おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2017年11月28日火曜日

【合唱団イオス第11回演奏会】

2017年11月26日(日)於 昭和文化小劇場

なにも、池袋ばかりが合唱ではない。
さらにいうなら、2ステの脚本家の職場も池袋ではないらしい。
と、壮大な池袋dis(!?)で始まりました今回のレビュー。否、別に、全国大会行けなかった恨みつらみとかそういうのないんですけど()、ともあれ、今日は名古屋で、合唱団イオスの演奏会に。去年10回目の演奏会を終えた、気がつけば若手合唱団の中でも、老舗どころのひとつとなった合唱団です。この合唱団、パンフによると、モットーは〈「集まる」楽しみ、「できた」の楽しみ〉。そう、何かというと、この団、他の合唱団とはちょっと違ったコンセプトで合唱を続けています。歌が中心に回っているのは間違いないものの、ただ一方で、集団としての和を良しとするのが特徴です。つまり、徹底的に「サークル」然としている。見ていると、なんだか、学生団の延長のような活動をしているのが特徴的。その特徴が顕著に顕れているのは、真ん中のポップスステージ、第2ステージを「アトラクションステージ」と題し続けていること。とはいえ、今年のタイトルは「イオスの奥様事情〜あなたと一緒で、よかった!?〜」。……抗いきれぬ年の波を感じる

・ホールについて
以前、向陽でも書きましたね。開館からはや1年経ちました。だからか、段々と床に敷かれたPタイルの目地に年季が……って、さすがに気のせいか!?w
今日、3ステの1曲目がインストのみのアンサンブルでしたが、いわば、このホールのポテンシャルが最も出るのは、ともすると、こういった小編成器楽アンサンブルかもしれません。音が飛んでこないわけではないが、残響というとそこまで期待出来ないホール。でも、逆にいえば、控えめな残響が心地よく、うまくホールの広さにあった響きによって、ボリュームも響きもちょうどいいアンサンブルを聴くことができました。
つまるところ、音圧のある精緻なハーモニーが聞ければ、このホールは使いこなすことが出来る……とどのつまり、結局は、アンサンブルの実力がそのまま出てくる、ということか。ううん、手厳しい。手元のメモには、「良くも悪くも、練習場の響きをそのまま味わうことの出来るホール」との記述が。旨い合唱団は、練習場で聴いても、旨い、と思わされる。しかし、その意味でいえば、とても難しいホールと言えるかも。
まぁでも、気軽に歌っていてもしっかり声を届けてくれることは間違いないので、気軽に使うのも、それはそれでオッケーだったりします。さすがに、文化小劇場、各区にある地域の文化施設ですから笑
そして、このホールの最大のメリットは、ステージが非常に広いこと。この前の向陽もそうですが、今回の40人規模の合唱団が乗っても、他の文化小劇場と違って狭さを感じません。その点、文化小劇場としては非常に使いやすい場所になっています。

第1ステージ
Dobrogosz, Steve “ZAKURO”(Tomihiro Hoshino)
指揮:松原朱里
ピアノ:杉本依実南
コントラバス:祖父江憂貴
タム:浅田亮太

音の響きを優先して作られた曲だ、とどっかで聴いた記憶があります。その点、日本語の響きに対しては非常に美しく作られているものの、音韻という側面で見ると、少々外れている部分もある。したがって、放っておくと、実は、ただキレイなだけの曲になってしまうという、少々頭をつかう曲でもあります。
この曲、その観点についていえば、さほど苦しんでいる様子はありませんでした。否、寧ろ、完成度高かったといって差し支えないかなと。言葉を言うという点については、非常に意識が行き届いていて、楽曲の出来の根幹を支えていたように思います。ただ、残念だったのは、演奏の出来が、それだけに収まってしまっていたこと。フレーズの伸び方だったり、逆に収め方だったり、アウフタクトで入る音への配慮だったり、母音ごとの音の歪みが、特に閉母音で響きの艶が失われてしまったり、ア母音が逆に開きすぎてしまったり、3度のピッチと入り方だったり……とにかく、まだまだ気をつけられるポイントはいくらでもある演奏でした。
特に残念だったのは、男声・女性のバランス。男声が比較的骨太に、しっかりとしたヴォカリーズを鳴らしている一方で、女声の旋律と言葉が浅く、物足りない印象でした。特に、フレーズが盛り上がる高音部分で、勢いが目立って落ちてしまっていた。これ、もう、勇気のような問題なのだと思います。安全運転に、外さないように外さないように、と意識するあまり、音を合わせに行っているように、こちらでは聞こえました。もう、思い切って、このフレーズでは何を歌わなければならないか、その一点に狙いを定めて鳴らせば、もっと輝かしい主旋律が鳴らせたような気がします。
でも、これを、粗削りの原石というのかも。否、言葉に気をつけるというポイントだけで、まず日本語の曲は普通歌えるはずなのです。言葉というポイントからまずはじめて、フレージングを構築したり、母音を揃えていったり、言葉に付随して展開する和声を構築していったり。いわばトヨタ生産方式のように、5回の思索を深めていくように楽曲を作っていくと、楽曲作りに深みが増すのではないかな、と思いました。
そして、特筆しなければなりますまい、楽器がすっごくいい味出してました。オプションでもないんでしたっけ? でも、ジャズに魅力のあるドブロゴスだけあって、入る価値のある楽器隊でした。特に、タムのリズムが非常に心地よく、アンサンブルを邪魔しない程度の控えめかつ存在感のあるボリュームで入っていたのが印象的でした。

インタミ10分。アトラク前だからですかね、とはいえ、変わったことと言えば、ドラムがしまわれたことくらい。衣装も特に変わっていないし……うん?

第2ステージ・アトラクションステージ
『イオスの奥様事情〜あなたと一緒で、よかった!?〜』
福山雅治「家族になろうよ」
高橋真梨子「恋に落ちて」
木山裕策「home」
椎名林檎「落日」
(編曲者不詳)
脚本:小椋良浩
指揮:松原朱里(1,2)、上田真史(3,4)
ピアノ:佐方淑恵

お次はアトラク。そう、元イオスの代表さんのFBを見てても、毎月のようにイオス関係の結婚式に参加してますからね笑
さて、このステージでも惜しいのが、フレーズの作り方。ご覧のように、全てポップスで構成されたステージだけあって、どの楽曲でもポイントになるのは、主旋律の構築の仕方。フレーズの抑揚が、やっぱりこのステージでも抑えられてしまっていて、今ひとつ物足りない出来になってしまっていたのが残念なところ。
それが残念だな、と、今ひとつ思わされるのが、ソプラノを中心に、高音から逃げてしまっているところ。なぜって、この団が、演奏の質として粗削りダイヤの原石たる部分が、まさに、その、表現に関わる部分にあるから。目的に向けて一直線なところ。「どう歌いたい」という心が、全面に押し出された表現を徹底しているんですね。その意識があるからこそ、余計に次を求めてしまう。アンサンブルに意思がある。それだけで、演奏は、伸びる素質を持っているんです。最早、母音が開いているという欠点をとってすら、このアンサンブルのための何らかの意思ではないかと思わされるんですね。実際に、そんなような気がしてくる。
でも、それ以上に、このステージについては言いたいことがある。アトラク、やるなら全力で。否、全力じゃなかったとは言いますまい。でも、すっっっっっっっっっごく物足りなかった!! 依頼に対してリサーチチームの調査結果を朗読するというもの。うん、たしかに、団員の生声ということで、面白い部分もあったかもしれない。もっと、もっとうごいてほしいし、もっと全力で笑いを取りに来て欲しい。そう、もっとはっちゃけてこそ、イオスでアトラクやる価値がある。あくまで、ショービジネスなのです。厳しいこと言えば、内輪で盛り上がりそうなことは、合宿でやればいい。せっかくやるなら、学生団では出来ないような、学生団の範となるようなアトラクを目指して欲しいところ。

インタミ20分。ウソのように見えて、ホントなんですね、これ。変わったことと言えば、ドラムがセッティングされたのと、意匠が黒・黒に変わったこと。うーん……?もう少し削った方が、お客様には優しいような。インタミ入れるのは仕方ないにしろ。

第3ステージ
Völlinger, Martin “The Latin Jazz Mass” より
1. Opening
2. Kyrie
3. Gloria
4. Psalm and Hallelujah
6. Sanctus/Benedictus
9. Agnus Dei
14. Sing the song of gladness to our God
指揮:上田真史
ジャズピアノ:工藤美保
サックス:辻田祐樹
コントラバス:祖父江憂貴
ドラム:浅田亮太
Special Thanks:近藤有輝

まず何より申し上げたい。ホールについて書いたところでも言ったのですが、絶品の楽器アンサンブル!! 1曲目がインストなだけあって、何よりその魅力が十分に生きました。いやもうホント、この演奏を理由にお金とってもいいくらいです。願わくば、この雰囲気のままに、attacca で Kyrie へ入ってほしかった!
とはいえ、素晴らしいアンサンブルにも恵まれて、この曲、とても乗っていたと思います。特に、Hallelujah などは、ガッツリとノリノリに表現されていて、こっちも楽しくなる出来に。特に、音数が多くなると、こういう曲って乗りやすいんですよね。歌ってて楽しいし。でもだからこそ、いまひとつ気をつけてほしいのが、歌っていないときの「待ち方」。歌っていないときに突っ立っているだけというのは、どうにも惜しい。サックスがバリバリにソロを吹いている時、合唱団がどんな顔して待っているかって、聞き手がどうスイングするかに関わってくる。
そして、この曲、ミサでありながら、ミサではない。ミサの形式は、通常文を元に、厳格な形式のもとに決まるもの。否、たしかにミサ通常文に基づく同曲は、ミサ曲と言えるのかもしれない。でも、途中にハレルヤが挿入されたり、その他本来は14曲に渡り(!)各テキストを、ジャズを基軸にしてまとめた同曲。したがって、教会でやれるようなミサというわけではない(もっとも、この際、演奏会用ミサと典礼用ミサの別は措いておきましょう)。
したがって、この曲の言葉の作り方というのには、ひとつ工夫が必要です。この曲のテキストは、世界で最も知られた文章。したがって、すごく乱暴な言い方をすれば、言葉なんて、聞き取れなくてもいいとも言えるのです。勝手に脳内で補完してくれる。Gloria ときたら、誰がなんと言おうと in excelsis Deo なんです。だから、こういう時は、この曲の表現のために、言葉を使ってやったほうが、効果が高いのではないのかなと思います。例えば、無声子音を普段よりもしっかり飛ばしたほうが、リズムの対比が際立ってきて良かったりもする。
せっかくなら、ハデにやりたいんですよね。そのために、是非、もっと細部にわたってガッツリ表現したおして欲しいと思います。それだけで、もっとガンガン乗れたような気がします。ハレルヤが良かっただけに、もっと出来ることがあったんじゃないか、と、思わず惜しくなってしまう。

・アンコール
木下牧子「サッカーに寄せて」(谷川俊太郎)

そして、これ。いやもう、歌いたかったんだなぁ、と、よく分かる歌い方と、よく分かる音だったくらいに、みんな、歌いたいように歌ってました。そりゃ、すごく清々しかったんですか、敢えて水を差してみたい、なんで、サッカーだったんだろう、と……笑

・まとめ

僕ね、言いたいことがあったんです。この団に。だから、演奏会のこととか関係ないかもしれないけれども、とにかく、言いたいこと書きます。
ハッキリ宣言しておきたいんです。この団、愛知県に、否、日本に、なくてはならない合唱団なんです。なぜか。合唱団員に、歌う場所以上に、居場所を提供して、合唱団員が「帰り着く場所」を作っている。そして、集団として、そんな、居場所づくりに、成功している。それを、若手の団で成功しているのって、すごく貴重なんです。
合唱団って、普通、音楽をやるために集まっている。その音楽をやるために、手段として、合唱団という寄り合いがある。だから、音楽のために練習するし、出来ないことについてすごく厳しいし、時には音楽観の違いで団を離れてしまうこともあったりする。
この団とて、そういうことがないわけではないんだと思うんです。でも、この団、僕には、「イオスのために歌っている」という意識をすごく感じるんです。イオスがあって、イオスという集団が、その中の人達が、好きだから、そのために歌う。そんな感じ。〈「集まる」楽しみ、「できた」の楽しみ〉――まさに、そのコンセプトが、反芻されます。イオスが集まることで、新しく出来ることがある。イオスのために、イオスだから、出来ることがある――そんな、可能性の喜びに満ちている、そんなような気がしています。
正直、この日曜日に池袋でやっていた合唱とは、極端な言い方をすれば、対極的な部分もあったりします。もちろん、同じ合唱というメディアを使っている。でも、コンクールみたいに、他と比較して一番を狙おう、という考え方を持っているわけではない。この合唱団の目的は、とても内面的なものであり、徹底して自己に向けられている。言わば、自己実現こそが、この合唱団の目的でもあるわけです。
僕、こういう合唱団がもっと増えていいと思っているんです。よくいう話で、コンクール離れっていうものがある。コンクールを離れて、ホンモノの音楽をしようっていうの。でも、それだけなくてもいいとも思うんです。もっと、合唱団って、サークルとして、いろんな目的があっていいと思うんです。もちろん、あらゆる形で最高の音楽を目指すというのは、素晴らしいことだと思うし、合唱団である以上、何らかの形でいい音楽を作ろうという気落ち自体は、間違っていないと思います。でも、それが、音楽自体がたとい目的でなくても、音楽を通して楽しむのだって、音楽だと思うんです。
そして、合唱界は、そうやって、いろんなふうに音楽を楽しむ人たちに支えられている。そんな、合唱文化の裾野を広げる合唱団イオス、この団が、この団を好きという人たちに支えられていること、それ自体が、物凄く、価値のあることなのだと思います。

2017年11月21日火曜日

【TFM合唱団第29回演奏会】

2017年11月19日(日)於 ライフポートとよはし コンサートホール

どの都道府県でも割と事情は似ていると思うのですが、普段愛知県民をかたっていても、名古屋に住んでいる当方、東三河に行く機会というのはめったにない。せいぜい行っても、西三河、つまり、刈谷や豊田、安城、岡崎止まりがせいぜいという人が、西側に住んでいる人間には往々にして多い(と、いいつつ、西尾張にもあまり行かないのはご愛嬌←
そんな中、愛知県で合唱をしていると、やっぱり、東三河の合唱団って出てくるんですね。土地の規模も人口の規模もそれなりのものがありますし、なかには豊川コールアカデミーのようにコンクールで実績を残してきたりすることもあったりする(それでいて、連盟のイベントともなると、大体会場は尾張地区でやるものだから、ご足労なものです)。
今回行った団は、そんな東三河最大の都市である豊橋で長く活動を続ける合唱団。毎回の合唱祭でも安定した響きを聴かせる同団は、もともとあった男声合唱団と女声合唱団が統合する形ではじまり、今年で創立35年。長寿団のひとつに数えられる同団にあって、桜丘高校で音楽科を作り上げた、同団名誉顧問・齋藤喬氏の伝手もあってか、桜丘高校とのパイプが非常に強い。今回は桜丘高校音楽科楽友会から花が届き、ソリストは桜丘高校出身でありながら、同団に在籍経験もあった人もいる模様。今も、壮年団とは言い切れず、非常に幅広い年齢層で活動しています。ちょうど立ち位置でいえば、はもーるKOBEに近いかも。そう、この団、行政からも表彰を受ける、いわば、豊橋の合唱文化をも背負う、正に老舗どころ。
したがって、厳に申し上げておきたい。
決して、道玄坂がどうとか、そういうのないので。
……あ、知ってた?

ホールについて
そんなわけで、東三河のホールというのも、当方、足を運ぶ機会がありませんでした。今回が初めての探訪。写真でちょっと見たことのあるホールだったこともあり、割と期待して行きました。何かって、見た目の雰囲気がすごく良いんです。石造りのような、言わばデザイナーズマンションのような雰囲気を持った、どこか都市的でありながら、響きを持っていそうな外観。
豊橋のポートサイドに構える、中庭豊かな円形の建物の中にある複数の文化施設、そのメインの一つが、このコンサートホールでもあります。バブル直後の1994年開館は、ちょうど愛知芸文と同い年くらい。こけら落としは第九演奏会だったという当時の写真は今も掲示してあります。第九が乗るくらいの広いステージに、客席は1,000席程度、後方の絶壁客席は2階席という位置付けです。音楽コンサート専用で、反響板は固定でありながら、シューボックスタイプではなくシアタータイプの、所謂多目的ホールにも使える、客席とステージが峻別された構造は、独特な雰囲気を持っています。まさにデザイナーズマンションのようなシンプルな構造は、だんだんと年を重ねてきて、風格を帯びつつあります。
響きは、期待していた素晴らしい残響がまず何より印象的。そして、その直後、ちょっとしたことに気づく。このホール、スゴいのは、すっごい響くのに、全然鳴らない。天井が高くて響くし、奥行きがあっても奥までよく音が届いていそうなのですが、ただ、全然音量が、音圧が増さない。広いステージで、50人規模の同団ですら手にあまるほどの模様。きっとこのホール、大編成の合唱や、音量の鳴る楽器だと非常に映えるのではないかなと思います。悪いホールではない、でも、ある意味、物凄く試される。だから、後述しますが、バラバラのオーダーだったり、バリバリの声楽だと、しっかり聞こえてくるんです。「地力」が試される。中々おっかないステージです。
そして、このホール、最大のデメリット。とてつもなく、駅からのアクセスが悪い。港の近くにあるのもあってか、クルマで来ることを前提として作られているような場所にあります。臨時バスが今回は出ていたようですが、普段は、どうも、1時間に1本が関の山とも言えるバスが唯一の足です。今回は、行きがタクシー、帰りがバス。帰りのバスはもちろんすし詰めで370円。タクシーは15分程度で3,000円弱。4人で乗りあえば700円と考えると、払う価値全然ありだなと感じてしまいます、正直。

第1ステージ
信長貴富・混声合唱とピアノのための『くちびるに歌を』
指揮:酒井宏枝
ピアノ:種井理恵

この曲、なんか、規模的に最終ステージってイメージが非常に強いんですけど、この爽やかなイメージから考えて、キャッチーな構造を考えたら、第1ステージでも十分映える曲ですよね……まずなんだか、そのことに気付かされたのが新鮮でした。何より、海が直ぐ近い場所だから、余計に、ね(何が
比較的端正にまとまったアンサンブル。内声がよく聴こえてくるのが印象的。内声が旨い団は、アンサンブルをまとめる力に長けている団、ですからね。ただ、一方で気になるのが、ホールが散ることも相まって、非常に淡白に聞こえてしまった点。ところどころ、高声系でしっかりとした音が聴こえてくることはあるのですが、それも、気まぐれで意図を感じない。もっと、テンポ的にもじっくりと表現を深めて、一音あたりの情報量を多くした演奏だと、より聴き応えがあったように思います。そう、特別指導を受けたという伊東先生の指導、それだけを鵜呑みにすると、どうしても淡白になってしまうのです。
どでも、この団、やっぱり、経験が非常に深い団。だから、全体を見回したときの表現に対する意欲は非常に素晴らしい!「くちびるに歌を」は特に、最初は少し早いかな、というテンポだったものの、それがうまく1回目の旋律のいい意味での単調さにつながり、2回目における主題のリフレインが効果的に訴えかけてくる。もちろん、普通の団でも同曲においてこの要素は往々にして指摘されるのですが、指摘されたことを、わざとらしくなくやるのは、難しい。
だから、なんですかね、隣の子連れのお父さん、「すげえなぁ……」と思わずつぶやく、その、芝居がかっているようにすら聞こえるつぶやき、でもこれ、本音なような気がします。

この幕間で、団長挨拶。否、こんなに安心して聴いていられる挨拶、久方ぶりでした笑

第2ステージ・中島みゆき&さだまさし
arr. 高嶋昌二「糸」
arr. 鈴木憲夫「案山子」
arr. 相澤直人「麦の唄」
指揮:酒井宏枝
ピアノ:種井理恵

2曲目はポップスステージ、とはいえ、中々に重い曲たち笑 でもそこらへんは、持ち前のアッサリと歌いきる、よく言えば「爽やかさ」で乗り切ります。
とはいえねぇ、アカペラを揃えるくらいの実力って、割と大事なんですよ。1曲目。ブラヴォーが飛び出した同曲は、アカペラの編成。フレーズを歌おうとする心意気が、この曲に芯を通していきます。そう、技術的なボロというのは、指摘したらきりがない側面は正直辞めません。特に、高音が当たりきらなくても放置されているのは、色々な団にありがちなことでもあります。でも、この技術的課題、しっかりと歌いきるという一点で、突破できる部分が、少なからずあるんですね。もちろん、放置しておいていい課題ではない。でも、歌いこむことで、各個人が自分の音に責任を持つようになる。そのことによって、音圧だったり、表現が豊かになるんですね。否、これは、決して観念的なことではない。でも、一言、「ココロで歌う」! そういった意味で、フレージングが優先されるTFMのような団では、メロディをしっかり歌う曲に対して、ランダムオーダー、あるいはステージ全体を使った表現は、非常によく映えるんですね。ちゃんと鳴らそうとすること、それだけで、十分堪能できる、非常に貴重なステージでした。

インタミ15分。ホールのカーテンウォールから外を覗くと、開けた青空が眩しい。いいホールだなぁ……。
そうそう、第3ステージのピアノを弾く増田先生、プロフィールに曰く「私はピアノを弾いているのではない」という境地に至っているとかなんとか。実際に聴いてみて……ん、なんか、わかったようなわからんような……笑

第3ステージ・齋藤喬傘寿記念
Mozart, W. A. "Vesperae solennes de Confessore" KV339
指揮:齋藤喬
ピアノ:増田達斗
ソプラノ:畔桝幸代
アルト:荘典子
テノール:前川健生
バス:能勢健司

先代先生の傘寿記念。即ち、齢、実に80歳。団員にマイクを向けられ、曰く「年を取りました――只、音楽は、年を取りませんので」。
その言葉をそのままに――何かって、このステージ、エネルギー、その一点! 傘寿の御大、それだけ聴くと、一体どんなヨボヨボな棒振りを見せるのかと思いきや(失礼)、これが、とてつもなくキレッキレのタクト裁き! 力強いアインザッツに載っていくかのように、合唱団も、これまでの音圧からは目をみはる程の素晴らしい圧のある音を見せてくれる。モーツァルトという楽曲の性質もあって、ちょっと表現が強さ単一に過ぎたかなと思わせる面こそあるものの、合唱の食いつきもよく、ソロやピアノとも非常によく絡み合っていました。
このステージ、歌い手一人ひとりの、「次、何をすべきか」という表現がとても良く光っていました。自分が演るべき音楽がどういう音楽か、というのを、どういう形であれしっっかりと見据えていて、どうすれば自分が、どんな音を、どんな風に歌うことが出来るかを予想した上で、音を鳴らしているのだなというのがよく分かる。だからこそ、食いつきがよく、音圧に豊かな、決然的な音が鳴るんですね。
で、これ、本番のパフォーマンスだけじゃないんです。こういうことが出来る団は、リハーサルが強くなります。なぜって、常に、どういう音を出したいか、出すべきかを考えながら歌うわけですから、ビジネス的に言えば、PDCAサイクルが個人の中で非常に早く回るわけですね。そういった意味で、上達がすごく早くなりますし、歌い手としての地力も上がる。
そう、いってみればこれは、この団の底力を見せられたステージだったのだと思います。

・アンコール
Mozart, W. A. "Dominus Jesu”(齋藤)
Elder, D. "Twinkle, Twinkle, Little Star”(酒井)

最後のステージにちなんだ一曲と、これからの時代をかたどる一曲。エルダーは、少し力不足だったかしら? 否、いずれにしても、これからの団の形を見せようとする姿、それこそが、この選曲の最たるところでしょうか。

・まとめ

地域の核となる合唱団って、往々にして困難を伴うものなのだと思います。なぜか。常に、その地域にとってジェネラルなものになり続けなければならないから。選曲一つとっても、歌い手皆の心を掴んで、ある程度集客を期待できる曲となると、限られたものとなってくるし、例えばその地域で合唱団が少ないともなると、玉石混交に歌い手が集まってくるから、どうしても、レベルだったり、目指すべきものがバラバラになってしまって、結局、街の合唱サークルのような、みんなでなかよくうたってたのしみましょう、みたいなものになってしまうこともある。それが一概に悪いとは言えないのですが、選択肢がない中で、目指すべきものがそれしかない、というのは、とりわけ、その地域に住む人にとって、とても苦しいものとなる。
お世辞じゃない、TFMにあっては、その心配とは無縁なような気がしています。選曲をとっても、第1ステージに「くちびるに歌を」を中間楽章含めて全曲しっかりとやり、この曲のために、伊東先生を読んで複数回のレッスンを付けてもらう。そして、しっかりと自分たちのやりたい音楽について考え、それを音にしようと試みる。何、今鳴っている音が問題なのではない。大事なのは、そのベクトルにほかなりません。
音楽がある生活、ただそれだけで、心が豊かになります。でも、私は、敢えてこう申し上げたい。それが、馴れ合いになってしまったら、それは、もう、音楽ではないんです。たといどんなに、なかよしサークルであったとしても、そこには、常に向上心がなければならない。だからこそ、団長さんが「技術の向上のために、切磋琢磨してきた」とおっしゃる、その言葉が何より心強い。向上心あってこそ、その向上心そのものが、音楽にハリを齎します。
――釈迦に説法? 御意。僭越ながら、また、名古屋の地でも素晴らしい響きを聞かせて戴けることを、心待ちにしております。

なんなら、貴団よりも伊東先生が来てくれない当団の演奏会にも来ていただけたらなぁ、なんて←

2017年10月9日月曜日

【クール・ジョワイエ演奏会2017】

――男のア・カペラ、西・東――
2017年10月8日(日)於 ウィルあいちウィルホール


抱き合わせ商法とかなんとか。
この演奏会、招待状を貰う前から、行くか行かんか悩んでいたところでした。否、どちらかといえば、圧倒的に、行く、と決めていた向きが強いか。否、そりゃ、この前は全国大会に久しぶりの出演を果たすなど、実力にして相応な合唱団。しかも、名古屋の男声合唱文化が哀しくも廃れつつある昨今にあって、益々その重要性をましている同団。その意味にあって、行くか検討するのは自然な流れなのですが、今回についてはそれだけとも言い切れない。

なぜって?
そりゃ、
CDがついてくるから(爆

豪華20曲収録の「クール・ジョワイエ/ベストセレクションI」、なんと全員に贈呈笑
しかも、最初のチラシでは先着順での贈呈となっていたものが、日を改めて見てみると、なんということか、その人数の話がガッツリ削除されている。そりゃ、行くしかないでしょう笑 行くだけでCDもらえるんですよ笑 ケチと噂の名古屋人のハート掴みまくりですよさすがですわ笑
実に2年半ぶりとなるという演奏会。今年はコンクールに出ず、演奏会に集中してきたジョワイエ。さらには、招待状によると「サプライズとして新編曲・委嘱初演を2曲用意しております」由(サプライズ……?笑)。愈、演奏への期待も高まります(……なんか、演奏がついでみたいな感じになってるな……笑)

愛知県女性総合センター・ウィルあいちの中にあるホール。名古屋においては珍しく、官庁街に非常に近いホールです。規模としては800人くらいと、しらかわをやや上回る広さ。愛知芸術文化センターの音楽対応2ホールより小規模ですが、逆にその使い勝手の良い広さと場所が相まって、音楽だけでなく講演や式典など多目的に利用されている県立ホールです。このホール、男女共同参画関係の施設ということもあり、女性団体のイベントだと使用料が安くなるという特典があり……あ、何、今回は関係ない?笑
さて、前述の通り、多目的ホールとしての機能が強い同ホール、しかし、天反の奥側が非常に低く、客席へ向けてキレイなラッパ型を作ることが出来ていることもあって、音の鳴り方については特に不満のない、良いホールです。多目的ホールだと、音がステージに篭ってしまうようなことが頻発するのですが、このホールについては、そういった要素は特にない。幅広い団で使いやすい、本当にいい意味でオーソドックス。
ただ一方で、その意味では、あくまで「鳴り」については問題がない、というのがこのホールの少し惜しい点。特に残響が長いとかいったことがないので、出した音がそのまま届きます。つまり逆にいえば、合唱団の実力がそのまま顕れる、うまく音を作り込もうと思うと逆に難しくなってくるステージ。オーソドックスというだけあって、使いやすいホールではあるのだけれども、その後、極めようと思うと、合唱団の素の実力がありのまま出てくるだけあって、ある種試されるホールとも言えそうです。
そうそう、このホール、非常にホワイエが狭い。だから、所謂ストームなどはステージで対応することになります。たまぁに、学生団が使ったりする時にあっては、その点は少々難点か。

指揮:高橋寛樹
ピアノ:森恵美子

しかし、男声合唱団たるもの、某団じゃなくても、「さわやかに、かっこよく」なければなりますまい笑、入退場は大人数にもかかわらず、非常にスマートに、キビキビ歩かれているのが印象的。そして、挨拶を終え、演奏に移るまで、非常にあっさりとしている。これこれ、これですよ。高校時代(中学だったかも)に現代文で読んだ評論で、日本の演奏家は入場から演奏までが非常にもっさりしている旨の文章がありましたが、まさにそれ。逆なんです。ペンギンのように歩いているうちは、みたくれだけだと二流にみえてしまいます。集客は9割。さすが、凄まじい。
そうそう、あと、今回の演奏会のMVPは間違いなく、御案内役様のステージ上にける軽快なトークにあります。オバサマ方の心を掴んで離さない、小ネタを挟みつつもしかししっかりと曲について紹介する、しかもそれを原稿無しでやってのけてしまう度胸と、話力は、まさに、ステージに立ち続けた者のなせる業か……高橋先生すら失笑するその業、否、あやかりたいところです笑


第1ステージ・世界の合唱曲(1)
Palmgren, Selim
“Laula, laula, veitosni”
“Kesä,-ilta”
“Tuutulaulu”
“Sua muistanut oon”
“Hiiden orjien laulu”

まず最初は、フィンランドの響きから。最近、全国的に流行を見せている北欧系サウンドですが、こればかりは自信をもって言える、名古屋では現在、供給過多ともいえる程、北欧系サウンドが大流行を見せている。どちらかといえばバルト三国中心ですが、今回の演奏会ではパルムグレン。にしても、なんというか、もう、この手の発音を見ると妙に落ち着いてすら来るのが今日このごろ笑
最初のメモの段階で、「最初の piano に一抹の不安を覚えるものの、forte のカデンツは聴いていると、やはり、アァ、男声合唱をきいているナァとなってくる」と書いてある(原文ママ、表記が妙に古っぽいのはご愛嬌笑)。そう、フォルテでガンガンハモっているという、あの、やりたいことやりました!という音を聴くと、ああ、男声合唱っていいなぁ、となるのですよね。……とにかく若い内は、それだけで終わることが出来たのですけれども笑
何かと、弱音がふわふわと聞こえる部分が目立ちました。その原因を色々探るという演奏会に、聞き手としてなってしまったのが、なんとも惜しいところでした。でも、必ずしも、表現自体が悪いわけじゃないんです。きっと、記譜についてはしっかりと追うことが出来ている。でも、何かが違うんです。
結局、力の問題なのかな、と思います。体力。筋力。身体の支え。力がないピアノのせいで、音がどこかカサカサに聞こえてしまうし、鳴らすところは鳴らすけれども、響きが乗らなくて地声気味になったりする。乗り切らなきゃいけないトップの高温が届かなかったりする。
5曲目みたいな勢いのある曲は、ある意味どうにでもなるんです(勿論、努力を否定するわけではないですが)。だからこそ、こういう曲で、力押しのフォルテでがなるような、あまり賢くないアンサンブルをしてほしくないというのが本音。個人的には4曲目が好き。どこか憧れのようなものを感じる、熱っぽい表現がたまらない。

第2ステージ・世界の合唱曲(2)
信長貴富 “Diu vi Salvi Regina”(『コルシカ島の2つの歌』より)
池辺晋一郎「ベンガルの舟唄」(『東洋民謡集(1)』より)
Kodály Zoltán “Fölszállott a páva”
Schafer, R. Murray “GAMELAN”

1曲目は国歌なんだそうで。国歌のエコーをヘテロで表現してるとかしてないとか。ほんまかいな笑
信長の、単音を展開しながら曲を進行していく方法。このこの方法にあって、大事なのは、通奏する単音。この音が基本となりながら展開するだけあって、しっかりと軸となる音がぶれないで鳴っているというのが、なにより重要です。その音が次の音へ引き継がれて、新たな展開を見せていく。とどのつまり、この音は、この曲の場合、とある歌詞から展開していくのですが、最初は言葉として鳴っていたものとしても、最終的にはヴォカリーズへ遷移していかなければならないものです。そこがうまく行かなくて、どうも響きが固くなりがちでした。
そう、ヴォカリーズの必然性というものがどうも不足していたなというのがこのステージ全体の印象。「ガムラン」然りです。この曲は、どうしてもヴォカリーズに振り回されてしまいました。特に早くなってから。遅れているわけではなさそうにしろ、どうも遅れて聞こえてしまっていた。「ベンガルの舟唄」にもその点顕著なのですが、少しばかりの緊張感の欠落が、音に緩みをもたらしてしまっていたような印象です。

インタミ15分。珍しく、男性トイレが大行列笑

第3ステージ
間宮芳生『合唱のためのコンポジション第3番』

そう、だから、こういった地声張る感じの表現は……素晴らしんだな、これが笑
カデンツにあっては、もっと響きを重視した表現のほうが良かった気こそすれ(特に2番)、1番、3番の鳴らし方は、聴いていてとても気持ちのいいものでした。特にこの団、色々書きましたけれども、唯一絶対に譲れない素晴らしい点がありまして。それが、表現に対する飽くなき欲求といったようなものです。歌いこもうと思ったら、迷うことなくしっかりと歌いこむ。その副作用として色々な難点が出てこようとも、少なくともしっかり表現できているのが、やはり、これまで積み重ねてきた実績の一端ともいえる側面なのかなと思います。
その点、なんとも惜しいのが、弱音に対する表現、あるいはレガートでしょうか。なんにせよ、意欲はよかったものの、その表現自体は、少々金太郎飴的に、のっぺりと似たような表現が続いてしまったため、広がりが見られなかったような気がしています。
技術的なことをいえば、内声の声のブレが課題か。音程が上がるところで、届かないなと気づいた部分があったのが、内声だからこそ、余計に気がかりでした。
否、とはいえ、このステージ、とても良かったです。聞こえてきたブラボーの声、アレは単なるお捻りでもないとは言えそうです。

第4ステージ
木下牧子男声合唱による10のメルヘン『愛する歌』(やなせたかし)より
「ひばり」
「海と涙と私と」
「地球の仲間」
「犬が自分のしっぽをみて歌う歌」
「さびしいカシの木」
「きんいろの太陽がもえる朝に」

さて、この手の曲、簡単なようにみえて難しい曲たちです。なにがって、シンプルなメロディと和声だから、ボロが出やすいんですね……否、見えやすい、といった方が正しいかも。たとえば、今回で言えば、高声。出そうとする余り出しっぱなしになり、コントロールが効いていない部分が多く見られました。だから、実際には、意外と声が出ていない。否、うまく鳴っていなく、他パートに埋没することが多く見られました。出し方の問題だと思います。それか、抗えぬ平均年齢上昇の波か――?←
とはいえ、こういう曲やらせて、聞かせられないはずないのが、この団のやはり安定している面か。こういう曲たちって、歳取ると染み入るものがあるんですね……笑 特に「さびしいカシの木」。孤独ながらも屹立するカシの木の様子が目に見えてくるようでした。メモには「きんいろの太陽」の勢いのままに歌えたらなお良かった、などと書いてあるものの、でも、今思い返せば、あれくらいの勢いで収まっているからこそ出来た表現なのかもしれないな、とも。その場限りのものですし。
いずれにしろ、フレーズ感ないと歌えない曲群を、持ち前の表現に対する意欲で歌いきってくれたのが印象的でした。

・アンコール
若林千春・編曲、やなせたかし・作詩〈委嘱編曲初演〉
「アンパンマンのマーチ」
「手のひらを太陽に」
西村朗「ゆうぐれ」(大手拓次)

頭2曲は初演。やなせたかしにかけて、とのこと。「アンパンマンのマーチ」の出だしは、なんだかファンキーな感じで始まり、アカペラで気持ちよく歌い上げる同曲。敢えて言えば、ヴォカリーズのパートがしっかりとそろうと、この局はもっと映えるようになると思います。「手のひらを太陽に」は、高橋先生の、歌わせたいところで振らない指揮が印象的。それにしっかり応えて、しっかり歌い込んでいたこの演奏は、今日イチと言って差し支えないものだと思います。
「ゆうぐれ」は、この団が西村朗個展を開いた際に初演した曲。演りたかったんだなぁという思いに溢れた非常にいい演奏でしたが、しかしまぁ、それにしても、落差が激しいなぁ……しかも、それが、演奏会最後の欲ときたもんだ笑

・まとめ

最後になるにつれ、というより、言葉が卑近なものになるにつれ良くなっていった印象。別にそれが悪いというわけではないのですが、表現の幅が今ひとつ単一的に過ぎなかったのが非常に気がかりでした。だから、いいところではすごくいいんだけれども、うまくいかないところではうまくいかないまま時間が過ぎ去ってしまう。
この団、嘗ての実績もさることながら、今一度、その実力が認められて全国大会への出場を果たした団。そうすると、我々聴衆としても、その聴くハードルというものがひとつ上がります。そればかりは、人間である以上仕方のないこと。もちろん、それに応えることのみが使命というわけでは決してない。ただ、この団は、今一度コンクールへの出場を果たして、今ひとつ、目指すべき音楽のハードルを上げるタイミングへと辿り着いているのだということを再認識させられたステージでした。今やっている音楽に満足することなく、今ひとつ上のステージへ――口で言うのは簡単だけど、というような内容、まさにそのままではあるのですが、ただ、強く意識しないと惰性となってしまうのは、おそらく、経験を多く積まれたこの団なら十分承知されていることかと思います。
今一度、自分を見つめ直した、キレのある音楽を聞かせていただけたなら、と思います。決して、今回の演奏が全く悪かったとは言わない。ただ、どこか消化不足となったその心を充足する演奏を、今一度聞かせていただけたらと願ってやみません。

2017年9月18日月曜日

【興文混声合唱団第1回演奏会】

2017年9月18日(月祝)
於 大垣市スイトピアセンター 音楽堂

わたべ、最近ブログを書いていない件。
「月曜から夜ふかし」的に)

いや、実際、あいこんからずっと書いてなくて、ああ、そろそろ書かないとなんか色々とアレかなぁと思って(?)、軽井沢にパソコン担いでいったり大阪にパソコン担いで行ったりしたんですけれどもね、それにしても、結局、「まふゆでござい」みたいな記事は書いていなかったわけですよ。そう! うちのブログの特徴といえば、皆様に知られていないような演奏会を掘り出して御紹介するのが使命、それは、大阪だろうと名古屋だろうと大して変わらないわけです。
その意味では、とどのつまり、

わたべ、最近ブログの本分を忘れている件
(「月曜kry)

……そんなこと言い出したらきりないっていうか、なんというか、当方としたらぶっちゃけ、行きたい演奏会に行っていただけなんで罪悪感もへったくれもあったものではないのですが笑
そんなわけで、今日は罪滅ぼしに(?)興文混声合唱団。数年前だかに颯爽と登場し、岐阜県代表をかっさらっていったことから一躍その名を馳せた合唱団。もとは大垣市立興文中学校の合唱部が母胎となって立ち上がった合唱団。なるほど、その点、実力は担保されているわけです。今でも興文中からの人材供給(←)は続いているようで、以前訊いたところによると、なんと高校生も入っているんだとか。わーお。そんな、団の歴史・人員ともにフレッシュなこの合唱団、ついに第1回演奏会の御盛会と相成りました。

・ホールについて
岐阜のホールといったらサラマンカホールという程度には岐阜に詳しくない当方(ホント申し訳ない)、ある意味、岐阜のホール開拓も兼ねてのコンサートでした。そう、ホール開拓も久々だから感覚が鈍るといいますか、このホール、気をつけなきゃいけません。なにがって、アレです、「文化ホール」というのもあるのですが、今回はそちらではありませんので……え、間違えかかった人間がいるって?……照れるなぁ←
割と古めの外部仕上げからは一見想像がつかない、浅めのブラウンとシャンデリアが彩るシューボックスタイプのホール。座席も400程度とみられ、コンパクトかつ響きが優先されたつくりという、存在価値の高いホールです。床のPタイル目地がやひな壇の蹴込が少しくすんだ感じなどからは、ちょっとした古さを感じますが、でもこのホール、ちゃんと歴史に育てられているのだなぁと感じることが出来ます。椅子の座り心地もいいし……敢えて言うなら、ちょっとホワイエが狭めなのがマイナスかしら。
で、響きはどうだというと、これがまた非常に素晴らしい響き。素直に残響が抜けていき、それでいて音圧もある。そう、たとい響いたとしても「音圧もある」ホールというのは、けっこう貴重なものなんです。響くホールというと、往々にして、実は意外と鳴っていないというか、ちゃんと響いているから問題ないようにみえるけれども、実は音圧という
意味ではステージ側に篭ってしまっていたりするステージって少なくないんです。でも、このホールは、ちゃんと、両輪をしっかりこなしている。その意味では、音楽のジャンルを選ばないで、ポップスからクラシックまでなんにでも使える、古くありながらにして今でもその可能性を感じられる、ポテンシャルの非常に高いホールなのだと思いました。そして、ちゃんと鳴らしてくれるということは、どんな音でも拾ってくれるホールということ。逆に言えば、変な鳴らし方しても聞こえてきてしまうホール……ある意味、おっかないホールでもあります。
あえていうなら、その、暗転した時の光の落ち方はスゴいんだけど、その時に反響板のスキマから裏の照明が漏れて来ているっていうのは……ま、まぁ、歴史がある証拠、というこで(汗)

指揮:竹中久美、高井裕也*
ピアノ:大塚宏美、高橋明日香**


この合唱団、なによりまず素晴らしいのがステージ内移動。20人ほどのオーダーが、よどみなく5秒ほどでさくっと並んでしまう様は、みていて非常に清々しい。これだけで、胸のすく思いです。

・Opening
いずみたく(arr. 上田真樹)「見上げてごらん夜の星を」(永六輔)**

まずは舞台客照暗転から、ペンライトが北斗七星のように(ホントに鍵型をしていた!)輝きをみせ、段々と舞台照明が上がっていく。その中に、ピュアで透き通った女声合唱が降り注ぐように聞こえてきて、やがて男声へと受け継がれていく。合唱は交わり合い、そして、まだほの暗さを残しているかのようなさり気ない舞台照明の中で輝きを増していく。そしてまた夜が訪れ、北斗七星の輝きの元に、静かに消えていく――。
否、本当に美しかった。まずなにより、演奏会において気がかりなのが、この、演奏を聞こうという気にさせてもらえるかどうか。その意味では、視覚的にも聴覚的にも、演奏会を聴こうという傾聴の姿勢を作ってくれたこの演奏は見事でした。もう、ピアノの譜面用照明ですら演出だと思わせてくれるような、そんな幻想的な響き。男声の、特にテナーの響きが若干浮きがちだったような気がするのだけれども、それはまぁこの際措いておきましょう。全体として、ヒジョにいいアンサンブルでした。

そうそう、この演奏会、アナウンスによる全ステージ解説つきでした。一瞬だけ、くどいかな? と思わんでもないものの、そこは、若い団員の多い合唱団、親御さんが見に来られるようなこともあったりして、これはこれで、聞き所が手に取るようにわかって、良いことには良かった様子。

第1ステージ
三善晃「子どもは……」(谷川俊太郎/混声合唱組曲『五つの願い』から)
信長貴富・混声合唱とピアノのための『くちびるに歌を』から
「白い雲」(ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳詩)
「わすれなぐさ」(ヴィルヘルム・アレント/上田敏訳詞)

まずは、コンクール報告演奏から。今年は銀賞だったそう。ご立派。
僭越ながら弊団も呼ばれたイベントで、愛知県コンクールの試演会というのがありまして、愛知県の若手中心となってコンクール前に演奏を披露し合おうというものだったのですが、実はこの3曲、既にそちらで聴いていたものになります。その意味では、2度目。でも、2度目でこそ、新鮮な驚きを求めるというのが、人間というものでなくって?笑
ただ、そういう観点からすると、まだまだ一皮むけていなかったかな、という印象。いずれも、記譜上の表現については、決して(本当に!)不足なく、満足できるものなのですが、見えてくるべき「それ以上の表現」というものにイマイチ物足りなさを感じてしまいました。確かに、とても子音をよく出せていて、とても気持ちよくクレシェンドしているのだけれども、その、子音やクレシェンドはじめデュナーミクに「必然性」を感じられなかったというのが正直なところ。
いずれも、あっさりと進行できるメロディの裏に、とても力強い言葉の篭った曲たちです。ともすると、あっさり聞かせるのは誰にでも出来るところで、聴衆には、それ以上の何かを訴えなければいけない。その意味、このG3最大の決め所は「いかなる神をも信ぜぬままに」の一言、この上昇音型の表現にかかっていると常日頃申しているところなのですが、まさに、こういった部分で、段階的に音をハメ、クレッシェンドしていると言うだけの表現にとどまってしまう点など、その象徴だと言えるのではないでしょうか。この表現がなぜこんなに強い、禁則すれすれ(否禁則か?)の書き方をしているのか――だって、いわばアナーキズムですよ?――、そのところに思いをはせ、表現すると、形こそ種類があれ、もっと立体的な表現が出来てくるはずなんです。そこにあるデュナーミク、そして和声、旋律、それぞれの要素は、テキストと密接にリンクしている。それを、ちゃんと音で表現してこそ、真の表現に近づくのだと信じています。ドイツ語の問題も然り。母音の深い/浅いを、優秀な作曲家はちゃんと意識して作曲しているのではないでしょうか。
でも、音をハメることによる表現は秀逸。だから、「わすれなぐさ」のヘテロフォニーなどは、逆にこの団の将来を期待させる素晴らしい響きでした。だからこそ、期待しちゃうよね――『くちびるに歌を』の全曲演奏笑

第2ステージ
岡野貞一(arr. 上田真樹)「故郷」(『歌い継ぎたい日本の歌』から)(高野辰之)**
岡野貞一(arr. 高井裕也)・無伴奏女声合唱のための「紅葉」(高野辰之)*
渡辺岳夫(arr. 信長貴富)「ゆけゆけ飛雄馬」(東京ムービー企画部/無伴奏混声合唱のための『アニソン・オールディーズ』から)
arr. 青木雅也・混声合唱のためのメドレー『北海道物語(ストーリー)』**
島津伸男「函館の女」(星野哲郎)
さだまさし「北の国から―遙かなる大地より―」
松山千春「大空と大地の中で」
森繁久彌「知床旅情」
吉田拓郎「襟裳岬」(岡田おさみ)

一転、歌謡曲ステージというか、民謡ステージというか。でも、どこだったか、我々の感覚では民謡と言えない曲たちを民謡とのたまっていた某合唱団もいたし、たぶんこれは民謡なのだろう……笑
なにも男声が悪いというわけではないのですが、「ゆけゆけ飛雄馬」で、どうしても向陽高校を思い出してしまいました。同じくウケ狙いに満ちた諧謔に満ちたアレンジで、それでいて重厚なハーモニーが織りなす同曲。ガンガンの音圧でせめて、ただひたすら鳴る音でノリも全力疾走で突っ走っていった向陽高校に対して、どうしても、興文混声の音はまだ、「垢抜けた」音を出していたように思いました。それはそれで活きる場面は、前述の「見上げてごらん」のように、あるにはあるのですが、それでも、この曲ではどこか違うような。さっきの話ではないですが、記譜上の表現から離れた部分というのが、やはりキーワード。きれいな音では決められない、言ってみれば、崩れてしまうギリギリの音を使ってゴリゴリ鳴らすくらいの男気があっても、例えばこの曲の表現にあってはいいような気がします。その移転、求められているのは、どういう音楽にどういう表現・音色を使うのが適切なのか、それを考えるだけの自発性にでもあるのではないかなと思いました。
その点、「紅葉」のハマり方は良かったですし、さらに、前述の意味でいうなら「函館の女」には希望が持てたのですけれどもね。でも、そんな偶然でいい音が鳴る領域から、自ら仕掛けて表現しに行けるような領域へ辿り着くには、ひとえに表現における自発性が求められているような気がしています。

インタミ15分。知り合いが多かったような気がするので、チキンな自分は座席に座っておとなしくしていました←

第3ステージ
藤嶋美穂・混声合唱組曲『あさきよめ』(室生犀星)
「序―悲しめるもののために―」
「老いたるえびのうた」
「子守唄」
「五月」
「あさきよめ」

否、この曲くらいは、手放しで賞賛してもいいのかもしれませんね。
当方としては全くノーマークだった同曲。パナムジカから出版され、音源もパナムジカから提供されているようです。これがまた、なにより、美しい曲でした。ある意味ではすごく典型的なんですけれども、序曲から終曲までの構成がしっかりしていて、流れるピアノのアルペジオの中に、室生犀星の、繊細ながらも力強い表現が印象的です。旋法的でありながらも、肝心な部分では骨太な和音がしっかり鳴ることで、楽曲に奥行きを与え、そして、その奥行きを以て、日本語の持つ深刻さをより深く表現している――本当、こういう曲が日本から減って久しい、しかし、日本にこれから残っていくべき、真の意味で古きよき日本の合唱表現です。
最初の曲はヴォカリーズ。しかし、この団、響きをまとめるのは得意なので、その点、このヴォカリーズからまず引き込まれます。2曲目以降も、最初の方でこそ、平板かな、とも思ったのですが、ただ、聞けば聞くほど、この曲の奥深さにも助けられて、どんどんと充実した表現へと昇華されていく。縦で揃うところでびしっと揃うから、なにかと流れてしまいがちなアルペジオ系の曲にもしっかりと楔を打つことが出来る。ナニ、音で日本語を表現するということについては、日本人は昔から得手とするものがあるのです。この合唱団の表現と自然にマッチしたこの楽曲が、第1回演奏会を(おそらく、テーマからして「図らずも」)大団円へと導いていく。「生きて生き抜かなければならないことだけは確かだ。」(「あさきよめ」)との言葉のままに、力強いメッセージが心の中にやどりました。
思わず、この曲のさらなる再演を願う――そんな方にもこころが動く、非常に素晴らしい演奏でした。だって、いい演奏でないと、なかなかそうは思えませんもの、正直なところ笑

encore
信長貴富「こころよ うたえ」(一倉宏)

そして同曲。試演会のときの合同演奏曲――などというでもなく、若手合唱団においては最早定番となりつつある曲ですね。だってそらもう、俺達の時代だ!――とばかりにガンガン鳴らしているのが、もう、それだけで十分お腹一杯でしたもの笑 最後のテナーなんてもう、スゴいガンガン鳴らしてましたけど、それでも十分、他パートも負けてなかったですからね笑 これぞ、真の大団円。

ロビーコールはなく、そのままお開きと相成りました。ロビー、狭いですからね笑

・まとめ
自分も、っていう自負があるから、あんまりこういう言い方したくないんですけどね、端的に言えば、やっぱり、こういう言い方しか出来ないんですよね。
「若い!」――もうね、この一言に尽きるんですわ笑
(認めたくないけど)僕よりも若い。若いから、自分よりもいい意味で考えないで音を出すことが出来る。だから、自分が思っている「いい音」を純粋に突き詰めることが出来る。否、たしかに私(たち)も、いい音を追求して日々練習に励んでいるわけですが、それでも、ここをこうしたらいい音が鳴るとか、あれをああすることでいい音が鳴るとか、色々考えてしまう。だから、自分が出している音がいい音かそうでないかを、要素要素で判定するようになる。でも、それは、なかなか、若さ故の直感で見出す「いい音」に近づけるかというと、そうとも限らない。漸近は、いつまでたっても漸近でしかないんです。良いものに辿り着くには、究極には、その良いものにダイレクトに到達するよりない。
でも、一方で、この若さ故の直感にも欠点はある。それは、「何が良いのか分からない」ということ。何が良くて何が悪いかというのは、直感ではない。直感では、これは良い、これは悪い、というのは分かるかもしれないけれども、何をどう改善したらいい音が鳴る、というのを感じ取ることは出来ない。だから、直感というのは難しい。直感で分析ができないのと同様に、分析では直感にはたどり着けないんです。なんというジレンマ。それを知ってしまったときの悲しみや。
なにがしか限界のようなももにたどり着いたとき、人は分析的思考に手を出すようになるのだと思います。ただその瞬間、残念ながら「直感」は捨てなくてはならない。――この団とて、そういうときが来るのだと思います。でも、そのとき、この団はもっと伸びるのだと思います。直感でたどり着けなかった理想に限りなく近い音に辿り着く時、それはそれで、これまでとは違った世界が拓けるのではないでしょうか。
……なんか、観念的なこと書いてますなぁ、病んでるのかな←
否、でも、ホント、若いとなんでも出来るって事実だと思うから、がんばってくださいね、これからも。

……歳取ったなぁ←

・メシーコール
ラーメン at 「たこん家」

さて、名古屋で用事があるまではまだ時間がある、昼を食べていないし何か食べよう……と、大垣駅前を徘徊。でも、大垣駅前って、だいたいの店が、ランチを終えたらディナーまで店を閉めるんですね。そんなわけで、開いている店で面白そうな店を探していました。――そう、面白そうな店を笑
そこで見つけた、明らかにたこ焼き屋なんだけれども、そこに見えるのれんは間違いなく「ラーメン」。一瞬通り過ぎて、でもどうしても気になってしまって――入った時に、真っ先にラーメン「だけ」を頼んだ人間も、なかなかいますまい(たこ焼きも美味しそうではあったんだんだよなぁ……笑)
でね、このラーメン、最高だったの。なんていうの、昔ながらのラーメンってまさにああいう味。自分の出身大学の近くに、今は閉めちゃったか、すっごい古くからやってた居酒屋があるんですが、そこのメニューにラーメンがあるんですね。それが、抜群にうまくて。まさに、そのときの味を思い出す。まったく奇をてらってないし、背脂なんてまったく浮かんでないんだけれども、出汁とまっすぐな旨味が、ただひたすら食わせる。健康に良いとか悪いとか知ったもんじゃない、あのラーメンのスープを飲み干したい。それだけ。
本当、入ってよかったラーメン屋でした……違った、たこ焼き屋でした←

2017年8月31日木曜日

【東京混声合唱団いずみホール定期演奏会 No.22】

[女性作曲家の饗宴]
2017年8月30日(水)於 いずみホール

《谷川俊太郎の世界》
木下牧子・混声合唱曲集『地平線のかなたへ』*(1992)
上田真樹・『月の夜〜合唱とバレエのために〜』**(2017)(草野心平)《大阪初演》
「序〜月夜」
「Nocturne」
「おたまじゃくしたちのうた」
「ごびらっふの独白」
「幾千万の蛙があがる」
encore
山田耕筰(arr.篠原真)「赤とんぼ」(三木露風)
int. 20min
上田真樹・混声合唱組曲『遠くへ』*(2012)
木下牧子・混声合唱とパイプオルガンのための『光はここに』***(2008)(立原道造)
指揮:山田和樹
ピアノ:萩原麻未*
オルガン:土橋薫***
バレエ:針山愛美**

***

 ただ、よかった。
 そうとだけ、書きたいのだけれども、どこかで覚えた悪知恵がそうさせない。

 いつからだろう、否、私に限ったことでもないのだ。人は何かと、そこにある感動を、別の事象と勝手につなぎ合わせて解釈したりする。本当は、そんな感動の仕方は邪魔だって、伊福部昭も書いていたはずなのに。尤も、ほぼ全ての場合において絶対音楽となれない声楽・合唱という分野は、こういう考え方自体が野暮なのかもしれない。
 でも然し、人間だ。その前に読んだ本だったり、見てきた景色だったり、痛ましいニュースだったり、食べたモノ、飲んだモノ、耳目に入れた森羅万象が、私の解釈を歪めてしまう。――否、レビュアーとして余り宜しい鑑賞態度ではないのかもしれない。それでも、どう頑張ってもそうなってしまうのだから、仕方ない、割り切って、客観的に主観を書く努力を辛うじて重ねているところである。
 最初に東京混声合唱団に出会ったのは、上田真樹の音楽であった。去年も書いたような気がするが、大谷研二による『夢の意味』の再演。当時は、勉強だと思って聴いていたものが、今は、ただ音楽と対峙できる――それはそれで、以前よりは幸せな環境と言えるかもしれない。
 でも、だからこそ、だ。何かと、思い出してしまうのだ。「あれはいつのことだったか」(「朝明けに」)――最早、共感覚と言えるのかもしれない。上田真樹の音楽を聴くと、どこか、嘗てのあの時の記憶が蘇る。CDで聴いているよりは、生身の音楽だからこそ、ちょっと荒削りのように聞こえるけれども、でも、たしかに歌を、人間の歌を聞いているという感覚。どこか満足したような、でも、心ここにあらず、という感じ――あの頃は、若かった。でも、若さ故の特権でもあった。
 だからだろうか。否、今回ばかりは、それだけではないのかもしれないが、東混を聴きに東京にだって行くこともあれど、いずみ定期には、特別な思いを隠しきれない。

 木下牧子と上田真樹――ともすると、これは、女性作曲家の過去と未来を繋ぐ並びといえるかもしれない。今回の演奏会は、そんな二人の話を山田和樹が聴く、そんな贅沢な鼎談に始まった。聞き手が聞き手だけに、話があっという間に深いところへ入っていき、時に技術的な話へも辿り着くこの話。一例を挙げると、曰く、尊敬する作曲家は、上田真樹は「バッハ」、木下牧子は「あえて挙げるとするなら武満徹」とのこと。聴くに貴重なプレトークだった。

 記憶を辿る、という意味では、私たちは、この曲、特に一曲目を、はるか昔から、原体験として持っている。『地平線のかなたへ』、特に「春に」は、本来様々な場所で比較されながら語られる楽曲である。テレビでも演奏経験を持つ同曲にあって、しかし、今回の東混の演奏は、それ以上に鮮烈な印象で私たちに届けられた。萩原麻未は、普段コンチェルトとの共演は多いものの、合唱と演奏するのは稀だという。その中にあって余計に、東混との相性は良かった。山田和樹の指揮の美学は、殊合唱に於いては、「振らない」部分に如実に顕れる。必要がなければ振らない、すなわち団員に委ね、斉一的な表現が必要な部分は、歌い手以上に、まるで少年のように目一杯表現する。非常に大きい裁量に委ねられ、ソロにも強い合唱もピアノも、各々の表現に徹する。本当に軽やかに、木下牧子にして珍しいと本人語る、シンプルで瑞々しい表現が響き渡る。「卒業」に見せる諧謔、「ネロ」の心に迫る表現など、まさに圧巻である(「ネロ」など、ついこの演奏の前まで、有川浩『旅猫リポート』(講談社文庫)を読んでいたから余計に)。然し、振らない山田和樹は又、楽譜を本当によく読み込んでいる。それは、プレトークで山田和樹が「サッカーによせて」の冒頭の合唱がメゾ・ピアノで書かれているのが意外だった、という言葉にもよくあわられる。それは、トップ・プロだから当然といえば当然なのだが、然し、主観を以て客観を語ることにより、記譜表現が単なる記号に留まらず、とても生き生きとしたものとなる(ついでに、主観を排除しない自分のような輩を救済する)。
 オルガン曲である『光はここに』においては、オルガンに不協和音が少なからず存在することもあり、アンサンブルという点で難点のある部分が少なからずあったように感じる。ただ一方で、アカペラや、最後のカデンツに代表される協和音表現は、今日の東混はいつになく光っていた。また、ここでも、山田和樹に引っ張られる形で、デュナーミクについても絶品である。特に、終曲では最後の主題が2回繰り返されるが、1回目の主題を抑えめに入ったことで、2回目の主題が壮大な讃歌として響いてくる。細やかな表現に、ハッと気付かされる、その瞬間に、この音楽の真髄を見る。

 いのちの讃歌――この演奏会のプログラムを、知ってか知らずか通底する主題である。

 きれいな部分もきたない部分も共存する、裸のままの「いのち」の姿。「あしたとあさってが一度にくるといい」という表現ひとつとっても、純粋といえばそれまでだが、どこまでも貪欲な、どこか危なっかしい人間の姿が見えるようでハッとする。「おれの簡単な脳の組織は。言わば即ち天である。」(草野心平「ごびらっふの独白」)――いのちとは、どこまでも孤独で、どこまでも単純で、そして、どこまでも愛らしい。
 いつまでも続かないのが、いのちである。――合唱団はじめ、法人にだって、いのちはある。卑近な話をすれば、私達にも身近な著作権についていうと、個人の著作権の保護期間は「死後」50年なのに対し、法人のそれは「制作されてから」50年しか守られない。もっとも、法人という枠自体は、形式上、廃業・精算しなければ、たとい人が入れ替わろうと、時に所有者が入れ替わろうと続いていく。――それは、合唱団だって例外ではない。しかし、いのちなき団体がいつまでも残存している、そんな様を、私たちは決して見てこなかったわけではない。
 長く続く楽団が、100年も同じプログラムを続けることは、非常に稀である。例えば、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは、シュトラウスの曲群を演り続け、最後は必ず「ラデツキー行進曲」と相場が決まっている。しかし、その中でも毎年曲目を入れ替えるのは言うまでもなく、シュトラウス外のプログラムも近年特に積極的に取り入れながら、少しずつ、伝統の枠内にありながら、その中身を入れ替えて、新陳代謝を図っている(もっとも、第1回の1曲目から実はシュトラウスではなかったのだが)。しかし、その中にあってなお、シュトラウスをピリオドで演るという重要な軸は全くぶれることなく永続している。変わっていないように見えて、たしかに変わっている。そのことによって、組織は永続している。
 東混も、かれこれ創団61年となる。その永続する歴史の中で、田中信昭と、田中を中心に委嘱された膨大な数の初演活動というのが、この団でもっともぶれない軸である。そう、この団の軸は、新しいものを取り入れることを厭わないこと、まさにそのことにある。そしてそれは、間違いなく未来を見据えているものの、不思議な事に、常に、過去の初演の実績とともに裏付けられ、そのブランドを確かなものとする。東混の、これまでの新しいものに対する実績こそ、これからの新しいものに対する期待そのものである。そして、その成功は、これからの期待を形成する――その繰り返しこそ、「伝統」と呼ぶべき所作になる。嘗て自ら作った新しいもの以上の新しいものを作り出すことで、その伝統は生へ向けて生き生きしたものとなる。そして、この「伝統」がない限り、楽団は、――ときに法人は、ゾンビのようにして世の中を揺蕩う他に、存在の方法を忘れる。それは確かに続いているが、そこに、いのちがあるとは、言えない。組織のレゾンデートル――それは、価値創造に他ならない。
 たとえば、東混にとっては、新しいことそのものが伝統なのであり、存在条件なのである。

 東混にとって、山田和樹、そして、上田真樹との出会いは、まさに僥倖であった。上田真樹は、とかく難解な現代音楽に偏りがちであった東混の委嘱活動に、親しみやすく、しかし奥の深い音楽という、ある種正統派でありながら革新的な視座を齎した。そして、山田和樹は、その流れに呼応するかのように、あらゆる音楽的ジャンルを横断的に取り扱うプログラムを、天才的なバトンテクニックで次々と成功へ導いていく。そして、その姿が尤も典型的に顕れたのは、いまやヤマカズ東混の十八番とも言える、『夢の意味』の委嘱であったのだ。
 そんな昔の姿を、少しだけ思い出したような思いだった。『遠くへ』は、嘗て名大医混が委嘱した曲(伝統、という意味では、そういえば当時はまだ当間修一が医混を振っていたときだった)。聴衆として初演に立ち会った時、まるで、初めて『夢の意味』の実演に触れたときと同じような感覚――名古屋で上田真樹作品の初演にふれるということそのものの感動にとらわれていた。そんな曲の姿が、2回目の実演に触れる機会ということもあり、少しばかり冷静に、輪郭を捉えることが出来ると思ったら――やはり、徹底的に美しい和声の影に隠れてしまう。上田真樹作品の前では冷静さを失ってしまう。それくらい、東混が歌い、山田和樹の振る上田真樹が、好きで仕方がない。あんなに堂々とロマンチシズムを歌うことが出来るなんて――酔いしれている演奏では出来ない感動が、そこにはある。アマルコルドの精密機械のような楽譜の読み方とは違ったアプローチで、ヤマカズ東混は楽譜に忠実なのだ。否、感情論ではない――楽譜から、曲の心意気を読み取っている。
 そして、何より、『月の夜』の圧巻は、その後の休憩中も、恍惚を隠しきれない程だった。今、少なからず冷静になって目を落としたパンフレットに記載されている上田真樹の言葉で、ふと氷解する。「本来、言葉を持たないバレエと、言葉ありきの合唱音楽の組み合わせ。合唱がバレエの単なる解説になっては面白くない。バレエが合唱に花を添えるだけの付属物になっても面白くない。それならば。いっそのこと、意味のわからない言葉で書いてみようか。」――確かに、分からない言葉であっても、意味は十分伝わった。むしろ、言葉を意識しないことによって、音と映像によって認識することで(なにせ、歌詞カードに目が落とせない)、その「生」へ向けられた表現が余計に生々しいものとなって、私たちのもとに伝わっているような気がしてならない。動きも、歌も、和声も、何もかも、どこまでも力強いものだった。ただひたすらに、蛙のコミュニティの中に生きる世界を現前させ、最後に客席も巻き込んで(実際に声を出して!)この曲はついに完成する。間違いない、私たちはあの時、蛙のコミュニティの中に入っていた。蛙たちが蛙の命についての壮大な考察を歌い上げる、その中に、「カエルの歌」の対旋律を実際に歌うことによって、途端に歌の世界が自分のこととして心の中に刻み込まれる。まるで、夢でも見ているかのようだった。それも、どこか遠い世界の出来事だった以前の感情ともだいぶ違う――あの時、たしかに、合唱という括りを越えた芸術を垣間見た。「ああ、生きている!」大仰でもない、そんな実感がある。

 いのちは、その内部で変動することによって永続を見る。そしてまた、東混も、その伝統の中で確かに動き、進化を重ねている。珍しく外部団体の委嘱(神奈川県立音楽堂委嘱)による初演、そして、異分野の芸術との融合による新しい創造など、外部的な刺激と、それに呼応するかのように、新しい音楽監督の元に、内部からの刺激によっても、少しずつ変貌を遂げている。何も、演奏だけではない。往年の名作曲家から、若手のトップランナーへ。そのバトンがたしかに受け継がれていることを再確認する、そんな、とてつもない初演を見せられた。
――そして、そんな変化への兆しは、音楽だけにも留まらない。

 ただ、よかった。
 そうとだけ、書きたいのだけれども、どこかで覚えた悪知恵がそうさせない。

「せめてはゆめよ/さめるな、ゆめ」(林望「夢の名残」)

 確かに感じる、変化への兆し。こうして、伝統は続いていく。そう信じている、否――そう、信じていたいと思う。

2017年8月27日日曜日

【軽井沢国際合唱フェスティバル ICCC・プレミアムコンサート3】

〜美しさの所在
2017年8月27日(日)於 大賀ホール

《Japan International Choral Competition 2017》
3rd Prize “Carde Natus” by F. Carbonell (Spein)
2nd Prize “Jesu dlcedo Cordium” by G. Susana (Italy)
1st Prize canceled
Premire Performed by
The Metropolitan Chorus of Tokyo
(Cnd. Ko Matsushita)

 《プレミアムコンサート3》by amarcord
Barber, Samuel “The Coolin” from “Reincarnations”
Copland, Aaron “Four Motets”
 ‘Help Us, O Lord’
 ‘Thou, O Jehovoh, Abideth Forever’
 ‘Have Mercy Oh Us, O My Lord’
 ‘Sing Ye Praises To Our King’
Ives, Charles E. “Serenade”

int. 10 min.

Folksongs
“Put Vejini”(Latvia)
“No potho reposare” (Italy)
“Smedsvisa” (Sweden)
“Nine Hundred Miles Away from Home” (America)
“Waltzing Matilda” (Australia)
“Da N’ase” (Ghana)
and, so called “folk song” Medley (Japan)
encore
original

*後半プログラムは、アナウンス内容による。

***

 軽井沢フェスでは、3日間、朝から夜まで断続的にイベントが続いていく。時にコンサートの裏で講座が開催されることもあり、参加者は最初から滞在すると、まる3日合唱の響きの中に包まれることも可能である。一方、そこは、旧軽井沢をはじめとして、避暑地としてだけでなく、観光地としてもたびたび紹介される人気スポットでもある。ひとたび街に繰り出せば、各々の好きな形で楽しむことが出来る。演奏を終え、今日午前中は自由時間となるこの日にあって、メインホールでははるにれコンサート、もう一箇所では発声講座が開かれている。このブログを書くほどの合唱好きである私は勿論――市街地観光を選択した。全く、不貞者である。

 午後からは、目玉イベントである「日本国際合唱作曲コンクール」の結果発表と、amarcord によるメインコンサートであった。
 同作曲コンクールにて1位が空位になったのは、調べたところによると、今回が初めてのようだ。2位、3位を受賞した2曲は、いずれも非常に素晴らしい作品であったと感じる。出版と直結するコンクールであるだけに、是非早いうちに多くの再演を得られることを願う。特に、2位の作品は、聞こえとしてもキャッチーな方であり、その意味にあっても、多くの合唱団が迎え入れやすい作品であるように感じる。
 ただ一方で、上記2作品は、一種突飛な新規性に基づく感動というよりは、既存の形式をうまく利用して、組み合わせにより新しい響きを作り出す2曲であったように感じる。もっとも、突飛な発想により作品を書いたとしても受け入れられるかという問題はあるが、一方で、今回の2作品に足りなかったものはなにかといえば、新規性という言葉が思い浮かぶ。その意味では、とても納得のいく空位である。

 アンサンブルコンテストの結果発表を挟んで、amarcord のコンサート。最初にひとつ特記しておかなければならないのは、特に amarcord の前半でたいへん気になった、客席マナーに関する問題である。なにも、招待された子どもたちの問題ではない(逆に彼らは、比較的マナーの良い方であったと感じる)。ガサガサとした雑音は、私が聴く限りでは、後ろの方――一般席から鳴っていたような気がする。格式の高いイベントとして永続されるためにも、今後、是非改善されたいところである。

***

 信仰にも楽典にも明るいわけではないが、カトリックを中心として、宗教音楽の響きは美しくなければならないという。
 確かに、教会旋法のもとにあって、どれを聴いてもリッチなカデンツを持つことがほとんどであるし、現代の宗教音楽にしても、肝要な部分は基本的にきれいな音で語られる。いわば、宗教音楽における美とは、計算されたものであり、逆に、計算されたものであってこそ、神への信仰という奉仕として受け入れられるものである。それは、一種の義務ともいえるようだ。
 したがって、演奏も、その楽曲形式を十分理解した上でしなければならない。なにせ、信仰のための形式であり、形式による信仰である。この、形式による理解がなければ、ある意味においては、その曲を演奏したとも言い難くなってしまう一面がある。そのためのもっとも簡潔でわかりやすい方法といえば、楽譜を読み込むことだ。語弊を恐れずにいえば、楽譜には、その曲のすべての情報が書かれている。
 もっとも、相反するような言い方であるが、楽譜に書いていない情報で、当然のうちに理解して置かなければならない事項というのも少なくない。例えばそれは、楽曲の時代背景の問題であるとか、作曲家の個人的事情、信仰心、そして、もっといえば、楽曲の楽典的理解や、フレージングの息遣い、言葉の発音、モチーフにより自然に現れなければならない強弱だったりといった技術的側面も含まれる。
 すなわち、「正確に演奏する」とは、楽曲の周りにある様々な情報を包摂し、利用することである。しかも、そういった知識の応用を考えるにあたっては、決して、一面的に取り扱ってはならない。それは、ただ、キレイなだけで淡白な演奏となるか、あるいは感情の押しつけでただくどくどしく聞こえるか、その程度の演奏となってしまう。それでは、あまりに幼い。
 なにも、オペラに限らないのだ。音楽は、それ単体で、総合芸術をなす。

 amarcord のコンサートは、とても静かに始まっていった。さもそこにあるのが当然なようなフレーズの始点から、一本の糸をつなぐようにしてフレーズが結ばれていく。その糸が絡み合い、一筋の確かな線が現前する。主旋律と副旋律、伴奏間の乖離もない。まさに、そこにあるのが自然であると言わんばかりの音が、さりげなくそこに置かれていく。1日目にも書いた、当たり前のことを当たり前にやってしまうから、すごくさらっと聞かせてしまう。しかし、時に冗長に聞かせてしまうモテットやセレナードなどといった曲群をここまで美しく、そしてなにより、いつまでも聴きたいと思わせるのは、amarcord の技術力あってこそである。
 なにも、特別なことはしていないのである。決して奇をてらうでもなく、リズムを無理に揺らしたりするわけでもない。ただひたすらに、自らの鳴らすべき音楽を、鳴らすままに鳴らしていく。おそらく楽譜に書いてある事柄を、ただ淡々とこなしていく。――そのことが、これほどまでに難しいものであったなんて! とかく見落としがちである「楽譜に忠実に歌う」という所作の重要性を改めて認識させられた。楽譜とは、完成した楽曲のひとつの姿である。逆を言えば、楽譜に忠実でない以上は、どんなに美しい音楽だったとしても、少なくとも、その楽曲の姿とは言い難い。そして、その独り善がりの表現は、結局、どこか押し付けがましいものと鳴るのが関の山だ。
 だからこそ、amarcord の忠実なサウンドが、何より素晴らしい。美しい音楽は何もしなくても美しい。ただ、その何もしないという事自体、とても難しいことなのだ。楽譜に忠実にあるという所作を実現するには、実はとても大量の情報・技術をクリアしなければならない。だからこそ、音楽の世界は深く、そして、それが実現した時、音楽はとても美しいものとなる。ただただその響きに揺蕩うとき、愈その音楽は、感性を以て語るべきものとなる。

 第2部には、世界のフォークソングが用意された。このステージもまた、楽譜に――否、最早音楽に忠実なものである。Put Vejini の感動的なアルペジオ、そこからの世界の広がりに、一気に世界が信仰の世界から土着の風景の香る世界へと広がっていく。時にコミカルなことをやっても一切ぶれないその発声と、曲の終着点のあるべき地点を見定めたアンサンブルは、だからこそ、見知らぬ土地の歌であっても、人々を一気にその世界へ引き寄せる。
 たとえどんなにその国ではポピュラーなものとはいえど、往々にして、他所の国のカルチャーである。どうしても、近寄りがたいものを感じてしまうのは、その人の土着故であろう。然し、それを、演奏者、さらには聞き手に伝える共通の手段が何かと言えば、何を隠そう、楽譜なのである。何も否定的にそういうつもりはない。ただ、そのフォークソングの尤も美しい部分を寄せ集めた合唱編曲にあって、原曲に対する理解に加えて、楽譜に対する理解のないことには、その、もっとも美しい部分を伝えるには及ばないのである。正確に、そして(もっとも重要なことだが)深く意図を汲み取り、演奏すること――そのことによって、「楽譜通りに演奏する」という一見つまらなさそうに見える所作が、とても生き生きした音楽表現の手段として私たちの前に現前する。
 そして、フォークソングをして、この団のアンサンブルは、最早ライブである。厳密な楽譜と、その再現があれど、奏でられる音楽はそれっきりである。ガーナ音楽では会場を巻き込んで一緒にアンサンブルをしたり、そして、一大スペクタクル、歓喜のオールスタンディングに迎えられた最後のプログラムは、圧巻というよりほかはない。――本邦は気付けば、立派なポップカルチャー大国となった。そしてこれは――否、書き手にして卑怯だが、聴いたものだけの秘密にさせていただきたい。

 ただただ、amarcord は美しかった。音楽の美しさをすべて知っているかのような、心の底から魅力的なアンサンブルだった。そのアンサンブルが、このフェスティバルにおいて生まれたことに心から感謝したい。そして――このフェスティバルを通した、何も歌に限らない、見るものすべてとの様々な出会い――異文化・異世界・未知の領域・未知の表現――が、様々な人の音楽観の幅を広げていくのだと信じている。
 出会い――だからこそ、軽井沢フェスには、価値がある。この出会いの、連綿と続くことを、心から祈っている。

2017年8月25日金曜日

【軽井沢国際合唱フェスティバル 教会コンサート・プレミアムコンサート1】

〜LADNDARBASO abesbatza と世俗性
2017年8月25日(金)於 大賀ホール、聖パウロカトリック教会

《教会コンサート》
レディースシンガーズ Sophia(大阪)
Lassus, Orlandus “IN PACE”
Telfer, Nancy “Sicut Cervus Desiderat”

Thaumatrope(東京)
Homilius, Gottfried August “Herr, wenn Trübsal da ist”
 - “Ob jemand sündiget”
 - “So gehst du nun, mein Jesu, hin / Lasset uns mitziehen”

LANDARBASO abesbatza(バスク・スペイン)
Duruflé, Maurice “Ubi Caritas”
Sisask, Urmas “Heliseb Välljadel (Ringing in the fields)”
Sarasola, Xabier “Ave Maria”
“Ukuthula (Peace)” (South African praise)

amarcord(ライプツィヒ・ドイツ)
Milhaud, Darius “Psaume 121 op. 72”
Poulenc, Francis “Laudes de Saint Antoine de Padoue”
Rossini, Gioacchino “Priére” from “Chæur Quelques de Chant Funébre”
encore
Kodaly, Zoltan "Esti dal"

《プレミアムコンサート1》 by LANDARBASO abesbatza
Elberdin, Josu “Ubi Caritas”
Busto, Javier “Hodie Christus Natus est”
Sarasola, Xabier “Maiteagoak (More beloved)” (Xabier Lete)
Guerrero, Junkal “Eguzki Printzak (Sunshines)”
Gonzalez, Iker “Mendeen Ahotsak (The voices of the centuries)” (“Lauaxeta” and Balendiñe Albizu)
Gonzalez, Iker “Xalbadorren Heriotzean” (Xabier Lete)
Donostia, Aita “Iru Txito (Three little chicken)”
encore
Esenvalds, Eriks “ONLY IN SLEEP” (Sara Teasdale)


(Below Japanese only)
 軽井沢――この響きに、特別な何かを感じるようになって、どれくらい経つだろう。
 否、何も、別荘地としての話ばかりをするのではない。確かに、街を歩けば、旧軽井沢の街並みを中心に、これまで見たことのないような、高貴な空気が漂う。天皇家が静養に使うような場所である。その価値は、代々守られて、愈磨かれている。そして、軽井沢の街は、音楽の街でもある。軽井沢国際音楽祭、そして大賀ホールが核となり、恒例の皇后陛下のアンサンブルも相まって、8月の後半は軽井沢は豊かな響きに包まれる。そして――豊かな歌の響きに包まれる祭典も、始まってもう13年になるという。
 合唱人は、また、自らの趣味の立場をしても、軽井沢を特別な土地と見る。今年も、軽井沢国際合唱フェスティバルの季節がやってきた。

 僭越ながら、当方がこのイベントに顔をだすのは初めてのことだ。耕友会が主催、(一社)東京国際合唱機構が共催。大賀ホールをメインホールとして、各所で招聘団体によるコンサート、さらには公募によるガラ・コンサートやアンサンブルコンテスト、合唱関係の講座から作曲コンクール(審査結果発表)まで、さらに街角でのコンサートも相まって、軽井沢という狭いエリアが合唱の響きに包まれる(これだけ地元に密着していながら、長野県連の後援がなく、JCAに加えて東京都連の後援しかないのは少々残念か)。かねてから噂には聞いていたイベントだが、フラッと立ち寄るには、軽井沢はあまりにも遠すぎる。そして――たまたま、今回訪れる機会を得た軽井沢。amarcord(ドイツ)、Landarbaso abesbatza(バスク)の海外招聘団体に加え、MODOKI、岐阜大学コーラスクラブの国内招聘団体に列する団体の一団員として訪れたこの場所にして、初日にして早くも、合唱に満ち溢れたフェスティバルの雰囲気を見せつけられた。

***

 当方のリハーサルを経て、まずは軽井沢の街を抜けていく。向かう先は、聖パウロカトリック教会。戦前に建造された木造教会として、軽井沢の文化的価値をも高める歴史ある教会で、軽井沢フェスは始まる。チャーチ・ストリートというモールを抜けて開催されるのは、教会コンサート。開幕パレードに次いで、軽井沢フェスのパイロットイベントとして重要な位置づけを担う。

 戦前に建てられた、それも木造で、軽井沢に滞在する人々の祈りの場として作られている教会である。必ずしも、響きのための教会ではない。小屋組みがむき出しの、塗り壁の内装が温かい三角屋根のもとに人々が集う。遮音性という考えのもとに組まれた建物ではなく。外からは観光地として少々慌ただしい軽井沢のガヤガヤした音が入り込む。普通であれば、音楽を聴くのに適した環境とは言い切れない。――普通であれば。
 1団体を外で聴き、2団体目から中に入った私はしかし、いつまでもこの教会で音楽を聴くことが出来たなら、という感覚に囚われた。何も、低音を中心に割としっかりと鳴る教会のホールとしての性質が良かっただけではない。しかし、なにより、この空間は正に、音楽を、祈りを「感じる」ために作られた空間である。
 聴こえてくる鳥のさえずり、外からの光、風、そして人の声、車の音ですら、このホールにとっては音楽である。ジョン・ケージ「4分33秒」を挙げるでもなく、このホールにとっては、全てが音楽である。逆に言えば、音楽と日常が地続きで感じられる、数少ない空間でもある。普段のホールのように、日常と分断された空間で音楽を聴くでもなく、また、街中でポップス中心のブラスバンドを聴くのとも違う。ただ日常の空気の中で、カトリックとは思えない程質素な作りのホールの中で、声による、いわば原始的な祈りが響く。それは、ある意味、日常へ向けられた祈りでもある。――軽井沢に来て早々、やられた。早くも、私が探し求めていたものの一つを見せつけられた。日常の混ざる音楽。早くも確たることとして申し上げたい。軽井沢に来たら、まずは、この教会コンサートである。

「世俗的な祈り」というのは、合唱人をしてすら多くがクリスチャンではない日本の合唱においては少々難しい命題である。今回教会コンサートで演奏した二つの団体が、まさにそれを物語る。一つは外で、一つは中で聴いたが、いずれも(逆も又然り、外に漏れてくるハーモニーもある意味充実している)、高い響きをうまく使えない表現が目立った。ピッチが低い、ということでは必ずしもない。逆にいえば、敢えてこう言えば、そういう「小手先の」表現というのは決して悪くないのである。例えば、ユニゾンをキチンと揃える、だとか、フレーズの頭と最後の処理だとか、所謂、コンクール受けしそうな表現というのはそつなくこなす。しかし、例えば、フレーズの頂点だとか、そこがよかったとしても、対旋律の作り方や、もっといえばフレーズ自体、さらにはメリスマなど、「祈りのキモ」ともなりそうな表現が、いまいちしっくり決まらない。おそらく、リハーサルの課程で、どこかに合意点を持ってきているハズなのだが、それでも、どこか納得できないで終わってしまうことがままある。

 そんな中に、光を見出したのが、この教会の響きに限りなく寄り添った、海外招聘団体である LADNDARBASO abesbatza の歌声であった。他の2団体の響きが下向きに鳴っていたように聞こえる中にあって、この団の響きは、限りなく上を使っていた。団の規模に対して決して広くはない教会にあって、教会をただ広く感じ、そして――祈りがリアリティを持って伝わってくる。そう、それは、どこまでも世俗的な響きである。だからこそ、フォルテを鳴らしても無理がないし、そのフォルテが確かにフォルテを鳴らしている実感を以て伝わってくるのである。
 この祈りは、日常に根付いている。だから、あまりにも、素朴に響く。そして、その素朴な響きのなかに、聴衆は感動を見る。この感覚――そう、プロムジカを聞いたときの感覚に近い。まるで、愛唱曲を歌うかのように、自らの祈りの音楽を鳴らす。わざとらしくないクレシェンドや、軽い歌い方でしっかりと鳴らすその有り様、その思いが、4曲目のような、民族系の音楽によく顕れる。それは、とても自然な、しかし、とても軽く、思いが顕在する音楽でもある。

 その世俗性は、熱狂に満ちたオープニングを経て開かれたプレミアムコンサート1でも顕在する。すべてバスクの音楽で構成されたプログラムは、平和のための響きの中に始まり、祈りの音楽でありながら、どこか懐かしいような旋律を覗かせる1曲目、そして、下降音型のアルペジオからどこかむき出しの感情とも言える、太鼓の音とのアンサンブルへと変遷していく2曲目。そして、以降の曲も、まるで情景が見えてくるかのような風景描写が印象的であった。
 だからこそ、この演奏の中でももっとも印象的だった5曲目の位置付けがとても重要である。ゲルニカ空爆に宛てて書かれたという同曲は、10分間にわたる叙事詩的作品である。空爆の悲惨と、そこからの恢復、救済、そして、民族舞踊とともに演奏される最後の民族音楽のモチーフは、日常に対する憧れにも似た、祈りのための舞である。その姿をこんなにも美しく、そして、美しさを確実に表現できるのは、一種、日常むき出しの中に音楽を奏でることがあってこそである。
 コミックソングにしても、そして、アンコールで奏でられる曲のテーマが「眠りの中の永遠への憧憬」というだけあって、地続きの日常と、ただ愚直なまでに素直な表現が、聴くものの心を掴んで離さない。聞いている分には、ただ美しいはずなのに、ふと目を向けてみると、そこには、一種生々しい日常が広がる。想像に過ぎないにせよ、教会で、時に自らの祈りのために、故郷のために祈るその姿が浮かんでくる。その想像は、きっと、音となって顕れるから、具体的に現前している気がしてならない。
 民謡にしてすら遠い私達にとって、共通の記憶を見出すのは、都市生活においては難しい。しかし、その、共通の記憶を見出すためにふと立ち止まってみるのも、音楽のためには、又、悪くないような気がしてならない。私たちは、どこに、その共通の記憶を見出すのか――。

***

 否、技術を決めるアンサンブルが悪いわけでは決してない。寧ろ、それがとてつもない感動を見出すこともある。教会コンサートの最後に姿を魅せた彼らの演奏は、とても、当たり障りのない演奏だった。でも、不思議な事に、いつまで聞いていても、さっぱり飽きない。よく耳を凝らしてみると、――信じられないくらいに、楽譜上のすべての要素をさらおうとしているのがよく分かる。旋律の収め方、レガートとマルカートの歌い分け、強勢や発音の処理の仕方……何をやっても、取りこぼしがない。すべてやっているから、まるで何事もないかのように聞こえるけれども、逆に言えば、何もかも決めてしまっているから、何もかも自然に聞こえているだけなのだ。まったく耳に障る要素のないプーランクは、和声が一切独立しないで、一つ一つの音が意味ある音として鳴っている、その時間軸を、完全に皆で共有している。――そして、ふと気づく。amarcord――私たちは、とんでもないものを聞いている、と。

 オープニングでは、海外招聘団体のうち、LANDARBASO と amarcord が1曲ずつ演奏した。心あたたまる LANDARBASO の演奏に対して、amarcord は、やはり、非常に難易度の高いコミックソングを、とんでもない高い声域の弱勢や、とんでもなく低いスキャットを、とても軽く、さも当たり前かのように表現し切った――まだまだ軽井沢では、とんでもない世界が、私たちを待っている。