おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2021年12月19日日曜日

【大阪大学混声合唱団第63回定期演奏会】

2021年12月19日(日)於 東リいたみホール 大ホール


実に驚くべき事態です。

え、2週連続で伊丹にいるって点? うんまぁ、それは、伊丹も近いし、そういうこともあるかなって思うんですよ。先週も今週も、午前中に予定があったから、午後に向けて新幹線(ぷらっとこだま)、帰りは近鉄在来線って感じだから、名古屋からのアクセスでも平均して片道3,500円くらいですからね。名古屋でプロ聞きに行くのとたいして変わらないっすわ。

え、エゴラドじゃないのかって点? うんまぁ、いろいろ考えてね。エゴラドも行きたかったんだけどね。ライブでは聞いたことないんじゃないかな、筑後川。でも、やっぱりききたかったんだよね、たまんなくいいよね、星の旅。

え、弊団初演作を見届けに行ったんじゃないのかって点? うんまぁ、そういうこともあるよね。でも確かに、初演した後すぐコロナだったから、再演回数少なかったし、演奏していただけてありがたいなとは思うよね。


……そうです、そういうことじゃないんです。それだけじゃないんです。

なにかって、この、前週にアポロン行って、翌週に阪混行く流れ、

2014年12月とほぼ同じ流れなんですわ。

いやぁ、成長してないなぁ、自分笑


 そんなわけで、三つ子の魂百までを身にしみて思い知らされる阪混。昨年度来の学生団、このコロナ禍にあってなかなか活動が難しいこともあり、ステージ自体縮小傾向。否、それ自体を悪くいうつもりは一切ないのですが、何がおかしいかといったら、逆にこの団。なんともりもりフルボリュームの4ステ構成。もうね、馬鹿かと(褒め言葉)。

 やりゃあできるじゃん!って他の団に申し上げるつもりはさらさらないですが、やっちゃうところはやってしまうというのが、こういった活動の機微というところ。こうやって、ムードって作られていくのかなって感じがします。

 並んでいる曲たちも、歌い慣らされた定番の名曲(と、この曲をいうべきか1ステよ……)から最新の合唱事情まで幅広く、まさに、この時代の合唱事情を照らす、お手本のようなステージ構成です。東のクライネス(東工大)、中のグランツェ(名大)、九州の九大に並ぶ、団員数四天王とでもいうべき中にあっても、今年のオンステは100人を切り(それでも72名)、1回生は各パート1〜3人と、団員獲得に苦労しているのは間違いないようです。とはいえ、各パート15人以上はいるというこの規模感が、4ステを支える力にもなっているかもしれません。否、人数が全てじゃないけどさ、こういうとき人数が力になることは否定できない事実でもある。


・ホールについて

 これまでも何度も書いているホールですね。条例は廃止になっていないものの、コロナ禍だからか日本酒の提供はありませんでした(違)。

 便利だった角のミスドが賃貸屋さんになって久しいですが(住むにも良い土地ですからね!笑)、それを差し引いてもやっぱり使いやすいホールであることにかわりはありません。舞台もホワイエも広いし、それでいて極端に客席数が多いわけでもなく。よく響くけれども響き過ぎず、それでいて舞台の音はちゃんと聞こえてきて、かといって生声が届くわけでもない。この絶妙なバランス感をして、長きに渡り関西合唱コンクールの舞台となっているだけはあります。ここで演奏できることもひとつのステータス、まさに、関西合唱の登竜門とでもいうべきステージです。

あと、反響板が白色なのも、ローホリで色々遊べていいですね。うん、アタマ2ステージでは色々遊んでいて面白かったです。


・オープニング

「大阪大学学生歌」

「萬葉歌碑のうた」


 ホントこの学生歌、聴いたのいつぶりだったかなぁ……そんなに聞く回数が目立って多いわけではないのに、妙に懐かしくなる曲です。いろんな気持ちがないまぜになる曲でもありますね……笑

 たかが学生歌と侮るなかれ、よくよく聴いてみると非常に無声子音が多い曲でもあります。いつもだったら、それがどうした、ってことでいいのだと思いますが、今回は、特にマスクもあったりして、飛んでこない子音が余計に気になってしまいました。あと、少し息の勢いを考えあぐねたか、今ひとつ音が低かったような気もします。

 もっとも、2曲目で特に明らかとなった限りでは、仮に低いピッチであっても、その中でよくまとまっていたってことなのですが笑 その点、さすが関西の実力とも言えそうです。


第1ステージ

信長貴富・混声合唱とピアノのための『新しい歌』

指揮:伊澤虎之介

ピアノ:竹田景子(客演)


 そうなんですよ、この曲、もう初演から21年も経ってるんですよ。信じられない。自分が合唱を始めたのが(だいたい)2007年くらいなことを考えてみても、それでも文字通り「新しい歌」だったのに、気付いたら全然そんなことない「往年の名曲」的ポジションになっていらっしゃる。歳取ったなぁ、ホント……。

 とはいえ、この曲、こういう爽やかな団に歌われてこそ真価を発揮する気がしてなりません。この点、いつまで経ってもこの曲は「新しい歌」なんですよね。なんたって、こういう状況の第一ステージがこの曲ってあたりも、とっても素敵じゃないですか。

 前述のとおり、関西の、特にKKRの合唱団は、基本については本当に踏み外すことがない優秀な音作りが光ります。その点、先週のアポロンもそうでしたが、出発点が一段高いところにいるので、その後の音作りに神経を集中していられます。なにより、その姿勢を心の底から高く評価しておきたい。コロナ禍にあっても、この良き伝統を守り抜く努力は並大抵のものではないはずです。

 でもだからこそ、今ひとつ、もっと表現に磨きが欲しかった。この曲においても、学生歌において指摘した、フレージングと子音、そして強勢にかかる課題がそのままあてはまります。特に少し残念だったのが、まさに「新しい歌」特有の高揚感がいまいち得られなかったこと。ありていにいえば、もっとはっちゃけた音作りをしても何ら問題ないところ、とてもキレイに丁寧に「まとめてしまった」。例えば、ハンドクラップひとつとっても、ただ手を左右に動かすだけでなく、(ステップ踏めともいわないけれど)胸を張って、全身の脱力を以てもっと乗って叩いたほうが、もっともっと表現として豊かになったような気がします。それはそれで良かった部分もあれば、同時に、物足りなさも感じてしまったのが正直なところ。

 この点、「鎮魂歌へのリクエスト」の口笛明けのテンションの持って行き方が物凄く立体的で良かったから、余計にそう思ってしまう。音の重ね方から、最終的なフォルテの作り方は、まるでお手本のような素晴らしさでした。これを理想のフォルテと心得た時、この団に出来たことはもっとあったのではないか、と欲を出してしまうのが正直なところ。綺麗だったからこその「リクエスト」、この点、十分及第点といえる出来だったのですが。ううむ。


インタミ15分。祝電披露にあって、とよこんからの祝電がちゃんとあるのが、阪混らしさともいえます(4団体全部だったかも……)


第2ステージ

信長貴富・混声合唱のための宮崎駿アニメ映画音楽集〈第1集〉

もののけ姫〜君をのせて〜となりのトトロ

指揮:伊澤虎之介

ピアノ:行本太陽


 パンフレットに曰く「公開から年数が経っているものも多くなってきましたが」……

絶妙に傷口を抉るのやめてくれませんか(白目)

 もはや「もののけ姫」公開時に生まれていたというのは年寄りの証なのか……苦笑

 ちなみに、指揮者はトトロの格好で登場。飛沫を飛ばしちゃいけないですからね、みんな笑いを堪えるのに必死でした。たぶん。

 さて、そんなことで、こういった曲に接するときに私たち世代(30代以上、としておきましょうか)が自然と持ち合わせていた親近感は、ともすると少しずつ薄れてしまっているのかもしれません。確かに、決して音の構成に狂いはないものの、どこか主旋律に対する意識が少ないのが気になりました。否、確かにちゃんと主旋律は歌えているんです。ただ、強い対旋律が置かれている時、主旋律を食ってしまう場面が、少なからずあったのが非常に気になりました。ポップスを歌う時によくあることとはいえ、その度、記憶で補正できるとはいえ、それに甘んじてしまうと、いよいよ将来、これらの曲で親しみのあるプログラムを構築できなくなる懸念すらあります。言い過ぎ? 否、現代人の心に刺さらないというのは、ポップスステージが持つ特有の怖さと言えるのではないでしょうか。

 あと、少しばかり歌詞に対する実感が欲しかったところ。特に、テナーの「さあ出掛けよう」をどれくらい決然と歌うか。原作を思い返せば、ここの出発は、野心的な冒険のはじまりであると同時に、もう帰れないかもしれない慌ただしい冒険の始まりでもあり、未知の世界へと足を踏み入れるまたとない絶好の機会でもあります。そんな、壮大な世界の「さあ出掛けよう」となるのはどんな音なのかを、もっと研究して見ると、この音は存外に、もっと歌い上げたほうが成立するのかもしれません。

 あとは、「トトロ」の畳み掛けとか。ーー否、トトロのところは、シンプルに難しかっただけかも……笑 特に「トトロ」はもっと口角上げて歌いたかったですね。マスクあるとずれるから大変なんですけどね笑 その点、見てる限りではアルト前列の表情が良かったなと想います。


第3ステージ

森田花央里・混声合唱組曲『星の旅』(谷川俊太郎)

指揮:行本太陽

ピアノ:竹田景子(客演)


 もうこのプログラムをめがけてきたといっても過言ではない。それほどに、2018年の再演に出会った時から、この曲の感動が頭から離れません。1曲目の和声の重なりが見せる世界観から、2曲目、3曲目の旋律が訴える世界観に至るまで、同曲のあらゆる構築が、私たちを「星の旅」へといざなう。その中にみせる、別れの寂寥感のような、しかし決然としたメッセージが、訴えかけてくるものは、初めて聞いた時から今に至るまで特別なものがあります。

 ……という思い出補正もあったりしますので、幾許か筆が厳しくなってしまうかもしれないことをお許しください笑 否、それにしても、今回の再演で特に評価されるべきは、2曲目や3曲目の訴えかける旋律線でしょう。私だけではないと思うのですが、何かとこの曲、1曲目のクラスターに注目が行きがちです。もちろん、その存在をして、この曲の世界に引き込み、「星の旅」へいざなうための重要なファクターであることは間違いないのですが、その世界観に圧倒されて、次以降を訴求することが難しい部分があるのも正直なところ(それくらいに、1曲目が傑作だということでもあるのですが)。そんな中、前のステージで少しずつ片鱗を見せていた、阪混のもつメロディの訴求力が、この組曲で見事開花するに至りました。森田音楽の持つ独特の旋律美は、それだけで圧倒的な説得力を持つものでもあります。まして、テキストだって、読んでいると、どこかコロナとシンクロしたものを感じる点、より沁み入るメロディとなってくれたのではないでしょうか。

 1曲目のクラスターはやや課題を残してしまったか。おそらくこのクラスターは、各パートができるだけ均質に音を鳴らすことが肝要なのではと思うのですが、ちょっとソプラノの先行が目立ってしまったよな気がします。各部分のデュナーミクに意識が向くこと自体は非常に良いことなのですが、それが、楽曲全体でどのような構成をしていて、その中で相対的にどのように表現されるのか、という点がより研究されていても良かったような気がします。何、この音を積むだけで非常に難易度の高いことをしているのは承知の上、だからこそ、より高いところを目指したく鳴ってしまう。全く、聞き手というのは身勝手なものですね苦笑


インタミ15分。


第4ステージ

山下祐加※・無伴奏混声合唱曲集『Ten songs ー世界のエレメントー』(みなづきみのり)

※祐はしめすへん

指揮:伊東恵司(客演)


……あ、それで、弊団初演曲ですね← 実際には初演以来、少なくとも淀混はやっていたと記憶しています(第32回の由)。文字通り全10曲。どれもだいたい2分以内に収まるとは言え、10曲あれば20分。率直に、体感以上の長さを感じました。何を隠そう、この曲を聴衆側で聞くのは初めてですから笑

 チラホラと書いていた、この団が持つメロディの潜在的な説得力が非常に顕著に現れた出来となっていたように想います。特に、「波の音」「風の音」そして終曲「命の音〜歌声〜」の出来は、まさにメロディ中心の曲であるだけに、眼を見張るものがあります。オノマトペの世界観にありながら、メッセージをしっかりと伝える同曲のメロディの作り方が、非常にしっくりときて、この曲の流れとしっかりフィットしてくれていたように思います。

 でもなんだろう、もう少し「行き過ぎた」表現があってもよかったんじゃないかな、というのも正直なところ。この曲、全体としては、オノマトペを中心に、世界を構成するさまざまなエレメントを表現していく曲。そのどれもが歌を持つ一方で、要素ごとの「原音」とでもいうべき擬音が、より効果的に聞こえるためには、それぞれの音がもつ面白さを、もっと面白がれるとよかったように思います。何をしたらいいかといえば、文字通り、もっと「面白がる」んです。コントでもしろ、というわけじゃないんだけど、よりオーバーな表現が、擬音、そしてメロディを構築しない音にも込められていると、より面白い表現になったように思います。象徴的には、「時の音」でテナーが音量を特に求められていたシーン。もっとも、そこは擬音ではなかったんですけどね……笑

 否、ナンセンスなことを申しすぎている気がしないでもない。何より、この曲たちをやりきったということについては、素直に評価しなければなりますまい。伊東先生のその後の挨拶を借りれば、まさに「他の大学合唱団の励みになるような」演奏を、見事やりきったのですから。念の為改めて書いておきますと、基本的なことがちゃんと表現できていた、その上での指摘です。


・アンコール

松下耕「山と空とあなたと私〜いま、旅立ちのとき〜」(みなづきみのり)

指揮:伊東恵司(客演)


 信大混声のために書かれたという、大学合唱団のための曲。2015年の曲ということで、必ずしもコロナに直結していなかったところ、「歌を携えて 歌といつまでも」と歌うそのテキストからも、コロナに苦しむ合唱団へのエールを込めて、ピアノリダクションもされるなど、新たな展開を見せているようです。その心そのままに、実体験からか、説得力のあるメロディが印象的でした。


 指揮者のグータッチののち、拍手が途切れるのを待って、4回生がフロントロウに。拍手受けながらの転換でも良かったのよ……笑

 部長挨拶は、淀みなくしっかりと、それでも「歌を通してふたたび笑顔を交わすことができたら」という言葉にも印象的な、心の底からの思いが篭った、とても印象的なものでした。


信長貴富「それじゃ」(木島始)

指揮:行本太陽


 よくある構成でありながら、この曲、卒団生が1回生だったときのアンコール曲だったとのこと。どうも阪混ではこういった選曲をよくしているようなのですが、否それにしたって、「それじゃまた!」って爽やかに別れていくの、素敵じゃないの。何気ないひとときに、また思い出す再会を期した別離のひととき。


 最期のひとりが退場するまで拍手のなりやまない、温かいエンディングと相成りました。


・まとめ


 あまり「コロナ」関係ないように、とは思っているのですが、率直に、コロナ禍とは思えない、凄まじいボリュームの演奏会でした。思えば、4ステ構成の演奏会を聞くということ自体が本当に久々なことで、まして最終ステージは短いとはいえ10曲もありましたからね笑 本当に、まず何より、このステージをやりきった団員の皆さんに心から敬意を表したいと思います。只事ではないです、間違いなく。しかも、その演奏のどれもが、関西ならではの抜群の安定感で導かれた安定のハーモニー。どんな曲もそつなくこなし、見事に形に仕切っている。圧巻の定期です。自分達を褒めてやってほしいです。

 でも、だからこそ、そんなステージをやりきった彼らにだからこそ、もっとこうしたい、と欲を出してしまう。まだ、この団には、表現できるメッセージが眠っているはずです。美しい音を十分聴くことはできた、メロディも十分に歌われている。ではその先、歌うべきメッセージがどこにあって、どのように意識を集中すべきであるか、研究すべきことはまだあるはずです。

 おそらくですが、コロナ禍で一番不足してしまっている部分って、結局こういうところの感覚なんだと思います。特に今年度においても、部長挨拶にもあったように、今年初のステージであったということ。先週も指摘しましたが、圧倒的に本番の回数が減っている。このことが、音楽性の鍛錬に少なからず影響を与えてしまっているような気がしてなりません。

 好きな音楽を聞くとか、過去の名演を聴くとか、アナリーゼを怠らないとか、さまざまなアドバイスがあるのかと思いますが、それでも、百聞は一見にしかず、ひとつの本番にかなうものってないんだと思います。酷な話ですが。でも、フォローするためには何が大事なのかと言ったら、やっぱり本番なんですよね。本番に向けてどう表現していくか、そこに従属する要素として、アナリーゼや過去演奏の研究があったりします。

 幸いにもこの団には人数がいます。これだけの人数が一斉に表現していったら、きっとこの団は凄まじい表現を作ることができるはずなんです。でもだからこそ誤魔化せてしまうような数多くの表現の機微に、ぜひ果敢に立ち向かって、音にするよう創意工夫をひとりひとりが重ねていって欲しいと思います。こんな時代だからこそ、これまで以上に、もっと、歌い手は自立すべきといえるかもしれません。今日この機会をきっかけとして。

 とはいえ、繰り返しにこそなりますが、この演奏会をやりきったことを、何より評価しなければなりませんね。本当にお疲れさまでした。

2021年12月12日日曜日

【神戸大学混声合唱団アポロン第59回演奏会】

 2021年12月12日(日)於 伊丹アイフォニックホール


みなさん! 12月ですよ!

 ……え、それが何かって? やだなぁ、忘れてもらっちゃ困りますよみなさん。

みなさん! 大学合唱団の季節ですよ!


 若々しさ、荒削りさも時にありながら、優れた技術と、これでもか! と趣味を詰め込んだプログラム、そしてなにより圧倒的なコストパフォーマンスで私たちを楽しませてくれる大学合唱団。そんな大学合唱団ですが、このコロナ禍において甚大なダメージを受けたことは当然例外ではなく、それどころか、各カテゴリの中でも特に大きな影響を受けた部門のひとつと言われています。演奏機会はおろか、新歓で人を集めることすらもままならず、その性質上人が入れ替わることが当然視されるだけに、零細合唱団だと、このまま活動をやめてしまうところも決して少なくないのではと推察されます。

 名門といって差し支えないであろう、今日のレビュー対象である神戸大学混声合唱団アポロンも例外なく、このコロナ禍において人数を減らし、40人あまりでの活動、中でも男声に関してはわずか9名ばかりという、率直に言って悲しい現実をまざまざと見せつけられました。

 しかし、当の団員たちは、そんな中でもできる活動にはどんなものかと思考を巡らして、少しでも充実したステージを作り上げようと模索を続けています。そんな彼らが今回のメインに選んだのは、佐賀県イチの有名人(?)山本先生を招聘しての『ティオの夜の旅』……いやもう、行くしかないでしょう!(現実もこんな感じのノリで整理券取りました)

 コロナにおける臥薪嘗胆を強いられた2年目、2021年の学生団シーズンの開幕です!

(もしこれより先にやっている団がいましたら大変申し訳無い。平謝りします)


ホールについて

 実は以前にも来ているんですよね。天花でした。その時からとにかく印象深いのが、インテリアの美しさ。少しダークブラウンに酔った木質の仕上げで、決して華美に彫り込んではいないものの、天井の放射状に伸びた円の意匠が特徴的な、公共ホールでありながら作りの良いホール。派手ではなくとも、しっかりと存在感を主張するホールは、シューボックス型でありながらもステージと客席を包む空間全体が円形になっている点においても特徴的。その内装をして、ごく近くにある東リいたみホールとは対称的なホールともいえます。ベルも、ビブラフォンがほわんほわん鳴っていてすごくいい感じです。

 そんなホールは、非常に響きも美しい。残響が全てを包み込んでくれる、という類のものではなく、生の音がしっかりと客席まで届くので、ごまかしが効かない一方、しっかりと残響自体は残ってくれる。だいたい前者か後者かどっちかなのですが、それがどっちでもあるという点、とても誠実な演奏が求められるホールです。本当に、ごまかしがきかないというのはこのことをいう感じ。

 ちなみに、詳しくは、以前のレビューが非常に雄弁に語っておりましたので参考まで……笑


 今日は、団員規模を気にしてか、あるいはコロナ禍の集客を気にしてか、客席数500程度のアイフォニックホール。ただ、ほぼ満席だったところを見るに、もう少し大きなホールでも十分集客できたのではないかと思います。もっとも、これ以上大きなホールだと鳴らすのが大変なのは否定しませんが。この人数規模然り。


・校歌

「商神」

 そうですよ、これですよ。指揮者ピンスポ、拍手なしで演奏をはじめて、曲に合わせてフェードインして全照。これ見てこそ、学生団聞きに来たって感じがするってものです。コロナ禍で長らく見られなかった光景です。

 演奏は、とても端正で丁寧なつくり。推進力に少し欠ける面があったか、ユニゾンが低くなることもあったような気がするものの、このご時世、こういった内省的なつくりも又許容のうちといえるかなと思います。


第1ステージ

相澤直人・さくらももこの詩による無伴奏混声合唱曲集『ぜんぶ ここに』より

ぜんぶ

まるむし帳

言わない

やわらかな想い

大きい木

指揮:出口可奈子


 校歌からの続きでいって、そりゃ、あのように端正な演奏ができる団ですから、この曲やらせたら、きっちり決めてきますよね! 非常に期待どおりの出来といえます。関西、ことKKRらしい、和声に対して非常に忠実なつくりに、未だ変わらない伝統に安堵するとともに、どこか懐かしさすら感じてしまう面もあります。本当に複雑な音も、しっかりと整理されて聞こえてくるので、音楽のつながり自体が非常によく見えて、構成だけでちゃんと音楽自体は動いてくれていました。この点、十分及第点を取れる演奏とも言えます。

 とはいえ、そういう、ちゃんとしている演奏を聞くと、それ以上を求めたくなるのも又事実。特に気になるのは、この6曲の並びの必然性のようなものが、いまいち感じられなかった点です。この曲集、10曲(+1曲)を擁する、そのうち6曲を選んだのが今回の演奏で、その点について特段の疑義はありません。しかし、なぜその6曲を選んだのか、あるいはせめて、選んだその6曲でどのようなストーリーを作っているのか、演奏から少し見えづらかったなというのが気になりました。

 それは例えば楽曲における表現の問題であったりします。構造上の和声については十分できているものの、では、その和声が持つ意味合い、あるいは(言語化できずとも)歌詞や旋律に対してそのような和声がつけられている解釈上の意味合い、どのような予備拍により、どのような歌詞が一番最初に歌われるのか――さらに言えば、曲と曲の間をどう待つか、というのも、表現のひとつであるともいえます。

 楽曲が持つ意味合いを深く理解し、それを表現しようとするだけで、信じられないくらいに、声の出し方まで変わってくる――もっとも、あえてこう言うと、「それ以前」の課題は十分クリアできているので、非常に正当に、これからの伸びしろが残っているともいえそうです。

 しかし、この時代に「たいせつなものはぜんぶここにある」と歌われると、否応なしに、感傷的になってしまうものがありますね。


休憩長めに15分。換気タイムでもありますね。


第2ステージ

Vytautas Misinis 宗教曲アラカルト

Cantate Domino

Gloriosa dicta sunt Nr.2

Dum medium silentium

O sacrum convivium

指揮:黒田聖奈


 ミシュキニスの宗教音楽。ご存知の方はご存知のとおり、詞の世界観がそのまま音になったような、時にコミカルで、時にサウンドスケープ的な美しさもある、さまざまな表現が光ります。それでいて、音自体は整頓されている美しさが求められることから、裏を返せば、まさのこの団向きともいえる曲たちでもありました。

 そんな予想に違いなく、いずれの曲も、コンパクトにまとまっていながら、演奏自体の広がりも十分感じられる、コミカルかつ機能的な音楽が光る納得のできでした。特に白眉と言えたのが3曲目。特に今回、少人数ながら非常によく鳴る男声と、集団で美しい音をしっかり鳴らせる女声というこの団のキャラクターも相まって、この曲が持つ風景描写的なユニークさが確かに表現できていました。欲を言えば、”Omnipotens” を中心にもう少し言葉が聞こえてくると良かったかな?しかし、適度な緊張感も表現から感じられ、それだけで十分聞いていられる演奏でした。

 しかし一方で気になったのが、全体の表現によるボリューム設計に音が振り回されていたこと。男声が少ない人数の中でフォルテを出して音作りとしては苦しいことになってしまったり、かたや弱勢において、全体として我慢して鳴らしているなということが顕在化してしまうこともあったり。それ自体、理想に技術が追いついていない部分であるとも言える一方、表現自体を再構築して、例えば周りを弱めてフォルテを出すとか、音自体の弱勢化ではなく、例えばテンポを落としたり声門半閉鎖でピアノを表現したりといった、(諦めではない)代替手段で表現する方法もあったような気がします。

 正面突破にこだわらず、いかにして目標にたどり着くかを考えるのも又、表現のひとつの形であると思います……とはいうものの、私自身、好きですよ、正面突破笑


さらに休憩15分。途中には祝電披露もありました。


第3ステージ

木下牧子・混声合唱組曲『ティオの夜の旅』(池澤夏樹)

指揮:山本啓之(客演)

ピアノ:内藤典子(客演)


 卒団生は慣例にてコサージュをつけてのオンステです。どうしてもコサージュ比率が高い点に、昨今のコロナ禍における団員獲得の難しさがよく現れています。

 で、このメインステージ。もうね、1曲目からやられっぱなしでした。さっきまでとぜんぜん違うんです。確かに音は破綻していないし、ちゃんと音をして表現できているんだけれども、特に1ステで指摘した表現の部分の穴埋めが、あきらかにしっかりできている。もちろんそれは、アインザッツが非常に明瞭で、その実表現に対して非常に雄弁な山本先生の指揮に、そしてそれを見事に合唱団へ橋渡しする内藤先生に導かれてのことではあるんだけれども、それ以上に、この団員の奥底に眠っていた表現に対する意欲がむき出しになった演奏でした。

 特に感動したのは2曲目。山本先生がね、容赦ないんです。おそらく体感以上に速いテンポでの進行、その中に言葉をしっかりとはめていかなきゃいけないので、非常についていくだけでも大変だったのではないかと推察します。しかし、そんな中にあっても、必死で食らいついていって、海の雄々しさを表現しにかかっていく。それを見ているだけで、表現であり、ドラマであり、これまでには十分に聞こえてこなかったアポロンの歌のもうひとつの側面がまざまざと映し出されてきました。

 これまでも見せてくれた、あんなにピュアな演奏で、あんなにガツガツと表現されたら。見事に作り出された海の諸相を眺めていて、しばらくこの世界から離れたくない、ずっとこのローラ・ビーチに没入していたいと思わされたのは、本当に久々の経験でした。

 間違いなく傷のある演奏でした。一瞬縦がズレてた気がするし。もっと洗練された「ティオ」は、掘り起こせばいくらでも出てくると思います。でも、こういう演奏って、そんな傷、どうでも良くなるんです。嘘偽りなく。間違いなく、今年の「ティオ」の決定版と言えますし、第59回アポロン唯一無二の演奏となりました。


・アンコール

木下牧子「よかったなぁ」(『うたよ!』より/まど・みちお作詞)

指揮:山本啓之(客演)

ピアノ:内藤典子(客演)


三宅悠太「私が歌う理由」(『二つの『理由』』より/谷川俊太郎作詞)

指揮:黒田聖奈


 2曲目は指揮者挨拶の後、コサージュをつけた卒団生が前に出ての演奏。まさに「そこにある幸せ」をうたう2つの曲たち。前のステージが非常にいい意味で興奮していただけに、しっかりと落ち着く曲たちが、穏やかに私たちの心を満たしてくれました。


 少し短いものの、非常に充実した演奏会でした。とはいえ、ストームがないのは、やっぱり寂しいですね……(アイフォニックホールでできたかどうかはともかく)。


・まとめ


 このところ、学生団のほとんどは存立の危機に見舞われているといって過言ではないと思います。

 もちろん、消えてなくなろうとしている団にとって壊滅的な危機であることは言うまでもなく、それに留まらず、そこまでは行かずども、先述のとおり、ほとんどの団は演奏機会はおろか新歓の機会すら奪われてしまいました。その結果、団員数減少の未来が決定的であるだけでなく、対外的な活躍の機会、あるいはその可能性が奪われたことで、おそらくはいつになく「なぜ歌うのか」という問いを自らに課し続けているのではないでしょうか。

 一般団ならいいんです、そんなこと知ったことかと言わんばかりに自主公演を続ければいいんですから。資力・運営力の観点から、定期以外はどうしても参加型イベント(合唱祭・コンクール等)や依頼公演に比重がおかれがちな学生団は、今日のアポロンも「最初で最後のステージ」という状況にあります。大学合唱団シーズンにあって、例年と比べるとあまりに少ない挟み込みチラシに、思わず感情的になってしまいました。


 演奏機会の減少に伴い、(これまでの基準で言えば)得られる経験がかつてより減っていることも否めない事実です。私たちが想像している以上に、経験が解決してくれることが多いというのを、肌身に感じるこのところ。昨年一年ステージを組めなかったということだけで、運営の「こなれた感じ」に翳りを作っているのを、(別にライブ配信についての知見が増したとはいえ)むしろ否定してはならないように思います。

 しかし、強調しておかなければならないのは、今の学生たちがヘタになったというわけでは、決してないことです。今日の3ステ2曲目「海神」で山本先生に喰らいついて咆哮するアポロンの団員は、まさにわたしたちがこれまで見てきた大学合唱団の姿そのものでした。稚拙かもしれない、コンクールに出しても次には進めないかもしれない、しかし、そこにあるのは、まさに音楽、芸術、表現、そしていうなれば、現実に対するアンチテーゼとでもいうべきもの、そのものであったといえるのだと考えています。

 技術上の課題は間違いなくあった、構造的に経験が不足することによる稚拙さもあった。しかし、今日のアポロンの演奏会は、間違いなく、これまで何度も見てきた大学合唱団の大団円まさにそのものといえるものでした。


 聴き手の皆さんに是非お願いしたいことがあります。大学合唱団の演奏会に、是非足を運んであげてください。流石に遠征に賛否両論があるのは重々承知していますので、県内、あるいは、自分の出身団の演奏会。そして、どこかコロナを感じさせない忌憚ないコメントを、彼らに投げかけてあげて欲しい。合唱がこれまでの姿を取り戻し、あるいはこれまで以上の地平を見せるために必要なのは、目標となる路標であり、そこへの道筋であると信じます。それは決して「コロナで仕方ないけど出来てよかった」とか、そんな甘っちょろいものではないはずです。音楽の出来栄えと、感染対策に、なんの関係もないはずなのです。筋力が落ちたならまた鍛えなくてはならないし、発声が悪いなら学び直さなければならないし、音程が狂っているなら耳を鍛えなければならないし、表現が縮小するなら制約をもとに表現を考え直さなければならない。今できることを一生懸命やるというのは、以前からの縮小均衡を考えることではなく、制約を引き直した上で最適解を考えることです。そのために、私たちは歩みを止めてはならないし、その先に、コロナ前、果ては1990年代以前のような大学合唱団の新たな輝きが、再び見えてくるのではないでしょうか。


 辛く、苦しくとも、今日のような演奏を愚直に繰り返し、合唱音楽の表現の地平を広げていくーー結局のところ、それが、学生団はじめとする各合唱団存続の唯一の道であり、彼らに課せられた使命なのだと思っています。ひいてはそのことにより、学生団の伝統も守られていくのだと信じてやみません。……とはいえ、彼らが悪いわけじゃないのだけれども。


 ご盛会、本当におめでとうございました。

2021年10月17日日曜日

【CANTUS ANIMAE×Chœur Chêne×Combinir di Corista×MODOKIジョイントコンサート 三善晃の世界】

 2021年10月17日(日)ザ・シンフォニーホール

作曲:三善晃


第1ステージ MODOKI

混声合唱曲『嫁ぐ娘に』(高田敏子)

指揮:山本啓之


第2ステージ Combinir di Corista

混声合唱とピアノのための『やわらかいいのち三章』(谷川俊太郎)

指揮:松村努

ピアノ:織田祥代


休憩20分


第3ステージ Chœur Chêne

合唱組曲『五つの童画』(高田敏子)

指揮:上西一郎

指揮:浦史子


第4ステージ CANTUS ANIMAE

混声合唱と2台のピアノのための『交聲詩 海』(宗左近)

指揮:雨森文也

ピアノ:平林知子、野間春美


休憩20分


第5ステージ 合同

「―ピアノのための無窮連祷による―生きる」(混声合唱曲集『木とともに 人とともに』(谷川俊太郎)から)

混声合唱と2代のピアノのための「であい」*

指揮:栗山文昭

ピアノ:浅井道子、斉木ユリ*


アンコール

「鳥」(『地球へのバラード』(谷川俊太郎)から)

指揮:栗山文昭


―――


 私にとって、三善晃は「憧れ」である。嘗て在団していた大学団の合同ステージに選ばれた『木とともに 人とともに』に出会って以来、なんとも言えぬ魅力を覚え、そこから徐々にのめり込んでいった。一発でビビッときたというより、それをきっかけに様々な楽曲を聞いていって、いよいよ三善ファンを(知識は少ないながら)公言するに至る。

 三善音楽の何が魅力的かといえば、あまりに多く語り尽くせないというのが本音であるが、あえてひとことで表すとするなら、それは、憧れるものそのものであるから、と言えるのかもしれない。日本の最高学府・文化芸術系の最高峰からフランス留学をして磨かれていったエスプリと、同じく光り輝く、野心に満ち溢れた芸術界。それらが共鳴しあって生まれた音楽が、日本の戦後芸術の規範となっていくその一連の流れ。その思想は音楽のみならず各種分野が共鳴しあい、高度成長に至るまでの戦後思想の一体系を作り上げた。そんな思想全体の、常に過去に批判的でありながら未来へ向けて走っていく野心、あるいは、そういった思想自体を作り上げる風土――その流れ自体が、少なくとも私にとっては「憧れ」であるともいえる。

 このコロナ禍にありながら、日本におけるいわゆるハイアマチュア合唱団の急先鋒が揃ったこの演奏会。この4つの団体が一同に揃ってなお演奏する楽曲が何であるかといえば、やはり三善晃であったというのは、まさに日本の合唱音楽、否、日本の現代音楽におけるひとつの象徴的な到達点ともいえるだろう。まさに、彼らは、私たちは、三善音楽に憧れて、その演奏に酔いしれて、そんな経験をひとつでも携えながら、新たな演奏を求めているといっても過言ではあるまい。そして、その憧れそのままに招聘した客演指揮者が栗山文昭――正に、憧れあった者たちが互いに惹かれ合って実現したこの座組であるといえよう。

 

***


 コロナ禍というにあっても、ホールは変わらずそこにあり、音楽は変わらずそこにある。そうなんだけれども、なれたはずの、1席飛ばしの客席が、わずかばかりの緊張を生む。しかしながら、その目の前にある音楽が、この緊張にとっては心地よかったのかもしれない。いつもよりも静粛が張り詰める客席にあって、三善晃の音楽は得てしてかくあるべきと語りかけるようでもある。

 どの団にあっても、今の合唱人がひとしく憧れにしている合唱団といって良いであろう。これらの合唱団を礎にして、私たちは、自分たちの音を磨き、あるいは、これらの音を、憧れの音楽を求めて、各地の演奏会を彷徨い歩く(否、現在進行形で間違いあるまい)。最初の音が自然なブレスの先に出てきて、ああ、これぞ求めていた音楽と気付かされる。

 いずれの団もアプローチは異なっている。MODOKIの、曲全体の中に適切な強弱を配置する全体的なバランス感、コンビニの、すべての音及び言葉に対する意味を徹底的に追求した迫真の表現、シェンヌの、もとよりのバランス感からして記譜上の表現に徹さざるを得ない同曲の見事な再現、そして、相も変わらずCAが見せる生あるがままの咆哮――いずれも共通するのは、「かくあるべくしてここにある」という、それぞれの音が持つ必然性であった。楽曲という制約はもちろん存在するのだが、そのためのアプローチの豊富さに、同じ作曲家に対してでありながら、ここまであるのか、とハッとさせられる。それも、いずれもコンクール全国、それも金賞常連団体たちである。実力は折り紙つきでありながら、高みへの到達の違いが、それぞれの団体の個性を作り出しているといえよう。

 同じメゾフォルテの解釈をしても、全体のボリュームの中に配置するメゾフォルテと、前のピアノの音量に対して鳴らすメゾフォルテ、怒りに対する或いは悲しみに対するメゾフォルテでは、まるで音の出し方、考え方が異なる。それらの考え方いずれもが、音楽の違いを生み出し、音楽に深みをもたらす。――だからこそ、音楽の世界は深淵なのだと気付かされ、そのいずれも高みに到達した音楽に、私たちは又憧れる。

 三善晃の音楽は、音の多さからして、ときに残響すら敵になる。そんな中、残響をも味方につけた各団の演奏の、協和音で残る残響は、名残惜しそうにスッと消えていくのだった。――思えば、憧れ自体も、美しいものだと気付かされるのである。一度目の前から消えたように見せて、再び美しいものとして思い出され、憧れとして現前する。


***


 そういった意味では、合同ステージは、プログラム2曲でありながら、憧れそのものが目の前にあるようでもある。嘗て栗友会が一世を風靡した全日本合唱コンクール、その音楽監督が、今全日本合唱コンクールのスターダムたる合唱団を合同で指揮する。恐らく、今後一生お目にかかれない演奏である。

 「生きる」の演奏は、非常に遅いテンポから始まり、徐々に、歌詞の高揚に合わせてわずかにテンポを早めていく――しかし、それは決して激情的なものとはならず。常に、作曲当時の三善晃の無窮連祷をなぞるようでもある。少しずつ湧き上がる感情があふれるさまを表現するのに、オルガン前にまで合唱団を配置するほどの大人数は、たしかに必要なのだ。そして、それは「であい」にも現れる。まさに、端的にいってしまえば「別れ」のために作られた曲でありながら、どこか牧歌的に歌われることの多かった同曲。コロナ禍における、「再会」という、同曲のテーマともいえるものが限りなく難しいものと痛感した中にあって、この曲の由縁を知る栗山文昭の棒は、私たちにとっての同曲の解釈を確かなものとする。

 普通であれば大団円のアンコールにあって、意外といっていいアンコールの選曲は、しかし、私たちに重要な示唆をもたらしている。鳥の世界が見せる真実と、私たちの世界の虚無とを、この現代に投げかけることの意味。そのことを思うとき、三善音楽の、この世界の広さのことを、又少し思い出す。4指揮者による朗読ソロに気付かされる――ともすると、私たちは鳥を撃ち抜く人間そのものである。


***


 得も言われぬ充実感とともに演奏会を去る。「感動した!」という、瞬間的な充実感とは違う、このように筆を進めて、少しずつ湧き上がってくる、不思議な充足感である。憧れの音が去ったとき、又次のあこがれが私たちの前に現前する。移り気? 否、向上心と表現しようではないか。

 語弊を恐れずに言えば、これから先、三善音楽は古典として、よくも悪くも古くなっていく。しかしながら、古典に憧れる私たちの心は、なおも新鮮な輝きを持って光り輝くのだと、漠然と、そんなことを思っている。目に見えないものでありながら、運命をして憧れ惹きつけられるものたち――ある名曲の言葉を借りれば「遊星はひとつ」なのである。

 だからこそ、特にこの演奏会を技術をして語りたくはない。憧れは、きれいなままがいい――決して、評論の放棄というわけではなく、そう言って許されるほどの実力がこの4団体には備わっている。私にとって憧れのこの4団体は、しかし最終的に、憧れのまま終わっていくような気がする。少なくとも私にとっては。

 私たちは、或いは私は、後世にとってのひとつの遊星となりうるか。そんなことを、ふと自問する。間違いない、一歩踏み出すときなのだ。

2021年8月29日日曜日

【あふみヴォーカルアンサンブル 第8回演奏会】

天の響き 地の祈り~伝え継ぐ心と歌~

2021年8月29日(日)於 米原市民交流プラザ(ルッチプラザ)・ベルホール310


 実のところ、もともと、ライブ配信そんなに好きじゃないんですよ。

 もちろん、昨今の現状を鑑みれば、主催者としてそういう判断に至らざるを得なかった現況の背景は十分わかっているつもりだし、こうやって少しでも演奏会を届けてようという意志をみせてくれる、それ自体は全くもって敬意を払うべきものなんですが、なんにしろ、決して万全の状態で音楽が聞けるわけでもないし、なにより、これが当たり前になってしまうのは厳に避けたい、という、非常に硬い考え方から、コロナ禍におけるライブ配信はレビューすることはかなり意識的に避けていました。ライブ配信という試み自体は、8年前くらいにすでに記事にしていますしね笑 それ自体、特別なことではないんです。とっくの昔に。むしろ、今となっては、クラシックコンサートですら感じられた、ライブ独特のあの人熱れが唯懐かしい。ライブでならホルモンでもノリノリで聞いてしまう自分なら余計に←


 ではなぜ、今回これを記事にしようと思ったのかといえば、

もともと行く予定の演奏会だったから。

 整理券もらっていて、状況次第とはいえ、たとい記事にせずとも行こうと思っていたんですが、往来県いずれにも緊急事態宣言が発令されており、感染状況ものっぴきならない現状下、個人的判断として、さすがに移動そのものを断念しました。で、行かないけどライブは聞く、という中、さすがに何もしないのももったいない(なにより申し訳ない)というわけで、今回、ブログ化しようと思った次第。フォローになってるかはよくわかりませんが←


<配信サイト>

http://www.afumi.com/2/21_8thcon/21_8thconlive.html


 そうそう、今回の記事、その8年前の明立ライブ配信以来! ライブ更新です!

(ライブで見てくれた人、いますかー?笑)


 一番最初「場を和ませる役割」で登場したのは、アンサンブルトレーナーの石原先生。宣言に伴って近隣市町がホールを閉める中、米原市は閉めなかったことによりなんとか開催できた由。まさに僥倖、幸運というべきところでした。「思わずブラボーって何十回も言いたくなるだろうけれども」など、たしかに和ませてくれました笑 そういいつつ、しっかり楽曲解説もしてくれた上で「今日の演奏会、ちょっと長いんです。肩肘張らずに聞いてくれたら」。……確かに、普通の感覚でいってボリューミーですね笑 9人で4ステって笑

 

第1ステージ グレゴリオ聖歌からルネサンス音楽へ歌い継ぐ歌

グレゴリオ聖歌~O quam gloriosum

サカラメンタ提要~O quam gloriosum

T. L. de Victoria “O quam gloriosum”


グレゴリオ聖歌~Sicut cervus

G. P. da Palestrina “Sicut cervus”


サカラメンタ提要~Tantum ergo

F. Guerrero “Pange lingua gloriosi”


 この団、なにより、少人数アンサンブルをやるための音作りをしっかりしているのがよく伝わってくるのが魅力です。一人ひとりがちゃんと歌いこむ音を作っている。ぶっちゃけ、個人的好みがあるのは否定しないのですが笑、それにしたって、この少人数でちゃんとしたアンサンブルをするために必要なこととはいえ、意外とアンコン聞いていると、多人数のノリでアンサンブルを作っているところというのは、一般に上手いと目されているところにあっても散見されるところ。この点、ひたすらこの規模を追求し続けているこのアンサンブルならではとも言えます。

 そんなわけで、特にルネサンスのポリフォニー、否、原曲のモノフォニーでもそうでしょう、音楽をしっかり推進する力がある。もちろん、待ってたって他の人が鳴らしてくれるわけではない、っていう側面もあるんでしょうけど、それ以前に、こういうアンサンブルに放り込まれたときに感じる、ひとまず自分でなんとかしなきゃいけないという感覚、そのことをふと思い出します。そんな側面から、自分自身の音楽性がだんだんとアンサンブルの中で開花していって、音楽が自発的にどんどん膨らんでいくのが、理想的なアンサンブルの形を示しているのではないでしょうか。聞き慣れた旋律(でもない?)からこそ、それが「自然」に入ってくるという、こういう音楽の理想的な形を示してくれています。

 ただ、語頭を鳴らそうとするあまり、少しフレーズがガタつく場面もあったやも。有り体にいえば、少し不自然に聞こえたというのが率直な意見。あとは、さすがに一人だけが音を鳴らすような場面になると少々の無理があったか。力んでいるように聞こえました。まぁ、わずかなんですけどね。

 なにより、試みとして素晴らしいプログラム。一本ちゃんとしたスジが通っている、それだけで、少なくとも音楽においては、傾聴に値するものなんです。


第2ステージ

arr. 増田順平「日本の伝承歌~「わらべ唄・日本民謡」」より

大波小波(山形県)

おこんめ(滋賀県)

ほたるこい(滋賀県)

もぅっこ(青森県)

ずいずいずっころばし(東京都)


 ごめんなさい、やっぱり自宅から聞いているもんで、小休憩の間、席立ってたりしてたんですけど、いきなり篠笛が聞こえてきたのにはびっくりしました笑

 東混創立時代の方により編曲された日本民謡の編曲。一本のフレーズが大波小波、カノンを鳴らしていく「大波小波」、幼き頃の風景を思い出しながら、どこか緊張感をも見せるお手玉歌「おこんめ」、幽玄な輝きをそのまま音にしたような「ほたるこい」。穏やかな曲調にあって、しかし少しばかり暗さをも垣間見える「もぅっこ」、各和声の音の移り変わりも鮮やかな「ずいずいずっころばし」。照明も鮮やかに聞かせるアンサンブルでした。

 小品が揃った中にあって、しかし演奏には技量が求められるところ、手慣れたアンサンブルと言わんばかり、各メンバーの息でしっかり揃えている様子が印象的でした。何より、音楽の向かうべき方向性がちゃんと揃っている。だから、主旋律以外に鳴る装飾的な旋律が、「ついで」にならず、ちゃんと説得力を持って伝わってくる。決して、適当にやっているようには聞こえない。簡単なようにみえて、その実、一人ひとりがこの音楽をよくわかっていないとできない芸当です。ステージ全体の軽さも、ちょうど、前半終わりの2ステにちょうどいい感じ。

 しかし、「ほたるこい」といえばこのところ信長版ばかりでしたから、そのことを考えると、逆に新鮮な響きでした。


ここでインタミ。15分、かな?


 後半に先立ち、石原先生によるホールの紹介。

 旧山東町にあるこのホール、愛称は「ほたる」からきます。近くにある風光明媚な池、それを舞台にした人柱伝承をもとにした舞台で舞台のこけら落としをしたのが、なんとまさに目の前にたって説明をされている石原先生とのこと。地元とともにあるホール、ああ、生きたかったなぁ……。

 しかし、原稿なしでここまで解説仕切ってしまうの、ホントにすごいことだなと思います。いくらプロとはいえ、近現代からグレゴリオ聖歌まで、特にこの団はいろんな作品を幅広く歌いますし……笑


第3ステージ

Schronen, Alwin Michael “Missa Argentina~Homenaje al Papa Francisco”

Kyrie

Gloria

Sanctus

Agnus Dei


 様々な形式による音楽で歌われる、1989年から活動を開始した作曲家によるミサ曲。それだけあって、それぞれのテキストに合わせた音楽で、ときに楽しく、ときに静謐に、全体が進行していきます。フランシスコ教皇の選出を記念する音楽として2013年に書かれたこともあり、ところどころで教皇の出身地であるアルゼンチンの旋律をモチーフにしたり、新鮮でありながら、心のなかに自然に入ってくる、豊かな音楽を見せてくれました。

 「Sanctus」など特に、音楽としての響きは現代的に見て決して複雑とはいえないものの、内に鳴る和音が結構複雑な動きをしていて、おそらく歌おうとすると非常に困難を極めたのだと思います。あえてざっくりとした言い方をするなら、考えだしたらドツボにハマるような、そんな感じがします。でも、そんな難しい曲を、あえて(?)「あっさり」と歌ってくれた。そのことが、この曲の輪郭を寧ろしっかりと表してくれたような気がします。和声は複雑ですけど、必ずしも和声を聞かせる曲ではありませんでしたからね。現代曲あるあるです。聞かせたい部分以外が難しくて、聞かせたい部分が埋もれるって笑

 とはいえ、男女、パート問わず中声部で、少し声が生声に近くなるのは、改善すべきかも。そういって改善できたら幸せだってくらい、人数が少ないので、そうそう無理強いできるものでもないんですけどね。

 ともあれ、こういうプログラム大好きなんですよね。あまり知られていないけど、絶対にいい曲だから聞いてくださいよ、っていうプログラム。ご多分に漏れず、非常に素晴らしい曲でしたし、比較的、各団への導入も容易なんじゃないかと思いますし。「Agnus Dei」なんて、ホントに心が洗われるよう。曲自体、「Credo」が省略された短い形式ですし、ミサ曲があまり好きじゃないって人も、ぜひこの曲から、ミサ曲に触れてみるのも悪くないかもしれません。


第4ステージ

Zelenka, Jan Dismas「聖週間のためのレスポンソリウム集」より

Omnes amici mei

Velum templi scissum est

Tenebrae factae sunt

Tradiderunt me

Caligaverunt oculi mei

<通奏低音>

ヴィオラ・ダ・ガンバ:上田康雄

ポジティフオルガン:吉田祐香


 さて、あふみの魅力といえば、普段あんまり見かけない楽器を用いた、古典的だけれども逆にそのことによって演奏機会の少ない曲の演奏(当たらずとも遠からじ)。まさにそういうプログラムが、今回のメインに据えられました。もう、チューニングの時点からどこか古典的な響きが鳴っていますからね笑 3曲目で再度チューニングが必要になるくらいには原始的な楽器とも言えます。……どの弦もだいたいそうか。

 決して、形式のみで音楽を語らしめるわけではなく、和声や旋律を詩に合わせて選択していく、この時代にあっては先進的な音作りをしています。これに呼応するかのように、アンサンブル全体のもつ旋律性も、やや劇的に、豊かに表現していきます。この点、1ステのルネサンス期の音楽とは異なるところでもあります。

 少しばかり、通奏低音に頼った演奏になってしまったような気がします。もともとアカペラだけだったところに楽器が入った安心感ともいえるでしょうか。決してバラバラだったとまでは言わないものの、前3ステよりも、合唱全体でのまとまりや、旋律の長さが劣化してしまっていたような気がして、少し残念です。

 とはいえ、時代に比してやや劇的な音楽であるゼレンカの持つ表現を表現するには十分な音が響いていましたし、何より、よく私もこのブログで書いている、伸ばしている音が持つ説得力という意味では、まさに楽器任せではなかった点、この団の持つアンサンブル的側面が十分に発揮されていたように思います。日本における数少ない再演という機会がこの団によるものであったことこそ、まさに僥倖というべきでしょう(そういう集団だからこそこの曲を選んだ、とも言えそうです)。

 もっとも、ちょっと率直には、楽器が大きいかな、という印象が先立ったのですが、一方、当時、宮殿で演奏がされていた時代を思えば、実はこれくらいの人数とボリュームが標準だったのかな、という気もしてきます。むしろその点については、この人数にしてこのボリュームの楽器をよく受け止めたとも言えそうです。クレシェンドするにつれてだんだん楽器を凌駕していきますし。多分これは、生で聞いたらよりすごいことになってたんじゃないかなと思います。


団長御挨拶。緊急事態宣言でホールが使えるかどうかもわからない中、開催を決断した演奏会。「我々としては、できる限りのこととして、合唱というものをなんとか守っていきたい、そんな大げさでもないけれど、3年間私たちがやってきたことを少しでも共有できる場があればと思い開催した」。確実に共有されていた、そう信じています。


・アンコール

「琵琶湖周航の歌」

伴奏はオルガン……というわけではさすがになく、オルガニストも入っての演奏。さすがに色んなところで歌っているでしょうから、これぞ「日常」の音、根っからの愛知県民でありながら、郷愁の念をともにすることができました。こういう時期、画面の前だからこそ。。。


最後は舞台の上でお見送りしながらの整理退場となりました。その様子もバッチリと配信笑


・まとめ

 なにより、デルタ株の流行までは少しばかりの楽観論こそあったとはいえ、このコロナ禍に、この量のステージをこなしたということには心から敬意を表します。いくら、やえ山組のときには「コロナを言い訳にしてはならない」旨言ったとはいえ、大変なことにはかわりないですし、何より、こっちでは9人しかいないですから、身体的負担だけ見てもぜんぜん違うんじゃないかなと思います。

 そして、そういう時期に、そういう時期にも関わらず、自分の芯をブレずに持った演奏会をやったこと、そして、それをちゃんと届けきったこと、そのことに、なにより、敬意を表したいと思います。なにかとこういうご時世、時勢に絡めてなにか特別なことをやったり、あるいは、前述したように、時勢に絡めてなにかと甘えてしまうことも少なからずあるところですが、こと、このあふみのプログラムに関して言えば、そういった妥協は一切なく、人によっては寧ろ聞き手が疲れてしまうようなガッツリとしたプログラムを貫徹して、ひとつスジの通ったプログラムをやり通したことに心から拍手を贈りたいと思います。

「アレをやったからアレが伝わる」というような単純な図式ではない、あふみとして目指している響きを、いつもどおり自然に集合させていったら、一貫した表現ができているというようなもの。この点、いつもどおりのことをしたに過ぎないと思うのですが、そのいつもどおりが、特別な瞬間って、どうもこわれてしまいがちなような気がします。いつもどおりの私たち、これすなわち「日常」なような気がします。

 次こそ、また、お伺いしたなと思います。それもまた、当ブログの「日常」にほかなりませんから。

2021年7月23日金曜日

【合唱団やえ山組第9回演奏会 愛知公演】

2021年7月23日(金祝)於 豊田市コンサートホール


 「新しい日常」が謳われ、少しずつ日常を取り戻そうとするこの社会。一方で、コロナ禍にあって、オリンピックも無観客になるなど、なお、以前のような生活を取り戻しきれないのも現状。そんな中、このブログにあっても、ネタを探しあぐねていました。

 もっとも、書けるような演奏会がまったくなかったわけではないものの、予定が合わなかったり、遠方ということでなかなか現地に向かうという時制柄でもなかったり、単に気分が乗らなかったり(そうやって落とした演奏会は、以前にもいくつかありました苦笑)、あるいは自分がオンステしてたり。私としても、まともに聞いた演奏会は、前書いた第九のほかは、器楽だったり、スキマスイッチだったりと、なかなかブログにするようなものでもなかったり。

そんなわけで、客席にフルで座って、まともに「合唱でござい」な演奏会を聞かなくなってかれこれ1年半くらい経っていたようです。でも、せっかく書くからには、なにかセンセーショナルなネタがないかな、とちょっと欲張ってもいたところです。こう、「全国クラスの合唱団がふらっと愛知にやってきて、フルボリュームの演奏会をガッツリ歌い倒していく」ような演奏会。

……ん?「やえ山組愛知公演」……?


……そうだよ、

こういうの待ってたんだよ!


 嘗て「広域指定合唱団青山組」という実に物騒な名前でデビューした合唱団と、そこに感銘をもたらした「やえいシンガーズ」がジョイントする形で発足した合唱団。なんか、もっと昔からあったような気がしましたが、「やえ山組」としては2017年が発足のようです。発足初年度にいきなり全国へ行き、2年目には全国金賞、3年目にはオケを連れて全国へ行く、と、曰く「会場を騒然とさせる」インパクトを常にもたらすこの合唱団(最後のは思い出す限りにおいても間違いなく騒然となったものと思料される)。

 2020年にわたっっても色々と仕込んでいたようですが、コロナでまるっとすっ飛んでしまい、昨年5月からまともに演奏ができていなかったようです。そんな中、「東京で世界的なスポーツ大会ができるなら合唱だってできるはずだ」というなんともヤクザな開催基準のもと、今回の演奏にこぎつけたとのこと。そんな再起の地に、愛知県が選ばれたというのは、実に僥倖というほかありません。個人的に。


・ホールについて

 名古屋から電車で1本、名古屋市営地下鉄鶴舞線と相互直通運転する豊田線の終着地にある豊田市駅からピデストリアンデッキ直通。こう聞くと、名古屋からのアクセスがすごく良いように聞こえるのですが、出不精な名古屋人からはなぜか「遠い」と言われるホールです。アクセスの体感的には、川口リリアとか、宝塚ベガホールとかと同じくらい。……え、遠い?笑 

 どうも見た感じ、このホールで聞いた演奏会をレビューしたことはいくつかあるものの、ホールのレビューを書いたことはないようです。ということからもわかるとおり、何かとプロに愛されるホールです。その理由は、ひとつにはまさにこの響き。1,000人規模のシューボックス型という、少なくとも愛知県においては非常に稀な形態をとっていて、かつシャンデリアやバルコニー等の配置の工夫により、限りなく残響が美しい。聞いていて2秒近い残響だとわかる、それに加えて残る音に雑音がない、まさに、理想的な残り方をしてくれます。

 一方、その響きに甘えていられるかというとそういうことはなく、歌った音は意外とそのまま聞こえてきます。ちょっとミスったり、音圧が低かったり、そういった「ちょっとしたミス」を隠してくれる響き方ではないので、この点、満点の歌い方ができるとものすごく答えてくれるけれども、少しでもミスがあると、それがそのまま跳ね返ってしまうホール。手厳しい。

 ところでなんとなく、このホール、低音が響きづらいような気がしました。気のせい?


 入り口の検問の列がひとつしかないことが災いして、少し入場に手間取ったのは残念。一番最初からいた人を10分経っても捌ききれていなかった、それでいて開場から開演まで30分しかなかったのはさすがに時間制約に厳しいものがあったように感じます。とはいえ、結果オンタイムで開演できていたからいいのかなぁ……。

 このご時世、ホールの3割程埋めました。もともとのキャパと、「遠い」と言われる部分を差っ引けば、十分及第点です。


・歓迎演奏 Ensemble Spicy

三宅悠太「生きる理由」(新川和江)

Pizzetti, Ildebrando “Ulultate, quia prope est dies Domini”

Makor, Andrej “O lux beata Trinitas” (Saint Ambrose)

指揮:藤森徹

ソロ:田村幸代(客演)


 地元で有名な、通称「あんすぱ」。中部金賞を受賞する程度には実力のある団体ですが、団員の入れ替わりが何かと激しい合唱団でも有名(悪い意味ではなく、あくまでそれを是としている合唱団ではありますが)。名称の由来に曰く「練習後にあんかけスパゲッティーを食べることを目的にした合唱団」とのこと。そんなことだろうと思った笑 

 全体として、よく「取れている」という印象。ところどころ発声が乱れる部分があったものの、全体として十分なぞれているし、特に2曲目に関しては、ボリュームもインパクトも十分。逃げずに表現しているな、というのがよく分かる音楽になっていました。ただ、逆に言えば、音楽が「取れている」程度で止まっていたのも事実。1曲目は、この中で唯一コンクールに乗せない曲ということもあったのか、特に声に芯がなくて物足りなかったです。せっかくソロがさわやかに鳴らしているところ、そこに追従しているというよりは、なんとなく合わせに行っている感じが残念。3曲目も、全体として平板に流れていた気がするので、より歌いこんでもいいかなと思います。具体的には、もう少しテンポを落としてもいいかもしれません。

 なんにせよ、もう少し歌い込みが必要だなと思いました。量的にも、質的にも。


組長挨拶ののち、演奏へ。


指揮:岩本達明


1st.

Bach, J.S. “Credo” from “Messe in h-Moll”

1. Credo in unum Deum.

2. Patrem omnipotentem

4. Et incarnatus est

5. Crucifixus

6. Et resurrexit

8. Confiteor

9. Et expecto

オルガン:星野友紀


 この時代の音楽くらいまでは、デュナーミクで感情的に語ると、逆にアンサンブルがバラけてしまうというジレンマを抱えています。逆に言えば、個々の感情表現を抜きにして、音楽だけで語らなくてはならない。この点、いわゆる「心を込めて歌う」と違ったトレーニングが求められ、通常のアマチュア合唱団だと、何もできずに終わってしまうというのが常だったりします。

 この点、なんなら団員の一部がアマチュアとはいえないレベルにもあるこのやえ山組、表現において使うことのできる数少ないポイントをフルに使った素晴らしい演奏でした。早いパッセージの音階取り、多重子音の入れ方、追いかける旋律がどういう動きを以て入っていくか、そして、メロディの見せる自然な起伏――いずれも指揮者がコントロールしきれない音楽のイントネーションを表現していく点、団員ひとりひとりに備わった音楽性が、自然とこの曲を謳わせていくのだなと思いました。

 特に “Et resurrexit” は絶品。どちらかというと技巧的な曲であることは確かな一方、たしかに必要とされる技術的な歌い込みをしっかりこなしながら、表現すべき音楽を確かに鳴らしに行く。それは決して「取りに行く」だけの音楽とは対極をなす、生きた音楽のみせる姿でもありました。

 あえて言うなら、最初のボリュームが小さかった。ホントそれくらいです。


encore.

Bach, J.S. “Dona nobis pacem” Messe h-moll


 この曲であえて注目したいのが、最後の終止。一見あたりまえの音ではあるのですが、音の始まりから終わりまで、自然なピッチで、自然にハモって、それが当たり前に整っていてきれいというのは、当たり前のように思えて、意外とできていない団が多かったりします。整った音が当たり前に出せるということが、こんなに貴重な財産だったのかと、ハッとさせられる音響です。


2st.

Poulenc, Francis “Quatre motets pour un temps de pénitence”

ソロ:田村幸代


 何がすごいって、プーランクにして音に振り回されていないこと。「その先」が確実に見えてくる素晴らしい出来でした。特に1曲目の、緩急の音楽の切り替えが、目の前にしっかり見えてきた点、しかもそれを、技巧を優先して表現しているように見せず、自然にこうあるべきだ、という音楽をあるがまま表現しているのが何より印象的でした。

 否でも、あえていうなら、ベースがもっと張れるとよかったのかなとは思います。多分、ホールのせいなのですが、ベースの響きがホールに吸われてしまって、ベースが見せる独特な跳躍が見えてこず、結果として和声が隠れたという面も、一面にはあるような気もしています。

 とはいえ、アンサンブルの縦が、無理に揃えに行かずとも自然に合っている点、音楽の全体像を全員が(暗黙的にも)共有できている証なのだろうなと思います。

 そして、こういうプーランクだからこそ、前プロ後半という、比較的前半のプログラムでも苦なく聞いていけるのだと思いました。もっとも、このプログラム、この曲がハマるのはここくらいしかないので、この点、非常に緻密に組まれたプログラムともいえます。


インタミ15分。

前半が「洋の対極」的な 音楽を2つ並べたものだとしたら、後半は「和の対極」を2つ並べた音楽。……意識してたんですよね?笑


3st.

間宮芳生「合唱のためのコンポジションI」


 バランスの問題だとは思うのですが。

 作曲家をして「アカデミックな発声ではない表現の追求と、その実験の出発点」と評する、コンポジションシリーズの1曲目。そうであるからにして、「どれくらいアカデミックな発声を抑制するか」というのが、どうしても命題のひとつになります。そして、五線譜に書いてあるからして(でもって、結構協和音が鳴るからにして)、そのバランスは、簡単なようで案外難しい。常にがなっていればそれで成立するわけでもないですからね。

 個人的に、今日の演奏は「キレイすぎる」というのが結論です。特に女声は、もっと崩しに行けたような気がしています。前のステージからして、バッチリハモっていてとてもキレイだったのですが、そして、それも表現としてアリなのですが、この曲の答えが本当にそこにあったのだろうかというのは、少しばかり疑問が残ります。

 いわゆる「アカデミックではない発声」にしても、その表現の大半を「しゃくり」に依存しているようで、第3楽章あたりから、だんだん縦の揃い方が雑になっていったような気がします。この点、こういう日本的な表現の大半をソロに依存していたのもまた真実だったような気がします。

 この点、特にテナーソロは、信じられないくらいハマり役でした。さらに言うなら、この表現のあり方論も、「書くことないから難癖つけたんだろ」と言われてぐうの音もでないくらいには、全体の完成度高かったなぁとは思ってます。天邪鬼ですね、我ながら。


4st.

森田花央里「Song Circle “Japonism and Jazz” for mixed chorus and piano

ピアノ:森田花央里

マラカス:大野和仁


 コンチェルトよろしく、ピアノが最前にオーダー。否、コンチェルトでも、ピアノが指揮者より前に出ることってあんまりないか。指揮者が後ろに来るので、合唱団は人によっては指揮の見えないところにオーダーしていることも。よくやるなぁ笑

 編曲初演は東混。それ以来の「出版記念」再演。ピアノが作り出すジャズ的なグルーヴの中に、日本の歌謡がそのまま入り込む感じ。逆に言えば、日本語の歌曲・民謡が「いよっ!」と合わせに行っているところに、ジャズのグルーブを入れ込んで、結果一つにしている感じ。しかも、それが無意識に渾然一体としているのだから、聞き手としては驚くばかりです。最も、聞くに易し、歌うに難しというタイプの典型的な曲で、歌い手からしたら、ピアノを聞きすぎていると、何を歌っているのかわからず振り回されてしまいそうな曲です。

 とはいえ、この点、それぞれが確固たる音楽を持っているやえ山組の団員にしては、特段の障害にならなかったようです。象徴には、スウィングで聞かせる4曲目「鶴崎踊り」のフィンガースナップ。見た目だけの問題に限らず、スナップのタイミング以外、驚くほどバラバラ。それが、逆に、この曲の雰囲気を見事に作り出している。全員がバラバラに鳴らした音楽が、どこにたどり着くのかをよく見通した、アンサンブルの本質を見せられた素晴らしい演奏でした。

 もっとも、最後「八木節」のお手盛り感はちょっとなぁ笑 お祭り囃子そのままに、やりたい放題感が出ていること自体はいいものの、少しざわつきすぎていたような気がしないでもないです。……まぁいいか笑


encore. (with Ensemble Spicy)

三善晃「地球へのピクニック」(谷川俊太郎)


 このご時世、ジョイントして、この曲にたどり着くという事自体が、まこと大団円です。「ここでただいまを言い続けよう/おまえがお帰りなさいをくり返す間」という歌詞が、ここまで象徴的に響くなんて。まさにこの時期にふさわしいアンコールだったなぁと思います。全体的に音の出方が後押しでしたが、まぁ、そこはご愛嬌――。

 ああでも、アンサンブルのピッチが最後に行くにつれて下がらず寧ろ上がっていったのは、なかなか名古屋では見られない光景で、とても良かったなぁと思います笑


 最後は規制退場。あまりに皆さんなれてきたのか、終演しても誰も立たない。順応力すごいな笑


・まとめ

 「新しい日常」について心から考えさせられた演奏会でした。

 このコロナ禍において、合唱活動は、間違いなく「やりづらく」なりました。飛沫拡散防止を気にするために、少なくともオーダーは自由ではなくなり、感染対策の観点でマスクをするため(考え方は分かれるところですが)、子音処理のための口唇及び舌根の動作に少なからぬ障害が発生することとなりました。そして何より、この「合唱はコロナを拡散する」という噂。早くにクラスターが発生したことから、必ずしも間違いではないものの、他の活動と比べ不当に冷ややかな目線を受けていることもまた間違いではありません。

 なにより、合唱であるにしろないにしろ、「(仕事以外で)外へ出る」という事自体に、とても冷ややかな目線が向けられることとなりました。この点、私のようにそこらへんへでかけては合唱聞いてレビューを書くという奇特な趣味をしている人にとって、少なからぬ障害でもありました。ただでさえ演奏会が少なくなったところ、その演奏会に行くこと自体がはばかられる、そして、そのことが当たり前になってしまい、気付けば、演奏会情報を漁る回数が極端に減った私がいました。

 今や「合唱をやるな」という声は少なくなってきました。その一方で、当初言われていた「合唱をやるな」という強いメッセージが、今も私達の尾を精神的に引っ張っているのは、疑いようのない事実でもあります。


 でも、今日の演奏会を聞いて、私達(私だけかもしれない)、なにか、勘違いしているような気がしました。「新しい日常」というとき、アウトプットされるべきものは、あくまで「日常」です。それは、なにか、大きな敵の前に恐れおののき、ビクビクとかろうじてひょっこり顔を出すようなものではなく、私達がこれまでやっていたような、ガツガツと自己表現に耽り、そこに悲喜こもごも様々な感情を相混ぜにしながら、ときに笑い、ときに涙し、そしてともに拍手喝采する、そんなものであるのだと思います。

 確かに、社会的要請により行動の変容を求められる場面は以前より遥かに増えました。ただ一方で、私達が表現し、受容するもの、そのキャパシティは、なにも以前と変わってはいないはずなのです(体力は些か落ちたなぁと最近感じますが、たぶん歳のせいでしょう)。それなのに、「コロナ禍だから」という金科玉条に、私達はややもすると、甘えてしまっているのかもしれません。

 少なくとも、気概と態度については、かくあるべきというものを感じさせられました。なにせ、この演奏会、このやえ山組、コロナ禍の様々な演奏と比べて全く遜色のないものでした。プログラムも、複雑かつ難易度の高いもので、演奏の質も、個人の技量がこれでもかと反映されて、間違いなく高いものでした。もっとも、私がやえ山組を聞くのは今日がはじめての機会でしたが、そんなことどうだっていいくらい、今日のやえ山組は素晴らしい演奏を聞かせてくれました。

 間違いなく言えるのは、このコロナ禍、やえ山組は、できる限界ギリギリのことを無事にやってのけたということです。少なくともこの演奏を前にしては、演奏の質そのものに関しては、この後2週間の感染状況なんて「どうでもいい」(それとこれとは別の話です)。これが、やえ山組が私達に見せてくれた「新しい日常」の音楽です。


 なにより、こうやって、ひとつひとつの日常を限界まで取り返していくことで、私達は、前に進んでいくのだと、そんなことを、心から思いました。噂に聞く限り、今後、到底コロナ禍とは思えないプログラムを引っさげて演奏会を迎える団体が、これでもかと現れてくるようです。私ももっと、頑張らないとなと思いました。


 否しかし、開演前に「演奏後のブラボーはご遠慮ください」とアナウンスを入れていて、たしかにそのとおりでも、自分からいうのもなんかなぁ、と思わず失笑していたところ。まさか、本当にブラボーを必死に飲み込むことになりますとは。