おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2016年5月29日日曜日

【The King's Singers 豊田公演】

2016年5月29日(日)於 豊田市コンサートホール
29. May. 2016 (SUN) at Toyota-City Concert Hall (Aichi, Japan)
(Japanese only)

Singers:
David Hurley, Timothy Wayne-Wright, Julian Gregory, Christopher Gabbitas, Christopher Bruerton, and Jonathan  Howard

[Opening]
Peter Louis van Dijk "Horizons"

[Postcards from North America]
Trad. Canadian(arr. Bob Chilcott) "Feller from Fortune"
Armando Manzanero(arr. Miguel Esteban) "Contigo Aprendi"(Mexico)

Elena Kats-Chernin "Where Clouds Descend"(from "River's Lament")

[Postcards from Europe]
Trad. French(arr. Goff Richards) "Le Baylere"
Modugno/Milliacci(arr. Robert Rice) "Nel blu dipinto di blu (Volare)"(Italy)

Elena Kats-Chernin "The Mighty Thoroughfare"(from "River's Lament")

[Postcards from Japan]
arr. Bill Ives "Scenes of Japan"
"Don Pan Song(ドンパン節)"
"Sado Island lament(佐渡おけさ)"
"Taleda Lullaby(竹田の子守唄)"

Elena Kats-Chernin "Diminished"(from "River's Lament")

[Two English Folksongs]
Trad.(arr. Bob Chilcott) "Greensleeves"
Trad.(arr. Carrington) "Scarborough Fair"

Elena Kats-Chernin "Sacred Water, Healing Balm"(from "River's Lament")

[Postcards from South America]
Enrique Espín Yépez(arr. Miguel Esteban) "Pasional"(Ecuador)
Zequinha de Abreu(arr. Miguel Esteban) "Tico Tico no Fuba"(Brazil)

int. 20min

[Beatles]

"When I'm Sixty Four"(arr. Paul Hart)
"And I love her"(arr. Bob Chilcott)
"Honey Pie"(arr. Paul Hart)
"Yesterday"(arr. Bob Chilcott)

[Five American Classics]
Cole Porter(arr. Alexander L'Estrange) "Begin the beguine"
Harold Arlen(arr. Alexander L'Estrange) "I've got the world on a string"
Cole Porter(arr. Alexander L'Estrange) "Night and Day"
Mack Gordon, Harry Warren(arr. Alexander L'Estrange) "At Last"
Cole Porter(arr. Alexander L'Estrange) "Let's misbehave"

[encore]
Beatles "Penny Lane"
Trad. Ireland "Danny Boy"

---

「表現をつける」こと、あるいはその方法について、しばしば議論となることがある。極論から始めるならば、midi 音源やボーカロイドならば、(デュナーミクについて何も弄らない場合)音価・音程以上に表現が深化する事はありえない。そこにあるのは、あくまで五線上に乗せられたメロディや和声のみであり、そこに見出される機能的意味は、作曲家がもたらした旋律的、和声的表現から導き出されるものの範疇を出ることはない。
 そこから一段飛び越えた表現をするには、どんな形にせよ、なんらかの人間的思考が必要である。「初音ミクのような演奏をするな」、まさにその所以である(些かボーカロイドに対する無理解を感じないでもないが、それはこの際措いておこう)。十分に余裕を以て音律を追うことの出来る合唱団にとっての主戦場は、まさにその、人間的思考による音楽表現のフィールドにある。そこで、人間は立ち止まる。人間的表現は、必ずしも、人間が自然に思いつく表現の域のみに留まらないからだ。

 音楽における表現の付け方には、幅広い手法がある。特に、そのとっつきやすさもあって、言葉や歌詩の問題は、教育現場からアマチュア合唱団、もちろんプロに至るまで多くの場所で論じられる問題である。その中でももっともわかりやすい手法は、「そういう場所ではそういう音を出す」という方法である。楽しい場所では楽しい音を、悲しい場所では悲しい音を出す、そういった表現はとてもわかりやすく、そして、あっという間に、表現できたような気にさせてもらえる。
 スマホゲームの絡みで「射幸心」という言葉が流行ったが、この手の表現手法は、まさに、そんな言葉がよく似合う表現手法でもある。確かに、そのような表現がうまくいくような曲というのは世の中に沢山ある。「旅立ちの日に」などは、その典型だ。ただ一方で、森山直太朗「虹」のような曲は、そのような言葉に対応した表現ではカバーしきれない要素が存在している。「喜びと悲しみの間に 束の間という時があり」と歌った時に、いちいち喜ばしい声と悲しみの声、さらにその中間の声(?)を出してみたところで、この部分の表現はうまくいかない。例えばこのような部分でもっとも表現しなければならないことのひとつのは、そういった情動の中に潜む一種の虚無感、やるせなさといった感情であり、決して、個々の「喜びと悲しみ」ではない。すると、むしろ、言葉に照応するような表現というのは邪魔にすらなってしまう。

 表現をつけることが邪魔なのではない。付け方の問題だ。全体の絡みの中で、どのような表現をしていくべきか。少なくとも音楽の表現としては、マクロからミクロを眺めないことにはまともな表現は適わない。ストーリーを伝える上で伏線を張ることにより表現効果が増していくこともあるように、音楽においても、スポットだけでなく全体を見据えることで広がる表現は、音楽が、現前する音表現を超えて、視覚的効果をも生み出しうる。
 5年ぶりの豊田公演となったキングス・シンガースにあっても、そのようなマクロ的表現がよく冴え渡っていた。ただでさえ歌える集団である。もちろん、さらっと楽譜通りに歌っても十分聴くことの出来る演奏が聞かれることだろう。しかし、よく歌え、よくハモる声は、それだけだと本当に無機質に、いうなれば「固く」聞こえてしまう。単にデュナーミクをつけたりするだけでもそうだ(そして、そんなことは、おそらく本人たちが一番よく知っている)。
 1曲目「地平線」から、この日のキングスはやはり冴え渡っていた。失われた民族に対する賛美と、憂い、それを表現するには、単に言葉尻を掴んで表現するには軽すぎる。彼らが住んだ南アフリカ・ケープの大地の、どこまでも広がる地平線を、その風景と、過ごした自然と、営まれた生活を、すべてを包容する「horizons」――その言葉を効果的に聴かせるためには、「horizons」という言葉のみを表現するだけでは適わない。その前の静けさと躍動、すべての表現を、「horizons」の解釈に捧げなければならない。1曲目に相応しい、さわやかな、しかし、本当に深い音楽は、もっとも異色な音画的プログラムにして、この演奏会の象徴である。
 世界各地域からの「ポストカード」としてまとめられた今回前半のプログラムは、世界中で演奏を重ねるこの団ならではのプログラムといえるだろう。「グリーンスリーブス」「スカボロー・フェア」といった、耳馴染みのあり、味わい深く聴かせるイギリス民謡はもちろんのこと、「ヴォラーレ」におけるイタリア風情、「チコ・チコ・ノ・フバー」におけるラテンの明るい雰囲気など、表現の引き出しの豊かさをこれでもかという程魅せつけられた。日本語曲にしてもそうだが、英語以外の表現について、正直、英語訛りを感じないこともない。しかし、例えば「ヴォラーレ」に関しては、その表現をして、見事に言葉の壁を超えてみせた。そこに広がっていたのは、確かにイタリアの風景であり、イタリアの音楽である。例えばリズムであったり、ビートであったりといった点は、言葉の問題をカバーする上で最重要事項でもある。
 この演奏会前半にあっては、それぞれの地域の「ポストカード」の間にカッツ=チェルニン『川の嘆き』が1曲ずつ挿入され、演奏会全体で1つの組曲が演奏された。いわば各地域をまたぐクリークとして、また、各地域を隔てる「大河」として、アイスブレイク的に挟まれながら大きな組曲を聴く感覚。普段なかなか用いられないプログラム編成であり、しかし、とても効果的に演奏された4曲であった。
 後半は定番レパートリーを、豊田市コンサートホールの名物・パイプオルガンをピンク照明で染めた、叙情的な雰囲気の中で演奏した。ゆったりとしたナンバーもさることながら、今日は、リズミカルなパートが冴え渡っていた。カズーも入れて演奏された「ハニー・パイ」は特に会場を盛り上げた。演奏会は、曲を追うごとに、後ろ髪を引かれるように、拍手を強め、そして、軽く、明るく、雰囲気のままに歌われる演奏は盛り上がりを強めていく。彼らが住んでいる場所で、彼らが住んでいる中で、自然に歌われている曲たちと、それを再現するように演奏されるアメリカの曲達は、いわば、奏されることそのものが表現といって差し支えないものである。生活に、人生に染み付いた音楽は、もはや、合わせるだけで、その風景をも導き出すような表現である。アンコールの「ダニー・ボーイ」など、嘗て当方が自団で演奏したアレンジだが、同じ曲を演奏しているとは思えない程の完成度だった。

 当たり前の話だが、彼らはプロである。プロである以上、同じ曲を何度も演奏する機会は多い。まして、彼らはツアー中の身である。少しプログラムを入れ替えたとしても、同プログラムの演奏会数は想像できない程に多い。その中にあって、気持ちのみに頼った表現は、長続きするわけではない。気持ちは、必ず途切れる。しかし、彼らは、今後も気丈に、全国に、世界に、「ポストカード」を届け続ける。ただいちどきり、そのホールのみで読むことのできるポストカードを。
 音楽における思いの乗せ方は様々だ。そして、音楽は、必ずその人のもとで再構成される。その音楽の最大の基準点が何処にあるかを見極めるのは、決して容易な作業ではないし、小手先のとっかかりのみでどうにかなるような話ではない。熟考の果てに生み出された、有機的な繋がりをもった「一連の」表現のもとに生み出される音楽は、衆目にあっては、あっさりと聞こえることも確かにあろう。しかし、その表現は寧ろ、「そこにある」ことを自明視される程、自然に、しかし存在感を以てその演奏を現前させているものだとしたら――音楽の最終解釈者は、彼らの前に待つ何千、何万の聴衆である。

 演奏の記憶は、世界中から寄せられた爽やかな風となって、確かに、私の中に吹き渡る。