おおよそだいたい、合唱のこと。

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2018年9月16日日曜日

【エストニア国立男声合唱団(豊田公演)】

〈豊田市コンサートホール開館20周年記念〉
2018年9月15日(土)於 豊田市コンサートホール

第1部
フェリックス・メンデルスゾーン/レスポンソリウムと讃歌「晩課の歌」ーー男声とチェロ、コントラバスのための Op.121*
セルゲイ・ラフマニノフ「徹夜祷」ーー男声合唱のための Op.37より
「来たれ礼拝者よ」「わが魂よ、主を讃えよ」「Ave Maria」
松下耕「グロリア」ーー男声合唱のための "Cantate Domino" より
フランツ・シューベルト「水の上の精霊の歌」ーー男声合唱のための D538より
ジョヴァンニ・ボナート/「大いなるしるし」ーーチェロと男声合唱のための*

休憩20分

第2部
ヤーコ・マントゥヤルヴィ「偽ヨイク」
マルト・サール「レーロ」
ヴェリヨ・トルミス
「牧童の呼び声」ーー男声合唱、フォークソングと打楽器のフォノグラフのための
「古代の海の歌」ーー男声合唱とソリストのための
「サンポの鋳造」ーー男声合唱、ソリスト、打楽器のための
「雷鳴への祈り」ーー男声合唱、ソリスト、打楽器のための

アンコール
シベリウス「フィンランディア賛歌」
arr. 西村英将「夕焼け小焼け/お月さま」〈本ツアーにより日本初演〉
エルネサワス「我が祖国、我が愛」

指揮:ミック・ウレオヤ
チェロ:アーレ・タメサル*

※曲名はプログラムによる。

***

 しばしば語っていることではあるが、音楽の表現のあり方には多彩なものがある。それは確かに、ステージの上で表現される壮大な交響曲もそのうちに入る。でも、そのステージ裏で、その音楽に憧れながら鼻歌を歌っていても、それは音楽だ。まちなかに流れているBGMも音楽であるし、田舎の祖母が手を叩き歌っている民謡だって音楽だ。ーー音楽は、どこに現れるか、場所を問わない。しかし、同時に、どこで現れようと、それは音楽であることに変わりはない。ジョン・ケージに示されるがごとく、静寂の中からも生まれうる音楽が、日常の中に溶け込んで奏でられる音楽も、また音楽の姿である。もちろん、非日常の中からーー時には例えばホワイトノイズの中からーー生まれる音楽だってあるが、少なくとも、音楽の原初は、日常から湧き上がってくるものであったはずなのだ。

 エストニアはじめバルト三国は合唱大国の三国であるーー合唱人の間では、いつしか常識のように語られる事柄である。その強みはどこにあるのかといえば、取りも直さず、その合唱文化の裾野の広さにある。10万人規模を集めて行われる合唱の祭典がどの国にもあり、5年に1度、文字通り国を挙げて合唱が歌われる。なかでもエストニアは、パーヴォ・ヤルヴィやアルヴォ・ペルトらにとどまらず、20世紀を代表する作曲家の最たるところに数えられるヴェリヨ・トルミスを排出していることで名高い。そのこともあって、レパートリー、そしてレパートリーへのアクセスが比較的容易なエストニア音楽は、昨今にあっては日本での演奏機会も多くなっている。
 エストニア国立男声合唱団は、そんなエストニアの合唱界にあっても伝説的存在と称されるグスタフ・アーネサクス氏によって設立された男声合唱団である。この団が国立と称されていること、そして、アーネサクス氏が、今日も最後に奏された第二国家を作曲したことからも、その伝説性が証明されよう。そんな男声合唱団が日本に来る、しかも、この日本ツアーの先陣を切って愛知県で開催される、そんな今回の演奏会は、ほぼ満席の客席を以て迎えられた。その満席の客席を以てする、入場からの温かい拍手、そして、その拍手が、全員揃ったときに一段とボリュームを増す様は、いやが上にも演奏会への期待を生み出す。

 演奏会の前半は、西欧各国の音楽を中心に。「晩課の歌」の最初から、ノンビブラートでハーモニーがよく溶けた、優しい音使いで始まる。しかし、よく聴いてみると、その音には確かに芯が残っていて、各旋律がしっかりと歌われていることがよく分かる。彼らの持つレパートリーによくあっている音使いは、これからの演奏会への期待を、その音をして高めてくれる。
 それは決して、簡単に歌われているものではない。すべての要素が徹底して追求されているーーあるいは、自然にちゃんと表現されていることがよく分かるのだ。その技術を以て、演奏は逃げることがない。
 しかしながらそれは、もしかしたら自然な響きの延長にあるのかもしれない。ーープロムジカのときにも思ったことだ、真に朴訥な響きというのは、こういうものをいうのかもしれない。なんともなかったはずの響きが、時間を経るにつれて、どんどん、自身の中に溶け込んでいく。なんてことないメロディのように早いパッセージが自分の中に染み込んでいき、自然に膨らんでいくクレッシェンドが、縦に揃った和声が、気取ることなく次の旋律へとつながっていく。その流れのどれもが自然であり、わざとらしさがない。それらの旋律のどれもが、日常の中から取ってきたかのような響きである。すぐそこにある、日常の中にある音楽が、そのままステージに乗っている。
 「徹夜祷」でも例外ではない。滅多にないのだ、こういう、美しく包み込むようなフォルテを出せる合唱団は。確かに音圧を持ち、確かに音量が出ている。フォルテだとわかる。でも、強迫せずに、こちらに自然に伝わってくる。音圧がないのとは確かに違う。でも、強すぎることもない。日常に溶け込むちょうど良さが、tuttiの僅かな変化で音楽を操る程に、繊細な世界観をもたらしている。
 アンサンブルの技術水準の高さを見せつけたのが、「グロリア」であった。並行和音とその和音を基軸にして彩られるこの曲で、ホールの色彩が一気に明るくなる。ピッチがよく揃い、それが自然に収まっているから、技術的に困難なことをさらっとみせ、楽曲の展開へ観客を集中させる。機動力の高さと、収まりの良さが、技術的側面が前面に出たこの演奏会前半最大のクライマックスとなった。
 よく揃う、という合唱団は、時として、表現を捨てている、ということにもなりかねない。その時として相反する命題をうまく彫刻していることを証明したのが、「水の上の精霊の歌」である。シューベルトに代表されることであるが、各パートすべてがメロディをしっかり表現できていないと、音楽としてすら成立しないことになる。その、非常にファジーな表現の機微をはかる同曲にあって、この団は見事に表現してみせる、表現の幅の広さは、団に、指揮者による制御を待ってはいられない。その要求に答えるための、団員個人による確固たる音楽表現へ向けた要求に、この団は見事に応えてみせた。斉一的に揃うだけではない、各団員の音楽観の高さを見せつけられた。
 第1部の最後には、団員は客席へ降り、指揮者も客席から演奏する。演奏するのは、「大いなるしるし」の美しい世界観。チェロが奏でる幻想的な旋律に、二度でそっと寄り添う各パート。そこから徐々に音楽が合唱団同士の相互効果を生み出し、倍音のようにグラスハープが鳴る中で、チェロのピチカートで音楽がいよいよ展開する。その中に通奏する怪しげな低音、そして、語られるテキストも意味深に、和声を構成し、吐息となり、閉じられる。まるでそれは、この第1部の集大成のようでもあった。繊細にすべてのことを表現する、その実力余りある、非常に実力に富んだステージであった。

 第2部から舞台はいよいよ北欧方面へ移っていく。最初は、今や日本でもおなじみの「偽ヨイク」。まるで愛唱曲のように歌われるが、最初のモチーフに始まり、だんだんと複数の旋律が絡みゆく展開は、決して簡単に歌えるような代物ではない。しかし、まるでさもこうであるのが当然であるのかというような歌い方で観客を楽しませる。片や「レーロ」は技術的にさほど難しい曲ではないものの、その伸びやかにどこまでも広がっていくフォルテが会場を包む。まるで、第1部が技術の見本市であったとするなら、第2部は、それを以ていかに技術を披露していくか、その見本市であるかのようだ。いわば彼らにとっては愛唱曲ともいえるであろうこの二つの曲を以て、第2部への期待は否応なしに高まる。
 そして、以降ステージはトルミス個展に入る。トルミスの中でも重厚で、戯曲的で、かつ叙事詩的に広い世界観を歌った4曲が揃えられた。「牧童の呼び声」から、牧歌的な掛け声と民謡のメロディが録音で提示され、草原の只中にいるような風景と絡み合うハーモニー、そこに一つになっていく主題と充実の和声、さらにそれが破綻していき、3つのテンポが同時進行する。さらに、伝説に基づく叙事詩的世界を見事に活写した「古代の海の歌」、コミカルながらとどかない願いを以てただ一心に打ち続ける「サンポの鋳造」、さらに圧倒的な声量の中に雷鳴を轟かせる「雷鳴への祈り」ーー。
 トルミスの音楽は、その求めやすさも相まって早くから日本でも盛んに歌われている、いわば最も身近なエストニア音楽である。しかしながら、どうしても再演されやすいのは、比較的容易に取り組むことのできる音楽であることが多い。それは、民謡のモチーフを比較的素直に、ミニマルに進行させるものであったり、いわゆる嬌声、すなわち音符の外で鳴らすような音を用いないものであったりすることが多い。しかし、何よりこのプログラムの並びは、トルミスが単にミニマル・ミュージック的なモチーフの「繰り返し」の流れにいるわけではないことを十分に証明する。それは、モチーフの「組み合わせ」により一つの物語を作ることにあり、いわば、エストニアの原風景を映し出すことにある。どうやら私達はーーあえてこう言わせて頂きたいーー、トルミスを少々勘違いしているようだ。それは、日常から生み出されるドラマであり、激情も、感動も、日常も、壮大な風景も含めてすべて、エストニアのにちじょうから 生み出されるものである。それを生み出すための技術だけでなく、この団は、それを生み出すための生活的背景も共有している。まるで、絵画を見ているかのような、生活の息遣いまでも聞こえてくる、迫るドラマに、観客は没入し、そしてーー無量の感動に魅せられる。まるで、エストニアの草原が、森が、さもそこにあるかのように。
 懐かしさのようなものなのかもしれない。私達はエストニアを知らない。知らないはずなのに、ーーエストニアの世界をおのがものとして、このホールに見出した。

 アンコールでは、文化的に近い場所にあるフィンランドの名曲に始まり、重要な曲が2曲揃えられた。西村英将による1曲は、このジャパンツアーのために書き下ろされたものだという。長らく闘病していたが、ジャパンツアーの寸前に逝去されたという。いわば遺作として残ったこの作品は、日本の夕景とエストニアの月の灯を組み合わせた風景である。夕焼け小焼けのモチーフにより想起された音楽が、エストニアの月の旋律と絡み合う。その絡み合いが壮大な音響を見出し、繊細で切ない、限りなく美しい風景を生み出していくーーそれぞれの地域に見た夢と憧れこそ、この曲が見せる風景そのものである。まさに、このジャパンツアーをつなぐ楽曲となった。そして、最後には、エストニアの第二国歌とも言われる曲である。楽曲を創団したエルネサワスにより作曲されたこの曲は、ソ連に占領されたあとに、再独立への原動力となってエストニア中で歌われているという。ーーある時、エストニア大使臨席のレセプションに参加したことがあるが、その際のことをふと思い出す。あの時、直立で、真面目ながらも温かい目でこの曲をたたえていた大使の姿をよく覚えている。

 音楽の生まれ方は多彩だ。しかし、やはり音楽は、日常の中にこそその真の姿を見出すことができる。技術の難易こそ、真の問題とはならない。決して、曖昧な心を曖昧なまま愛せよというつもりもない。しかし、自らの原体験が想起する、思わず出てくる感情が生み出す美しさは、やはり肯定されなければならない。まるで、旅先で聴いた露天商のハーモニカの音色と突き抜ける青空に感動するときのような。その時、プロフェッショナルは美しさの要素にはならない。しかし、プロフェッショナルにより、そんな原風景が美しく、かつ、土着的に表現されたとしたら。
 思うに、音楽を知るとは、その心的背景を知ることなのだ。それはどこまでも心の問題なのだ。しかしそれは、私達を寛容にし、そして、私達の表現の幅をも広げうる。様々な美しさを知ることによる、新たな美しさの創出を、その可能性を、私達は秘めている。