おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2019年6月23日日曜日

【合唱団ノース・エコー コーラス・コレクションXVII】

2019年6月22日(土)
於 愛知県芸術劇場コンサートホール

愛知県といえば、といって、どの団を思い浮かべるでしょうか。
例えば岡混、若い人ならグランツェ、中学校は意見が分かれるでしょうか。意外と外向きに活動しているから、私が所属している某団、などと言ってくださる方もいるでしょうか。ともあれ、愛知県といえば合唱大国で、それはそれは団の数はとても多いものの、外向きによく知られている団って、何かと限られてくる。
でも、すかさずこういう人、アナタは非常に、名古屋の合唱界をよくわかっていらっしゃる。その、あらゆる意味で。
ノースエコーと北高。
否、実際は、北高のOB団として始まったという歴史を知らない方も結構多いと思います(何を隠そう、私も今日知りました)。しかし、この2団が長きに亘ってこの名古屋の合唱界を歌唱面でも思想面でも支配してきているという事実をご存知の方は、非常に名古屋のことをよくご存知でいらっしゃる。否、変な意味でなく、実際、この団が作り出してきた歴史は、名古屋の合唱界を作っているといって、全く疑問が残らない。
しかし、何かと、この団の演奏を聞くときって、合唱祭でほとほと疲れ切ったときか、コンクールで自分の団が演奏が終わってテンション上がってるときなんですよね。だから、なんとなく、上手な団だなというのは認識するんだけど、いかんせん、
イマイチ覚えていない
ことが多い。……否、これでも、この団と関わることの多いポジションにいるから、なんともそんなこと言っとる場合でもないといえばそうなんですが笑
ということで、実は私、この団の演奏会聞きに来るの、初めてです。

・ホールについて

愛知県を代表するクラシック芸術の殿堂となるに至った芸文。改修があってから聞き手で来るのは初めてだったかしら。この前、名古屋のホール不足問題の根本原因とも言えた(笑)芸文改修がついにすべて終了しました。コンサートホールも、照明が全部LEDになったり、トイレがウォシュレットになったり、ホワイエの絨毯が張替えになったりと、メインであるパイプオルガンのホールリペアや舞台装置の更新、耐震補強等以外にも実は目に見える部分での改修も結構あったりします。しかし、客電もLEDになって、意外と雰囲気も変わりましたねー。なんだか、光が直線的で、ステージ間にちょっと客電上がっただけで以前よりずいぶん眩しく感じる。否これも慣れの問題でしょうが、舞台人としてスタッフ入りするときは注意を払う必要があるかもしれませんね。
さて、クラシックの殿堂、と冒頭に書きましたが。実はこのホール、意外と現代アートとも馴染みが深い。否、なにも、名フィルが結構頻繁に戦後音楽を取り上げているとか、そういうことを言いたいわけではなくてですね(事実だけど)、例えば今日も裏では氣志團が大ホールでライブやってたり、そういうのに限らずとも、愛知県美術館でも常設展から結構現代作品の展示が多かったりと(コレクション展明日までやん……行きそびれた残念)、結構バラエティに富んだ使い方をされている。そして今年は「あいちトリエンナーレ」の年。津田大介(!)のプロデュースのもと愛知県美術館はじめ名古屋や豊田などで様々なインスタレーションが展示される他、パフォーミングアーツもこの芸文を中心に展開されます。なかでも白眉は、真っ暗闇の大ホールで開催されるというサカナクションのライブ。改修成り、愈クラシックを飛び越えた芸術の殿堂として、今後伝統を作り上げていくことに益々期待です。

指揮:長谷順二
ピアノ:天野雅子*

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本編に先立ち、本年2月に逝去されたノースエコーの名誉団長・塩田秋義氏を偲んでの追悼演奏。名古屋北高の音楽部顧問であったとき、その北高のOB団として立ち上がったのがノースエコーとのこと。いわば、今の愛知県合唱界を作り上げた方と言えるのかもしれません。哀悼を込めて演奏されました。

Wolfgang Amadeus Mozart "Ave verum corpus" K.618

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第1ステージ・サンドストレムの作品
Sven-David Sandström "A New Song of Love"
 - "The Lord's Prayer"

そう、この団といえばサンドストレム。サンドストレムといえばノースエコー。なんだか毎年コンクールではサンドストレムやってるよなぁとおもったら、かれこれ十数年やっているらしく、はては今年はサンドストレム初演まであるという。惜しくも演奏するほんの10日ほど前に亡くなってしまいますが、むしろ、ここまで自作品を愛している団が、自作の、それも遺作を初演をするというのだから、これはもう、氏の御本望といって差し支えないのかも。もっとも、氏の心は、いまや推し量ることしかできないわけですが……
否しかし、サンドストレム氏に対する思いもさながら(?)、この団の歌心に対する意識は、本当に凄まじいものがあります。素晴らしいといういより、否、凄まじい。
なにかって、この演奏がすべてを物語る。一人ひとりの歌声というのを、本当に大事にするんですね。一人ひとりがしっかりと歌うという意識は、どの団よりも際立っている。すべての団員の表現が重なり合った先に、団としての表現がある。音を揃えることをアプリオリにするよりも、まず歌う。
でもだから、正直、時折揃ってなかったりもする。それを良しと思っているわけではないんだと思います。でも、出発点が違うから、そこを目的としていない。否流石に、テナーを中心に各パート全てで喉声が聞こえてきたりするっていう、それはどうなのって事態になっていることもないでもないのですが笑、でもだからといって、それを回避するために表現手法を変えることはしていない。良くも悪くも、一貫してるんですよね。一種のポリシーみたいなものだから、それを変えるようなことはない。ある意味ではすごいですよ、ここまで歌うっていうのは流石に笑
このステージでは、しかし、それが裏目に出てしまった面が多かったように思います。特に最初のステージだからか、力でゴリ押すような、聞きづらい音が多かった。また、表現も、悪く言えば惰性、機械的なボリューム設計が目立ってしまい、演奏としての面白さには欠けてしまったように思います(たぶん、揃えようと保守的になったんだろうなぁ、逆に)。
めっちゃ歌える人たちだというのを承知しているからこそ、言ってしまいたい、めっちゃ歌えればそれでよかったんちゃうか、と。

第2ステージ・サンドストレム委嘱作品
Sven-David Sandström "For All Live Unto Him" (Niklas Rådström)《Premire》
 "For he is not a God of the dead"
 "The whole forest has rebelled"
 "In the hour of darkness"
 "I wanted to write a poem made of light"

そして、愈待望の初演。遺作の一つであることは間違いないのでしょう。ノースのパンフレット用コメントの日付が6月8日、その2日後に亡くなっています。
遺された作品は、祈りのためのテキストといっていいでしょう。福音書や詩篇からテキストが拾われた音楽は、一方で、森や水、光のような、様々な自然のモチーフに彩られ、自然信仰にも近いような、そんな感覚に自らが包まれるような。北欧の感覚って、こういうところにあるのかもしれないと、なんとなく錯覚するような、自然な風景に彩られた美しい曲です。オーソドックスな響きではあるけれども、しかし、奥の深い複数の旋律を持つ、非常に奥深い曲です。
世の中、だいぶ初演曲が多くなってきました。しかし、その中にあっても、やはり外国曲の初演というのは数少ない、貴重なものではあります。ただ一方で、オーソドックスな響きをもった曲であるからにして(現代曲に慣れすぎているだけかも、ということだけはありますが笑)、落ち着いて聞いていられる、非常に良い初演でした。
演奏自体も、1ステであったような喉声が飛んでくるようなことはなく、非常にまとまった演奏でした。全国レベルの団とはいえ、初演にはあまり慣れていない同団、いい集中力がステージを包んでいたように思います。ただ、その中で、やや萎縮にも近い、こぢんまりとした音が鳴ってしまっていたように思います。耽美的な響きもまた美しい曲なのだとは思いますが、華のあるところでしっかりと華のある音を鳴らせると、短調が多い曲だけに、より激情を増すことができたような気がします。
あと、何より、残響はもうちょっと楽しみたかったですね笑 美しかっただけに、余計に笑

インタミ15分

で、3ステ始まりで、団員入場ーー
良し悪しをいうわけではなく、半ば好みの問題だとは思うんですが。
「いい年したオッサンが合唱祭だのなんだのでTシャツ着て歌っているのは見るに堪えない」という声を聞いたことがあります。うん、まぁ確かにわからんでもない。もう、長ズボンしか履けなくなってきた自分。カラーがないと、なかなかオフィシャルな場には出づらいっていう感覚、私も確かによく分かる。
ーーでも、ね、全員おそろいの(そしておなじみの)Tシャツを着て颯爽と芸文コンサートホールに現れるその姿!今日来るまで知らなかった、まさかそれ、ステージ衣装だったなんて!笑 寒色系でまとめたTシャツを、老いも若きもバッチリ着こなすその姿!
否、真面目に思うんですよ、エンタテインメントですから、実は、こういう見栄えの問題って、意外と、勢いがモノをいうんじゃないかって笑

第3ステージ
arr. 寺嶋陸也・混声合唱とピアノのための『ふるさと』*明治・大正・昭和の唱歌編曲集

そう!この団、歌心が本当に豊かなんです。だから、何よりも、歌ものについては、抜群にうまく歌ってくれるんです。
日本民謡の聞き慣れた旋律線を、本当に情緒豊かに歌ってくれる。しかも、このステージになった途端、突然元気になって、目に見えて音圧が上がる笑 曲としても、歌い方としても、このステージはいい意味で、よくまとまった歌が流れていました。
各個人が声を揃えて歌うということを、この団は、そこまで重視していないように思うんです。否それは、決して悪い意味ではなく、各個人のピッチを揃えるというより、しっかりと歌った先にある音、表現を、合わせていくという歌い方がある。だから、音を揃えるよりも前に、しっかりと歌うことを重視している。それが、何より、この団の強みであると思います。だからこそ、自然に、歌が鳴るようになる。自分の意識の中に眠っている旋律への感情を、自然に起こすことができるから、自然な旋律が、自然に湧いてくる。
良くも悪くも、否、しかし悪い意味ではなくて、これこそ、愛知県の合唱の象徴。鉄板サウンドの極致。心の中にすっと入ってくるいいサウンドでした。ーー何とは言わないけど、深層心理も動かすようなサウンドだとか!?w

で、4ステ、指揮は下手から振るみたいです……え?笑

第4ステージ・スクリーン・ミュージックより
「Hail Holy Queen」*,**
「ハイ・ホー」*,**
「チム・チム・チェリー」*,**
「Climb Ev'ry Mountain」
「民衆の歌」*
指揮:清水郁恵**

さて、このステージ。さっきは全員寒色だったはずなのに、男声は暖色にお召替え……え、何、この団に入ると、そんな何枚もTシャツ買わされるの←
で、聞いてたら、「Hail Holy Queen」の盛り上がるぞって部分で、突如として肩トントンされる、長谷先生。そのまま、指揮が清水さんに変わり、長谷先生は歌い出す笑 そう、実はこの団、一時期は長谷順二にまつわる様々なゲームを合唱祭プログラムの広告に仕込むなど、「長谷先生大好き集団」という裏の顔を持っています爆 だから、「ハイ・ホー」では、長谷先生(はじめ7名)に小人役を任せて踊らせるなど、3曲ほどは指揮者・長谷先生をまるで……否もはやマスコットとして使い倒す笑 もう、なんですかね、この、悪ノリを実現しに来た感じは笑
演奏としては、音が鳴るのが遅いのが非常に気になる演奏となりました。早いパッセージが、どうもあっさりと流れてしまうのが、なにより気になるところでした。決して再現できていないとか、ついていけないわけではなく、早くなると、それだけで、ずいぶん勢いを失ってしまう。その原因が、どうも、音が後なりするから、早いところだと、音がなり切る前に、次の音に遷移してしまう。だから、ちょっと小技を効かせる前3曲は、ちょっと表現が滑ってしまっていたように感じます。
「Climb Ev'ry Mountain」では、しかし、歌の伸びやかさを取り戻し、一方、「民衆の歌」は、意外とあっさりと終わってしまった。段々とボリュームが上がっていき、最後は大団円を迎えるエンディングなのですが、全員が合唱に加わってから、ボリュームも、テンションも、特に上がることのないまま終わってしまった。そのせいで、あの独特な高揚感が生まれなかったのは、ちょっと物足りない感じです。そして、ランダム配置の雛壇上段には、革命旗を振る3人。あえて申し上げたい。革命とは、そんな、ヌルヌルと旗を振り回すようなものではない、と。もっと決然と振り回したかった。

encore
ミマス(arr. 富澤裕)「COSMOS」*
Jake Runestad "Alleluia"

1曲目は、合唱コンクールの定番。さすがに、3声をやってしまうと、男声が大きすぎたかな?否、しかし、先生方も多い団ですからね、今の生徒見てると、歌いたくなりますよね、この曲。いい曲ですし。
で、もう1個も、最近の定番どころ。多分、今日、この演奏が一番良かったんじゃないですかね笑 何より、デュナーミクが一番自然で、素直にいい演奏でした。

・まとめ

愛知県の合唱ーーとか言うと、なんかどこかから怒られそうなんですけど、なんとなく、自分の頭の中に、そういうテンプレートってあるんですよ。
前書いたような気もします。みんながしっかりとイタリアンベルカントを意識しながら歌っているから、しっかりと旋律を歌う方向には意識が向く。でも、声を合わせるだとか、和声を決めるということにはいまいち意識が向かなくて、音が決まらなくても、意外と無頓着に歌えている。結局、声のでかい人が勝ち。否、それはなにも、政治的な話ではなく、歌がしっかり歌えることが何より重視される。
否、当たり前といえば当たり前なんですけどね。どうも、「それしかない」っていう考え方が跋扈しているような気もして(どの地域もとどのつまり同じなのかもしれないですけれども)、何かと愛知県で合唱しているのが嫌になっている人というのが一定数いるのも、多分事実。統計取ったわけじゃないですけど、中高の合唱団が圧倒的に強い愛知県の合唱団は、ノースにしろ岡混にしろ、高校のOB団が何かと幅を効かせる傾向にあります。それに嫌気がさして、名古屋に住みながらにしてよその県に歌いに行くという合唱人をいくらか見かけます。私も、正直、そういうこと思うことがないでもない。
でも、そういうことやって、外の刺激ばかり求めていると、逆に比較として、こういう、愛知県の合唱から学ぶべき点って、確かにあるもんだなあと思わされることがある。特に愛知県のうまい合唱団は、旋律をうまく歌うということに関しては、めちゃくちゃ強い。こればかりは、他の地域にはあまりない特徴といって差し支えないと思います。あえて例えるなら、甍会とか、宮学みたいな合唱団がゴロゴロうじゃうじゃいる感じ。
はっきり言って、好みの問題です。どっちが好きで、どっちが嫌い。そういう問題で差し支えないんです。でも、自分が嫌いだと思っている表現をはねのけてしまうというのは、あまり賢明なことではないよなぁと、手前ながら、様々な団を聞いてきて、素直に思う印象です。
ノース、私は好きですよ。でも、これだけが名古屋の演奏だって思うのは、ちょっとさみしいじゃないですか。
でも、だからこそ、ノースはノースの音を、これからも貫き通してほしいんです。それがあって、初めて文化って、深みを増していくものですから。