 誰もが、輝くために精一杯の努力を惜しまない。太陽になれないなら、月になっても構わない。それでも、光り輝くものに憧れ、美しさを追い求めるのは、人の性なのかもしれない。

 多くの美しいものが、この舞台では描かれた。でも、それ以上に、美しくなれなかった人々の美しさを、この舞台では見せてくれた。戦後すぐのパリの世界の、希望を取り戻そうとする人々の、輝きを求める人々の美しさ−−パリが目指した美しさそれ自体ではない、この舞台が描き出したのは、その姿そのものの美しさ、群像劇である。
 プロジェクションマッピングの波がもたらした、世界観の激動に、舞台装置そのものが世界の、時代の動きを活写する、まさに私達の感覚を刺激する展開で、私達を時代の濁流の中に巻き込んだ。その新しい価値観に翻弄される中にあって、活躍するのは、あくまで人間の美しさである。何も、それは観念的な美しさにとどまらない。確かな技術に裏打ちされた、バレエを大胆に主軸に据えた力強いダンスが、ガーシュウィンの人間的で生々しいビートに支えられて、美しくこの世界を肉付けしていく。
 新しい価値観を求めたプロデューサーと、バレエを専業とした演出家、そして舞台そのものが踊るデザインが引き出した、何よりも美しい、生々しい人間の美。その美しさが、この世界自体を、美しいものへと変えていく。その中に犠牲となって払われた、多くの「闇」に心から敬意を表したい。多くの候補の中からオーディションで選ばれ、そして、ときにスタンダードなミュージカルとは異なる制作、演出、そして、パリの初演に始まった言語の壁、さらには、時代に合わせるために再構成された世界観……。すべての努力が、この作品を美しく蘇らせた。

 戦後直後、それは、個人の情動が、たちまち世界を動かしていく時代だった。−−時代、だった? 
 そう、何も、過去に限定するでもない。今でも、一人ひとりが、夢を見て、価値観を疑い、新しさを求めていく。歴史の中に語られるミュージカル映画の名作は、我々が持つ夢を表現し、新たな価値観の中に生まれ変わって、私達の許に届けられた。なにせ、生身の人間の群像劇である。そのすべてが光を放ち、すべての物語が、美しく輝く。その結果がたまたまプロセニアムの中にしかなかったとしても、美しさをつくる原動力は、そのすべての夢の中にある。
 私達は、ときに、プロセニアムの闇になる、と書いた。一方で、私達は、ときに、そのプロセニアムの光を作るための、燦然と輝く主役に躍り出る。
 この物語は、私達の物語である。

2019年9月8日日曜日

【パナソニック合唱団第44回定期演奏会】

Panasonic Choir 44th Annual Concert
2019年9月7日(土)於 ザ・シンフォニーホール
7 Sep., 2019 @ "The Symphony Hall" (Osaka, Japan)

これは罰だ!練習サボった罰だ!
金曜日から大阪にいましてね。遅めの夏休みをいただいて、アーバンライナーデラックス席(電源つき)に乗り、北摂へ向かい能勢温泉へ(もちろん部屋には電源あり)。温泉でゆっくりしたら、季節には少し早いかもしれないけどマツタケ尽くしで今年の秋を覚え、翌日は、早4年越しの念願たる箕面大滝へ。最近買った一眼の練習かねがね写真撮ってたら汗かいて仕方なかったのでそのまま箕面温泉へ。うどん啜りつつさぁいくぞと演奏会。演奏会は存外に長いようだったので取ったバスチケット(電源つき車両)を590円のキャンセル料とともに放出し、キャンセル料が痛いなぁと思いつつ帰りの特急は普通車をチョイス。さぁ書くぞと思ったら、
PCの充電がない……しかも最後に限って電源がない……

ということで、レビューが遅くなりました。だいたい夜の演奏会に遠征して日帰りやってると、外でPC広げて書いてるんですよねぇこれが。今回は、プログラムとこの前書きだけスマホで書いて、あとは家帰ってPCで。スマホでウムラウトの変換方法知らないから、家帰ったらサンドストレムの綴りちゃんと変えなきゃとヒヤヒヤしてます←
そんなわけで久々のレビューはパナソニック合唱団。職場部門の雄ですね。関西では、いや日本の職場合唱界で、と言っても過言ではないかも、日本製鐵混声合唱団と双璧をなす名門です(決して福島県庁を忘れているわけではない笑)。職場部門の枠組みがコンクールからなくなっても、その存在を世に知らしめる優秀な団体。なんせ去年も全国銀賞団体ですからね。そんなすごい団なのにパナソニックの職場団って、もう本城センセなんか、ホントにパナソニックで勤務してるんすかね(褒め言葉)で、今回のプログラムの注目といえば、ドブロゴス初演。否もう、関西だからって簡単にドブロゴスさん呼べるわけじゃないんだからね?笑 しかもそれに方舟まで重ねてくるという、なんだもう、完全に厨好みプログラムやないか!!笑 そりゃチケット頂いた勢いで北摂旅行までしちゃうってもんですよ!(何

・ホールについて

ダークブラウンの内装に、鮮やかなステージのライトブラウンがよく映える。トイレに入ればウェルカムカードが置いてあり、ロビーの一角にはアクアクララが置いてある、相変わらず本当によく行き届いたホールです。アナウンスだって、会館が持っている自動アナウンスが、 飴やビニール袋の雑音にまで言及するくらいのきめ細やかさですからね笑
しかし木造ばかりではなく、壁はタイル貼りとなっていて、反響も抜群。ホームページをして「残響2秒にこだわった」と書いてあるだけあって、その実力は本物です。びっくりするくらいすっきりとした響きが最後まで飛んできます。しかも今回、正面は満席近かったのに、よどみなく2秒。それだけ。
今回は、ただ、ひな壇がだいぶ後ろ目でした。目一杯最後列かしら。多分、この演奏会のラストで弦楽とピアノのアンサンブルがあることによる措置だったとは思うのですが、それがちょっと響きに影響していたような気がします。後述しますが、多分ここ、一番響くのがステージの真ん中なんですね。そういった意味で、ちょっと響きが奥に引っ込んでしまって、鳴りが弱いような気がする面も。

かの有名な社歌の演奏はなく、そのままプログラムへ笑

第1ステージ:4人の指揮者によるアカペラ宗教曲
Ryan Cayabyab "Aba Po, Santa Mariang Reyna"
指揮:米澤康浩
Herbert Howells "Salve Regina"
指揮:古賀順子
Josu Elberdin "Cantate Domino"
指揮:髙木俊一
Sven-David Sandström / Henry Purcell "Hear My Prayer, O Lord"
指揮:本城正博

1曲目。一番最初の鳴りが、バランスがややアルトが大きく、大丈夫かな、と思ったものの、ピアノの繊細さ、そしてそれを表現することに徹する様が何より素晴らしいところ。そしてなにより、長調のハモりが明るく決まって美しいのが、関西の合唱を聞きに来たなぁ、と思わされる。これがすんなり決まるのが本当に爽快。でもやっぱり、ソプラノがもう少し強いほうが華々しさがあってよかったかも。
2曲目。非常に振りが美しかった。で、音楽面でも、劇的な展開がよく表現されていて、それでいて無理のない表現が出来ているのは、フレーズがよく捉えられているっていうことかしら。
3曲目。この曲、乗るとお見事! 指揮がいかんというわけでは決してないのですが、非常に良い意味で指揮を無視できています。6/8のテンポで軽やかに進んでいく主題が、歌ううちに相乗効果をもたらして、どんどんと進んでいくさまが本当に気持ちよく聞けました。カンターテ・ドミノの真髄、否、実はこの団のアンサンブルの真髄がここにあったのかも。
4曲目。何が違うって、出だしが全く違うんですよね。出る音がpianoっていうのはこのステージでは非常に多かったところ、特にこの曲の、繊細さ、集中力のもたせ方が、目に見えて違う。なるべき音をよどみなくしっかり鳴らす。確実なpianoがちゃんと鳴る。当たり前っちゃそうなんですけど、非常に難しいんですよね。そして、"cry"というテキストをきっかけに、どんどんと音圧を、凄みを伴ってましていくアンサンブル。最後は落ち着き、平穏な和音のうちに語られる"Lord"。気づいたら引き込まれていた。こういうことですよ。

第2ステージ
木下牧子・混声合唱組曲『方舟』(大岡信)
指揮:本城正博
ピアノ:内藤典子

第1ステージからそうでしたけれども、残り香のように響く和音のさりげなさが非常に美しい。残響豊かなホールに溶けていく音。だから、この曲特有のオノマトペがハーモニーを作り出していく様子も、とても美しく決まって行く。表現も、「私達、ちゃんと表現しています!」っていう押し付けがましさもなない、自然に、歌詞の表現に寄り添ってくれるから、音楽に、心の中に、すっと入ってくる。
特に2曲目は絶品でした。緩徐楽章をいつまでも聞きたいと思わせることは、本当、中々出来ることではない。
とにかく、本当に素晴らしかった!目に見えてすごい、という感じではなく、心の中にそっと入ってきて、離れない感じ。ビブラートが結構効いていたりするので、バチッとmidiのように揃っている、という感じにはならないのだけれども、実はそんなことはナンセンスなんじゃないかと思わせるような。心の機微が、こんなに、音だけでしっかり表現されている。
終曲・方舟だってそうです。最後にわずかなaccel.があって、一気に音楽が高揚していく。その高揚感は、ここまで表現できるものなのか!そして、その高揚感が突然の幕切れをより鮮やかなものにしてくれる。一種の構成美なのだと思います。こんなに風景が見えてくるなんて。なんてこった。正直、この曲で涙腺緩みそうになるなんて思わなかった(疲れ目かな?←

インタミ20分。

第3ステージ
arr. 名田綾子・混声のための童謡名歌集『日本の四季めぐり』
1. 花(滝廉太郎/武島羽衣)
2. 夏は来ぬ(小山作之助/佐佐木信綱)
3. 夏の思い出(中田喜直/江間章子)
4. ちいさい秋みつけた(中田喜直/サトウハチロー)
5. 冬景色(文部省唱歌)

2ステージ集中するステージが続くと、やっぱり、こういうのあるとホッとしますね笑
名田先生による、童謡に様々なジャンルを混ぜて遊んだ新感覚の唱歌集。本当、この団、指揮によってアンサンブルが変わる側面はあるものの、自律的なアンサンブルが本当に優秀な団。様々なジャンルを織り交ぜた曲であるからにして、音楽に対しての反応の良さが求められるところ。それに対して、非常に機敏にアンサンブルが反応してくれる。それも、大げさなことをやるわけではないんですよね。派手な表現に惑わされることもない。ちゃんと、いるべき場所に自然といる。音楽の中に、ちょうどその位置に、アンサンブルがいてくれる。ちゃんと伏線をつくってくれている。出てくるところはでてきて、ある時居残る音が朴訥に聞こえてきて、はっとする。
アレンジもそうですが、そのアレンジを十分に引き出すこの曲、この団。こんな曲だったんだっていう発見を、いくつも見せてくれる。当たり前のことをやっているだけのように見えて、でも、その当たり前が、この曲をビビッドに描き出してくれているようです。別に華やかなことやているわけでもないんだけど、それだけではないワクワクをいくつも色付けさせてくれる。本当、よく行き届いたステージです。

名田先生がお見えになっていたようです。

第4ステージ / 4th Stage
Steve Dobrogosz "MASS ROMANUM"《Premier》
'APOLLO'
'MINERVA'
'JUPITER'
'DIANA'
'BACCHUS'
'VENUS'
Cnd. by HONJO Masahiko(本城正博)
Pf. by Steve DOBROGOSZ
Strings by Ashiya Symphony Orchestra(芦屋交響楽団)

で、この団にこの曲です。ジャズを第一とするドブロゴス氏による、様々なジャンルを織り交ぜた楽曲。代表曲"MASS"といい、氏はこの編成がお好きなのでしょうか。
楽曲は、ローマ神話をベースにしながら、それを様々な音楽で脚色して、独特の世界を作り出します。アポロは華々しく、圧倒的なインパクトと推進力、そしてテンポの速さに加えて強烈な協和音が鳴らされます。そのままataccaではじまる幻想的なピアノソロから描かれるミネルヴァで、世界がひらけていきます。ユピテルでは、荘厳な空気の中に壮大な世界が表現され、その後続いて茶目っ気たっぷりで奔放なゴスペルが豊かに歌い上げるディアナ。5拍子が小気味よく細かい音を叩き、技術を見せていくバッカス。そして、最後はスロージャズで、落ち着いた中に閉じられるヴィーナス。
奇しくも一番響く場所に置かれている、良い意味で遠慮のないドブロゴス氏のピアノの中にあっても、非常によく表現されていました。なにより、初演であるにも関わらず、この音楽が何をしたいかというのを十分表現出来ているのが素晴らしい。先刻までのステージで、この団が音楽をよく捉え、自発的に表現できるということが非常によく顕れていますからね。特に、ユピテルの最後、フォルテで入ったところから、最後に向けて更にボリュームが上がっていくのは、音楽が一気に立体感を見せるお見事な表現。さらに、最後、nomine amore と歌うときの男声の甘美さが、溶ける音楽の中で際立っていきます。最後、静かに溶けるように終わっていくのが印象的ですよね。
素晴らしい曲であるだけでなく、なにより、素晴らしい表現に支えられた演奏により、初演にしてひとつの完成形を見せてくれました。否、お見事。

で、作曲家コメント。通訳の団員も出てきて、何が始まるかと思ったら、ドブロゴス氏が日本語(メモ付き)で挨拶し、それを団員が英訳するという茶目っ気ぷり笑

encore.
Steve Dobrogosz "Agnus Dei" from "MASS"

そして、これがもうたまんなくよかった。ドブロゴス氏のフリーなピアノが自然に入ってきて、メロディが自然に持ち上がっていく。そういえば、もう夜も更けているのだとふと思い出す。開放感と、その中に広がる世界、演奏会の終わりを予感させるからにして、しかし、終わらせてくれるなという名残が、そこに音楽を以て横たわる。ピアノの高音が踊る。音がだんだんと遠くなっていく……
アンコールであるにして、こんなに美しいステージを見るのは、初めての経験だったと言えるかもしれません。

・まとめ

こんなに音楽の世界に浸れる演奏会、そうないなと思わされる、素晴らしい演奏でした。否、どちらかというと、音楽自体が自然に世界を作っていたというのが自然でしょうか。多分、やっていることは、当たり前のことでしかないのだと思います。記譜の内容を愚直にやる。でも、それを非常に厳密に守っている。そこの中から出てくる自然な個人の音楽性が、溢れ出てきて、音楽をたまらなく魅力的なものにする。
職場合唱団というのは、ある意味、学生合唱団並に同質的な集団です。しかし、その合唱は、どちらかというと、一般団に近い性質を持つ。これまでやってきた様々な音楽の集合体が、新たな音楽を作り出す。この時、新たな価値観のもとにまとめ上げる作り方と、個々人の音楽感を、最低限まとめる方法と、様々あると思います。どっちがいいってわけでもないけど。
自発的な表現って、それでも、誘発するのって難しいんですよね。合唱って同質性をどうしても求めるものですから。強制力で縛ろうとすると、結局、音楽が固くなってしまう。自発的な表現を保つためには、べき論ではなく、わずかなナッジで自発的な表現を守っていく必要がある。
すると、結局、合唱団員自体が音楽の幅を広げていく必要があるのだと思います。自らの知っていることの範囲内でないと、表現って出来ないですから。その、知っていることを広げていくためには、合唱団員自身の知識が広がっていくことが大事。だとすると、結局必要なことというのは、様々な音楽を知っていくこと、そのことが最も肝要なのだと思います。
今日の音楽は、本当に、自由で、解き放たれていて、美しかった。どの団員も、音楽に満ちあふれていた。その音楽の只中に、私自身も浸ることが出来たこと。ーー幸せな時間でした。

2019年7月15日月曜日

【Noema Noesis 5th Anniversary Concert "paradox" 名古屋公演】

2019年7月15日(月祝)於 電気文化会館ザ・コンサートホール

宇宙人、再上陸。
……以前は、しらかわホールでありました。
かつてカワイが主催し、新曲を初演し、その場で楽譜を売りさばく「The Premire」というコンサートシリーズがありました。3回くらい続いて、今や有名な『かなうた第1集』『天使のいる構図』『アニソン・オールディーズ』『平行世界、飛行ねこの沈黙』『シーラカンス日和』など、様々な名作が生まれた、ある種伝説的なコンサートシリーズです。その第2回が開催されたのが、名古屋・しらかわホールでありました。2012年、かれこれ、7年前のことのようです。
そこで、ノース・エコーにより初演されたのが、堅田優衣『志士のうた』。どちらかというと、メロディをしっかり持った作品が多く並んだその年のプレミアにあって、メロディがならないことはおろか、ピアノもない中で、不規則なテンポと不協和音で表現された世界観に、皆が度肝を抜かれた、あの日(なにコラもいましたが、幾分そんな感じの演奏会で、土砂降りだったことまで妙に思い出されます。当時の伊東恵司の雨男力は、今を遥かに凌ぐ凄まじさでした←)。そして、演奏直後のアーティスト・トークで、さらにまた一つ、衝撃を受ける。
この人……宇宙語喋ってる……
思えば、この名古屋の土地と、堅田優衣という才能が出会った、最初の瞬間が、まさにここ、名古屋伏見の土地であったのです。

そんな宇宙人が、これまた宇宙人たち(弊社比)を連れて名古屋の、それも伏見の地に再臨すると聞いて、名古屋の民はざわついたのであります。
メンバーは、第3回JCAユースのメンバーを中心に選りすぐられた精鋭たち。まさに、そんな、新時代の「志士」たちが、これまでに見たことない演奏を見せてくれると聞いたからには、いても立ってもいられずに、皆こぞって聞きに行くしかないのであります。期待を胸に、演奏会へと向かったのであります。伏見の、電磁波が強いビル(=「でんきの科学館」を併設する電気文化会館)の地下2階にある、外界との通信が絶たれた(=ケータイが圏外になる)、特別な空間で……
(このお話は、事実をもとに若干の脚色を加えた実話です。FND!

・ホールについて
なんだか久々ですねー。意外と来ているような気もするけど、実は意外とこれていないホールです。否、決して、公演回数が少ないわけではないんですが、器楽の公演やプロの声楽公演は散見するものの、意外とアマチュアコーラスの公演は少ない。それも、この若い世代が、というわけではなく、全世代に亘って。良いホールなのにもったいない。逆に、良いホールだから、取れないんですかね、なかなか。
何がいいって、決して、地下2階にあって特段措置をしていないから自然に電波が切れてお金のかからない電波遮断装置が云々とか、そういう話でもなくてですね(実際確かに電波は入らんのですが笑)、なにより、その、クラシックホールとしての「ニュートラルさ」にあります。何にでも使える四角いラウンジと、500席程度のちょうどいい客席数。長方形の客席の先には、シューボックス型の開けたステージ。間口は客席サイズのまま、プロセニアムもなく、奥に向かって小さくなっていくから、舞台も広く見えてきます。それでいて、壁は大理石、天井は木材が曲面を作る。
それでいて、響きもこれまた、ニュートラルなんですよね。ちゃんと残響が残る一方で、それが客席で混ざったりすることなくすっと消えていくから、聞いていても違和感がまったくない。ほんと、いいホールなんですよ。規模もちょうどいいし。
前も書いた気がするんですけど、個人的にはしらかわを上回ると言っても差し支えないんじゃなかろうかと思ってます。それくらいに良いホール。でも、なんだか最近つとに合唱界では聞くことが少なくなっているような。気のせい?

指揮:堅田優衣

集客は5割弱。決して注目されていない公演ではなかったと思うんですがね。ちなみに、ハッピーマンデーでも、トヨタカレンダー的には今日は出勤日みたいでして。トヨタカレンダーを舐めちゃいけない。本当に名古屋のイベントはトヨタカレンダーで集客がかなり動く。
そんなわけで、決して多くない集客でも、しかし、一方では、とある大物先生を始めとして、関西からのお客様が非常に多かったところです。これこそが、この団の真のポテンシャルなのかも……?

堅田優衣 "UPOPO"
Edvard Grieg "Våren"
Per Nørgård "Wiigen-Lied"
Jean Sibelius "Sydämeni laulu"
Einojuhani Rautavaara "Haavan himmeän alla"
Sven-David Sandström "To see a world"
Jan Sandström "Biegga luohte"

最初の「ウポポ」、何より曲として楽しみでしたが、その点では全く期待を裏切らない素晴らしい曲でした。音素材を組み合わせるということは、様々な民謡系の楽曲でよくやられていることではありますが、それにしても、その中にあってこの曲は諸要素が非常に気持ちよくつながり、一体としての空気感をうまく作り出している。最初の最初にして、非常に爽快な気持ちにさせてくれる良プログラムです。
また、前半の中で、演奏面で特に素晴らしい出来だったのが、ノアゴーの「子守唄」(3曲目)。通奏するモチーフの、集中した良い意味でのモノトーン、そこから導出される朗唱の鮮やかさ。その色の対比が、この曲の持つ世界観を立体的に描き出す。再演があるならばぜひ聞き逃さぬよう。加えて、S.サンドストレムの「世界を見る」(6曲目)も、中間部のtuttiをきっかけに鮮やかに鳴る長調が、それまでの短調での堪えたサウンドとよく対比されていて、非常に素晴らしかった。そして、この団はトリルはじめ変わり種の音にめっぽう強いんですね笑、J.サンドストレム「山風のヨイク」もこれまた素晴らしく会場が鳴りました。
そう、集中力を見せて、良い意味で力の抜けたサウンドが響かせられると、この団は本当に素晴らしいサウンドを鳴らします。個々人が類稀な素晴らしい技能を持っているからにして、その歌い合う音がバッチリ揃うことによって生み出される充実したサウンド。そして、意図的に選択された音色がハマったとき、それが響きに十分乗って鳴るときの、圧倒されるようなサウンドは、ときにより、とてつもない演奏を生み出すポテンシャルがある、それを感じるに余りあるサウンド。
でも、だから、惜しいなって部分は、集中力、その部分なんです。普段、SNSで見ている様子からして、一種脱力というか、没入というか、そういった部分はよく意識されているものの、いまいち、音に対しての集中力が欠落したなって音が、目立ってしまうことが多い。非常に多い。
具体的には、「期待を裏切らない素晴らしい「曲」」と書いた、堅田優衣「ウポポ」。客席の周囲から演奏され、ステージへと上がっていく演出。その中に。音にならない掛け声があるのですが、その強さと勢いが、いまいち中途半端に終わってしまいました。そして、終始言葉が滑ってしまっていて、どういう母音・子音を演奏しているのかがモヤっとしてしまい、すごくヤキモキした演奏でした。否、アイヌ語なんて正直喋れないですけど、でも、だからといって、母音によって演奏効果が違うというのは、この団の団員ならとっくに知っているはずのことなのです。あと、全体的にソプラノが浮いていた。それが特に見えてしまったのが、頭の2曲。特に2曲目のグリーグ「春」については、下三声が作る世界観が温かいのに、妙に悲観的にも聞こえたりして、だいぶ気になりました。多分、シンプルに、ピッチが高すぎたのかな、とか、そういう程度ですけれども。
その他ラウタヴァーラについてもそうだったのですが、時折、表現に必然性を感じなかったというか、なぜその表現を選択したのか、あるいは、表現の頂点はなぜそこになったのかわからない、といった部分をいくつか感じた演奏も。決してどれも悪い演奏ではなかったものの、だからこそ逆に、自分たちの持っているツールを特に何も考えずに、とりあえず当てはめようとばかりに鳴らしていた感じ。subitoな表現でも、その表現が必然的ならば、バランスよく聞こえてくることもある。その点、たまに、あれ?と思わされるような締りのない旋律や、パリッとしないデュナーミクが聞こえてくる。雰囲気だけで歌うと、意外とバレてしまう。それは、どのレベルの団にあってもそうなのだなぁと、なんとなく考えているのでした。
あと、前評判の割に、あんまり動かないんだなぁ、と思っていました。ーー少なくとも前半は笑

インタミ15分。

Murray Schafer "Narcissus and Echo"
ゲスト:鯨井謙太郎
※郎の字は、正しくは「郎」の左側に、右側は上より「口」「巴」

さて、今日の目玉プロジェクトの一つ。意外と再演されているようで、意外と再演されていない同曲は、東混の委嘱であるからにして、それなりに知られているところではありますが、だからといって、そこまで頻繁に演奏されるような曲でも、もともとあるわけではない。まして、今回のように、ダンスと一緒にパフォーマンスされたのは、今回が初めて……なんですかね?実際どうなんだろう。
演出については、意外とササッとステージに上がって、そこに張り付いたまま動かさなかったのが、非常に気がかりです。エコーの神話それであるからにして、もう少しホール全体を広く使ってもよかったような気がします。具体的には、合唱団、あるいはダンスの側をもっと客席側で展開する。面的な広がりを持ったほうが、同じ場所で鯨井さんに踊っていただくにしろ、手足の非常に長い優れた身体美を活かすことが出来たような気がします(逆に言えば、それだけ空間を広く使って、ステージいっぱいに表現を広げる鯨井さんの表現が素晴らしいってことなのですが。)。
※2019/7/17追記:どうやらこのホール、客席での演奏が禁止だそうです。だとすると、客席を使う演出もギリギリの範疇でやられていたってことですね。うーん、それならそれで、ホールがちょっとなぁ……と思わないでもない。多分、消防法の絡みなんでしょうけどね。
演奏は、ほとんどいいんですけど、ここへ来て、基本的に縦が揃わない瞬間というのがやたら気になってしまう。あと、時折飛んできたテナーの無神経な音が気になったりする。なんだろう、集中力自体はある非常にいい演奏だったから、それさえなければ完璧なのになぁ、ってそんな感じ。逆に、いい演奏であるからにして、デティルが気になる。難癖って言ってしまえばそれまでかもしれないんだけどさ。

[ensemble]
Knut Nystedt "Laudate"
堅田優衣「ゆれる」
[tutti]
池辺晋一郎「背中」

でも、だって、こういう演奏できるんですもの。アンサンブルは、団内アンコンで優秀な成績を収めた6人のチーム。とにかく、縦がよく揃うし、それ以上に旋律の音楽性が非常に豊かだし。6人とは思えない充実したサウンドがホールを包みました。特に、竹田の子守唄がモチーフになったという「ゆれる」の旋律の豊かさが素晴らしい。言葉がよく聞こえるっていうと、妙に卑近ですけれど、言葉を聞かせるためには、合唱って、こんなに努力をしないといけないんだよなぁと、妙に納得させられる。
対して、池辺晋一郎は、もっと言葉を届けられたと思うんです。メロディの勢いはいいんですけどね。なんでだろう。母音の形が均一すぎるのかな。でも、なんだかここらへんから、前半にはなかった「勢い」が生まれ始めました。

Grete Pedersen "Ned i vester soli glader"
Grete Pedersen "Bruremarsj fra Valsøyfjord/Aure"
Mia Makaroff "Kaikki maat, te riemuitkaatte"
Toivo Kuula "Auringon Noustessa"

だんだん、腹くくったっていうか、割り切ってきたっていうか、決然とした音の鳴らし方で、パリッと鳴る音が鮮烈に響いています。ペダーシェンの2曲に使われる弱音も、ベースの音に勢いがあるから、決してヘタれることなく、しっかりと力を以て響いてくる。そして、マカロフ「全世界よ、歓喜せよ」、クーラ「太陽が昇るとき」で頂点に持ってこられたときには、もう、演奏の粗さは気にならなくなっている。そう、粗が目立つときって、音楽が方向性を見失っているときでもある。特に音楽が確固たる方向を向いているのであれば、そこに少々の粗が入ろうと、特に気にならないんです。計画的に破綻していくというか。例えば、最後の方、女声が明らかに粗い音ならしていて、コンクールなら原点だろうなって感じでしたけど、そこが主題じゃないですもの、この音楽(これ、褒め言葉ですからね←)。

encore
Jaakko Mantyjarvi "Pseudo-Yoik"

ある意味、一番有名なノルディックサウンドですね笑 否これも、前述の流れの通りのいい演奏だったんですが、ただ一点、1回目の男声「フンッ!」がわずかに遅れたのが、ただただ、惜しい!タイミング系は難しいものだなぁ……。

・まとめ

すっごい書くの迷ってるんですけど。はっきり書いちゃいましょうか。
正直、「意外と普通だな」って思いました。正直。なんなんですかね。正直、期待を持ちすぎた感は否めないんですけども。
なにか、すっげぇ事やってる団だっていうことを散々聞いていて、実際、プネウマをはじめ、日常的に堅田優衣系の合唱団ってリハーサルからピラティスみたいなことやってるし(違)、実際ダンサーなんか呼んじゃったりして、さらには一部のチケットの売り文句を聞いていたりしたもんだから(実は4人位から売り込まれてまして……逆にWebで買いました笑)、逆に、過度な期待を持っちゃってたんですかね。否、決して、演奏が悪かったわけではないんですけどね。ただ単に、あんまり期待しすぎて、なんだか、一人勝手に空回りしているような、そんな感じ。
念の為いうと、非常に上手だったんですよ。そりゃもう、恨めしいくらい。でも、なんか、アレヤコレヤ、突拍子もないようなことをバカスカやって、人を驚かせていたかというと、そういうわけでもない。どちらかというと、普通に上手に曲を演奏していた、そんなイメージ。確かに演出はあるのだけれども、かといって、真新しい演出があるかというと、そういうわけでもない。
あえていいますが、客席を使うのも、演奏中に照明を触るのも、ローホリも、なんならダンスも、これまで見たことある演出です。ただ、いい素材を、うまく組み合わせると、それはイメージになり、ブランドになります。そんな当たり前の事実に気付くのに、私は少々遅れていたような、そんなところなんでしょうか。
これだけの演奏会をプロデュースするのって、大変です。確かに、動きは多いし、きっかけも結構複雑なので。ナルキッソスとエコーのダンサーが入るきっかけとか、さすがプロの仕事だと感嘆するものです。その意味で、間違いなく、この演奏会はレベルが高かった。
ただ、それが、頭の中に大きな楔を残せているか。圧倒された、とか、開いた口が塞がらないとか、そこまでいったかというと、正直、私はそこまで至れなかった。周りの声では、すごかった、という声が多い。そりゃそうです。確かにすごかったもの。でも、演奏会の展開が、予想できる範疇に収まっていた。
それでいいじゃんっていうの、確かにそのとおりなんです。この団は、この団として、確固たるブランドを持っている。でも、そのブランドイメージから超越するような、絶対的なインパクトがあったかというと、まだまだ足りないな、というふうに思うんです。なんか、もっと、とんでもねぇことやらかしたぞコイツラ、って感じで、ワクワクさせてほしかったな、という思いが正直言ってある。
堅田優衣の宇宙を再現する、というのが、一つ、暗黙たる団の目標であるようです。堅田優衣の頭の中って、もう少し、複雑で、難しくて、それでいて、本能に語りかけてくる、そんなものであるというのを、勝手に思っています。その意味で、この団は、未だ、(ちゃんと)伸びしろをもっている団なんだと思います。

しかし、まぁ、偉そうなコメントだなコレ。
念の為言うと、フッツーに中々聞けないレベルでうまい団でしたからね。

2019年6月23日日曜日

【合唱団ノース・エコー コーラス・コレクションXVII】

2019年6月22日(土)
於 愛知県芸術劇場コンサートホール

愛知県といえば、といって、どの団を思い浮かべるでしょうか。
例えば岡混、若い人ならグランツェ、中学校は意見が分かれるでしょうか。意外と外向きに活動しているから、私が所属している某団、などと言ってくださる方もいるでしょうか。ともあれ、愛知県といえば合唱大国で、それはそれは団の数はとても多いものの、外向きによく知られている団って、何かと限られてくる。
でも、すかさずこういう人、アナタは非常に、名古屋の合唱界をよくわかっていらっしゃる。その、あらゆる意味で。
ノースエコーと北高。
否、実際は、北高のOB団として始まったという歴史を知らない方も結構多いと思います(何を隠そう、私も今日知りました)。しかし、この2団が長きに亘ってこの名古屋の合唱界を歌唱面でも思想面でも支配してきているという事実をご存知の方は、非常に名古屋のことをよくご存知でいらっしゃる。否、変な意味でなく、実際、この団が作り出してきた歴史は、名古屋の合唱界を作っているといって、全く疑問が残らない。
しかし、何かと、この団の演奏を聞くときって、合唱祭でほとほと疲れ切ったときか、コンクールで自分の団が演奏が終わってテンション上がってるときなんですよね。だから、なんとなく、上手な団だなというのは認識するんだけど、いかんせん、
イマイチ覚えていない
ことが多い。……否、これでも、この団と関わることの多いポジションにいるから、なんともそんなこと言っとる場合でもないといえばそうなんですが笑
ということで、実は私、この団の演奏会聞きに来るの、初めてです。

・ホールについて

愛知県を代表するクラシック芸術の殿堂となるに至った芸文。改修があってから聞き手で来るのは初めてだったかしら。この前、名古屋のホール不足問題の根本原因とも言えた(笑)芸文改修がついにすべて終了しました。コンサートホールも、照明が全部LEDになったり、トイレがウォシュレットになったり、ホワイエの絨毯が張替えになったりと、メインであるパイプオルガンのホールリペアや舞台装置の更新、耐震補強等以外にも実は目に見える部分での改修も結構あったりします。しかし、客電もLEDになって、意外と雰囲気も変わりましたねー。なんだか、光が直線的で、ステージ間にちょっと客電上がっただけで以前よりずいぶん眩しく感じる。否これも慣れの問題でしょうが、舞台人としてスタッフ入りするときは注意を払う必要があるかもしれませんね。
さて、クラシックの殿堂、と冒頭に書きましたが。実はこのホール、意外と現代アートとも馴染みが深い。否、なにも、名フィルが結構頻繁に戦後音楽を取り上げているとか、そういうことを言いたいわけではなくてですね(事実だけど)、例えば今日も裏では氣志團が大ホールでライブやってたり、そういうのに限らずとも、愛知県美術館でも常設展から結構現代作品の展示が多かったりと(コレクション展明日までやん……行きそびれた残念)、結構バラエティに富んだ使い方をされている。そして今年は「あいちトリエンナーレ」の年。津田大介(!)のプロデュースのもと愛知県美術館はじめ名古屋や豊田などで様々なインスタレーションが展示される他、パフォーミングアーツもこの芸文を中心に展開されます。なかでも白眉は、真っ暗闇の大ホールで開催されるというサカナクションのライブ。改修成り、愈クラシックを飛び越えた芸術の殿堂として、今後伝統を作り上げていくことに益々期待です。

指揮:長谷順二
ピアノ:天野雅子*

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本編に先立ち、本年2月に逝去されたノースエコーの名誉団長・塩田秋義氏を偲んでの追悼演奏。名古屋北高の音楽部顧問であったとき、その北高のOB団として立ち上がったのがノースエコーとのこと。いわば、今の愛知県合唱界を作り上げた方と言えるのかもしれません。哀悼を込めて演奏されました。

Wolfgang Amadeus Mozart "Ave verum corpus" K.618

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第1ステージ・サンドストレムの作品
Sven-David Sandström "A New Song of Love"
 - "The Lord's Prayer"

そう、この団といえばサンドストレム。サンドストレムといえばノースエコー。なんだか毎年コンクールではサンドストレムやってるよなぁとおもったら、かれこれ十数年やっているらしく、はては今年はサンドストレム初演まであるという。惜しくも演奏するほんの10日ほど前に亡くなってしまいますが、むしろ、ここまで自作品を愛している団が、自作の、それも遺作を初演をするというのだから、これはもう、氏の御本望といって差し支えないのかも。もっとも、氏の心は、いまや推し量ることしかできないわけですが……
否しかし、サンドストレム氏に対する思いもさながら(?)、この団の歌心に対する意識は、本当に凄まじいものがあります。素晴らしいといういより、否、凄まじい。
なにかって、この演奏がすべてを物語る。一人ひとりの歌声というのを、本当に大事にするんですね。一人ひとりがしっかりと歌うという意識は、どの団よりも際立っている。すべての団員の表現が重なり合った先に、団としての表現がある。音を揃えることをアプリオリにするよりも、まず歌う。
でもだから、正直、時折揃ってなかったりもする。それを良しと思っているわけではないんだと思います。でも、出発点が違うから、そこを目的としていない。否流石に、テナーを中心に各パート全てで喉声が聞こえてきたりするっていう、それはどうなのって事態になっていることもないでもないのですが笑、でもだからといって、それを回避するために表現手法を変えることはしていない。良くも悪くも、一貫してるんですよね。一種のポリシーみたいなものだから、それを変えるようなことはない。ある意味ではすごいですよ、ここまで歌うっていうのは流石に笑
このステージでは、しかし、それが裏目に出てしまった面が多かったように思います。特に最初のステージだからか、力でゴリ押すような、聞きづらい音が多かった。また、表現も、悪く言えば惰性、機械的なボリューム設計が目立ってしまい、演奏としての面白さには欠けてしまったように思います(たぶん、揃えようと保守的になったんだろうなぁ、逆に)。
めっちゃ歌える人たちだというのを承知しているからこそ、言ってしまいたい、めっちゃ歌えればそれでよかったんちゃうか、と。

第2ステージ・サンドストレム委嘱作品
Sven-David Sandström "For All Live Unto Him" (Niklas Rådström)《Premire》
 "For he is not a God of the dead"
 "The whole forest has rebelled"
 "In the hour of darkness"
 "I wanted to write a poem made of light"

そして、愈待望の初演。遺作の一つであることは間違いないのでしょう。ノースのパンフレット用コメントの日付が6月8日、その2日後に亡くなっています。
遺された作品は、祈りのためのテキストといっていいでしょう。福音書や詩篇からテキストが拾われた音楽は、一方で、森や水、光のような、様々な自然のモチーフに彩られ、自然信仰にも近いような、そんな感覚に自らが包まれるような。北欧の感覚って、こういうところにあるのかもしれないと、なんとなく錯覚するような、自然な風景に彩られた美しい曲です。オーソドックスな響きではあるけれども、しかし、奥の深い複数の旋律を持つ、非常に奥深い曲です。
世の中、だいぶ初演曲が多くなってきました。しかし、その中にあっても、やはり外国曲の初演というのは数少ない、貴重なものではあります。ただ一方で、オーソドックスな響きをもった曲であるからにして(現代曲に慣れすぎているだけかも、ということだけはありますが笑)、落ち着いて聞いていられる、非常に良い初演でした。
演奏自体も、1ステであったような喉声が飛んでくるようなことはなく、非常にまとまった演奏でした。全国レベルの団とはいえ、初演にはあまり慣れていない同団、いい集中力がステージを包んでいたように思います。ただ、その中で、やや萎縮にも近い、こぢんまりとした音が鳴ってしまっていたように思います。耽美的な響きもまた美しい曲なのだとは思いますが、華のあるところでしっかりと華のある音を鳴らせると、短調が多い曲だけに、より激情を増すことができたような気がします。
あと、何より、残響はもうちょっと楽しみたかったですね笑 美しかっただけに、余計に笑

インタミ15分

で、3ステ始まりで、団員入場ーー
良し悪しをいうわけではなく、半ば好みの問題だとは思うんですが。
「いい年したオッサンが合唱祭だのなんだのでTシャツ着て歌っているのは見るに堪えない」という声を聞いたことがあります。うん、まぁ確かにわからんでもない。もう、長ズボンしか履けなくなってきた自分。カラーがないと、なかなかオフィシャルな場には出づらいっていう感覚、私も確かによく分かる。
ーーでも、ね、全員おそろいの(そしておなじみの)Tシャツを着て颯爽と芸文コンサートホールに現れるその姿!今日来るまで知らなかった、まさかそれ、ステージ衣装だったなんて!笑 寒色系でまとめたTシャツを、老いも若きもバッチリ着こなすその姿!
否、真面目に思うんですよ、エンタテインメントですから、実は、こういう見栄えの問題って、意外と、勢いがモノをいうんじゃないかって笑

第3ステージ
arr. 寺嶋陸也・混声合唱とピアノのための『ふるさと』*明治・大正・昭和の唱歌編曲集

そう!この団、歌心が本当に豊かなんです。だから、何よりも、歌ものについては、抜群にうまく歌ってくれるんです。
日本民謡の聞き慣れた旋律線を、本当に情緒豊かに歌ってくれる。しかも、このステージになった途端、突然元気になって、目に見えて音圧が上がる笑 曲としても、歌い方としても、このステージはいい意味で、よくまとまった歌が流れていました。
各個人が声を揃えて歌うということを、この団は、そこまで重視していないように思うんです。否それは、決して悪い意味ではなく、各個人のピッチを揃えるというより、しっかりと歌った先にある音、表現を、合わせていくという歌い方がある。だから、音を揃えるよりも前に、しっかりと歌うことを重視している。それが、何より、この団の強みであると思います。だからこそ、自然に、歌が鳴るようになる。自分の意識の中に眠っている旋律への感情を、自然に起こすことができるから、自然な旋律が、自然に湧いてくる。
良くも悪くも、否、しかし悪い意味ではなくて、これこそ、愛知県の合唱の象徴。鉄板サウンドの極致。心の中にすっと入ってくるいいサウンドでした。ーー何とは言わないけど、深層心理も動かすようなサウンドだとか!?w

で、4ステ、指揮は下手から振るみたいです……え?笑

第4ステージ・スクリーン・ミュージックより
「Hail Holy Queen」*,**
「ハイ・ホー」*,**
「チム・チム・チェリー」*,**
「Climb Ev'ry Mountain」
「民衆の歌」*
指揮:清水郁恵**

さて、このステージ。さっきは全員寒色だったはずなのに、男声は暖色にお召替え……え、何、この団に入ると、そんな何枚もTシャツ買わされるの←
で、聞いてたら、「Hail Holy Queen」の盛り上がるぞって部分で、突如として肩トントンされる、長谷先生。そのまま、指揮が清水さんに変わり、長谷先生は歌い出す笑 そう、実はこの団、一時期は長谷順二にまつわる様々なゲームを合唱祭プログラムの広告に仕込むなど、「長谷先生大好き集団」という裏の顔を持っています爆 だから、「ハイ・ホー」では、長谷先生(はじめ7名)に小人役を任せて踊らせるなど、3曲ほどは指揮者・長谷先生をまるで……否もはやマスコットとして使い倒す笑 もう、なんですかね、この、悪ノリを実現しに来た感じは笑
演奏としては、音が鳴るのが遅いのが非常に気になる演奏となりました。早いパッセージが、どうもあっさりと流れてしまうのが、なにより気になるところでした。決して再現できていないとか、ついていけないわけではなく、早くなると、それだけで、ずいぶん勢いを失ってしまう。その原因が、どうも、音が後なりするから、早いところだと、音がなり切る前に、次の音に遷移してしまう。だから、ちょっと小技を効かせる前3曲は、ちょっと表現が滑ってしまっていたように感じます。
「Climb Ev'ry Mountain」では、しかし、歌の伸びやかさを取り戻し、一方、「民衆の歌」は、意外とあっさりと終わってしまった。段々とボリュームが上がっていき、最後は大団円を迎えるエンディングなのですが、全員が合唱に加わってから、ボリュームも、テンションも、特に上がることのないまま終わってしまった。そのせいで、あの独特な高揚感が生まれなかったのは、ちょっと物足りない感じです。そして、ランダム配置の雛壇上段には、革命旗を振る3人。あえて申し上げたい。革命とは、そんな、ヌルヌルと旗を振り回すようなものではない、と。もっと決然と振り回したかった。

encore
ミマス(arr. 富澤裕)「COSMOS」*
Jake Runestad "Alleluia"

1曲目は、合唱コンクールの定番。さすがに、3声をやってしまうと、男声が大きすぎたかな?否、しかし、先生方も多い団ですからね、今の生徒見てると、歌いたくなりますよね、この曲。いい曲ですし。
で、もう1個も、最近の定番どころ。多分、今日、この演奏が一番良かったんじゃないですかね笑 何より、デュナーミクが一番自然で、素直にいい演奏でした。

・まとめ

愛知県の合唱ーーとか言うと、なんかどこかから怒られそうなんですけど、なんとなく、自分の頭の中に、そういうテンプレートってあるんですよ。
前書いたような気もします。みんながしっかりとイタリアンベルカントを意識しながら歌っているから、しっかりと旋律を歌う方向には意識が向く。でも、声を合わせるだとか、和声を決めるということにはいまいち意識が向かなくて、音が決まらなくても、意外と無頓着に歌えている。結局、声のでかい人が勝ち。否、それはなにも、政治的な話ではなく、歌がしっかり歌えることが何より重視される。
否、当たり前といえば当たり前なんですけどね。どうも、「それしかない」っていう考え方が跋扈しているような気もして(どの地域もとどのつまり同じなのかもしれないですけれども)、何かと愛知県で合唱しているのが嫌になっている人というのが一定数いるのも、多分事実。統計取ったわけじゃないですけど、中高の合唱団が圧倒的に強い愛知県の合唱団は、ノースにしろ岡混にしろ、高校のOB団が何かと幅を効かせる傾向にあります。それに嫌気がさして、名古屋に住みながらにしてよその県に歌いに行くという合唱人をいくらか見かけます。私も、正直、そういうこと思うことがないでもない。
でも、そういうことやって、外の刺激ばかり求めていると、逆に比較として、こういう、愛知県の合唱から学ぶべき点って、確かにあるもんだなあと思わされることがある。特に愛知県のうまい合唱団は、旋律をうまく歌うということに関しては、めちゃくちゃ強い。こればかりは、他の地域にはあまりない特徴といって差し支えないと思います。あえて例えるなら、甍会とか、宮学みたいな合唱団がゴロゴロうじゃうじゃいる感じ。
はっきり言って、好みの問題です。どっちが好きで、どっちが嫌い。そういう問題で差し支えないんです。でも、自分が嫌いだと思っている表現をはねのけてしまうというのは、あまり賢明なことではないよなぁと、手前ながら、様々な団を聞いてきて、素直に思う印象です。
ノース、私は好きですよ。でも、これだけが名古屋の演奏だって思うのは、ちょっとさみしいじゃないですか。
でも、だからこそ、ノースはノースの音を、これからも貫き通してほしいんです。それがあって、初めて文化って、深みを増していくものですから。

2019年3月24日日曜日

【近大混声合唱団第3回演奏会】

2019年3月24日(日)於 西宮プレラホール

大誤算でして、この演奏会行ったの。ってか、行けたの。
当初。団員が知り合いなものだから、チケット買えと言われ続けていて。
今年こそ行けるなと思ったら、結婚式二次会に呼ばれて、それが被ってるってなもんだから、しゃあなし、そちらへ行こうということになり一度は断念。
で、直前になり、結婚式二次会って何曜日だっけと手帳を見る。
……あれ?
二次会と演奏会、全然被っとらんやん爆

ということで、一度はお断りした演奏会、なんだかそのまま、やっぱり行くわ、というのも癪だから、わざわざ現地で当日券を買い、現地の客席側にいる知己ともロクに挨拶もせず、お忍びで訪問笑
最初チケットを売りつけてきた団員某には多分気付かれていない……ハズ←
もうかれこれ5年位前に設立された合唱団。経緯は色々あるのですが、しかし、そんなこと気にするのは野暮でしょう(如何せん、様々なステークホルダーと知り合いである以上、私からとやかく言うのが適切ではない、とも)。眼の前にある音楽がどう鳴るか、そのことを何より意識していたい限りです。

・ホールについて
西宮北口駅すぐ近くのホール。そうそう、兵庫の芸文……の、隣にあるホールです←
プレラという、低層階が民間、高層階(といっても計6階建て)が公共施設といった趣の施設。その中核と言えるであろう施設が、このホールです。多分、一回、練習かなにかで来たことがあるんだよなぁココ……。否、実は隣の芸文のための暇つぶししてただけだったり!?←
ホールとしては、いわゆる市民ホールそのとおり。市立ですからね。床の煤けた(?)Pタイルに、明るい木目の腰壁、ペンキかクロスか、なんにせよ白い壁と天井、そしてベル代わりの「b---------------!」(今日はひときわ大きかった笑)は、なんとも情緒あふれる感じがあります。しかも、ここ、天井が低いもんだから、よけいにそんな風情が感じられる。
でもここ、日本だと割と珍しい(ような気がする)ものが見られます。名前にすると、どうも「仮設反響板」とでも呼び習わされているようです。自立するタイプの反響板で、どうやら折りたたみができるそうな。アメリカの合唱団の動画なんか見ていると、よく出てくるようなヤツです。日本だと、リッチなホールをそこかしこに建てるから、割と需要の少ないやつですが、今回は、200〜300人程度の小規模のホール。ステージも狭いから、これくらいがちょうどいいのかもしれません(もっとも、名古屋の文化小劇場はどこかしこに常設反響板を吊るしてますけどね笑)。
で、鳴りは、否、おみそれしました仮設反響板。響きはそこまででもないものの、ちゃんと、その室内の規模に応じた音量で適切な鳴り方をしている。言ってみれば、それはそれで、非常に豊かな鳴り方です。ホールのサイズに見合った音がちゃんと鳴っているから、むしろ違和感なく聞いていられるのが印象的です。とても音楽を身近に感じることのできる、それでいて、近すぎる場所で鳴っているわけでもないから、ちゃんと落ち着いて聞いていられる。こじんまりとしたところでいながら背伸びしない、非常に好印象なホールです。
ちなみに、コンビニ等ちょいちょいあるのですが、ここらへん、ガーデンズを離れると喫茶店の類は全くといっていいほど見当たらなくなります。混んでても飛び込めガーデンズ。なんなら、西北駅構内にあるタリーズで時間つぶしてたほうが賢かったりして笑

エールはなし。尤も、未だ旗揚げ5年ですからね。……なんなら団旗もないけど←
然しそれでもなお、12人程度の歌い手に対して、集客は7〜8割。大してOBもいないだろう中でその集客は、素晴らしいもんですよ。

指揮:脇坂典佳

第1ステージ・ルネサンスの響き
Hassler, Hans Leo "Cantate Domino"
Victoria, Tomas Luis de "Pueri Hebraeorum"
- "Inproperie-Popule meus"
- "O vos omnes II"
Palestrina "Sicut Cervus"

まずはルネサンスから。なんとなく、医混を思い出すような、そうでもないような笑
否、まずなにより印象的なのは、端正に整理されたアンサンブル。ルネサンスにして、とても清潔な感じがするのが好印象です。そう、ここは関西。関西の学生団は技術的・楽典的基礎がしっかりしているから基本どの合唱団も取りこぼしが少ない、と書きました。まさに、そのお手本のような合唱団。抑えるべきところをちゃんと抑えている響き。それでいて、自己主張がしっかりしているのが、音をしてよく分かる。
尤も、まだまだ、という場所もあるんです。特に、経過音やメリスマの部分にあって、一部で芯のない、無神経な音が返ってくることがある。そこから、アンサンブルがわずかにほころびを見せるということがあるのが、どうしても気になってきます。また、ブレスが雑、というか邪魔だな、と思わされる部分が、特にフレーズの終端に見られる。そろそろローテーションブレスを意識してもいいかもしれません。
で、何が言いたいかって言うと笑、こんな込み入った話を書くつもりなかったんですよ。それくらいに、上品な、言ってみれば、「オトナな」アンサンブルができている。その中に、自分たちの主張を十分に混ぜ込んで、こんな音楽をしたいんだ、というのが、音ににじみ出てくる。
なんだか細かいことで、言いたいことがたくさん出てくるっていうのが、まさにその象徴のような気がします。ここをこうしたら、この団はもっと良くなる、そういうことをたくさん言いたくなるアンサンブルが、ちゃんとできている。方向性を見いだせないようなアンサンブルしているところって、結局この団は何がしたいんだということになり、コメントすることもなくなってきますからね。
最後、"Sicut Cervus"の和音がピタッと決まるのが象徴です。聞いていて非常に胸のすく演奏でした。

第2ステージ・近混アラカルト
三宅裕太「緑の中へ」(新川和江)
Elder, Daniel "Twinkle, Twinkle, little star"
- "Star Sonnet"
Rutter, John "A choral Fanfare"

プログラム曰く、1曲目が今回のプログラムの中で唯一の日本語なんですって。……あれ?「おらしょ」は?ひとつ歌いましょ?爆
さっきの1ステのメリスマ、もしかしたら音が崩れる原因は、勢いの持って行き方がわからなかったってだけかもわかりません。フレージングの問題。長いですからね、フレーズ自体が。その一方、「緑の中へ」は、馴染みのある言語によるフレージングだから、音もしっかり、ちゃんとした音が返ってくる。勢いだけで解決できることって、やっぱりあるんですよね←
一方で、このステージ全般的に、勢いだけでなんとかしようとしてしまったというのも、相反的ながら事実で。「緑の中へ」も、勢いは良かったもののパート間のまとまりはいまいち感じられなかったし、「Twinkle〜」も、残念ながらその傾向が見られてしまった。それで中途半端に、和音だけ合わせようとするから、テンションコードで決まるはずの場所が「ものすごくキレイに」聞こえてしまったりした。「Sonnet」も、そういった意味では、細かい世界観のかき分けは十分にできていなかった印象です。繊細な曲の表現の機微を描写するなら、もっと、1ステのときのような緊張感を持ちたかった。1ステのときのテンションで行けば、もっとキレイに決まったはずなんだけどなぁ。もっとじっくり歌い上げてほしかった。若さゆえの過ち。惜しい。
逆にでも、勢いでなんとかしようとしたステージだったからこそ、「Fanfare」はバッチリいったのかもしれませんね。もっと無声子音目立たせると、よりゴリゴリできて面白かったと思いますよ笑

インタミ10分。否、ここまで40分くらいしか経ってなかったけど、それにしたって、随分短い休憩時間だなおい笑

第3ステージ
Rautavaara, Einojuhani "Suite" de Lorca

何より、この合唱団の規模で、かつ、学生だけで、この作品を取り上げたことに心から敬意を表したいです。……くらいのコメントから、なにか御託を並べようかと思っていたんですよ、本来は。そんなこと許してくれないみたいで、今回の演奏笑
否、エルダーのときよりも遥かにキレイにぶつかっていて、面白い演奏に仕上がっていました。この団幸いに、各パートの、響きに対するイメージがちゃんと一致しているから、同音から分離していったり、ヘテロフォニックな表現をしたりすると、存外にキレイな音を決めてくれるんですね。
非常に音に対しての集中力は良かったと思います。鳴っている最中の、ある程度自由で、コミュニケーションを感じられる、力の抜けたいい音が鳴っていました。2ステにおける若さも、いい意味で少し抑えられていて。否、よく練習したのだなぁと思わされました。
あえていうなら、無音のときの集中力はもっと磨くことができたかしら。「動いていない」状態から、いきなり「動き出す」、その瞬間の描き分けがもっとできると、より引き締まった演奏になったような気がします。
でも、それくらい要求を高くするくらいには、素晴らしい演奏でした。どれくらいって、演奏が終わった後に、会場がざわつくくらい。否、お見事。

第4ステージ
千原英喜・混声合唱のための『おらしょ』―カクレキリシタン3つの歌―

どうしても、聞き慣れた曲って、色々書きたくなっちゃいますよね?笑 そいういう意味では、私のブログの目をごまかそうとするのなら、知らない曲馬かすかやっていただければそれで十分だったりして爆
おらしょはねぇ、色々なところで色々なところが触れていますから。何なら所属団だって。細かいところが色々目につく演奏でした。あえてまとめるなら、先程のステージにおける集中力が裏目に出た、とでもいいましょうか。
集中しすぎだったんですね。いかんわけでもないんだけど、おらしょをそういうアプローチで演奏するには、この団は、あまりにも若すぎた。例えばで取り出せば、1曲目の「Alleluia」を引き出すための主題。確かに、静かに、静謐で、隠れた祈りの中にアレルヤを見出す部分ではあるものの、それを生真面目にやりすぎると、フレージング自体が失われてしまって、ただか弱い音が鳴っているだけになってしまう。それくらいならば、まだ隠れることを知らない天真爛漫な感情をチラ見せしたほうが、音自体が整うことだってあるかもしれない。
2曲目の「あんめ、いえぞす」だって同じことが言える。その直後のマリア賛歌を美しいものとして聞かせる前段階として対置される関係と捉えるならば、ここのボリュームは少々大きくてもまだ許される。まして学生団だし。3曲目の「マエロヤナ」は、もうその意味では、宴会芸の狂乱の縁にいてもおかしくないはずなんです。
若さを武器にせよ、というつもりもないですし、そんなこというおっさん嫌いですが(否、自分のことです、なにより)、とはいえ、勢いをつけて鳴らすこと自体の価値を軽視してはならないと思います。そればっかりだと確かにガキなんだけれども、それを少しずつコントロールできるようになっていくのがオトナ。2ステでなにより、そういう音使いができる、その片鱗を見せているのだから、せっかくだしそれを武器にして、やんちゃに闘ってみてもよかったのかなと思います。
まぁとはいえ、学生団の最終ステージですからね。意外とそんな感じになっちゃうのも納得かも。しんみり終わりたい向きもありますもんね。

enccore
三宅裕太「おやすみなさい」(長田弘)

で、これまた難しい曲をアンコールにおやりになる笑 否知っている曲だから余計にそう感じる笑
中間部の主題設定はややトチってたかも。多分「フクロウ」あたりは男声がもう少し立つべき場所です。とはいえ、フィナーレの前とか、もっとごちゃごちゃしちゃってもおかしくないくらいに難しいのに、よくまとめていましたよ。

ロビーコールもなく、1時間17分という、鬼のような早さで終演笑
壇上では、今年で卒団する指揮者へ、団員から花束贈呈。どうやらサプライズのようで。もしかしたら、まだ卒団の制度も定まりきってないのかも。でも、この、用意された花束に、この団の未来を感じずにはいられません。

・まとめ

なんだか、むかし聞いた、最初期のころのハルモニアアンサンブルの音を、大袈裟に言うなら思い出すんですよね。
否、実は今も昔もハルモニアを録音でしか聞いたことないんですけど爆、声楽家集団とはいえ、アンサンブルの麺においては荒削りな部分も見られる一方で、アンサンブルが確固たる意志を持っていて、その意志が音を鳴らす、そんな様子がありありとみえる演奏。
いわば、"Nicht diese Töne!"とのたまって、某団を抜け独立した、というのがこの団設立の経緯(結局いっちゃったよ←)。そんな団が永続していくために必要なことといったら、確固たる制度でも、組織的な裏付けでも、そんなのなんでもなくて、理想の音を鳴らしたい、そんな、危ないくらいに真っ直ぐな情熱にほかならないのかもしれません。
情熱の中に駆け抜けていった5年間だったと思います。まっさらな状態から団を立ち上げて、ひたすらに突っ走って、100人規模でお客さんを集めて、3回も演奏会を行った。それだけで、もう、どんと構えていい。誇るべき実績を、この学生団は作り上げたのだと思います。
もっとも、学生団です。人を入れ替えながら、続いていくのが学生団。だからこそ陥るジレンマというのが、皮肉にも学生団のほうが重くのしかかります。
学生団という立場にあって、正直、これから先、情熱だけで乗り越えられない壁というのは、どうしても出てくるのだとおもいます。創立当時の情熱というのは、まして入れ替わりが必定の学生団にあって、絶対に薄れるものです。でも、相反するように、そんなときに必要になってくるのは、創団時以上の、音楽に対する熱い情熱なのではないかと思うのです。
そのときに、また、音楽に対する情熱を、例えば今日のように、再び燃やすことができるか、その時こそ、正念場だと思います。――だからこそ、有志を持って、この、今日の日の情熱を、絶対に忘れないでほしいと思います。忘れなければ、また思い出すことができるから。
団の記憶って、そうやって、語り継がれていきます。それが積み重なると、伝統となります。――だから、伝統というのは、よかったころの記憶を回顧することではなくて、良かった記憶をもう一度作り出す、そのためのデータベースのようなものなのだと思います。
色々書いても、とどのつまり、何も意識しなくてもいい。ただ、情熱のあるうちは、その赴くまま、ただ突っ走ればいい。それが、伝統を作っていってくれるから。そして、情熱が空っぽになりそうなときは、少し振り返って、過去の伝統に少しだけ目を向けてみてほしい。そして、そこに内在する情熱を勝てにして、また突っ走って欲しい――多かれ少なかれ、続いている団体、続いているスタートアップって、そういうもののような気がします。

・メシーコール
阪急そば「わかめそば」

関西初、という伝統を重ねているにしろ、たかだか阪急そば、といえば、確かにそのとおりなんです。でも、今日この時期だからこそ、この阪急そばは、意味を持つものでもあります。――多分、今日を持って、私、阪急そば「食べ納め」ですから。
4月1日から、事業者の変更に伴い、阪急そば全店屋号が変わるそうです。「若菜そば」。阪急そばの高級系列で、すでにその片鱗を見せてくれていますね。多分、いち消費者から見れば、屋号が変わる、ただそれだけのことなのかなと思っています。でも、やっぱり、そこは、記憶が根付くものなんですよね。貧乏学生時代は、空腹の中家に帰ってパスタを茹でて食費を浮かすか、諦めて駅前の阪急そばに入って腹を満たしてしまうかというのは、とてつもなく重大な決断でした。その歴史、資本、そして立地であるからにして、あるだけでシズルを生み出し、人々の空腹につけこむ駅そば、中でも関西にあっては阪急そば(あと個人的には「まねきそば」)は、まさに罪深い存在でありました。
もちろん、屋号が変わった程度で、何かが極端に変わることってないのだと思います。良くも悪くも、たかだか蕎麦ですから。でも、阪急そばという名前を失うことによって、なんだか、そこにあった思い出が、ちょこっと欠落してしまうような、そんな、一抹の寂しさを覚えるのもまた事実。今となってはこの程度の出費では財布は傷まない身、存外に、こんなもんだっけ?と思いながら、モソモソと蕎麦をすする、そんな行為の中に、ふと、記憶や伝統、そんな二文字が過る。
伝統って、その程度のものです。でも、それが、伝統ってものなんです。
若菜そばのニュースタンダードに、乾杯。ありがとう、阪急そば。

2019年3月3日日曜日

【混声合唱団愛知学院大学グリークラブ第54回演奏会】

2019年3月3日(日)於 熱田文化小劇場

私、ブログの手前もあって、最近、演奏会ははしごしないことにしてるんですね。
なにかって言うと、今日、裏でグランツェの演奏会やってるんですよ。否、もっというと、はしごできるような時間で、はしごしている人間も多かったわけですけれども。
それにしても、当方、前段の事情につき、どっちの演奏会に行こうかと逡巡していた所、どちらの側にも知り合いがいるものの、チケットを文字通り売りつけてきたのは、彼女ただ一人でありました。カネも渡す前から、ただでいいから、と受け取りを拒否する暇すら与えず、チケットをまずは渡してきた(もちろん、お金は払いました笑)。
で、今日、この演奏会に来て、まずはとばかりパンフレットを眺める。みるに、その、私にチケットを売りつけてきた某への他己紹介文、その一文目にあったのが、

「そう、誰もが知るコミュ力お化けである。」
言い得て妙、それであるからにして売りつけられたこの一席――この文才、俺に分けてくれ!爆

否、それにしても、その某の、「売りつける力」は見習わねばなりますまい笑
実はなにげにこのブログ最多登場、愛学の演奏会です。

・ホールについて
もうホント、このホール、書くことなくなって来てますね笑
否、ホールを否定するわけではなくて、単に、書きすぎて書くことなくなってきたってだけですねん笑 それこそ、愛学だけでこのホールに何回来てるんだって話ですから笑 せっかくだから、団旗とバトンのことでも書こうかと思ったら、もうこの前(というか去年の愛学で)書いたみたいだしさ爆、もうどうせいっちゅうねんと。
このホール、最寄り駅はどこと言われると、地下鉄名城線・神宮西駅という人が多いんじゃないかと思いますが、実はこれ、意外とそんなこともありません。ホールから最も近い駅は、JR東海道線・熱田駅。裏側からもアクセスできる道があるので、駅から徒歩3分は夢ではない距離にあります。最も、熱田駅は普通しか止まりませんが、名鉄名古屋本線・神宮前駅なら全種別止まりますから、名古屋・金山からのアクセスなら抜群にこちらのほうがいい。さらに、栄からなら、市バス栄21号系統・泉楽通四丁目行きの市バスが本数は少ないものの便利ですし、その他熱田巡回系統、金山19号系統、幹神宮2号系統のバスなんてのもあったりする(いずれも「熱田区役所」停留所)。加えて、基幹1号系統等停まる「堀田通五丁目」停留所から歩いても、15分程度で着きます。なんにせよ、地下鉄に限らず、様々な交通手段を検討すると、よりこのホールへのアクセスが便利で、楽しいものになる、かもしれない。
え、なんでそんなこと書いてるかって?
本当にネタ切れ間近なんですよ……笑
そういえば、このホールって、本番中ローホリ裏に仕舞えましたよね……?あと、前明かりなんかケチってない?……などと白々しく書いておきましょうか埋めるために笑

・エール
「わが歌」
「愛知学院大学校歌」

否、最初から思ってたんですよ。とてもきれいに収まっている、精緻なハーモニー。非常にブレンドされていて、和音がよくハマっているのが目に見えてきて、非常に優秀なアンサンブルだと。もっと歌ってもいいんじゃないかな?とかいろいろ考えていたんです。これだけハメられるんだから、もっと歌いこむことができれば、見えてくる世界が変わってくるんじゃないかな、と、凡庸に、そんなこと考えていました。

第1ステージ・アラカルトステージ
北川昇・無伴奏混声合唱曲「歌ひとつ」(立原道造)
平井夏美(arr.源田俊一郎)「瑠璃色の地球」(松本隆/コーラスで贈る混声合唱のための『ウェディングセレクション』より)
米津玄師(arr.田中和音)「アイネクライネ」*(『合唱で歌いたい!J-POPコーラス』より)
木下牧子「はじまり」*(工藤直子/混声合唱曲集『光と風をつれて』より)
指揮:山中壱晟、今泉達矢*
ピアノ:天野穂乃果(客演)

でも、そういうふうに考えていたけれども、どうなんだろう。これはこれでいいんじゃないだろうか、なんて、ちょっと考え直してしまうのが、今回の演奏でした。
小さく収まっているだけ、とも言い切れない、スルメ的な魅力があるのが、今日の演奏でした。なんとなく音量不足なような気がしたけれども、でも、人数考えたらこれくらいがぴったりな音量な気もするし、響きも浅すぎず深すぎず、フレーズもよくつながっていて、しかもそのフレーズがちょうどいい豊かさを持って鳴っている。大袈裟な表現とは無縁かもしれないけれども、でも、確かに寄り添ってくれる表現があります。
華々しい曲をやるには、やっぱり力不足な気もします。その、「筋肉」的な意味で。でも、この曲の並びだからこそ、穏やかな響きがよくあっていたような気がしました。「瑠璃色の地球」は、その意味でとても素晴らしかった!一方で、「アイネクライネ」は、長所とも言えた自然なフレージングが裏目に出た部分もあるでしょうか。後鳴りというか、伸ばしてから音が乗り出すのが露骨に出てしまいました。逆に言えば、自然にできているフレーズを、なんとなくやるのではなくて、自分でコントロールできるようになると、それでこの団の実力はひとつ確固たるものとなるような気がします。自分たちで鳴り方をコントロールすること。もっといえば、音の最初からちゃんと鳴らそうと心がけること。
アルトがよく鳴っているのは、評価しなければなりませんね。一方で、テナーが少々力不足かも。

インタミ15分。――15分!?

第2ステージ・同声ステージ
女声)
徳永暁人「渡月橋〜君思ふ〜」(倉木麻衣)
信長貴富・二部合唱曲「未来へ」(谷川俊太郎)
指揮:今泉達矢
ピアノ:山梨晴哉(客演)
男声)
藤原基央「魔法の料理〜君から君へ〜」
野田洋次郎「なんでもないや」
三沢郷(arr.猪間道明)「デビルマンのうた」(阿久悠/男声合唱のためのアニソンフラッシュより)
指揮:間瀬奈月
ピアノ:山梨晴哉(客演)

長いインタミを経て、このステージ。まぁ、でも、いろいろあるんですよね、ローホリ使って正反色づけたりとか笑
人数が少なくなると、どうしても、音量の問題が露見してしまうのが気になる所。
女声は、「渡月橋」はもっと、壮大な音が作れるはず。揃えるよりも鳴らすことのみを意識の中心に据えたとしても、この団の響きは、崩れず、うまく鳴らすことができたような気がします。
特に、女声は、その可能性を多分に秘めているんですね。「未来へ」のユニゾンが、特にそれを示唆している。特にこの曲の主題くらいの強さが、「渡月橋」でも欲しかった。一方で、男声も、もっとボリュームが欲しかった、その一点。女声はその点、声はうまく使えていたのだけれども、男声は、その点も、まだまだ追求できる点がある。特に、高い方の響きについて、狭いがために鳴り方が苦しくなってしまう。で、それでいてかつ、音の勢いもほしい。勢いが無いと、高音の響きが落ちてしまいますから。
男声のボリュームの理想は、「デビルマーン!」のあたり。あれでmfくらいだと思うと、ちょうどいいような気がします。でかいと見せかけて、そんなもんかな、と。個人的には。

インタミ5分。斬新だ……笑

第3ステージ・客演指揮者ステージ
横山智昭・混声合唱とピアノのための曲集『お菓子の時間』(みなづきみのり)
指揮:神田豊壽(客演)
ピアノ:吉田まつり(客演)

譜面台は客席にあるし、ピアニストは一人で出てくるし、何かあるなとは思っていたんですよ笑
もう、どこから出てくるかな、と疑心暗鬼にくれていたんですが、ステージ脇からちゃんと出てきました。チャイムのモチーフによるピアノから、かけ出てくるようにステージの上に集合、そこから、「只今からこの会場はお菓子の時間ですが、この会場は飲食禁止ですので――」という神田先生の子気味よい(?)アナウンスとともに、ステージは一気にお菓子の時間に引きずり込まれていく。
最初から、これまで聞こえていなかったような音が聞こえてきて、楽しく聞くことができました。後半に行くにつれ、体力的な問題か、タイミングや音程がずれてきたりして、技術的には、悪い面もそれなりに聞こえては来るのですが(後例えば、さっきのテナーの高音みたいなものとか)、でも、それ以上に捨てられない魅力がある。
なにかって、楽しそうなことと、楽しませようとしっかりと考えている、その二点。見せる表情が豊かで、数多くの引き出しがあるから、時間がめくるめく過ぎていく。しかも、崩れた部分があったとしても、ユニゾンがしっかりと鳴るから、しっかりと音楽が引き締まり、音楽の世界に私達を戻してくれる。
様々な工夫がこらされていて、とても楽しいステージでした。何より、心から、楽しませようという心意気に満ちていた。それを、振り付けだけでなく、音と動きで、確かに確認することができたのが、本当に印象的な、いいステージでした。

この後、神田先生がアンコール。マイクもなく、地声で挨拶された後、さぁアンコール……というところで、実は段取り上は団長挨拶だったということが発覚笑 非常にやりづらい中で笑、団長挨拶をやりきってくれました。とはいえ、やっぱり、挨拶していると、心に来るものがあるようで。笑いあり涙ありの、非常に素敵な団長挨拶でした。

encore
米津玄師「Lemon」(指揮:神田豊壽)
信長貴富「それじゃ」(木島始、指揮:村瀬輝恭)
なかにしあかね「今日もひとつ」(星野富弘、指揮:間瀬奈月)
中島みゆき「時代」(指揮:今泉達矢)

レモンは、神田先生の非常に貴重なポップスソロに続いて、卒団生ソロ回し。恒例なんですねそういえば笑
アンコールの演奏も、結構に荒削りなものが多かったです。正直。でも、そう考えると、最初の方の演奏が硬かったんじゃないかと思わされるくらい、非常にイキイキしていてよかったような気がします。
しかし、世代でもないのに、中島みゆき好きだよねぇ皆笑 若い世代のほうが積極的に取り上げているような気がします笑

・ロビーコール
「いざ立て戦人よ」
「ぜんぶ」
「遥かな友に」

最後は大団円。裏のグランツェの時間も迫っている中、皆さんよく残っていたのが印象的でした。否、グランツェだけが全てだけじゃないけどね。でも、非常にいいことのような気がします。

・まとめ

とある人が言っていた、伝聞によるとある一言がものすごく胸の中に残っています。
この団に直結する話でもないので、あえてここで、その言葉を披露するつもりはありませんが、でも、そこから想像を重ねて、この演奏会から見いだせる、私達アマチュア合唱人の「始まり」に寄せて。

学生団って、そういうもんなんですよ。
っていうと、いきなり何かの視野狭窄を疑われてしまいそうですが笑、どの学生団も、「そういうもん」なんです。
各団独自色を信じて活動し、やれ演出だ初演だアトラクだ、アンサンブルや同声合唱に挑戦してみたり、会場一円となって歌ってみたり、全国、否、愛知県のみをしても、非常に様々な学生団のステージがあり、それぞれの仕方で私達を楽しませてくれます。本当、合唱のみならず、心から楽しめるステージがとても安価に、非常に多くある、現代はとてもいい時代になりました。
学生のうちは、――私だってそうです、ここにある活動が唯一で、絶対に自分たちの活動はオリジナリティにあふれていて、自分たちこそが、最も人を楽しませることに注力していて、特別な存在だと思っていた。
否それ自体を否定したいわけではないんだけれども、語弊を恐れずに言えば、当時はなんて傲慢な考えでいたのだろうと自省させられるものがあります。決してそんなことはなくて、もっと良い言い方をすれば、「どの団だって頑張っている」。私達だけではなくて、アマチュアであれなんであれ、同じショーマンとして、ときに孤独に、ときに賑やかに、ステージを彩るために日夜努力を重ねている。
今日の演奏だってそうです。ポップスから合唱曲から、様々な曲を網羅するだけでなく(あえていうなら外国語はなかったけど笑)、3ステではパフォーマンスも豊かなメルヘンをしっかりと表現してみせた。
誰にだって、表現する権利があり、誰にだって、表現する喜びがあります。各団のステージは違えども、そこに、優劣などあるはずがありません。ステージに立って、少々熱くて眩しい照明を浴びる時、その浴びる照明は、いつどこの照明だって、その意味は全く変わることがありません。それは、大袈裟でもなく、新しい世界の始まりであり、私達の新しい船出にほかなりません。
学生団は、そんな船出との出会いの場と言えないでしょうか。学生団からプロの声楽家・指揮者の道へ行くような人もいる。それも、決して、全国大会を出たような団ばかりではなく、様々な立場から。でも、その始まりは、そんな、ささやかな始まりからなのです。
そして、そんな日々は、四年間で幕を閉じることになります(最近つとに怪しいけれども←)。期限があるから美しい、というわけでもない。でも、期限があるから、そのステージは特別で、代えがたいものになります。――だから、自分たちは特別だって思い込むのかもしれませんけどね。まぁでも、だから、それでいいのかも。今のうちは、自分たちが一番って風で。それが、ショーを動かす原動力になるのなら。

私が言えた立場かはわかりませんが、卒団生・在団生乃至退団者いずれも、これからの皆さんの前途は、想像以上に多難です。どうしようもなく悔しいことや、胸が潰されそうなくらいの挫折、別れの悲しみに、現実を見通してしまったときの、途方もなさ。これまでの合唱団で味わったもの以上の辛さがそこに控えているのは、事実と言い切ってしまえます。でも、皆さんが今日踏んだ舞台は、間違いなく、そこにしかないもの。その事実自体に、どうぞ自信を持っていただきたいと思います。なにを言われようが、客席を随分埋めて、しっかりと演じきった演奏は、皆さんが自分たちなりに努力してきた証です。
ステージに立つ以上、私達は同じ土俵の上に立っています。そして、同じ土俵の上で、がっぷり四つを組む権利があります。その意味でも、今日はまさに、大団円でした。どうぞ、今日のステージを作り上げたことに、自信を持って、これからを過ごしていただきたいと思います。
なにせ、ここから、すべてが始まるのですから。

2019年1月13日日曜日

【なにわコラリアーズオール三善晃コンサート】

2019年1月12日(土)於 紀尾井ホール

・メシ―コール

 等身大、という言葉を、心の底から考えさせられる。
 食べたものは、カレー、キッシュ、サラダと、朝にパンの盛り合わせ、オレンジジュース、オムレツに野菜の盛り合わせ、ソーセージ。どれも、どこかで食べたことがあるはずなのに、どこか全然違う。場に飲まれ、緊張する中にあって、しかしながら、味わうものは、そのどれもが、一流のものであると確かに感じ取ることができる。
 なにが違うかと言われると、問うのが難しい。そのどれも、語弊を恐れずに言えば、どこかで食べたことがある味なのだ。確かにわかる――特別なことは、なにもしていない。ただ、日常にも見られる様々な配慮を、全てにわたって続けていった結果が、この一膳に載せられている。そんな、細やかさを、確かに感じ取ることができる。
 小生少しばかり料理をすることがある。合唱曲にしたってそうだ。やったことのある曲に対しては、その過去の記憶を重ねることで、より詳細に、その中身を覗くことができる。なにかが変わっている、変わっていない、ということは、その比較のフィルターを通すことで、ある程度は理解できているつもりである。なにかが足りない、というのなら、なにかを入れればいいだけの話である。しかし、――ここに対して、そのような言葉は似合わない。やっている工数は、私が注意を払ってやった手順とそこまで変わらないはずなのに、その全てに、技術と、神経と、心意気が通っている。
 帝国ホテルの中でも、特に夕食はカジュアルな方である。しかし、そんなことはさしたる問題ではない。そこには、ホテル内すべてをして、帝国ホテルのブランドを背負う人々が、ホテルの、自分自身の威信を賭して、自らの仕事に従事している。
 当たり前が、全て行き通っている。しかるに、日常は、一流の殻に包まれて、大切に、私達の眼前に届けられる。

 え、なにしに来たって? そりゃ、なにコラの三善個展聞きに来たんですよ笑
 なにコラという団が、三善晃の名曲が詰まった男声合唱の個展をする。――それ以外、なにか聞きに行くのに、理由あります?笑

・ホールについて

 上智大学のお膝元・四ツ谷駅からすぐ近くに立地するこのホール。アクセスガイドを見てみると、実は麹町や赤坂、永田町といったところも最寄り駅に数えられるこのホールは、まさに、東京の数ある文教地区の一角をなす、非常におしゃれで綺麗な街です。なにせ、向かいにはニューオータニですからね笑
 このホール、意外と残響はありません。残響時間は発表されていませんが、今日は観客が多かったこともあり、大きく鳴らした後に残る音はちゃんと残響しているとわかるものの、そうでない音はすっと消えていく。割と、面積の割に客席数が多いシューボックスということが、残響にも影響を与えているかと思います。ただ、その音、決して私は悪いことだとは思っていません。逆に言えば、変な残響が残って音が濁る、ということとは無縁です。確かに、部屋の大きさの通り素直に響いて、そして、何より、素直に鳴る。これは、決して今日がなにコラだったから、ということでもなくて、前にあい混聞いていたときだって思ったことでした。そういう意味では、本当に、このホール、三善晃向きなんですよね。おしゃれな和音を堪能できて、それでいて、しっかりと音がなり、後に音が残らないから、各和音が混ざらずにしっかりと性格を変えて、確かに和声を作り出す。
 あと、これはもうどうしようもないことなんですけど、私、多分、ステージより客席が低い位置にあるホールがあまり好きではないのかもしれません。否、そりゃ、ステージすぐ近くはどのホールもだいたいそうなっているんですけど、このホール、1階席の傾斜はそこまでつけずに、バルコニーを複層的に作ることで、高さを作っているホール。だから、1階席は基本的に、そこまで高さがない状態になっています。なんとなく、高い響きを聞きたい自分としたら、席の高さは意外と重要。もちろん、好みの問題だと思いますけどね。普段、しらかわホールに抱いている違和感もそこにあるのかも……とすると、シューボックスのホール、基本的に自分はだめなんじゃ←

作曲・編曲*:三善晃

指揮:伊東恵司
ピアノ:水戸見弥子**、松本望***

第1ステージ
男声合唱とピアノのための『三つの時刻』(丸山薫)***

 若干年前の奇跡的な再演から、課題曲になり、そして、愛唱され、愛聴されるに至ったこの曲。まずなにより、この目の覚めるトップテナー! まずはなんであれ、この音を聞くと、ああ、なにコラ聞いたなぁ、と思わされます。そんなトップと、どこまでも鳴らせそうなローベースを外郭に、この団はあっという間に曲の輪郭を作ってしまいます。それが、三つの時刻であっても一緒。音楽の範囲がしっかりと定義されるから、まず何より、安心して聞いていられます。
 で、この団、実はそんなに多くの楽器を持っているわけではないんですよね。あくまで、確固たる一つの楽器をしっかりと磨いている団。でも、そんな一つだけの楽器で、この曲が持つ、原始的な無常観、存在に対する問がもたらす寂寥感を、しっかり歌ってしまう。
 この名曲を、しっかりと脱力した集中力を持って表現してしまう。張り詰めた空気と、絶対的なる決然とした響き。冬の空のように、凛と風の吹く。――その中に綻ぶ、外声と内声。少しばかりのズレが、少しだけ、この後を予感させてしまう。……気のせいかな?

とんでもなく早い転換を経て、再開。もはやKQである笑

第2ステージ
男声合唱組曲『クレーの絵本 第2集』(谷川俊太郎)

 続いては、絵本を題材にしたこの曲。そう!この曲、テーマは絵本なんですよね。少しでも放っておくと、簡単に、「まじめな顔つき」になって、緻密なアンサンブルを合わせに行くっていう方向に向かいがち――否、普通はそうなってしまうもんなんですよ。第二集なんて、第一集より難しいんで、余計に。
 でも、だからこそ、そんなこと気にしないような作り方をしないといけない。そんな、難易度の高い要件ですが、もともとの楽曲構築にかける時間が短いからか、それ以外のことにしっかりと時間を使うことが出来ている。ファンタジーともなれば、おそらくどの団よりも子供っぽい(褒め言葉)純朴な声を出すこのトップがいてしてなら、やるべきことさえやってしまえば、それだけで表現になるんですよね。
 表現にためらいがないんですよね。向かうべき表現というのが、最初からちゃんと見えていて、その方向へまっすぐ向かっていく。「死と炎」なんてのは、それが如実に現れます。不規則なアルペジオと、そこから突き刺さるように響く主題。縦の和声がビートを刻んでも、なおも通奏するアルペジオ。野生の勘みたいなものなんでしょうね。またの名を、訓練の賜物でもあります。

第3ステージ
男声合唱とピアノのための『縄文土偶』(宗左近)**

 で、やっぱり、心得ているんですよね。音楽と、それが作り出す場の作用を。直感的に。
 三善晃と宗左近というゴールデンコンビが生み出す曲の主題となるのは、端的に言えば、消えゆく者に対する目線。もう存在がないはずのものであったとしても、それをあたかも眼前にあるものであるかのようにして活写し、伝えたかった(であろう)ことをあたかもそこにあるかのようにして描き出す。人間がそこにあるからにして、激情を持ち、時に静かに、時に激しく、夜明けを待ち、また静けさの中に帰っていく。時に動き出す情動と、また静かに、時折脈打つ、妖しげな、しかし確かな命の呻き。
 おそらく、この曲、私初めて聞いていると思うんです。でも、この演奏が初めてでよかった。メロディの歌い方がいいとか、和声の決まり方が良いとか、デュナーミクがいいとか、いろんな褒め言葉があると思うんですが、こういうとき、すべての要素が渾然一体としないと、真に良かったとは言い切れないんですよね。基本に忠実ながらにして、そのすべてが出来ている。
 そして、そんな、神経がすべてにわたって行き通っているということは、それだけ、集中力を持った演奏が出来ているということでもあります。その世界に、私達はのめり込み、そして、しばしその世界を堪能する。僅かな音の揺れを許さない中にあって、この演奏、名演と呼ぶに相応しいものであったと思います。

インタミ15分。やっぱり、ここのオレンジジュースは美味しい(大事なことなので)

第4ステージ
男声合唱のための『五つのルフラン』*

 いってみればまあ編曲集。伊東先生も曲間に「緊張するステージが続くので、ちょっと喋らせて――」笑
 親しみやすい曲(伊東先生曰く「親しみやすい曲を、演奏者が親しみにくいアレンジで」笑)であるだけに、粗も目立ちやすいのが、こういうステージの怖いところです。特にアタマの二曲では、縦のラインの揃い方が気になってしまいます。第1ステージで図らずもその兆候が見えていた、テンポのズレの部分が、段々と顕在化してしまっていたでしょうか。ただ、3曲目の「カチューシャの唄」からは、ノーヒント転調(?)をはじめとして、難しい部分であれ様々な難所も、驚くほどにハマっていく。ハマっていったら先は、この団はもう、勝手に表現が出来上がっていく。
 全体としてはやや淡白なステージであったようにも感じます。でも、それくらいでちょうどいいかな、と思わされる。休憩明けの、ちょっとアタマを切り替えるためのステージですからね。否でも、「鉾をおさめて」は、三善先生の思い入れが強すぎて、もうね笑

第5ステージ
男声合唱とピアノ(四手)のための『遊星ひとつ』(木島始)**,***

 いってしまえば、このステージをめがけて来ている人というのも決して少なくはないでしょう。私とてそれは否定しません。あまりに有名にして、あまりに壮大で、それでいてあまりに卑近で、孤独からの、決意とも、迷走とも取れぬ爆走、その中にこの時代の真実をみる。四部作をはじめとして、多くの名作を生み出した後期の三善作品の中でも、全編成を通して最高の傑作と言うに余りある大作です。
 そう、大作であるからにして、演奏がとてもむずかしい――完璧な再演というのが、めったにお目にかかれない作品でもあります。近頃の快演というと、2013年初頭のおえコラ×創価しなのかなと個人的には思っていますが、なんにせよ、どこかで躓いたり、あるいはどこかでミスしたり、表現が足りないなと思わされたり。あえてこう言いたい。単に、難しいんです。それであるにして、ただ単に超絶技巧というだけでなく、そのさきに見える音楽的・意味的世界が充実しすぎている。だから、演奏者としてもその演奏を完璧にしたくなる。
 なにコラには、特にこの曲、当然のように、完璧を期待してしまう。でも――この日の演奏は、残念ながら、完璧に期待に反していたと言わざるを得ません。
 最初からピッチについて反目し合うトップと下3声、それがために常に安定せず、最後のカデンツまで安定をみなかった各パート。グルーヴを感じることもないまま、ダラダラと進行してしまい、「ベッドのしわと朝日のように」以降はもう聞いていられない。「見えない縁のうた」はまだよかったのかもしれない、でも、「バトンタッチのうた」は、メトロノームのように重く刻まれたテンポが、音楽の進行をとめていく。無理に表現を作ろうとして、そこに、表現のものとは思えない、無駄な焦燥ばかりが走っていく。
 音をなぞっているだけに過ぎない、各パートの交流が見られない、この演奏。あんまり多くを語りたくない。でも、なにコラというブランドがこの曲を歌ってブラボーが出ないということの現実を、重く受け止められたい。
 こういうとき、別の団だったら、もっと別の言葉を用意します。でも、なにコラに求めているものって、そういうものでもないんです。

第6ステージ
男声合唱とピアノのための『三つの抒情』(立原道造/中原中也)**

 ……一度集中力が途切れると、若いスタインウェイ特有の軽いハンマーノイズとかが久々に気になったりするんですよ笑
 実はなにコラ、こういう曲のほうが得意なのかもしれません。この合唱団、メロディの良さについてはなにもトップに限った話ではないんですよ。本当に、どのパートもよく歌う。だから、こういう、メロデイを気持ちよく聴かせるような曲は、十八番といって然るべきものなのでしょう。
「或る風に寄せて」の、迫りきて、また遠くなるものへの表現、「北の海」の、コミカルながらシリアスな世界観、それを表現するに相応しい諧謔、「ふるさとの夜に寄す」で静寂の中に朴訥と語られる、暖かく、心の満ちた、しかし悲しみの中に吹く感情の複雑な表現。
 良いときのなにコラって、本当に、技術のこととか気にならないんですよね。こうなんです。ステージの中いっぱいに、音の世界が花開く。個が主張することなく、音が風景全体を作り出すんです。何か、というわけでもないけれども、多くの術的要素が複雑に絡み合った瞬間、音楽がようやくその本当の姿を少しだけ見せてくれる。
 そう、なにコラには、こういう音があるはずなんです。

 曰く「とてもアンコールを用意する余裕がありませんで――」

 ……でしょうね(真顔

encore
「松よ」(『三つの時刻』から)***

 ということで、一ステの再現。否しかし、この曲、いい曲ですよね。で、この団、本当、決してごまかさない。音に対して忠実。この姿勢だけは、本当に見習わなければならない。
 静寂のうちに終わりゆく演奏会、いいじゃないですか。

 まあ、終演後、多分なにコラ一の大声自慢有名人様がCDの売り子してたんですけど爆

・まとめ

 三善晃の音楽とは、こうも身近なものなのか、と痛感させられました。
 三善晃の音楽って、その難しさゆえからか、妙に敬遠されているような気がします。リズムも和音も、一見するとすごく複雑に絡み合っているような気がして、なんだか難しい、と、感覚的に判断して、そのまま演奏しようとすることなく終わってしまうか、演奏したとしても、難しい曲だ、というイメージだけを持って終わってしまう、なんてことも少なくない。でも、実際に音楽を注意深く調べてみると、難しい難しいと言われている曲が、実は単なる諧謔に過ぎないような曲想だったり、使われている和音も、実はシンプルだったり、感覚的にはよく知っているようなパターンだったりすることもある。もちろん、例えば今日で言えば「縄文土偶」のような、解釈的にも単に難しいということもありますが、特にある時期を越えてからある時期を迎えるまで、10年程度、ポピュラー音楽を非常に多く書いていた時期もあります。多ジャンルに渡って多く傑作を残してきた三善晃。だからこそ、ただ難しいと壁を作ってしまっては、勿体ないだけでなく、解釈としても正しい方向へ結びつかないことがあるんですね。時代背景・作曲背景を理解して、そして、この音楽がどういう音楽であるかを、正しい意味で「雰囲気を感じる」。
 加えて、三善晃の初期の曲には、レゾンデートルにかかる問題を深くえぐった作品も多くあります。もっとも、突き詰めてしまえば、ポップスに傾いている時代でも、『クレーの絵本』シリーズなど、随所にそういう傾向が見られますが……。こういった曲は、確かに、一般的には非常にとっつきにくい、難しい問題を取り扱った作品です。しかしながら、この実存の問題というのが、本来は決して、どこか遠くにある問題というわけではなく、人間の、自分自身の存在意義がどこにあるのかという、誰もが抱えている問題を深くしていったに過ぎない。だからこそ、この問題が、自分自身の中でどう落とし込まれるかというのが、言ってみれば、惹き付けられることが、解釈する上で、とても重要なこととなります。
 その点、今日の演奏は、雰囲気は非常によく掴めていたのだと思います。そこは、さすが、数多くの名演で鍛え上げられた感性を武器に、適切に、自分たちの持つ音を当てはめることが出来ていたような気がします。ポップス、乃至豊かなメロディを持つ曲については特に、難なくその色彩を掴めていたのだと思います。そして、所謂難しい曲にしても、その輪郭は非常によく描き出すことが出来ている。堅牢な外声を武器にして、どんなに難しい曲でも、その世界観を十分に伝えている。「縄文土偶」は本当に素晴らしい演奏。あそこまでの大曲を、名曲だと判断するためには、しっかりとした再演が必要なのはいうまでもありません。そして、そう判断させるだけあって、複雑だった三善晃の音楽が、どんどん自分の心の中に近づいてくる。不思議な体験でした。「黒い王様」から「或る風に寄せて」、「ふるさと」に至るまで、すべてが並列に自らの身体の中に入ってくる体験は、三善晃の、優秀な演奏の個展だからこそ味わえる、不思議な体験です。

 でも、――同時に思ってしまたんです。なにコラの音楽とは、こうも身近に、卑近なものだったのか、とも思わされました。
 否、そりゃ、再現しろ、と言われたら難しいんです。でも、私、なにコラってもっと遠くにあって、ものすごい人たちがものすごい演奏ばっかりしているもんだと思っていたんです。実際、自分がM1の時に聞いたなにコラの演奏って、なんだかとてつもなくて、ただただ圧倒させられるばかりだったような気がするんです。本当、ほかごと考えながらじゃないと演奏聞いてないような自分が、その日ばかりは本当に無心に、集中して聞いていたのも今でも覚えていますし、そのことを人に話したいという衝動から書いたFBの記事は、今の私のこのブログを書くようになたきっかけの一つでもあります。
 でも、今日の演奏は、聞けば聞くほど、そこまで、という感じでもなかったような気がします。否、確かに、快演と呼ばれる部分はあるんだけれども、でも、昔の記憶だと、こんな演奏しなかったでしょ、って部分が少なくなかったのは否定できない。特に、『遊星ひとつ』みたいなことが起こるっていうのは、昔だったら考えられなかった気がします。
 否、きっと、今日始めてなにコラに出会って、きいて、感動したっていう人もいたとは思うんです。そういった意味では、どちらかというと、私が、なにコラを聞いてそういう感情を抱くという日が来るとは思っていなかった、という方が正しいのかもしれない。すると、実は図らずも、私の耳が肥えたというだけなのかもしれません。――そちらのほうが、誰も傷つけずに、幸せになるのですけれどもね。レ・ミゼラブル。