おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2016年9月19日月曜日

【Ensemble Musicus 第1回演奏会】

2016年9月19日(月・祝)於 右京ふれあい文化会館

ってのはともかく笑 今回は、よどこんの日程すら調べずにこちらのチケットを取っていたのでした←
さて、訪れましたはアンサンブル・ムジクス。今日のご挨拶で愚痴って(?)おられましたが、なかなか綴ると名前を正しく呼んでもらえないとかなんとか笑 正しく呼んで、ムジクス、ですからね!笑
16人による小さなアンサンブルの、記念すべき第1回演奏会。しかし、団としての歴史は決して浅くなく、2008年12月創団。なんでもプロフィルによると、「社会学者マルセル・モースによって定義された「身体技法」としての合唱音楽の研究・実践を目指し、京大合唱団 OB・OG・現役生有志から結成」とある。何やら危なげな(←)ことが書かれていますが、モース「身体技法」も実在する社会学者・学説で、身体を道具的に利用する方法についての議論とのこと。詳しくは各々調べるなり文献当たるなりしていただければと……笑 とはいえ、技術的な探究については飽くことなく革新を続けている団のようで、「日本語ユース・クワイア」といってご存知の方もおみえでしょう、その主宰をするのは、何を隠そう、この団です。その他関西コンクール金賞、宝塚フォークロア・近現代銀賞など、受賞歴も多数。
単独演奏会こそこれまでなかったものの、委嘱演奏も多く、なんでも月イチで演奏機会を持っているという、アマチュアにして異色の同団。2015年にメンバー再編を行い、新しい風も多く入ってくる中、ついに新規団員からの突き上げに堪えきれなくなり(だってそう言ってたんだもん笑)、第1回演奏会開催。FBでその存在を知ったわたべ、チケットフォームも出来る前から予約していました。とはいえ、演奏を聞いた機会はゼロ。じゃあどうして行こうと思ったか?……直感!笑

・ホールについて
久々に関西で新ホール開拓。どうしても関西を離れてから、関西の演奏会行くことは減りましたからね。トートロジーですね笑
京都駅の離れ小島・嵯峨野線ホームから電車で10分。JR花園駅が最寄りです。っていうと、結構アクセス良さそうじゃないですか? でもね、この電車、20分に1本しか来ないの……w 本数という意味では、地下鉄東西線や嵐電を使ったほうがいいかもしれません。駅前何もないし←
さて、ホールは、駅から歩いて5分ばかし。キャパ500人くらいのホールです。ちょと横幅を大きく取った文化小劇場、というと、名古屋の人には通りがいいでしょうか。あるいは、ちょっと狭いアクアホールというべきか。ただ、打ちっぱなしコンクリ柱と明るめの木の内装、白い天井に多目的ホール向け反響板と、やたらでかいマイク用スピーカー。雰囲気は、モロに文化小劇場なんですよ……新し目の公共ホールといえばちょうどいいかしら。まさに、そのオーソドックスをついています。なんたって、開演前ブザーは久々の、倍音豊かな「b-------------!!」だし笑 あえて言えば、客席真ん中あたりにある通路前の壁の前にも客席が作ってあるっていうのは、かなり特徴的なような気はします。あと、客席は暗めかしら?
で、響きなんですが、こちらも、ご多分に漏れず、といったところ。響きがステージ側でこもります。聞いてるとだんだん慣れてくるんですが、若干、飛んでこないなぁ、という印象を露骨に受ける。残響時間も少ない。しかも、ステージ内で若干反響を拾うので、そのせいでほんの僅かに音が濁ります。まさに多目的ホールの典型的な響き。まぁとはいえ、ピアノはスタインウェイだし、極端に邪魔になる響きというわけでもないので、まさに、多目的、という意味では、なんにでも使えるホールです。
今日の集客は7割。大阪の対抗馬が結構な強敵な中、期待の高さが伺えます。

第1ステージ 現代無伴奏宗教曲選
Sisask, Urmas “Benedictio”
Kverno, Trond “Ave Maris Stella”
Gjeilo, Ola “Nothern Lights”
Penderecki, Krystof “O Gloriosa Virginum”

戦後の作品で固められた選曲。何より、この選曲の良さが光るところ。自己紹介とばかり、システマティックな作品で攻め立てます。その意味、身体技法的たるムジクスの特色が活かされるステージであります。
実際のところ、関西でしっかり歌う団だけあって、音はしっかり当たる。聴くには十分なアンサンブルです。丁寧にまとめる、まずその点で、このアンサンブルの実力は十分見えてくる。そして、一人ひとりがしっかり歌う能力を持っているアンサンブルなだけあって、響きの安定さには目をみはるものがあります。全体をして、少人数なのに、大人数を聞いているようなスケール感。特に、弱音。ピアノになってもダレることが無い。安心して聞く事の出来るアンサンブルです。
しかし一方で、このステージが皮肉にも、全体を通して、このアンサンブルのネガティブな点をも活写することとなりました。確かに、とても気持ちよく聴くことが出来る、そして、各個が歌うことのできる優秀なアンサンブルなのですが、それ以上の表現というのが、とても淡白に収まってしまった。特にこの時代の北欧サウンドは、楽曲のフレームがとてもしっかりしていて、とりあえずそのフレームさえなぞることができればある程度作品が出来上がるという構造を持っているだけあって、それぞれのフレーズをかなり意識的に作り上げていかないと、ただ淡白に音楽が進むだけという、かなり皮肉な状態に。例えば、シサスク「祝福」のカデンツァは結構壮大なのですが、その華々しさが少しくすんでしまったような感じがします。各パートに委ねられたダイナミクスの表現は割と成功しやすいのですが、指揮者が居ない弊害と言ってしまえば簡単か、tutti でのダイナミック・レンジが狭いと言わざるを得ないところでした。

第2ステージ
木下牧子・混声合唱組曲『方舟』(大岡信)
ピアノ:木下亜子(客演)

団が事前に宣伝していたとおり、冷静に考えて意味の分からない企画笑 この曲は、16人でやる曲でもなければ指揮なしでやる曲でもない笑 木下亜子先生をして恐れおののいた(意訳)という、よく言えば意欲的な挑戦です笑
ただ、これも結局、上と同じ、という感想になってしまうのがとても残念なのです。もちろん(それはそれで信じられないんだけど)、楽曲としては十分完成していました。何より、全開のピアノに負けないだけの音量を鳴らしているのはお見事。木下先生だって挑戦しているんでしょうけど、それにしても、双方とも割とちゃんと鳴らしていたイメージ。アンサンブルとしても、本当お見事で、「方舟」の中間部など、ソルフェージュ的な部分については聴き応え十分の逸品でした。その点に関しては間違いなく一級品なんです。ただ、だからこそ、淡々とアンサンブルが流れていった印象なのは、本当に惜しいという一言。木下牧子も、縦の構造を中心として、フレームがしっかりしている=和音をひとつひとつ鳴らしていくイメージ。合唱が緩急をつけて歌曲的に歌うことも少ないので、ひとつひとつの音をハメていけば、それだけで完成してしまう。特にこの団、そういう曲になると、途端にハメに行く傾向がありそうです。賢い団だと思うんです。学歴とかそういう問題じゃなくて、アタマで考えていく、とても賢いアンサンブルをしている。でも、だからこそ陥りやすい誤謬にハマってしまっているような気がします。リテラシーのみで音楽をやることによる限界というのが、どうしても見えて透けるのです。
アンサンブルを進める能力というのは、とても素晴らしい能力なんです。何より、曲の完成するスピードは格段に早まる。それはそれで、必須教養のひとつです。しかし、それに依存しすぎると、逆説的に、音楽が置き去りになってしまう――現代のアマチュア合唱団共通の課題のような気がしてなりません。

インタミ20分。いやぁしかし、それこそ、これまで溜め込んできたものの積み重ねと言うべきか、プログラムノートが非常に素晴らしい。B4の2つ折り4ページなのに、ひとことひとことが本当に格調高い。
やたら批判ばかり重ねているようですが、これまでも、十分良かったんです。賢い、あるいは、理知的、という意味で、ここまでのアンサンブルは、とてもよく整理された、非常にわかりやすい音が鳴っていたんです。すごくわかりやすい。こういうアンサンブルが出来る団は、それこそ、なかなかないように思います。イヤ、ホント、お世辞じゃないんだってば笑 どっちかっていうと、求めすぎているといったほうが正しいのかも。

第3ステージ アカペラ・セレクション
Edenroth, Anders “Words”[The Real Group]
Makaroff, Mia “Armottoman”[Rajaton]
Edenroth, Anders “Pass Me The Jazz”[The Real Group]
Sariola, Solia “Surma juoksi suota myöten”[Rajaton]
Edenroth, Anders and Matti Kallio “Nordic Polska”[LEVELELEVEN]

で、問題は、このステージです。――否、ちゃいますねん、このステージ、お世辞抜きに、最高だった!
フレームを組み立てる、という意味では、この系統のアンサンブルグループのレパートリーは顕著なものがあります。キングスやトライトーンの系統とも違うんだと思っていますが、楽曲ごとの構造にしっかり落とし込んでいくことで、アンサンブルが整理され、完成されていくというスタイル。そして、重要なのが、これらの楽曲がポップスであるということ。良くも悪くも、ダイナミクスにそこまで気を遣わなくても、それだけで十分、聞かせることのできる楽曲が組み上がるんです。
地力のあるアンサンブルです。フレームに対する咀嚼の力と、そもそものアンサンブル能力、そして歌唱力。とても骨太かつグルーヴィーな、しかし軽いアンサンブル。まさに、この団のやりたいアンサンブルはここにあったのかしら、と思わされる出来。もう、1曲目から最後まで、ワクワクしぱなっしで、いったいいつブラヴォーしようかしらと思いながら聞いていました(結局は、最後の曲がブラヴォーいう感じでもないので、拍手で終わったのですが……笑)。この団の技術的なポテンシャルが余すこと無く発揮された名演中の名演。最近、ジャパンツアーも多く、アマチュア団でもこれらのアンサンブルのカヴァーって割と流行っているんじゃないかと思いますが、この団、これまで聞いてきた中では、少なくともピカイチです。このステージだけをして、この演奏会聞きに来る価値あった、と確信させられたくらいの快演でした。
ちなみに、衣装は、女声はトロピカルチックな藍色花柄ワンピース、男声はおよそ石田純一(コラ)。曰く、「半年前から考えて、通販とユニクロを駆使して手に入れた」ものだそう笑

お着替えの時間に「これより舞台転換のため、5分程度のお時間をいただきます」。お召替えの結果、女声黒ワンピース、男声黒礼服蝶ネクタイと相成りました。本山先生のステージで小林秀雄となれば、まさに、さもありなんな格好笑

第4ステージ
小林秀雄・混声合唱曲集『優しき歌』(立原道造)
指揮:本山秀毅(客演)

そして、ボクは、コレを待っていたのです! 否、たしかに、本山先生は愛知県界隈で今年特にお世話になった先生ですし、プロとしてホンモノの音楽のもっとも近いところにいて、そしてそれを私たちに伝導してくださるマエストロの一人です。でも、それだけじゃない。この団の前半の演奏を聞いて、逆に、この団と、本山先生が出会ったときの音というのを、とても楽しみにしていました。そして、待っていた音が、やってきた。まさに、この団の前半に足りなかったのは、この要素なんです。アンサンブルの、言葉の、旋律の有機性。フレームのみで語られていた音楽が、生きた輝きをもって、この場に音楽として降り立つ瞬間。ハメるだけの音楽だったとしたら、延々とカデンツが進行していく和声練習のような状態になりそうなところ、それに音楽的な輝きを与えた瞬間! 声という楽器も、前半では見られなかったような色彩豊かなものが並び、日本語も、特に二曲目、正直方舟では淡白で聞こえづらかったところ、香り立つような小林秀雄の表現も手助けして、まるで目の前にまるごと広がっているような美しさを見せてくれました。そうです、ボクは、こういう音楽を聴きたかったのです。よさとよさの融合、化学反応。いぶし銀のプログラムにして、満足の演奏です。

・encore
Rajaton “Butterfly”
- a cappella ensemble
木下牧子「そのひとがうたうとき」
指揮:本山秀毅
ピアノ:木下亜子

アンコールも、言わずもがな。Butterfly もさることながら、白眉たるは、「そのひとがうたうとき」。この曲こそ、まさに、ダラダラ演奏したらとことん淡白になるのですが、こんなに情感豊かに響く同曲を聞いたのは初めて。劇的という意味では松下耕作曲のもののほうが好きだった、というのが個人的な本音ですが、この曲を聴く耳が変わりました。正直。とても良い締めくくりに、誰よりも長く拍手をしていたのでした。

アンコールの曲間に曰く「こんな変わったことやっている団がいるんだな、と、名前だけでも覚えて帰ってくれたら」との代表の言葉。

・まとめ
否むしろ、その存在感を示すに十分な演奏会だったといえるのではないでしょうか。前半でこそ、その淡白さに不安になることこそありましたが、後半は特に圧巻の出来。実績に違わず、一流アマチュア団としての実力の片鱗を十分に見せつけられた「単独公演デビュー」となっていたように思います。名古屋から「発掘」しに来た甲斐がありましたよ、まったく!w
この演奏会でははからずも、合唱、ひいては音楽における限界と、限界の超克=ブレイクスルーのあり方について思いを馳せる結果となりました。ここではそれを、「音楽のフレーム問題」とでも名付けたいとおもいます。ちなみに、この前の「身体性」の議論は、割と元の議論を置き去りにして進めたものですが、これは、むしろ元の議論にそこそこ忠実に進めていくものです笑
クラシック音楽において範となるのは、なにより楽譜です。そして、クラシック音楽の流れを引き継ぐ音楽も、やはり楽譜を基本として進められます。作曲時にコードを当てることこそあれ、基本的には記譜されたものをいかに再現するかという点に砕身することになります。それは、このジャンルの音楽に身をおくものとして、ひとつの公理といえるようなものです。事実どうかはなんとも言えない点もありますが、いわゆるコンクールと呼ばれる場では、採点しやすいこともあってか、楽譜に忠実に演奏することが何より必勝法である、という言い方がよくなされています。
それもそれで、音楽のひとつの姿です。しかし、一方で、音楽は、それだけではない。楽譜を忠実に再現する以上のことが、演奏会、ひいては音楽の表現一般においてはしばしば求められることがあります。そこにおいては、ある意味、楽譜に書いていないことも表現する必要が出てくる。決して、何やら感情を込めろとか、そういったことをいうのでもなく、たとえば、フレーズの終端なんて基本的には楽譜に明示的には書いてないですし(書いてあることもあるんだけど笑)、まして、そのフレーズをどの程度の厚みで、どのような収め方で表現せよ、ということは書いてありません。そして、フレーズで話を続ければ、そのフレーズがどの和音に接続し、終止するのかしないのか、そのフレーズ全体でどのような和声を展開していて、今後どのようなベクトルでそのフレーズを繋いでいけばよいのか、ということは、結局、人間の表現に委ねられます。
「初音ミク的な合唱」という言説が象徴的です。「フレーム問題」とは、ざっくりいえば「機械が超克できない解釈的課題の存在/またそれに対する機械による解決法、およびその不存在性」を指しています。初音ミクだけでは超えることの出来ない表現の壁というのが、たしかに存在している。人間がインプットしないと(いまのところ)表現が出来ない、という根本的な課題。ピッチや調律、あるいはカデンツの組み方など、仮に乱数で機械に音楽を編ませるにしても、そういった原則論を定義付けしてやらないことには、善悪の判断が出来ないわけです(そして、アトランダムな音楽なら、逆説的には、人間にだって編めてしまうのです)。
音楽を再現するという場にあっても、人間が、上記のような、例えばフレージングとか、語頭の位置とか、そういった諸々の情報をインプットしてやらないことには、音楽が音楽らしく立ち現れてこないわけです。これは個人的な解釈ですが、アンドロイドにおける「不気味の谷」も、同じ場所に課題を置いているのではないかと思います。インプットが不十分だから、不自然に見える、聞こえる。そして、その課題は、完成に向かいこそすれ、延々に漸近するばかりで、終着点にはたどり着かないのではないか、といまのところされている。
逆説的に、人間が音楽を再現する場にあってもなお、その事実を直視しなければならないのです。機能的な音楽というのは、たしかに便利で、そこに追いつく技量さえあれば、音楽がある程度形として現れてきます。しかし、その先にたどり着こうと思うなら、人間が機能的に作ったものでも必ずにじみ出る僅かな差分をコントロールするという、非常に繊細な課題について真剣に考える必要があるのだと思います。
前半、ムジクスは、非常に機能的な合唱に徹していました。しかし、そこにあって、この団は「音楽のフレーム問題」にぶち当たっていた。そして、アンサンブルステージで、その課題を、おそらく勝手に滲み出たところから超克するに至り、最終ステージの本山先生による導きを通じて、最終的に、「音楽のフレーム問題」に対する解決の糸口を見出した――人間をしてしか、「音楽のフレーム問題」を解決することは出来ないのだと思います。
記譜を基本にした音楽をしていく我々にあって、これは、おそらく延々闘い続ける課題となるのだと思います。しかし、それだからこそ、この団は、伸びしろがある。機能的課題は解決した。では、フレーム問題はどうだ。閉じた問題領域から逸脱するには、革新的なアイディアが必要、そのアイディアの種はそして、ムジクスのように、しっかりと機能的課題を克服した団によって見つけられたとき、驚くほど素晴らしい世界を開拓するのだと思います。

・メシーコール
JR花園駅前「Cucina naturalismo Da Naoya」
さて、花園駅前なんですが、以前の安土駅もビックリなくらい、駅前に何もありません。否寧ろ、安土駅のことを思えば、スーパーもコンビニもふぐ料理店もあるじゃないかって話なんですが、たとえば今は亡き(!)いたみホール前のミスドみたいな、落ち着いて居座ることの出来る場所は確かに少ない。京都なのに。困った。というところに見えたイタリア国旗。食べ物屋だ。でも店の前を見るとマクロビとある。自分みたいに食が太い人間には物足りないなんて思っちゃうのだろうか……などと逡巡した挙句、でも、ここしかないしな、ということで入店。お昼のセットは三種類。そのうちの一番安い、パスタ、パン、サラダ、ドリンクのセットを注文。時間もなかったしね。
結果。
スンマセン、
マクロビ舐めてました。
否、うまいのなんのって。品数の多いミックスサラダの、素材の味わいと薄味ドレッシングのいい「塩梅」、さらに天然酵母パンの、しっかりと主張しながらもどんどん食べられるあっさりさ、そしてソースともよく馴染み日和らないその食味。さらにパスタは、釜から揚げたてよろしく、湯気を立てた状態でやってくる。そこにかかったソースは、オリーブオイルと少しの塩味、それと白身魚、トマト、九条ねぎの素材の味で食わせ、食味の豊かさから口寂しくもない……なるほど、これがマクロビ食の魅力か。さすがに毎日というと、ちょっとした精進料理状態ですが、美味しいもののうちの選択肢としては全然あり。いやあ、穴場店って、他の店の近くには無いもんですね。勉強になりました。演奏もろとも。
ちなみにこの店、ドリンクではワインの選択も可能です。自分は今回はエスプレッソで。あの時お酒飲んでたらどうなってたんだろう……(遠い目

2016年9月4日日曜日

【びわ湖ホール声楽アンサンブル第61回定期公演】

[“美しく楽しい合唱曲”の午後]
2016年9月3日(土)於 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール 

指揮:田中信昭
ピアノ:中嶋香*

Cantus Gregorianus(グレゴリオ聖歌)from Missa in Dominica Resurretionis
“Introitus: Resurréxi”
“Graduale: Haec dies”
“Sequentia: Victimae pascháli”

Poulenc, Francis: Quatre Motets pour le Temps de Noël 
“O magnum mysterium”
“Quem vidistis pastores dicite”
“Videntes stellam”
“Hodie Christus natus est”

Messiaen, Oivier “O sácrum convívium!” (Thomas Aquinas)

Debussy, Claude: Trois Chansons de Chareles d’Orléans
“Dieu! qu’il la fait bon regarder”
“Quant j’ai ouy le tabourin”
“Yver, vous n’estes qu’in villain”

int. 15min

林光・『月 わたし 風』混声合唱とピアノのために(宗左近)*
「ながらえば」
「日が落ちた」
「月がある」
「この世は暗い」

三善晃・混声合唱とピアノのための『ゆったて哀歌集』(五木寛之)*
「あーうんの子守歌」
「ふるさとの丘」
「てのひらは黙っている」
「鳥の歌」

三善晃・「生きる」―ピアノのための無窮連投による―(谷川俊太郎)*

en. イギリス民謡「ロンドンデリーの歌」

***

 住宅街のはずれ、文字通り琵琶湖のほとりに位置するびわ湖ホールは、琵琶湖を埋め立てた上に建設されたという。びわ湖ホールを中心として広がる町並みは、バブルも終わった1998年にして、新時代の到来を予感させる。箱モノと批判すればそこまでなのだが、少なくとも、県立たるびわ湖ホールに関しては、その批判は当たるまい。オペラ公演が可能な大ホールをはじめとして、大・中・小の三種類が用意されているホールは、非常に優秀な音楽ホール群にして、県民の憩いの場としての機能も十分に構成しているといえよう。
 なかでも小ホールは、客席規模が250席ほどしかない小さめなホールだ。構造も、細木が組まれた壁と、白塗りの天井が波打つ以外は、所謂長方形のシンプルなシューボックス。決して飾らない意匠の中に、反り立つ壁のようにして反響板が立つ。しかし、室内楽やソロを演るにはまたとない好環境で、おそらく、どこで聴いても良好な響きが得られるホールなのではなかろうかと思われる。壁に投影されていたホールオフィシャルスポンサー2社(叶匠壽庵、平和堂)のロゴが消え、団員と、なおもその威光を絶やさない客演指揮・田中信昭の入場が終わり、演奏が始まる。

 一般的には少ないと思われがちなプロの合唱団は、あたりを見回してみると実は結構ある。東京混声合唱団が代表かと思われがちな面はあるが、一方で熱烈な合唱ファンという程でもない人からは、藤原歌劇団や二期会などに代表されるオペラ合唱団の方が有名であろうし、ザ・タロー・シンガースを顕著に、東京を中心に多く結成されてきているアンサンブルグループも、プロ合唱団の裾野を広げている。その他地方にもプロ合唱団は点在している。特に、各地の音楽ホールを中心として結成される合唱団も、独自の活動を続けているところが多い。
 そんな「ホール付き合唱団」の中でも端緒となる活動で知られているのが、びわ湖ホール声楽アンサンブルである。沼尻竜典を監修に迎え、1998年のびわ湖ホール開館と同時に誕生した。本山秀毅を専任指揮者に据えるこの合唱団は、単独演奏会のほか、びわ湖ホールをはじめ県内で行われるオペラ公演やソロ公演でも中核となって演奏するプロ声楽集団として、滋賀県内だけでなく、多くの地域で注目を集めている。実際、びわ湖ホール主催で大型オペラ公演が企画されることは非常に多く、その他自主公演で多くの魅力的な企画を打ち出しているびわ湖ホール。県外にいてその名を目にすることも少なくないことからして、事実としてその注目度は年々高まっているのはいうまでもないことだろう。

 今回のプログラムは、非常にストーリーのはっきりしたものであった。西洋音楽の源流を汲むグレゴリオ聖歌に始まり、ドビュッシー、プーランク、メシアンと、フランス音楽の主流を辿り、林光で和声・旋律端麗な日本の合唱曲に引き込んだ後は、フランス音楽と日本現代音楽の双方を吸収し、創造した三善晃の後期作へ収斂していく。まさに、フランスを軸に、日本における合唱音楽の受容のあり方を映すものであり、その点、非常によく考えられたプログラムだった。演奏順は、最初、ドビュッシー、メシアン、プーランクだったものが、曲の性質を考えてか、プーランク、メシアン、ドビュッシーに入れ替えられたが、最初の順番で演奏されたならば、この演奏会自体が、ほぼ作曲順に演奏されているという、稀有な事態でもあった。
 各選曲も独特である。前半について言及すれば、例えばミサでいえば、演奏会ではふつう通常文、すなわち、Kyrie、Gloria、Credo、Sanctus、Benedictus、Agnus Dei が演奏されるという意識がある中で、今回採用されたのは、復活祭のための固有文から入祭唱、昇階唱、続唱が演奏された。いずれもミサの前半、Credo より前に演奏される曲であり、この演奏会の始まりの姿を予感させる。くわえてドビュッシーに関しては、この曲が唯一の合唱曲ということであり、メシアンについても、自作のテキストを使うことが多い中にあって、トマス・アクィナスによるもの、その中にあって、プーランクはクリスマスモテットと、むしろ異様な存在感がある。

 そして、これだけ意識的に組まれたプログラムであるからには、その流れに揺蕩うように演奏を楽しみたいところである。しかしながら、前半については必ずしも満足のいくものだったとは言いがたい点もある。特にプーランク前半2曲については、各パートの声量バランスが、外声に多く依っていたこともあり、音楽がひとつのまとまりをなすには至らなかった。 また、ピッチについても安定せず、もともと和声が複雑な曲だが、その中にあっても、各パートの位置が正しいものなのか図りかねる音が多かったのは残念である。しかし、プーランクなら後半2曲に顕著だが、曲の横の流れ、各パートのメロディラインが明白になると、音楽が不思議と組み上がっていくのは、この団の強みであるといえよう。
 しかし、メシアンにおける弱音による偽終止、そしてドビュッシーのロマンティックな旋律の流れ、丁寧な母音の響かせ方など、「美しいところを美しく見せる」という技術については、この団は申し分なく持ち合わせている。そして、その強みは、それらの曲が演奏される前に披露されていたグレゴリオ聖歌の単旋律の中に既に潜んでいた。声楽家集団にあってして割と素直なノン・ビブラート寄りの発声によりシンプルに演奏される単旋律。控えめな、否、そうでなければならないその旋律の中にある僅かな膨らみのアルシスには、むしろ天へすら届きそうな可能性すら感じる――。
 このホールは、決して残響時間が長いホールではない。しかし、響きはとても素直で、シンプルに届く。ボリュームを殺すというわけでもなく、無理に鳴らさなくても十分に飛ぶ。しかし残響はさほど長くない。だからこそ、こういった繊細な表現にはむしろおあつらえ向きなホールであると言える。響きが求められそうなプログラムではあるが、しかし逆に、響かないことで得られる表現が光る演奏であった。

 休憩を挟み演奏された日本語は、いずれも絶品のハーモニーを聞かせてくれた。リハーサルでも言葉の問題について深く追求されたようで、今回の演奏においては、前半から言葉の美しさについては終始際立っていたところだが、その強みは、日本にあってはやはり日本語の曲でよく光る。そして、この団は同時に、メロディを歌うことについては最大の強みを持っている。とすると、林光のように、各パートが歌いあげることで揃っていくハーモニーについては、これ以上ないほどのレベルの高いアンサンブルを届けてくれるのである。フレーズが豊かになることで、カデンツも自然に流れていき、結果としてアンサンブルが整っていく。それは、三善にあっても同じだった。言葉をきかせながら、細かい旋律を質感を以て十分に絡めていくその様。『ゆったて』と同様、「生きる」もその点素晴らしかった。
 しかし、だからこそ、である。「生きる」の演奏における凡ミスは残念だったのだが。繰り返しの回数を間違えたり、音を上げる頂点をミスしたりということが多数あったのは、さすがに有名な曲だけあって、聴く人が聴いたら容易にバレてしまう。出来がよかったのにリハーサル不足を逆に疑われてしまうミスだけに、今一度、楽譜に対する意識の向かわせ方、構成に対する理解を再確認させられたいところである。

 この団は、未だ不完全である。プーランクに、「生きる」にかいま見える課題に顕著なように、なみいるプロのひしめく中にあって、まだまだ改善できる点のある団である。
 しかしながら、この団の持つポテンシャルについては、決して劣ることのない、否、むしろ、これからを期待させられる合唱団だと思う。特に、フレーズのもつ力を引き出す能力、そして、言葉の表現をドラスティックに引き出す能力については、決して指揮者だけの功績というわけではあるまい。この団のもつポテンシャルがあらゆる曲に活きてくるとき、メンバーを入れ替えながらまもなく20周年を迎えるびわ湖アンサンブルは、真に全国に名を馳せる名門アンサンブルとなることが出来るのだと思う。
 そして、なにより、この団は、地域に支えられている。先述の、アウトリーチを含めた演奏の数々はいわずもがなであるが、最終的には、田中信昭が「生きる」を前に喋ったこの言葉がすべてを物語る。「今日は、いい演奏してくれてますよネ――イヤ、これもネ、お客さんが良いから。「音楽聴きたいッ!」って、皆が思ってくれているから。お客さんがいいから、こういう演奏が出来るんですッ!」
 思えば。――名古屋から滋賀に越してきた懐かしいお知合いは、至近のこのホールでアンサンブルの世界に浸っていた。私の前に座るお客さんは、『ゆったて』の「ふるさとの丘」で、目尻を指で拭っていた。その隣では、「生きる」を、楽譜を見ながら聞いているお客さんもいた。――びわ湖アンサンブルの原動力は、そんな、熱心に支えているお客さんなのかもしれない。