おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2021年8月29日日曜日

【あふみヴォーカルアンサンブル 第8回演奏会】

天の響き 地の祈り~伝え継ぐ心と歌~

2021年8月29日(日)於 米原市民交流プラザ(ルッチプラザ)・ベルホール310


 実のところ、もともと、ライブ配信そんなに好きじゃないんですよ。

 もちろん、昨今の現状を鑑みれば、主催者としてそういう判断に至らざるを得なかった現況の背景は十分わかっているつもりだし、こうやって少しでも演奏会を届けてようという意志をみせてくれる、それ自体は全くもって敬意を払うべきものなんですが、なんにしろ、決して万全の状態で音楽が聞けるわけでもないし、なにより、これが当たり前になってしまうのは厳に避けたい、という、非常に硬い考え方から、コロナ禍におけるライブ配信はレビューすることはかなり意識的に避けていました。ライブ配信という試み自体は、8年前くらいにすでに記事にしていますしね笑 それ自体、特別なことではないんです。とっくの昔に。むしろ、今となっては、クラシックコンサートですら感じられた、ライブ独特のあの人熱れが唯懐かしい。ライブでならホルモンでもノリノリで聞いてしまう自分なら余計に←


 ではなぜ、今回これを記事にしようと思ったのかといえば、

もともと行く予定の演奏会だったから。

 整理券もらっていて、状況次第とはいえ、たとい記事にせずとも行こうと思っていたんですが、往来県いずれにも緊急事態宣言が発令されており、感染状況ものっぴきならない現状下、個人的判断として、さすがに移動そのものを断念しました。で、行かないけどライブは聞く、という中、さすがに何もしないのももったいない(なにより申し訳ない)というわけで、今回、ブログ化しようと思った次第。フォローになってるかはよくわかりませんが←


<配信サイト>

http://www.afumi.com/2/21_8thcon/21_8thconlive.html


 そうそう、今回の記事、その8年前の明立ライブ配信以来! ライブ更新です!

(ライブで見てくれた人、いますかー?笑)


 一番最初「場を和ませる役割」で登場したのは、アンサンブルトレーナーの石原先生。宣言に伴って近隣市町がホールを閉める中、米原市は閉めなかったことによりなんとか開催できた由。まさに僥倖、幸運というべきところでした。「思わずブラボーって何十回も言いたくなるだろうけれども」など、たしかに和ませてくれました笑 そういいつつ、しっかり楽曲解説もしてくれた上で「今日の演奏会、ちょっと長いんです。肩肘張らずに聞いてくれたら」。……確かに、普通の感覚でいってボリューミーですね笑 9人で4ステって笑

 

第1ステージ グレゴリオ聖歌からルネサンス音楽へ歌い継ぐ歌

グレゴリオ聖歌~O quam gloriosum

サカラメンタ提要~O quam gloriosum

T. L. de Victoria “O quam gloriosum”


グレゴリオ聖歌~Sicut cervus

G. P. da Palestrina “Sicut cervus”


サカラメンタ提要~Tantum ergo

F. Guerrero “Pange lingua gloriosi”


 この団、なにより、少人数アンサンブルをやるための音作りをしっかりしているのがよく伝わってくるのが魅力です。一人ひとりがちゃんと歌いこむ音を作っている。ぶっちゃけ、個人的好みがあるのは否定しないのですが笑、それにしたって、この少人数でちゃんとしたアンサンブルをするために必要なこととはいえ、意外とアンコン聞いていると、多人数のノリでアンサンブルを作っているところというのは、一般に上手いと目されているところにあっても散見されるところ。この点、ひたすらこの規模を追求し続けているこのアンサンブルならではとも言えます。

 そんなわけで、特にルネサンスのポリフォニー、否、原曲のモノフォニーでもそうでしょう、音楽をしっかり推進する力がある。もちろん、待ってたって他の人が鳴らしてくれるわけではない、っていう側面もあるんでしょうけど、それ以前に、こういうアンサンブルに放り込まれたときに感じる、ひとまず自分でなんとかしなきゃいけないという感覚、そのことをふと思い出します。そんな側面から、自分自身の音楽性がだんだんとアンサンブルの中で開花していって、音楽が自発的にどんどん膨らんでいくのが、理想的なアンサンブルの形を示しているのではないでしょうか。聞き慣れた旋律(でもない?)からこそ、それが「自然」に入ってくるという、こういう音楽の理想的な形を示してくれています。

 ただ、語頭を鳴らそうとするあまり、少しフレーズがガタつく場面もあったやも。有り体にいえば、少し不自然に聞こえたというのが率直な意見。あとは、さすがに一人だけが音を鳴らすような場面になると少々の無理があったか。力んでいるように聞こえました。まぁ、わずかなんですけどね。

 なにより、試みとして素晴らしいプログラム。一本ちゃんとしたスジが通っている、それだけで、少なくとも音楽においては、傾聴に値するものなんです。


第2ステージ

arr. 増田順平「日本の伝承歌~「わらべ唄・日本民謡」」より

大波小波(山形県)

おこんめ(滋賀県)

ほたるこい(滋賀県)

もぅっこ(青森県)

ずいずいずっころばし(東京都)


 ごめんなさい、やっぱり自宅から聞いているもんで、小休憩の間、席立ってたりしてたんですけど、いきなり篠笛が聞こえてきたのにはびっくりしました笑

 東混創立時代の方により編曲された日本民謡の編曲。一本のフレーズが大波小波、カノンを鳴らしていく「大波小波」、幼き頃の風景を思い出しながら、どこか緊張感をも見せるお手玉歌「おこんめ」、幽玄な輝きをそのまま音にしたような「ほたるこい」。穏やかな曲調にあって、しかし少しばかり暗さをも垣間見える「もぅっこ」、各和声の音の移り変わりも鮮やかな「ずいずいずっころばし」。照明も鮮やかに聞かせるアンサンブルでした。

 小品が揃った中にあって、しかし演奏には技量が求められるところ、手慣れたアンサンブルと言わんばかり、各メンバーの息でしっかり揃えている様子が印象的でした。何より、音楽の向かうべき方向性がちゃんと揃っている。だから、主旋律以外に鳴る装飾的な旋律が、「ついで」にならず、ちゃんと説得力を持って伝わってくる。決して、適当にやっているようには聞こえない。簡単なようにみえて、その実、一人ひとりがこの音楽をよくわかっていないとできない芸当です。ステージ全体の軽さも、ちょうど、前半終わりの2ステにちょうどいい感じ。

 しかし、「ほたるこい」といえばこのところ信長版ばかりでしたから、そのことを考えると、逆に新鮮な響きでした。


ここでインタミ。15分、かな?


 後半に先立ち、石原先生によるホールの紹介。

 旧山東町にあるこのホール、愛称は「ほたる」からきます。近くにある風光明媚な池、それを舞台にした人柱伝承をもとにした舞台で舞台のこけら落としをしたのが、なんとまさに目の前にたって説明をされている石原先生とのこと。地元とともにあるホール、ああ、生きたかったなぁ……。

 しかし、原稿なしでここまで解説仕切ってしまうの、ホントにすごいことだなと思います。いくらプロとはいえ、近現代からグレゴリオ聖歌まで、特にこの団はいろんな作品を幅広く歌いますし……笑


第3ステージ

Schronen, Alwin Michael “Missa Argentina~Homenaje al Papa Francisco”

Kyrie

Gloria

Sanctus

Agnus Dei


 様々な形式による音楽で歌われる、1989年から活動を開始した作曲家によるミサ曲。それだけあって、それぞれのテキストに合わせた音楽で、ときに楽しく、ときに静謐に、全体が進行していきます。フランシスコ教皇の選出を記念する音楽として2013年に書かれたこともあり、ところどころで教皇の出身地であるアルゼンチンの旋律をモチーフにしたり、新鮮でありながら、心のなかに自然に入ってくる、豊かな音楽を見せてくれました。

 「Sanctus」など特に、音楽としての響きは現代的に見て決して複雑とはいえないものの、内に鳴る和音が結構複雑な動きをしていて、おそらく歌おうとすると非常に困難を極めたのだと思います。あえてざっくりとした言い方をするなら、考えだしたらドツボにハマるような、そんな感じがします。でも、そんな難しい曲を、あえて(?)「あっさり」と歌ってくれた。そのことが、この曲の輪郭を寧ろしっかりと表してくれたような気がします。和声は複雑ですけど、必ずしも和声を聞かせる曲ではありませんでしたからね。現代曲あるあるです。聞かせたい部分以外が難しくて、聞かせたい部分が埋もれるって笑

 とはいえ、男女、パート問わず中声部で、少し声が生声に近くなるのは、改善すべきかも。そういって改善できたら幸せだってくらい、人数が少ないので、そうそう無理強いできるものでもないんですけどね。

 ともあれ、こういうプログラム大好きなんですよね。あまり知られていないけど、絶対にいい曲だから聞いてくださいよ、っていうプログラム。ご多分に漏れず、非常に素晴らしい曲でしたし、比較的、各団への導入も容易なんじゃないかと思いますし。「Agnus Dei」なんて、ホントに心が洗われるよう。曲自体、「Credo」が省略された短い形式ですし、ミサ曲があまり好きじゃないって人も、ぜひこの曲から、ミサ曲に触れてみるのも悪くないかもしれません。


第4ステージ

Zelenka, Jan Dismas「聖週間のためのレスポンソリウム集」より

Omnes amici mei

Velum templi scissum est

Tenebrae factae sunt

Tradiderunt me

Caligaverunt oculi mei

<通奏低音>

ヴィオラ・ダ・ガンバ:上田康雄

ポジティフオルガン:吉田祐香


 さて、あふみの魅力といえば、普段あんまり見かけない楽器を用いた、古典的だけれども逆にそのことによって演奏機会の少ない曲の演奏(当たらずとも遠からじ)。まさにそういうプログラムが、今回のメインに据えられました。もう、チューニングの時点からどこか古典的な響きが鳴っていますからね笑 3曲目で再度チューニングが必要になるくらいには原始的な楽器とも言えます。……どの弦もだいたいそうか。

 決して、形式のみで音楽を語らしめるわけではなく、和声や旋律を詩に合わせて選択していく、この時代にあっては先進的な音作りをしています。これに呼応するかのように、アンサンブル全体のもつ旋律性も、やや劇的に、豊かに表現していきます。この点、1ステのルネサンス期の音楽とは異なるところでもあります。

 少しばかり、通奏低音に頼った演奏になってしまったような気がします。もともとアカペラだけだったところに楽器が入った安心感ともいえるでしょうか。決してバラバラだったとまでは言わないものの、前3ステよりも、合唱全体でのまとまりや、旋律の長さが劣化してしまっていたような気がして、少し残念です。

 とはいえ、時代に比してやや劇的な音楽であるゼレンカの持つ表現を表現するには十分な音が響いていましたし、何より、よく私もこのブログで書いている、伸ばしている音が持つ説得力という意味では、まさに楽器任せではなかった点、この団の持つアンサンブル的側面が十分に発揮されていたように思います。日本における数少ない再演という機会がこの団によるものであったことこそ、まさに僥倖というべきでしょう(そういう集団だからこそこの曲を選んだ、とも言えそうです)。

 もっとも、ちょっと率直には、楽器が大きいかな、という印象が先立ったのですが、一方、当時、宮殿で演奏がされていた時代を思えば、実はこれくらいの人数とボリュームが標準だったのかな、という気もしてきます。むしろその点については、この人数にしてこのボリュームの楽器をよく受け止めたとも言えそうです。クレシェンドするにつれてだんだん楽器を凌駕していきますし。多分これは、生で聞いたらよりすごいことになってたんじゃないかなと思います。


団長御挨拶。緊急事態宣言でホールが使えるかどうかもわからない中、開催を決断した演奏会。「我々としては、できる限りのこととして、合唱というものをなんとか守っていきたい、そんな大げさでもないけれど、3年間私たちがやってきたことを少しでも共有できる場があればと思い開催した」。確実に共有されていた、そう信じています。


・アンコール

「琵琶湖周航の歌」

伴奏はオルガン……というわけではさすがになく、オルガニストも入っての演奏。さすがに色んなところで歌っているでしょうから、これぞ「日常」の音、根っからの愛知県民でありながら、郷愁の念をともにすることができました。こういう時期、画面の前だからこそ。。。


最後は舞台の上でお見送りしながらの整理退場となりました。その様子もバッチリと配信笑


・まとめ

 なにより、デルタ株の流行までは少しばかりの楽観論こそあったとはいえ、このコロナ禍に、この量のステージをこなしたということには心から敬意を表します。いくら、やえ山組のときには「コロナを言い訳にしてはならない」旨言ったとはいえ、大変なことにはかわりないですし、何より、こっちでは9人しかいないですから、身体的負担だけ見てもぜんぜん違うんじゃないかなと思います。

 そして、そういう時期に、そういう時期にも関わらず、自分の芯をブレずに持った演奏会をやったこと、そして、それをちゃんと届けきったこと、そのことに、なにより、敬意を表したいと思います。なにかとこういうご時世、時勢に絡めてなにか特別なことをやったり、あるいは、前述したように、時勢に絡めてなにかと甘えてしまうことも少なからずあるところですが、こと、このあふみのプログラムに関して言えば、そういった妥協は一切なく、人によっては寧ろ聞き手が疲れてしまうようなガッツリとしたプログラムを貫徹して、ひとつスジの通ったプログラムをやり通したことに心から拍手を贈りたいと思います。

「アレをやったからアレが伝わる」というような単純な図式ではない、あふみとして目指している響きを、いつもどおり自然に集合させていったら、一貫した表現ができているというようなもの。この点、いつもどおりのことをしたに過ぎないと思うのですが、そのいつもどおりが、特別な瞬間って、どうもこわれてしまいがちなような気がします。いつもどおりの私たち、これすなわち「日常」なような気がします。

 次こそ、また、お伺いしたなと思います。それもまた、当ブログの「日常」にほかなりませんから。