おおよそだいたい、合唱のこと。

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ゆっくりしていってね!!!

2018年11月15日木曜日

【ジョージア国立民族合唱舞踊団「ルスタビ」名古屋公演(夜公演)】

〈民音創立55周年記念〉
2018年11月14日(水)於 日本特殊陶業市民会館フォレストホール

Part 1
introduction
"Dance Acharuli"
"Imeruli Naduri"
"Chonguro"
"Dance Khorumi"
"Women's Dance Narnari"
"Dance Qartuli"
"Dance Mokhevuri"
"Voisa-Harirati"
"Simghera Snoze"
"Dance Apkhazuri"

int. 15min.

Part 2
"Dance Karachoghluri"
"Dance Samaya"
"Didavoi Nana"
"Khasanbegura"
"Dance Simdi"
"Instrumental Trio / Tushuri"
"Dance Parikaoba"
"Chichetura"
"Chakulo"
"Dance Mtiuluri"

encore. 中島みゆき「地上の星」

***

 人は、あらゆる現象を、名付けを以て認識する。名前があるから認識し、認識を確固たるものとすべく名前をつける。名前のない(あるいは、名前を知らない)ものを認識することは、困難を極める。名前を知らないけれどそこにある花にしたって、「名前を知らないけれどそこにある花」という名付けを以て認識される。逆に言えば、私達は、名前を知らないものの存在を知らない。ーーたとえ、それがどんなに価値のあるものだったとしても。

 かつて、ーーといっても、1000年以上前のことになるが、ヨーロッパの音楽はモノフォニーでしかなかったという。グレゴリオ聖歌に著名なところではあるが、単一のメロディを以て、信仰を伝える、乃至、民衆の中に伝わる旋律が、音楽文化の骨格をなしていたというべきであろうか。ポリフォニーをヨーロッパに見るには、中世まで待たなければならない。しかし、それよりも前に、生活の中に充実した和声を見出していた地域が、ユーラシア大陸の只中にあったという。
 此度ジャパンツアーを実現させている、ジョージア国立民族合唱舞踊団「ルスタビ」の故郷における音楽が、それである。大相撲・栃ノ心関の影響で日本における知名度が飛躍的に高まった国ではあるが、だからといって、その国の内実が詳らかに明かされているわけではない。民音により実現されたこの招聘により、ジョージアは愈、文化大国としての姿を我々の前に現前した。

 知らないものを目の前にして、私達は、どんな風に反応し、認知し、そして心を動かされるのか。認知の過程が存在することは周知の事実ではあるが、そのあり方については、永らく哲学上の重要な主題のひとつであった。実際的な哲学上の議論はこの際措いておこう。ーー本稿においてなにより重要なのは、「どうやって、見ず知らずのものに心を動かされるのか、そのありよう」のみである。
 名前を知らないものの存在を認知し得ない、と、先に書いた。そして、認知しないことには感動しない、とも書いた。とすると、実際、感動するためには、そのものの存在を知らなければならないーーあるいは、存在を認知すると同時に感動しなければならない。すなわち、よりカジュアルに表現するならば、直感に訴えかける表現こそ、感動を生み出すものとなる。
 ジョージアは文化大国であるという。世界でもっとも古くからポリフォニー(ここでは、和声による音楽一般、程度の解釈が適当である)が歌われた国とされ、舞踊によって語られる文化からは、山岳地帯の牧歌的な空気の中にありながらも、長い侵攻と戦いの日々が描写されている。この日のプログラムの中にも、戦いの緻密な描写を持つものもあるし、中には、2008年のロシアとの間にあった紛争により支配権を失った地域での舞踊が表現されたものもある(「アブハジアの踊り」)。考えれば非常に深い内容であり、ジョージアという、パンフレットやこの日流れた映像からも感じ取れる自然の美しさとは裏腹に、厳しい現実と闘ってきた人たちに思いを寄せるのも、またこの公演の捉え方かもしれない。

 しかし、こういった背景の解説を施したパンフレットが有料であるというのは、決して金儲けのためだけとも言えないような気がする。曲名プログラムと歌詞対訳のみを持つ人達でも十分楽しめるように、この公演が設計されている、その裏返しとも言えるのではないかーー何も知らずに勧められ、チケットを買って、最初本稿を起こす気のなかった私に、最後に取材用のノートを握らせたのは、後援に名を連ねる全日本合唱連盟の文字と、直感がなせる、名演へ向けた予感であるーー果たして、この予感は、大当たりとなる。
 オープニングに引き続いて踊られる「アチャラの踊り」から、この舞台は圧倒的な感動を会場全体にもたらした。速いテンポと体幹を軸とした圧倒的な身体能力を以て披露される超絶技巧は、この舞台全体を支配し、そして最後まで観客を惹き付けて離さない。
 重要な文化の一パートであり、同時にジョージア人の心に深く根付いているポリフォニーは、時に舞踊のバックミュージックともなる。しかし、それながらにして、一曲目の第一音の瞬間から、開いた口が塞がらない。文字通り塞がらない。アンプを通してをも聞こえてくる、その圧倒的なボリューム、力強さ、そしてなにより倍音!ーー複雑なテンポを刻むドラムとアコーディオン、ベース、そして民族楽器のチョングリやパンドゥリを以て奏でられる圧倒的なサウンドの中にあって、なお存在感を持ち、否、それらの楽器をも凌駕する質感を以て、楽器による少し乾いた表現の中に質感をもたらす。
 一曲目から、客席から、ポップスでしか聴いたことのないくらいの大きな歓声が聞こえる。最初からこんなに歓声を出していていいのか、あとの演奏に響かないかーー否、もう、一曲目からこれくらいの賛辞を贈らないことには、わざわざ遠方からやってきて筆舌尽くしがたいパフォーマンスを披露する彼らが役不足になってしまう。
 合唱ソロももちろん披露される。どれも、反響板も出ていないため、アンプを通してとなるが、しかし、アンプを通しているとは信じられないくらいに、この公演の合唱は、よく揃い、男声特有の豊かな倍音を鳴らし、そしてボリューム感たっぷりで、デュナーミク豊かなのである。そう、なにより饒舌さが光るこのアンサンブルは、饒舌でありながらにして、技術的な問題が全く見えてこない。否、これこそまさに、「技術は後、表現が先」のアンサンブルである。豊かな音楽表現を以て、何より音楽の表現せんとすることが十分に表現されるから、その表現には滞りがない。常に、充実した音がなり続けている。
 しかし、である。それにもかかわらず、このアンサンブルは、ダンスに負けずどんなに音を動かしてもピッチがずれず、しかし圧倒的な力強さをアンプ越しにすら感じることができる。アンプラグドで歌わせても、この合唱団は間違いなく、力強いアンサンブルを聴かせるだろう。ーーしかし、それでもなお、否、それだからこそ、「技術は後」なのである。表現のために用いられた、自由な発想からもたらされる圧倒的な技倆は、この団が持つ文化的背景を以て愈この境地に辿り着く。そこに潜む背景は、紀元前から和声を重ねてきた民族が持つ歴史的背景と、そのまま重なる。
 否、何も、無理に話しているわけではないのだ。実際、今日の合唱に関するプログラムのうち、キリストに関する信仰心を歌ったものはほぼないと言っていい。この国が著名な教会を持ち、4世紀ごろにキリスト教が定着し始めているにもかかわらず、である。まだグレゴリオ聖歌もない頃ーー否、キリスト教、あるいはイエスすら生まれていない紀元前三〜二千年前にポリフォニーが生まれたという学説が有力であるという。聖歌が齎されたときも、土着の伝統を盛り込んで歌われたとも、プログラムには記載されている。ともすると、もはや、和声を重ねるということは、旋律を歌うのと同じくらい、ジョージアの人にとっては自然な行いなのかもしれない。
 そんな自然な音楽はしかし、異文化でありながらして、やはり私達にとっても自然なのだ。一糸乱れぬ集団行動に、平行移動、脚さばき、複雑なメロディラインの中に凛然と響く男声の倍音。静かな音楽ですらなお、あまりの情報量、含蓄の深さに、私達はただ、直感での反応を求められる。ーー直感で反応しないと、間に合わないくらい、その音楽は、舞踊は、充実している。溢れ出す文化が、一つ一つの音の響きが、心を揺さぶり、耐えきれぬ興奮が、曲間の歓声をより大きくしていく。溢れ出た興奮が、最後の曲が終わった後に、動きとなって現れる。スタンディングオベーション。決して全員とはいかなかったが、しかし、何につけても無駄に冷静で、興奮を表に出すことのない名古屋の観客を、この団は立たせたのである。
 書きたいことはいくらでもある。「ホルミ」に見せたジョージア国旗の雄々しさ、「ナルナリ」「サマヤ」に見せた、浮遊感漂う女性ダンサーの優美な踊り、男女の舞における男性の回転と足技、「シムディ」の一糸乱れぬ集団行動、「トゥシュリ」における縦笛二本使いの一人和声の超絶技巧、「剣舞パリカオバ」で交わる剣と火花の見事な殺陣、「チャルクロ」の、ジョージアポリフォニーの魅力を余すことなく詰め込んだ美しく力強い和声。そして、最後の「山岳地帯の踊り」、アンコールにおける大団円……否、しかし、逆に野暮なのだ。各演目を語れば語るほど、なぜか文章は陳腐となる。
 そう、これは、この公演は、ひとつの壮大な叙事詩だったのだ。ジョージアの自然と歴史の精神の、その根本を紹介する、壮大なひとつの物語である。私達は、この瞬間、ジョージアを知った、そして、その虜となった。まるで、ポップスで一つのアーティストに呼びかけるような、熱狂にも似た歓声を、今も鮮明に思い出す。それは、ユーラシア大陸の真ん中に生きる民族がなせる、ひとつの奇跡に他ならなかった。

 小難しいことから、本稿を始めた。存在を知らなかったものに感動を見出すには、「存在を認知すると同時に感動しなければならない」と。ーーもう、そんなこと、どうでもいい。ただとにかく私達の心を、身体を、頭の中を揺さぶったそのパフォーマンスに対する印象は、私達の直感そのものである。いわば、私達の頭の中をえぐられたような、直感に直接語りかけるパフォーマンス。
 自己弁護するでもなく、この公演までジョージアをよく知らなかったというのは、決して私だけではないと思う。しかし、今ならしっかりと言えるはずだ。ジョージアには、国立民族合唱舞踊団「ルスタビ」があり、ルスタビをもたらした豊かな舞踊と合唱ーーポリフォニーの文化があり、それを生み出すだけの深い歴史と、美しい自然、文化がある。ーーそして、そのことに対する感動を、アジア人である私達も十二分に感じ取ることが出来、ともに文化の熱狂のうちに入り込むポテンシャルを持っている。
 細かいことは、あとから学べばいい。ひとまず、それだけで、もう十分なのだ。