おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2016年12月20日火曜日

【第20回名古屋混声合唱団演奏会】

2016年12月18日(日)於 三井住友海上しらかわホール

金曜・土曜と本番で、日曜はまぁ、ゆっくりしていようかなぁと思っていたら、そういえば、手許には招待状がある。まぁ、知り合いも多いし、行けたら行こうなどと思っていたところ、改めてプログラムを細かく見てみると……
なんだこれ、東混かよ(真顔)
なお、そんなわけで行ったところ、さすがに疲れが溜まっていたのか、家で爆睡、週明けは(週明けなのに)終電まで飲み明かしていたため、こんなタイミングでの更新となったのでした……年取るとアカンね、無理が祟る(?)苦笑

・ホールについて
もう、このホールも来すぎているから、書くことが減ってきてるんですけどね……笑
今回は、合唱人があまり使わないスポットの話でも。それが、「クローク」。特に名古屋の合唱界だと、クロークといえばプレゼント預かりのことと思っている人が非常に多い。原因のひとつが、クロークを備えているホールが非常に少ないことにもあるのかな、と思っていたりはするのですが、ハッキリとしたことはわからない。まぁともあれ、自分も昔は、クロークを滅多使わなかった。でも、使ったらタマランですよね、あれ。特に、遠征に行ったときの演奏会なんか、本当に重宝してます。どうしても、荷物が多くなってしまうので。
……ってことで、最近は、クローク非常によく使っています。みなさんも使って、ホールの人忙しくさせましょうよ笑 「クロークの原義を取り戻す会」(会員一名)とか言ってみたりして笑

指揮:大橋 多美子(1, 2, 4)、小泉 孝(3)
オルガン:鈴木 美香(1)
ピアノ:石山 英明(4)、天野 浩子(3)

この日は2階席で聴いておりました。いやぁ、2階席だろうと響きが悪くならない。本当に優秀なホールです。つくづく。最前列は、柵の都合で若干視界が悪かったけれども、まぁ、気にしない笑

第1ステージ
Schütz, Heinrich. From "Kleine geistriche Konzerte I",
"Fürchte dich nicht" SWV296
"Ihr Heiligen, lobsinget den Herren" SWV288
"Schaffe in mir, Gott, ein reines Herz" SWV291
"Ein Kind ist uns geboren" SWV302
まずはクリスマスの雰囲気も鮮やかに。ステージにツリーが飾ってあったので、すわ踊るのか!?なんて思いましたが(んなわきゃない)、思うに、この4ステージの中で、もっとも「大人しい」ステージのひとつといえそう笑 とはいえ、編成は、男声アンサンブル→女声アンサンブル→混声アンサンブル→混声全体。ただでは転ばない(?)のがこの団……笑
アンサンブルはといえば、概して、声の伸びに少し不安を感じる演奏でした。勿論、歌い上げるような曲たちではないのですが、いまいち、意志を持ったフレーズとは中々巡り会えなかった。理由は割と単純に、発声が心許なかったからとでもいいますか。声が出てなかったとは言わんのですが、最近流行りの、薄く出してキレイに合わせましょうという意識が裏目に出てしまっていたような気がします。確かに表面上、ハモらせると言う意味で間違っていないような気もするのですが、如何せん大元の話、しっかり鳴っていないことには、ハモらせる云々以前の話となってしまうような気がします。
比較的にいえば、低声は概ねよかったような気がするので、その意味では、まだいい方と言えるかも。

第2ステージ
間宮芳生・合唱のための『12のインヴェンション』日本民謡による より
鹿児島県民謡「知覧節」
青森県民謡「おぼこ祝い唄」
長崎県民謡「米搗まだら」
富山県民謡「まいまい」
長野県民謡「のよさ」
以降、名古屋混声のお得意どころが並びます。いきなり前プロに間宮ってあたりが何ともそれらしいのですが笑
ただこちらのステージ、どうしても不安が残ってしまいました。何が。一曲目は「知覧節」。去年の全日本課題曲ですね。この曲の、最後の和音がハマらずに終わってしまった。
このステージ、この一点が、このステージ全体の印象を左右してしまった。みんながよく知っている曲で、耳馴染みのいいトニックを、耳馴染みのいいタイミングで決めなければならないところで外してしまった。厳しいこと言ってるんですけれども、しかし、そのせいもあってか、その後の曲も、テンポの遅い曲がパリッとしないという方向に印象がどんどん持っていかれてしまった。いつもだったらこういうステージ、勢いのある曲が気持ちよく聞かせた、とか、そんな感じのことを言い連ねるんですが、今回はもう、思い出せるくらいに、知覧節の最後のトニックが頭を擡げる。細かい所への配慮がもっと欲しかった。実にもったいない。この団ともあろうものなら、勢いだけで誤魔化すような水準にはありませんでしょうに。
否、逆にいえば、3曲目とか、爽快に飛ばしていて気持ちよかったんですけどね笑 入り直しなんかも、1曲目最後のトニックと比べたら全然マシですって爆

インタミ15分。なんか、ひたすら隣にいた某に演奏について語っていた記憶が……もう、書いていたようなものですね、だいたい笑

第3ステージ
上田真樹・混声合唱とピアノのための組曲『夢の意味』(林望)
さて、わたべを途端に厳しくする同曲(←)。なんだか今回は、個人的な事情から、あんまり書かないほうがいいんじゃないかなぁなんて思ってしまう……イヤイヤ。そんなことは言いますまい。
ところで、『終わりのない歌』がついに混声初演なんですってね。この曲のレビューで書くのもなんなんですが、個人的に上田先生の曲の中で一番好きな同曲、結婚式で歌ってもらう or 歌うなら組曲でこの曲やろと心底思う同曲の初演。ワンステ出演もあるようで。え、僕? そりゃもちろん、この成功間違いなしの演奏を記録する側に……回りたいなぁ……東京遠いなぁ……←
閑話休題。今回の演奏、減点方式で見ると、正直あまりよろしくない。1曲目の強弱設定、外れがちな和声、あっさりと流れる2曲目、3曲目の変拍子で崩れたテンポ……改善の余地はいくらでもある。特に、楽譜を知ってしまっている人間が聴いたからか、ツッコミどころが色々とあったように思います。
でもねぇ、この演奏、何か、憎めなかったんですよね……引き込まれるものがあるっていうか。パンフレットにも書いてあったんですけど、団員が、この曲が好きで、この曲を歌えるっていう喜びを存分に発露している。そんな音がする。抽象的な話はよくないとは思うのですが、それでも、なんだか、これでいいような気がする。真面目に。

団員挨拶。「アマチュアとしては挑戦的――というか――な団。選曲については、大事にしていることとして、バリエーションに富んだ海外曲に加えて、時代を切り抜き、時代をつくる日本人曲を選んでいる。世の中にはこんな面白い曲があるんだと思って頂ければ幸いです。」
……東混かよ(褒め言葉)

第4ステージ
三善晃・混声合唱とピアノのための『縄文連濤』(宗左近)
数年前、指揮者がやたら喋る大阪の某団が何度も取り上げていたシーズンがあったがために、なんだか特段珍しくもないと妙な勘違いをしている当方ですが、冷静に考えたら、そうホイホイとやるような曲でもないですね笑 三善先生の名曲です。とある事情もあり(珍しく?ステマ笑:ご掲載ありがとうございます)、最近、宗左近先生の詩を真剣に読む機会が多いわけですが、改めて対峙すると、この縄文連濤も、本当に力のある言葉が並ぶ。宇宙的な、メタなスケールから一気にズームインして個人的な主観まで生々しく描ききるその筆致。苛烈な戦争体験の中で自分だけが生き延びたことへの贖罪の念、そしてその思いを同じくし、高い次元で作品へと昇華した三善先生の、宗先生との作品群。もっと読みたい、勉強したい、と思わされるものばかりです。寧ろ、リアリティ溢れている作品たちに心が持って行かれてしまいそうですが……
さて。今回の演奏、言葉の飛びについては素晴らしいものがありました。お陰で、音楽の立体性が増しました。音だけでなく、言葉によりフレーズが特色づけられることで、フレーズの表現が幅広いものとなるんです。
ただ、一方で、音の強弱や子音の歌い分けといった、細かな表現の部分については、あまりに淡白ではなかったでしょうか。明るすぎるというべきか、深刻さが足りないというべきか。デュナーミクを「置きに行く」ような、「つけるだけ」になってしまっていた様子がどうも気になりました。なぜそこにフォルテがあるか、訴える言葉が何であるか、それらの要素をうまく楽譜上の表現と絡めて、重く充実した表現で応えたかったものだと思いました。
否、言葉でいうのは簡単なんですけどね、ホント。

・まとめ
間違いなく、プログラムとしてはものすごく意欲的でした。去年の名混と比べると寧ろメジャーで厨好み(笑)な曲を集めているだけに、その部分がとても良く目立っていたように思います。
ただ、一方で、それに演奏がついてきたかどうか。詰め込みすぎが悪いってわけではないですけれども、どこか、どの曲も消化不良感が否めなかった。全体として、もっと磨きのかかった演奏が聴きたかったなぁというのが正直なところ。
それでも、聞かせる演奏は出来る団だと思います。なにせ、完成させるのですら大変な曲ばかり並んでいますし……笑 来年の、ひとまずプログラムがどんなものになるか、楽しみに待っていたいなと思います。

2016年10月15日土曜日

【CANTUS ANIMAE+MODOKI ジョイントコンサート】

2016年10月15日(土)於 ふれあい福寿会館サラマンカホール

聞く前から名演
いやだってさ、東京と佐賀にある、全国随一の実力を誇る二つの団が、だよ? まさかよりにもよってこの岐阜の地で、ジョイントコンサートやりましょうって、普通に考えたら、誰が思う?
……曰く、二つの団の中間地点で自主企画でジョイントやろうとしたら、「クジ運が悪かった」らしいのですが笑 しかしその御蔭で、この話がサラマンカの担当者に伝わり、即断で、ホールとの共催が決定したということ。偶然が見せる僥倖。幸せなのは我々です。名古屋バンザイ!岐阜も名古屋の一部!
アニメは録音で聴いたことがあったのですが、MODOKI は実は、録音ですら聴いたことが無く。ザ・不勉強。しかし、それにしても、録音と実演って全然違いますからね。特に、このレベルの団になってくると、尚更。リハーサルも公開されていて、もはやレクチャーコンサートといったレベルで充実した時間だったようなのですが、しかし、今日は、本番にワクワクしたい、ということで、本番のみを聴くことにしました。それもまた一興、ということで。
この二つの団、もう、私がコメントするようなことではないですね。文吾さんの宣伝記事でもお読みください。そういえば、散々弊ブログの駄文を褒めちぎっていただいているのに、ついに今日もご挨拶できなかった。いつぞ叶うものやら。

ホールについて
岐阜の県庁近くにある公共施設「ふれあい福寿会館」の中に併設されています。今年のJCAワークショップの舞台ですね。どうも貸会議室等をやっているようなのですが、個人的には何をやっているかよくわからない← しかも、下の感想を書いた後でここを書いてるから、調べる気力も沸かない←
県庁が何かとアクセスの悪い場所にあり、しかし国道が近くに通っているため、ホールへのアクセスは、車が一番早いのが現状。アシのない人間は、岐阜駅からバス、あるいは隣の西岐阜駅から徒歩、ないしバスという状況。徒歩で行くと、西岐阜から20分です。一応、西岐阜が全部の列車止まるので問題がさほど重くならずに済んでいるのですが、今日みたいにJRがとまると中々悲惨なことになったりします。
しかし、そのホールは、サントリーホールやいずみホールと姉妹提携する程の実力のある素晴らしさ。ホールの名前のもととなった、スペイン・サラマンカ市にあった「鳴らずのオルガン」をベースとして作られたパイプオルガンを中心とし、同じくサラマンカ大聖堂・サラマンカ大学のものを模したホワイエのレリーフなど、その優美な意匠はさることながら、1階席と小さな2階席からなるホールの響きは、本当に優秀。残響時間も、響き方も、自然で、かつ潤沢な、日本の誇る名ホールです。これだけアクセス悪い中にあって(正直w)、世界中の名だたる演奏家がバンバン訪れる理由は、まさに必然ともいえるでしょう。

先ほど書いたとおり、今回は、ホール主催、団共催のイベント。「ぎふ秋の音楽祭2016《合唱の日》」のうちのひとつとして開催されました。先週は、児童合唱団の演奏会や、雨森先生のワークショップ、さらに今週の土日は、これの他、サラマンカでオーケストラとの共演による『筑後川』と『土の歌』の演奏会や、岐阜県美術館での演奏会が予定されています。明日、この2団は、岐阜県美術館で演奏。贅沢なハーモニーが、岐阜の地で響きわたる二週間も、惜しまれつつ終わりを告げようとしています。
曲の前には各指揮者のトークを挟みながら。2011年3月13日 in 東京(!)以来のジョイントとのこと。その他、曲についてあれやこれや。それはそれで、非常に心意気の入った素晴らしいご挨拶だったのですが、でも、なんだか、それも書くのが惜しいくらい。なぜかって。演奏が。

第1ステージ
三善晃・混声合唱曲『嫁ぐ娘に』(高田敏子)
演奏:MODOKI
指揮:山本啓之

もうまずね、この演奏ですべてやられた。ちょっと、目の前で鳴っている音が信じられないくらいに。
なんというかね、完璧だったんです。色々考えながら聴いていたんですよ。悪く言えばあら捜し。こう、しっかり整った演奏は安全牌をとりすぎて表現が薄かったりだとか、表現がガツガツしている演奏は、逆に、細かいところで荒れた表現に鳴ってしまうだとか。この、どっちだろうな、とか、ヨコシマなこと考えとりました。――杞憂だった。否、邪険だった、横着だった。もう、ひれ伏してしまいたくなるくらいにカンペキな『嫁ぐ娘に』が目の前で鳴っていた。間違いなく、これまで聴いてきた中で一番良かった。
個人の声量は確かに豊かで、しっかり鳴っているんだけれども、それらの音がしっかりパートとしてまとまっていて、ひとつの音として鳴っている。ひとつの合唱団の、「MODOKI」の音だ、っていって鳴っている。それなのに、表現は決してオーバーにならずに、しかし、非常に繊細なダイナミックレンジが、表現の幅をぐっと豊かにする。メゾフォルテ程度の強さと、フォルテの強さが、かくも繊細に歌いわけられ、そして、歌い上げるところで歌い上げながらも、わざとらしく鳴らない程度に、さもナチュラルにピアノが囁く。フレーズの扱い方が抜群に上手いながらも、縦のハーモニーだってピチッと揃う。テンポの歯切れだって、十分すぎる。
楽譜にかかれている以上の音が鳴っていたのだと思います。――否、楽譜が「要求している」音を鳴らしていたというべきか。心の底から歌っている。この難曲を、おのがものとして。あえて書いちゃうんですが、今日イチの演奏は、これだったと思ってます。本当に心奪われました。

第2ステージ
森田花央里「石像の歌」(リルケ、森田花央里・訳詞)
松本望『二つの祈りの音楽』〜混声合唱とピアノ連弾のための〜《改訂版初演》(宗左近)*
演奏:CANTUS ANIMAE
指揮:雨森文也
ピアノ:野間春美*(pr.)、平林知子(sec.)

第1ステージがこんな調子です。――こんな調子の音楽と比べられる身は大変なもんです笑 天下のアニメ様の演奏をしてなお、批評できるところを産んでしまう。だから後攻は怖いんだ笑
なにがって、若干息漏れが多かったっていう、その点なんですよね。特にピアノでは顕著に。森田作品の最初が弱音で始まるものだから、余計にそれが目立ってしまった。で、雨森文也の指揮は、息で合わせる演奏を求める。山本先生の棒よりは、どうしても、精緻さという意味ではズレがある(好みですけどね、これは。それだけ山本先生の棒に惚れ込んでしまったわけですが笑)。
でも、雨森サウンドの、否、アニメの魅力は、その、息で合わせる表現にある。弱音に始まり、徐々に強勢を増していくその音楽に、旋律に、平行三度の進行に、和声に、どんどんと引きずり込まれていく。気付いたら、傾聴のまま、演奏が終わっている。マジックですよ、これは。雨森マジック。
『二つの祈りの音楽』は、今年のアニメのコンクール曲。絶望的な人の死に対する死者の地の底からの呻き、そして、それが昇華され、浄化された祈り。畳み掛けるような旋法と、あまりに上品な和声が、ホールの中に溶け込んで、響きをして我々を包む。超大曲にして、超名曲です。演奏中、涙する団員の姿も。わかる。すごくわかる。曰く、松本望が自分で泣いてたとか。わかる。すごくわかる。
で、この曲も、やっぱりそうなんです。ハマった瞬間のピッチの良さはさることながら、何度もズレそうになりながらも、それでも、宗左近のこのテキストを死ぬ気で表現しにかかる、表現力というより、もう、心意気が、絶品、否、聴き応え。心がそのまま音楽になっている。その点、音楽じゃない。これは、心そのものなのだと思いました。心の先に、声があり、声の合わさる先に、ハーモニーがある。比喩的? いやいや、本当に、「結果合ってる」っていう音がするんです。ハメるのは、後。少なくとも、そう聞こえる。

インタミ。時間不明笑 本当に、アナウンスすらありませんでした……w
皆疑心暗鬼になる中で、どこか、演奏会が終わったかのような充実感で満たされている。ああ、こんなインタミに、ラウンジが空いていたらよかったのに……!笑
以降、合同演奏。もう、各団の演奏だけでお腹いっぱいですが(最後が『二つの祈りの音楽』だから余計に……笑)、そりゃ、ジョイントですからね。合唱祭とかコンクールとか、そういうのじゃないので笑

第3ステージ
マルタン『二重合唱のためのミサ曲』
指揮:山本啓之

この二つの団、よく歌える(そりゃ、全国イチニを争うクラスだし……)だけでなくて、キャラクターも非常に近いんですよね。だから、この二つの団がジョイントしたら、当然、素晴らしい音が鳴るのは約束されているわけです。その中でのこの曲。編成の大きい曲の割には、なにかと名前を聞くこの曲。なんだか、ESTと京都バッハがやっていたというそれだけの理由で、最近流行りなんじゃないかな、と思わされる←
これだけの団が人数にして112人にもなれば、そりゃ、充実のダブルコーラスとなるわけです。一貫して、二群目の女声の音量が相対的にもう少し欲しかったかも? 否々、それにしても、全体の表現の深さはそのままに、それが、ハマり方としても、心意気としても深められていく。あくまでテキストが故だと思っているのですが、なにかと単調になりがちなミサ曲にして、演奏会において十分な存在感を持つ仕上がりになっていたんじゃないかと思います。美しい、だけじゃ終わらないこのミサ。演奏会におけるミサ曲の役割は、実際の典礼とは少し異なるものといって差し支えないと思います。でも実際、これだけ鳴らして、音を楽しむことの出来るミサを聴いていると、ミサに対する向き合い方について考えられる。今回のベネディクトゥスで、「オザンナ」の聴き方が、少しわかったような気がします。
間違いなく超大作のクセして、すごく今日のものはアッサリ聴くことが出来たように思います。否、たしかに重かったですが、それでも、しっかりと、音として楽しむことの出来る構成に仕上がっていたのが何よりか。ハーモニーと表現のバランスがとてもよかったように思います。もう、なんとなく、でしか書けないのですが笑

第4ステージ
三善晃・混声合唱と2台のピアノのための交聲詩『海』(宗左近)
指揮:雨森文也
ピアノ:野間春美(pr.)、平林知子(sec.)

そして、今日の双頭のもう一つ。さっき、『嫁ぐ娘に』が今日イチって書いたじゃないですか。
……この『海』、めっちゃよかったぁ……笑
すっごく遅いテンポではじまって、ゆっくりとはじまったこの曲が、段々とエネルギーをためていって、海の誕生から、生命の息吹をまとい、弾みながら、弾まされながら、どこまでも、命、響いていく。結集されたエネルギーが、発散されて、そして、ホールを歌わせて、命を震わせて、アタッカで入った3曲目の、平林先生の恐ろしい眼光の先に蠢くセコンド、そして、スタインウェイのハンマーノイズを黙らせ、天才的なレガートでつなぐ野間先生のプリモ、そして、堂々と命の讃歌を歌い上げる合唱団、ホール。最後カデンツの先に鳴らされる C、そして C dur。この名演にしてブラボーを飛ばすことすら許されない、支配的かつ最大限の緊張感を以て迎えられ、おそらく5秒と続いたであろう、残響。
……もう、何を書いたら良いんですか! 普段からメモとか色々書いているから、コレだけダラダラ書けるんですけど、感動しすぎて、今回、この曲から演奏メモがないですからね!!w 手元に道具がないなかで、感動を垂れ流すしかないんですよ! 惨めですよ、惨め!←
否そりゃ、冷静になれば、色々書けないこともないんですよ。2曲目は特に改善のし甲斐があると思います。弾みながら/弾まされながらの部分は若干縦がズレたし、対して、2曲目の終わり(3曲目アタマだっけ?)も、女声がもっと鋭く入ってきて欲しい。3曲目の「夢の炎の炎の花」だって、提示されたテンポについていききれない感じあったし、最後の C dur は突き詰めればもっと揃う。特に第5音。でもさ、もう良いじゃん! こんなこと書きたくないのホントは(書いちゃったよ!←)! 感動したんだから、それでいいじゃん! あえていうならさ、すぐ山本先生を喋らせないで、もっと長い時間拍手させてくださいよ先生!笑

第5ステージ
三善晃・混声合唱と2台のピアノのための「であい」
指揮;山本啓之
ピアノ:平林知子(pr.)、野間春美(sec.)

興奮冷めやらない中でのこの演奏。否、この曲の最初のアカペラがアイスブレイクになるなんで、誰が思った?笑
でもねぇ、この曲、とうか、三善晃の作詩の曲って、本当に優しいながらも、深いこと書いてるんですよ。『遠方より無へ』の頃は難しい言葉で深いこと書いてたんですけどね……笑 「ここでであいましたね」にはじまり、「さよならは 別れではないのですね」「さよならは あしたへの声」へと繋がっていくこの曲。心地よいレガートが、火照った身体にちょうどいい。そして、観客をしてすら、このハーモニーとしばらくさよならしなければならないことに、後ろ髪を引かれる。

en.
arr. 三善晃「夕焼け小焼け」(『唱歌の四季』)
指揮:雨森文也
ピアノ:野間春美(pr.)、平林知子(sec.)

雨森先生の言葉を借りれば「もう、何も喋らない方がいいですネ!」なのですが(なお、この後結構喋っていた模様←)。
この曲、テナーがガチャガチャ動くから、結構浮くことが多いんですが、女声が非常に頑張っていたんですね。段々と主旋律が埋没していって、和声で聴くカデンツのような何かになってしまう演奏って正直少なくないと思うのですが笑、この演奏、メロディがしっかり主役を守り抜いていた。一方で、最後の hi C にもっと存在感が欲しかったなというのが、最後の最後に心残り。

とはいえ、最初から最後まで名演。合唱団が全員捌け、指揮者二人が長い礼をする間も、二人が捌けても暫く鳴り止まない拍手が、この演奏会を何より象徴していました。
帰りは、徒歩で西岐阜へ。国道21号線をまっすぐ照らす夕焼が、演奏をリフレインするように非常に美しかった。……逆光で、大垣方面に走らせる人にとっては絶望的だったのでしょうが笑

・まとめ
以前、「良いものを評価するのは難しい」などと難癖をつけて、詩的なレビューを付け始めた時期がありました。その当時、割と評価が低くなかったことから勝手に気をよくし、その後、プロ・プロ相当の演奏会にはこのタイプのレビューを付け続け、今に至ります。別に勝手にやっているだけのブログでこそあれ、あの記事はその意味で、このブログでは割と大きな変節点であったように思います。
書いていることに嘘偽りはなく、実際、いつだって全力投球でやっているわけなのですが、正直、あの手のレビューは、いってみりゃ「逃げ」みたいなものなんだと思ってます。それっぽく書けば、正面から対峙するのを避けることもできるので(だから、プロ限定、などと面倒くさいことをやっています)。
今日の演奏会が終わったとき、真っ先に浮かんだのは、「何書こう?」でした。否、変な義務感というよりは、この演奏会に投げかける言葉は、どんな言葉が適切なのだろう、と。よく言われる、「あの演奏会、どうだった?」という話、適当に「よかったよ」と言っておけば、そりゃ、会話は成立するのかもしれませんが、しかし、それだけじゃ伝わらない大きな感動が目の前にあるとき。それを伝えるのに、「よかった」という言葉がどれだけ弱いことか。
ブログ書く人だけに留まらないし、大きな話をすれば、合唱を聴く人だけに留まらない。良かったものを、どう良かったと表現するか。反射的な怒りや、批判、不平不満が目立つこの時代、このコミュニケーション環境にあって、好評や賞賛は、ますます伝わりづらくある。表立つ批判に晒されて、絶大な評価を得ていたものが潰えることだってある。言葉を尽くして褒める、評価するということは、決して、相手に媚びることではなく、好きなものを守る行動なのだと思います。

とはいえ、僭越ながら言葉を尽くした今、ひとつ、この言葉で逃げさせてください。もう、こうとしか言えないんです。
今日の演奏会、最高でした。

2016年9月19日月曜日

【Ensemble Musicus 第1回演奏会】

2016年9月19日(月・祝)於 右京ふれあい文化会館

ってのはともかく笑 今回は、よどこんの日程すら調べずにこちらのチケットを取っていたのでした←
さて、訪れましたはアンサンブル・ムジクス。今日のご挨拶で愚痴って(?)おられましたが、なかなか綴ると名前を正しく呼んでもらえないとかなんとか笑 正しく呼んで、ムジクス、ですからね!笑
16人による小さなアンサンブルの、記念すべき第1回演奏会。しかし、団としての歴史は決して浅くなく、2008年12月創団。なんでもプロフィルによると、「社会学者マルセル・モースによって定義された「身体技法」としての合唱音楽の研究・実践を目指し、京大合唱団 OB・OG・現役生有志から結成」とある。何やら危なげな(←)ことが書かれていますが、モース「身体技法」も実在する社会学者・学説で、身体を道具的に利用する方法についての議論とのこと。詳しくは各々調べるなり文献当たるなりしていただければと……笑 とはいえ、技術的な探究については飽くことなく革新を続けている団のようで、「日本語ユース・クワイア」といってご存知の方もおみえでしょう、その主宰をするのは、何を隠そう、この団です。その他関西コンクール金賞、宝塚フォークロア・近現代銀賞など、受賞歴も多数。
単独演奏会こそこれまでなかったものの、委嘱演奏も多く、なんでも月イチで演奏機会を持っているという、アマチュアにして異色の同団。2015年にメンバー再編を行い、新しい風も多く入ってくる中、ついに新規団員からの突き上げに堪えきれなくなり(だってそう言ってたんだもん笑)、第1回演奏会開催。FBでその存在を知ったわたべ、チケットフォームも出来る前から予約していました。とはいえ、演奏を聞いた機会はゼロ。じゃあどうして行こうと思ったか?……直感!笑

・ホールについて
久々に関西で新ホール開拓。どうしても関西を離れてから、関西の演奏会行くことは減りましたからね。トートロジーですね笑
京都駅の離れ小島・嵯峨野線ホームから電車で10分。JR花園駅が最寄りです。っていうと、結構アクセス良さそうじゃないですか? でもね、この電車、20分に1本しか来ないの……w 本数という意味では、地下鉄東西線や嵐電を使ったほうがいいかもしれません。駅前何もないし←
さて、ホールは、駅から歩いて5分ばかし。キャパ500人くらいのホールです。ちょと横幅を大きく取った文化小劇場、というと、名古屋の人には通りがいいでしょうか。あるいは、ちょっと狭いアクアホールというべきか。ただ、打ちっぱなしコンクリ柱と明るめの木の内装、白い天井に多目的ホール向け反響板と、やたらでかいマイク用スピーカー。雰囲気は、モロに文化小劇場なんですよ……新し目の公共ホールといえばちょうどいいかしら。まさに、そのオーソドックスをついています。なんたって、開演前ブザーは久々の、倍音豊かな「b-------------!!」だし笑 あえて言えば、客席真ん中あたりにある通路前の壁の前にも客席が作ってあるっていうのは、かなり特徴的なような気はします。あと、客席は暗めかしら?
で、響きなんですが、こちらも、ご多分に漏れず、といったところ。響きがステージ側でこもります。聞いてるとだんだん慣れてくるんですが、若干、飛んでこないなぁ、という印象を露骨に受ける。残響時間も少ない。しかも、ステージ内で若干反響を拾うので、そのせいでほんの僅かに音が濁ります。まさに多目的ホールの典型的な響き。まぁとはいえ、ピアノはスタインウェイだし、極端に邪魔になる響きというわけでもないので、まさに、多目的、という意味では、なんにでも使えるホールです。
今日の集客は7割。大阪の対抗馬が結構な強敵な中、期待の高さが伺えます。

第1ステージ 現代無伴奏宗教曲選
Sisask, Urmas “Benedictio”
Kverno, Trond “Ave Maris Stella”
Gjeilo, Ola “Nothern Lights”
Penderecki, Krystof “O Gloriosa Virginum”

戦後の作品で固められた選曲。何より、この選曲の良さが光るところ。自己紹介とばかり、システマティックな作品で攻め立てます。その意味、身体技法的たるムジクスの特色が活かされるステージであります。
実際のところ、関西でしっかり歌う団だけあって、音はしっかり当たる。聴くには十分なアンサンブルです。丁寧にまとめる、まずその点で、このアンサンブルの実力は十分見えてくる。そして、一人ひとりがしっかり歌う能力を持っているアンサンブルなだけあって、響きの安定さには目をみはるものがあります。全体をして、少人数なのに、大人数を聞いているようなスケール感。特に、弱音。ピアノになってもダレることが無い。安心して聞く事の出来るアンサンブルです。
しかし一方で、このステージが皮肉にも、全体を通して、このアンサンブルのネガティブな点をも活写することとなりました。確かに、とても気持ちよく聴くことが出来る、そして、各個が歌うことのできる優秀なアンサンブルなのですが、それ以上の表現というのが、とても淡白に収まってしまった。特にこの時代の北欧サウンドは、楽曲のフレームがとてもしっかりしていて、とりあえずそのフレームさえなぞることができればある程度作品が出来上がるという構造を持っているだけあって、それぞれのフレーズをかなり意識的に作り上げていかないと、ただ淡白に音楽が進むだけという、かなり皮肉な状態に。例えば、シサスク「祝福」のカデンツァは結構壮大なのですが、その華々しさが少しくすんでしまったような感じがします。各パートに委ねられたダイナミクスの表現は割と成功しやすいのですが、指揮者が居ない弊害と言ってしまえば簡単か、tutti でのダイナミック・レンジが狭いと言わざるを得ないところでした。

第2ステージ
木下牧子・混声合唱組曲『方舟』(大岡信)
ピアノ:木下亜子(客演)

団が事前に宣伝していたとおり、冷静に考えて意味の分からない企画笑 この曲は、16人でやる曲でもなければ指揮なしでやる曲でもない笑 木下亜子先生をして恐れおののいた(意訳)という、よく言えば意欲的な挑戦です笑
ただ、これも結局、上と同じ、という感想になってしまうのがとても残念なのです。もちろん(それはそれで信じられないんだけど)、楽曲としては十分完成していました。何より、全開のピアノに負けないだけの音量を鳴らしているのはお見事。木下先生だって挑戦しているんでしょうけど、それにしても、双方とも割とちゃんと鳴らしていたイメージ。アンサンブルとしても、本当お見事で、「方舟」の中間部など、ソルフェージュ的な部分については聴き応え十分の逸品でした。その点に関しては間違いなく一級品なんです。ただ、だからこそ、淡々とアンサンブルが流れていった印象なのは、本当に惜しいという一言。木下牧子も、縦の構造を中心として、フレームがしっかりしている=和音をひとつひとつ鳴らしていくイメージ。合唱が緩急をつけて歌曲的に歌うことも少ないので、ひとつひとつの音をハメていけば、それだけで完成してしまう。特にこの団、そういう曲になると、途端にハメに行く傾向がありそうです。賢い団だと思うんです。学歴とかそういう問題じゃなくて、アタマで考えていく、とても賢いアンサンブルをしている。でも、だからこそ陥りやすい誤謬にハマってしまっているような気がします。リテラシーのみで音楽をやることによる限界というのが、どうしても見えて透けるのです。
アンサンブルを進める能力というのは、とても素晴らしい能力なんです。何より、曲の完成するスピードは格段に早まる。それはそれで、必須教養のひとつです。しかし、それに依存しすぎると、逆説的に、音楽が置き去りになってしまう――現代のアマチュア合唱団共通の課題のような気がしてなりません。

インタミ20分。いやぁしかし、それこそ、これまで溜め込んできたものの積み重ねと言うべきか、プログラムノートが非常に素晴らしい。B4の2つ折り4ページなのに、ひとことひとことが本当に格調高い。
やたら批判ばかり重ねているようですが、これまでも、十分良かったんです。賢い、あるいは、理知的、という意味で、ここまでのアンサンブルは、とてもよく整理された、非常にわかりやすい音が鳴っていたんです。すごくわかりやすい。こういうアンサンブルが出来る団は、それこそ、なかなかないように思います。イヤ、ホント、お世辞じゃないんだってば笑 どっちかっていうと、求めすぎているといったほうが正しいのかも。

第3ステージ アカペラ・セレクション
Edenroth, Anders “Words”[The Real Group]
Makaroff, Mia “Armottoman”[Rajaton]
Edenroth, Anders “Pass Me The Jazz”[The Real Group]
Sariola, Solia “Surma juoksi suota myöten”[Rajaton]
Edenroth, Anders and Matti Kallio “Nordic Polska”[LEVELELEVEN]

で、問題は、このステージです。――否、ちゃいますねん、このステージ、お世辞抜きに、最高だった!
フレームを組み立てる、という意味では、この系統のアンサンブルグループのレパートリーは顕著なものがあります。キングスやトライトーンの系統とも違うんだと思っていますが、楽曲ごとの構造にしっかり落とし込んでいくことで、アンサンブルが整理され、完成されていくというスタイル。そして、重要なのが、これらの楽曲がポップスであるということ。良くも悪くも、ダイナミクスにそこまで気を遣わなくても、それだけで十分、聞かせることのできる楽曲が組み上がるんです。
地力のあるアンサンブルです。フレームに対する咀嚼の力と、そもそものアンサンブル能力、そして歌唱力。とても骨太かつグルーヴィーな、しかし軽いアンサンブル。まさに、この団のやりたいアンサンブルはここにあったのかしら、と思わされる出来。もう、1曲目から最後まで、ワクワクしぱなっしで、いったいいつブラヴォーしようかしらと思いながら聞いていました(結局は、最後の曲がブラヴォーいう感じでもないので、拍手で終わったのですが……笑)。この団の技術的なポテンシャルが余すこと無く発揮された名演中の名演。最近、ジャパンツアーも多く、アマチュア団でもこれらのアンサンブルのカヴァーって割と流行っているんじゃないかと思いますが、この団、これまで聞いてきた中では、少なくともピカイチです。このステージだけをして、この演奏会聞きに来る価値あった、と確信させられたくらいの快演でした。
ちなみに、衣装は、女声はトロピカルチックな藍色花柄ワンピース、男声はおよそ石田純一(コラ)。曰く、「半年前から考えて、通販とユニクロを駆使して手に入れた」ものだそう笑

お着替えの時間に「これより舞台転換のため、5分程度のお時間をいただきます」。お召替えの結果、女声黒ワンピース、男声黒礼服蝶ネクタイと相成りました。本山先生のステージで小林秀雄となれば、まさに、さもありなんな格好笑

第4ステージ
小林秀雄・混声合唱曲集『優しき歌』(立原道造)
指揮:本山秀毅(客演)

そして、ボクは、コレを待っていたのです! 否、たしかに、本山先生は愛知県界隈で今年特にお世話になった先生ですし、プロとしてホンモノの音楽のもっとも近いところにいて、そしてそれを私たちに伝導してくださるマエストロの一人です。でも、それだけじゃない。この団の前半の演奏を聞いて、逆に、この団と、本山先生が出会ったときの音というのを、とても楽しみにしていました。そして、待っていた音が、やってきた。まさに、この団の前半に足りなかったのは、この要素なんです。アンサンブルの、言葉の、旋律の有機性。フレームのみで語られていた音楽が、生きた輝きをもって、この場に音楽として降り立つ瞬間。ハメるだけの音楽だったとしたら、延々とカデンツが進行していく和声練習のような状態になりそうなところ、それに音楽的な輝きを与えた瞬間! 声という楽器も、前半では見られなかったような色彩豊かなものが並び、日本語も、特に二曲目、正直方舟では淡白で聞こえづらかったところ、香り立つような小林秀雄の表現も手助けして、まるで目の前にまるごと広がっているような美しさを見せてくれました。そうです、ボクは、こういう音楽を聴きたかったのです。よさとよさの融合、化学反応。いぶし銀のプログラムにして、満足の演奏です。

・encore
Rajaton “Butterfly”
- a cappella ensemble
木下牧子「そのひとがうたうとき」
指揮:本山秀毅
ピアノ:木下亜子

アンコールも、言わずもがな。Butterfly もさることながら、白眉たるは、「そのひとがうたうとき」。この曲こそ、まさに、ダラダラ演奏したらとことん淡白になるのですが、こんなに情感豊かに響く同曲を聞いたのは初めて。劇的という意味では松下耕作曲のもののほうが好きだった、というのが個人的な本音ですが、この曲を聴く耳が変わりました。正直。とても良い締めくくりに、誰よりも長く拍手をしていたのでした。

アンコールの曲間に曰く「こんな変わったことやっている団がいるんだな、と、名前だけでも覚えて帰ってくれたら」との代表の言葉。

・まとめ
否むしろ、その存在感を示すに十分な演奏会だったといえるのではないでしょうか。前半でこそ、その淡白さに不安になることこそありましたが、後半は特に圧巻の出来。実績に違わず、一流アマチュア団としての実力の片鱗を十分に見せつけられた「単独公演デビュー」となっていたように思います。名古屋から「発掘」しに来た甲斐がありましたよ、まったく!w
この演奏会でははからずも、合唱、ひいては音楽における限界と、限界の超克=ブレイクスルーのあり方について思いを馳せる結果となりました。ここではそれを、「音楽のフレーム問題」とでも名付けたいとおもいます。ちなみに、この前の「身体性」の議論は、割と元の議論を置き去りにして進めたものですが、これは、むしろ元の議論にそこそこ忠実に進めていくものです笑
クラシック音楽において範となるのは、なにより楽譜です。そして、クラシック音楽の流れを引き継ぐ音楽も、やはり楽譜を基本として進められます。作曲時にコードを当てることこそあれ、基本的には記譜されたものをいかに再現するかという点に砕身することになります。それは、このジャンルの音楽に身をおくものとして、ひとつの公理といえるようなものです。事実どうかはなんとも言えない点もありますが、いわゆるコンクールと呼ばれる場では、採点しやすいこともあってか、楽譜に忠実に演奏することが何より必勝法である、という言い方がよくなされています。
それもそれで、音楽のひとつの姿です。しかし、一方で、音楽は、それだけではない。楽譜を忠実に再現する以上のことが、演奏会、ひいては音楽の表現一般においてはしばしば求められることがあります。そこにおいては、ある意味、楽譜に書いていないことも表現する必要が出てくる。決して、何やら感情を込めろとか、そういったことをいうのでもなく、たとえば、フレーズの終端なんて基本的には楽譜に明示的には書いてないですし(書いてあることもあるんだけど笑)、まして、そのフレーズをどの程度の厚みで、どのような収め方で表現せよ、ということは書いてありません。そして、フレーズで話を続ければ、そのフレーズがどの和音に接続し、終止するのかしないのか、そのフレーズ全体でどのような和声を展開していて、今後どのようなベクトルでそのフレーズを繋いでいけばよいのか、ということは、結局、人間の表現に委ねられます。
「初音ミク的な合唱」という言説が象徴的です。「フレーム問題」とは、ざっくりいえば「機械が超克できない解釈的課題の存在/またそれに対する機械による解決法、およびその不存在性」を指しています。初音ミクだけでは超えることの出来ない表現の壁というのが、たしかに存在している。人間がインプットしないと(いまのところ)表現が出来ない、という根本的な課題。ピッチや調律、あるいはカデンツの組み方など、仮に乱数で機械に音楽を編ませるにしても、そういった原則論を定義付けしてやらないことには、善悪の判断が出来ないわけです(そして、アトランダムな音楽なら、逆説的には、人間にだって編めてしまうのです)。
音楽を再現するという場にあっても、人間が、上記のような、例えばフレージングとか、語頭の位置とか、そういった諸々の情報をインプットしてやらないことには、音楽が音楽らしく立ち現れてこないわけです。これは個人的な解釈ですが、アンドロイドにおける「不気味の谷」も、同じ場所に課題を置いているのではないかと思います。インプットが不十分だから、不自然に見える、聞こえる。そして、その課題は、完成に向かいこそすれ、延々に漸近するばかりで、終着点にはたどり着かないのではないか、といまのところされている。
逆説的に、人間が音楽を再現する場にあってもなお、その事実を直視しなければならないのです。機能的な音楽というのは、たしかに便利で、そこに追いつく技量さえあれば、音楽がある程度形として現れてきます。しかし、その先にたどり着こうと思うなら、人間が機能的に作ったものでも必ずにじみ出る僅かな差分をコントロールするという、非常に繊細な課題について真剣に考える必要があるのだと思います。
前半、ムジクスは、非常に機能的な合唱に徹していました。しかし、そこにあって、この団は「音楽のフレーム問題」にぶち当たっていた。そして、アンサンブルステージで、その課題を、おそらく勝手に滲み出たところから超克するに至り、最終ステージの本山先生による導きを通じて、最終的に、「音楽のフレーム問題」に対する解決の糸口を見出した――人間をしてしか、「音楽のフレーム問題」を解決することは出来ないのだと思います。
記譜を基本にした音楽をしていく我々にあって、これは、おそらく延々闘い続ける課題となるのだと思います。しかし、それだからこそ、この団は、伸びしろがある。機能的課題は解決した。では、フレーム問題はどうだ。閉じた問題領域から逸脱するには、革新的なアイディアが必要、そのアイディアの種はそして、ムジクスのように、しっかりと機能的課題を克服した団によって見つけられたとき、驚くほど素晴らしい世界を開拓するのだと思います。

・メシーコール
JR花園駅前「Cucina naturalismo Da Naoya」
さて、花園駅前なんですが、以前の安土駅もビックリなくらい、駅前に何もありません。否寧ろ、安土駅のことを思えば、スーパーもコンビニもふぐ料理店もあるじゃないかって話なんですが、たとえば今は亡き(!)いたみホール前のミスドみたいな、落ち着いて居座ることの出来る場所は確かに少ない。京都なのに。困った。というところに見えたイタリア国旗。食べ物屋だ。でも店の前を見るとマクロビとある。自分みたいに食が太い人間には物足りないなんて思っちゃうのだろうか……などと逡巡した挙句、でも、ここしかないしな、ということで入店。お昼のセットは三種類。そのうちの一番安い、パスタ、パン、サラダ、ドリンクのセットを注文。時間もなかったしね。
結果。
スンマセン、
マクロビ舐めてました。
否、うまいのなんのって。品数の多いミックスサラダの、素材の味わいと薄味ドレッシングのいい「塩梅」、さらに天然酵母パンの、しっかりと主張しながらもどんどん食べられるあっさりさ、そしてソースともよく馴染み日和らないその食味。さらにパスタは、釜から揚げたてよろしく、湯気を立てた状態でやってくる。そこにかかったソースは、オリーブオイルと少しの塩味、それと白身魚、トマト、九条ねぎの素材の味で食わせ、食味の豊かさから口寂しくもない……なるほど、これがマクロビ食の魅力か。さすがに毎日というと、ちょっとした精進料理状態ですが、美味しいもののうちの選択肢としては全然あり。いやあ、穴場店って、他の店の近くには無いもんですね。勉強になりました。演奏もろとも。
ちなみにこの店、ドリンクではワインの選択も可能です。自分は今回はエスプレッソで。あの時お酒飲んでたらどうなってたんだろう……(遠い目

2016年9月4日日曜日

【びわ湖ホール声楽アンサンブル第61回定期公演】

[“美しく楽しい合唱曲”の午後]
2016年9月3日(土)於 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール 

指揮:田中信昭
ピアノ:中嶋香*

Cantus Gregorianus(グレゴリオ聖歌)from Missa in Dominica Resurretionis
“Introitus: Resurréxi”
“Graduale: Haec dies”
“Sequentia: Victimae pascháli”

Poulenc, Francis: Quatre Motets pour le Temps de Noël 
“O magnum mysterium”
“Quem vidistis pastores dicite”
“Videntes stellam”
“Hodie Christus natus est”

Messiaen, Oivier “O sácrum convívium!” (Thomas Aquinas)

Debussy, Claude: Trois Chansons de Chareles d’Orléans
“Dieu! qu’il la fait bon regarder”
“Quant j’ai ouy le tabourin”
“Yver, vous n’estes qu’in villain”

int. 15min

林光・『月 わたし 風』混声合唱とピアノのために(宗左近)*
「ながらえば」
「日が落ちた」
「月がある」
「この世は暗い」

三善晃・混声合唱とピアノのための『ゆったて哀歌集』(五木寛之)*
「あーうんの子守歌」
「ふるさとの丘」
「てのひらは黙っている」
「鳥の歌」

三善晃・「生きる」―ピアノのための無窮連投による―(谷川俊太郎)*

en. イギリス民謡「ロンドンデリーの歌」

***

 住宅街のはずれ、文字通り琵琶湖のほとりに位置するびわ湖ホールは、琵琶湖を埋め立てた上に建設されたという。びわ湖ホールを中心として広がる町並みは、バブルも終わった1998年にして、新時代の到来を予感させる。箱モノと批判すればそこまでなのだが、少なくとも、県立たるびわ湖ホールに関しては、その批判は当たるまい。オペラ公演が可能な大ホールをはじめとして、大・中・小の三種類が用意されているホールは、非常に優秀な音楽ホール群にして、県民の憩いの場としての機能も十分に構成しているといえよう。
 なかでも小ホールは、客席規模が250席ほどしかない小さめなホールだ。構造も、細木が組まれた壁と、白塗りの天井が波打つ以外は、所謂長方形のシンプルなシューボックス。決して飾らない意匠の中に、反り立つ壁のようにして反響板が立つ。しかし、室内楽やソロを演るにはまたとない好環境で、おそらく、どこで聴いても良好な響きが得られるホールなのではなかろうかと思われる。壁に投影されていたホールオフィシャルスポンサー2社(叶匠壽庵、平和堂)のロゴが消え、団員と、なおもその威光を絶やさない客演指揮・田中信昭の入場が終わり、演奏が始まる。

 一般的には少ないと思われがちなプロの合唱団は、あたりを見回してみると実は結構ある。東京混声合唱団が代表かと思われがちな面はあるが、一方で熱烈な合唱ファンという程でもない人からは、藤原歌劇団や二期会などに代表されるオペラ合唱団の方が有名であろうし、ザ・タロー・シンガースを顕著に、東京を中心に多く結成されてきているアンサンブルグループも、プロ合唱団の裾野を広げている。その他地方にもプロ合唱団は点在している。特に、各地の音楽ホールを中心として結成される合唱団も、独自の活動を続けているところが多い。
 そんな「ホール付き合唱団」の中でも端緒となる活動で知られているのが、びわ湖ホール声楽アンサンブルである。沼尻竜典を監修に迎え、1998年のびわ湖ホール開館と同時に誕生した。本山秀毅を専任指揮者に据えるこの合唱団は、単独演奏会のほか、びわ湖ホールをはじめ県内で行われるオペラ公演やソロ公演でも中核となって演奏するプロ声楽集団として、滋賀県内だけでなく、多くの地域で注目を集めている。実際、びわ湖ホール主催で大型オペラ公演が企画されることは非常に多く、その他自主公演で多くの魅力的な企画を打ち出しているびわ湖ホール。県外にいてその名を目にすることも少なくないことからして、事実としてその注目度は年々高まっているのはいうまでもないことだろう。

 今回のプログラムは、非常にストーリーのはっきりしたものであった。西洋音楽の源流を汲むグレゴリオ聖歌に始まり、ドビュッシー、プーランク、メシアンと、フランス音楽の主流を辿り、林光で和声・旋律端麗な日本の合唱曲に引き込んだ後は、フランス音楽と日本現代音楽の双方を吸収し、創造した三善晃の後期作へ収斂していく。まさに、フランスを軸に、日本における合唱音楽の受容のあり方を映すものであり、その点、非常によく考えられたプログラムだった。演奏順は、最初、ドビュッシー、メシアン、プーランクだったものが、曲の性質を考えてか、プーランク、メシアン、ドビュッシーに入れ替えられたが、最初の順番で演奏されたならば、この演奏会自体が、ほぼ作曲順に演奏されているという、稀有な事態でもあった。
 各選曲も独特である。前半について言及すれば、例えばミサでいえば、演奏会ではふつう通常文、すなわち、Kyrie、Gloria、Credo、Sanctus、Benedictus、Agnus Dei が演奏されるという意識がある中で、今回採用されたのは、復活祭のための固有文から入祭唱、昇階唱、続唱が演奏された。いずれもミサの前半、Credo より前に演奏される曲であり、この演奏会の始まりの姿を予感させる。くわえてドビュッシーに関しては、この曲が唯一の合唱曲ということであり、メシアンについても、自作のテキストを使うことが多い中にあって、トマス・アクィナスによるもの、その中にあって、プーランクはクリスマスモテットと、むしろ異様な存在感がある。

 そして、これだけ意識的に組まれたプログラムであるからには、その流れに揺蕩うように演奏を楽しみたいところである。しかしながら、前半については必ずしも満足のいくものだったとは言いがたい点もある。特にプーランク前半2曲については、各パートの声量バランスが、外声に多く依っていたこともあり、音楽がひとつのまとまりをなすには至らなかった。 また、ピッチについても安定せず、もともと和声が複雑な曲だが、その中にあっても、各パートの位置が正しいものなのか図りかねる音が多かったのは残念である。しかし、プーランクなら後半2曲に顕著だが、曲の横の流れ、各パートのメロディラインが明白になると、音楽が不思議と組み上がっていくのは、この団の強みであるといえよう。
 しかし、メシアンにおける弱音による偽終止、そしてドビュッシーのロマンティックな旋律の流れ、丁寧な母音の響かせ方など、「美しいところを美しく見せる」という技術については、この団は申し分なく持ち合わせている。そして、その強みは、それらの曲が演奏される前に披露されていたグレゴリオ聖歌の単旋律の中に既に潜んでいた。声楽家集団にあってして割と素直なノン・ビブラート寄りの発声によりシンプルに演奏される単旋律。控えめな、否、そうでなければならないその旋律の中にある僅かな膨らみのアルシスには、むしろ天へすら届きそうな可能性すら感じる――。
 このホールは、決して残響時間が長いホールではない。しかし、響きはとても素直で、シンプルに届く。ボリュームを殺すというわけでもなく、無理に鳴らさなくても十分に飛ぶ。しかし残響はさほど長くない。だからこそ、こういった繊細な表現にはむしろおあつらえ向きなホールであると言える。響きが求められそうなプログラムではあるが、しかし逆に、響かないことで得られる表現が光る演奏であった。

 休憩を挟み演奏された日本語は、いずれも絶品のハーモニーを聞かせてくれた。リハーサルでも言葉の問題について深く追求されたようで、今回の演奏においては、前半から言葉の美しさについては終始際立っていたところだが、その強みは、日本にあってはやはり日本語の曲でよく光る。そして、この団は同時に、メロディを歌うことについては最大の強みを持っている。とすると、林光のように、各パートが歌いあげることで揃っていくハーモニーについては、これ以上ないほどのレベルの高いアンサンブルを届けてくれるのである。フレーズが豊かになることで、カデンツも自然に流れていき、結果としてアンサンブルが整っていく。それは、三善にあっても同じだった。言葉をきかせながら、細かい旋律を質感を以て十分に絡めていくその様。『ゆったて』と同様、「生きる」もその点素晴らしかった。
 しかし、だからこそ、である。「生きる」の演奏における凡ミスは残念だったのだが。繰り返しの回数を間違えたり、音を上げる頂点をミスしたりということが多数あったのは、さすがに有名な曲だけあって、聴く人が聴いたら容易にバレてしまう。出来がよかったのにリハーサル不足を逆に疑われてしまうミスだけに、今一度、楽譜に対する意識の向かわせ方、構成に対する理解を再確認させられたいところである。

 この団は、未だ不完全である。プーランクに、「生きる」にかいま見える課題に顕著なように、なみいるプロのひしめく中にあって、まだまだ改善できる点のある団である。
 しかしながら、この団の持つポテンシャルについては、決して劣ることのない、否、むしろ、これからを期待させられる合唱団だと思う。特に、フレーズのもつ力を引き出す能力、そして、言葉の表現をドラスティックに引き出す能力については、決して指揮者だけの功績というわけではあるまい。この団のもつポテンシャルがあらゆる曲に活きてくるとき、メンバーを入れ替えながらまもなく20周年を迎えるびわ湖アンサンブルは、真に全国に名を馳せる名門アンサンブルとなることが出来るのだと思う。
 そして、なにより、この団は、地域に支えられている。先述の、アウトリーチを含めた演奏の数々はいわずもがなであるが、最終的には、田中信昭が「生きる」を前に喋ったこの言葉がすべてを物語る。「今日は、いい演奏してくれてますよネ――イヤ、これもネ、お客さんが良いから。「音楽聴きたいッ!」って、皆が思ってくれているから。お客さんがいいから、こういう演奏が出来るんですッ!」
 思えば。――名古屋から滋賀に越してきた懐かしいお知合いは、至近のこのホールでアンサンブルの世界に浸っていた。私の前に座るお客さんは、『ゆったて』の「ふるさとの丘」で、目尻を指で拭っていた。その隣では、「生きる」を、楽譜を見ながら聞いているお客さんもいた。――びわ湖アンサンブルの原動力は、そんな、熱心に支えているお客さんなのかもしれない。

2016年8月20日土曜日

【東京混声合唱団 いずみホール定期演奏会 No.21】

2016年8月19日(金)於 いずみホール

指揮:田中信昭
ピアノ:中島香*

多田武彦・混声合唱組曲『柳河風俗詩』(北原白秋、1954/1986)

間宮芳生・合唱のためのコンポジション10番『オンゴー・オーニ』(1981)*

int. 20min.

新実徳英・混声合唱とピアノのための『黙礼スル 第1番』(和合亮一、A.E.44、2015)*

ホーガン・編「ジェリコの戦い」(黒人霊歌)
清水脩・編「ロンドンデリーの歌」(イギリス民謡、大木惇夫・伊藤武雄共訳)
田中信昭・編「カリンカ」(ロシア民謡)
三善晃「ソーラン節」(北海道民謡)
池辺晋一郎「ベンガルの舟唄」(ベンガル民謡)

en.
本居長世(篠原眞・編)『汽車ポッポ』

———

 私が初めて東混を生で聴いたのは、確か2010年のことだった。場所はいずみホール。当時、下手の横好きで学生指揮をやっていた。定期演奏会へ向けて取り組んでいた曲が、上田真樹『夢の意味』であったが、その演奏会は、初演をした東京混声合唱団が同曲を再演する、当時としては数少ない機会であった。最早、どうやって行ったかも覚えていない。もしかしたら、それが初めて青春18きっぷを使った時だったかもしれない。――青春18きっぷ消化計画を毎年のように考える今の身からしたら信じられないほどであるが、実家から出たこともなかった当時は、名古屋から大阪というのは大冒険だった。
 音源でこそ擦り切れる程聞いた曲だったが、A席から聞いた当時の東混がどんな演奏だったかも、正直覚えていない。それはまるで、初めて行ったクラシックのコンサートがどんなだったかを覚えていないくらいに、私にとっては新鮮な経験だった。なんとなく朧気に、その時泊まったいずみホール提携ホテルが割と良いホテルだったような気がするとか、そういったことばかりが妙に思い出される。
 しかし、そんな経験を以て、私は今日に至るまで非常によく東混を聴くようになった。結構な長い間、プロの合唱団を東混以外に知らなかったというのも確かにある(恥ずかしい話だが)。だがそれ以上に、私達が持っていない音を持っている東混、それに対する憧れというものだろうか、あるいは、例えば私が演奏できないオーケストラを聴くようなものなのだろうか。いずれにせよ、東混が見せてくれる新しい世界というのに、私は、初めて聞いた『夢の意味』とほぼ同じような気持ちのまま、没入してしまっている(そうして又こんな駄文を認める)。

***

 あるものに接するとき、人には誰しも、邂逅の瞬間がある。突然の出会いかもしれないし、片思いに片思いを重ねて実現する出会いかもしれない。感動的な出会いかもしれないし、もしかしたら出会いたくなかったものかもしれない。なんにせよ、その最初の出会いの、その印象と、得られた利益、あるいは今後に繋がる課題を「原体験」として、私たちは心の奥底のどこかにその思いを係留し、その「原体験」をきっかけに、様々な思索を深めていくことになる。まっさらな中に得られた経験は、他の経験と結び付けられ、あるいは新たにカテゴライズされて、自身の中に整理され、その先、印象を深めていくにあたっての重要なヒントを自らに再生産する。
 私にとって東混が、本格的な合唱の世界に触れる「原体験」であったように、巨匠・田中信昭をしてまた、「原体験」があったのだ。東混を創始し、自らをして団を引っ張りながら、国内を中心とする多くの作曲家に、合唱作品を書くきっかけを作った――この人がいなければ、武満徹も三善晃も、合唱作品を書かなかったかも知れない――、合唱界における「生きる伝説」である。合唱界の最先端を駆け抜けている田中信昭にあって、音楽の「原体験」は、旧制高校の合唱部における経験であった。その後、東京藝大を卒業し、先述した大成をなす田中信昭であったのだが、なにも、当時の学友がすべて音楽の道に進んだわけではあるまい。しかしながら、当時一個下で合唱部に在籍し、就職してもなお日曜作曲家として音楽の道を捨てずにいた者がいた。
 そう、今日、第1ステージに、「後輩」たる多田武彦の『柳河風俗詩』を取り上げたのは、その意味、実に必然である。田中信昭を育んだ土地で、田中信昭の親しんだ音楽を演奏する。アマチュア合唱の世界では、特に男声合唱に親しんだことのある者にとっては、決して知らない者のいない、名作中の名作である。しかし、それは逆説的に、東混にとっては、まったくもって新鮮な経験であった。事実、東混が多田武彦の作品を取り上げたことなど、あったとしても指折り数える程ではあるまいか。それだけに、第1ステージからして、あらゆる意味で注目させられる演奏会だったのだ。
 全員の入場が終わり、田中信昭が入ってくる。拍手万雷、そして鳴り止むその瞬間、演奏会は田中信昭に支配される。当たり前のように聞こえるかも知れないが、しかし、なかなか理想的にそうはならない、演奏会の空気を支配する力。それだけの力を持っているのが、田中信昭なのである。最初から最後まで、物音の一つも許さない(ように感じる)演奏は、爾来東混が築いてきた、日本の合唱における一つの到達点である。勢いという意味では物足りなさを感じたのは、若気の至りだろうか。しかし、各パートの旋律が自立し絡み合い、音楽が目の前で生きているさまは、フレーズが、決して衰えること無く次へ繋がっていくのは、この団でないと成し得ないところである。
 第2ステージと第3ステージは、日本の合唱を形作ってきた田中信昭という、第1ステージが「音楽愛好家としての田中信昭」だとするなら、「職業音楽人としての田中信昭」を見せるステージである。今回選ばれたのは、2つとも、「うた」が主眼とは言えない――広義での「音画」的作品である。「まじない」がテーマにある『オンゴー・オーニ』は、そのエネルギーをそのまま音にし、音をして超常現象を成し得ようとする試みといってよいだろう。(当時の)アマチュアが、まず演奏の困難な曲を、東混はかねてから得意としてきた。いわば、人間自体の、超常的なものに対する畏怖という「原体験」を、この曲を通じて、私達は追体験することになる。身体をして感動する――以前私が書いたことだが――、そのことをして、この曲は「原体験」そのものとなる。導かれるように掻き鳴らされた音の中に、しかし、アンサンブルにおける心地良い「遊び」が、私達の想像力を深めていく。
 第3ステージは、逆に、最近の作品である(否、オンゴー・オーニも「高々」1981年の作品なのだが)。新実徳英と和合亮一が、2011年震災以降中心テーマに据える、震災・原発事故に対する叫びや呻き、あるいは祈りといった感情への対峙。二部作『黙礼スル』は、その流れの中にある。濁流に、絶望に飲み込まれた人々の叫び、なすすべのないことに対する呻き、そして、すべてを慰めるための祈り。畳み掛けるように掻き鳴らされる畏れや鎮魂に対して、すべてを昇華するようにして演奏される、倍音に満ちた祈り――思わず天井を見上げ、降り注ぐ響きを集めようとする。そこには、言葉にし得ないものの共通する、愛するものに対する「原体験」的感情が宿っている。いいようのない美しさに、いずみホールが満たされたその時よ。
 第4ステージは、お楽しみステージとしての選曲。小品ながら、グルーヴ感やフレージング、そしてソロやテンポの揺らし方、掛け合い、そして変声に至るまで、各所で活躍し、それぞれに力を持つ東混の技術力を余すこと無く魅せつける編成である。当事者をして軽い気持ちで歌うそれらの作品は、ある人にとっては、間違いなく憧れとなる。小品の中にこそ、本物はその姿を隠すこと無く、衆目をしてもハッキリとした形で現前する。そんな演奏が目の前にあることに、私たちは驚嘆し、そのことを「原体験」として備えて、その憧れに近づこうとする演奏家がいると又、それも信じたいところである。

***

「原体験」をして、時代はめぐる。それが、東混60年の積み重ねであり、これからの東混が積み上げていくものである。今年もまた、東混は関西の人に深い感銘を残していった。感動する部分は各々で違う。だが、それでいいのだと思う。そうしてまた、それぞれの心の中にそれぞれの「原体験」を備えて、また、多様な未来が生まれていくのだとしたら。――私たちは、いつだって少年なのだ。「わがふるき日のうた」に心を奪われ、そのことを思い出しながら、新たな理想を開拓していく。
 音楽監督・山田和樹をはじめとして、客にも大物の姿が目立ち、まさに、田中信昭の事跡を思い知らされた演奏会。しかし一方で、この演奏会には、翌日の福知山演奏会を振る高谷光昭の姿をはじめとして、若手の姿も多く見られた。これまでの時代を作ってきた伴走者と、これからの時代を引っ張るトップランナー。世代と世代とが交錯して、合唱の「原体験」を追い求める演奏会。その視線を一身に集める田中信昭の背中は、とても大きく、いつだって、凛々しかった。
 奇しくも、私が自身の名前を委嘱会員名簿に連ねたのを確認したのは、今日がはじめてだった。6年の時を経て、私はこれからも、東混が生み出す全く新しい体験を、今後も見続けることができたらと、心から思う。今日の演奏会だって、何か言葉を連ねようとしたところで、結局、圧倒されっぱなしだったのだ。そんな私は、なおも、あの時の「原体験」を、やはり追い求めているのかもしれない。

2016年8月14日日曜日

【千葉大学合唱団東海市特別演奏会】

2016年8月14日(日)於 東海市芸術劇場 大ホール

・メシーコール
門池「大橋みそカツセット」
名鉄・太田川駅から歩くこと25分。東海市役所・大池公園の北に、ロードサイド型の喫茶店があります。定食もやっている喫茶店、まさに、大通りの真ん中にあり、車で来た時のお昼などに最適な場所です。でも、そんな喫茶店・定食「門池」、実は、それだけではない側面を持っているのです……。
今回、あえて会場を離れる方向へ、この店を訪れました。訪れること、通算2回目。今回のお目当ては、以前回避したこのメニュー、「大橋みそカツセット」を攻略するため。大橋、の名前にピンときた人、……同志ですね?笑 そうです、ここ、私が敬愛してやまないアーティスト・スキマスイッチのヴォーカル・大橋卓弥が嘗て通った店なのです。愛知県東海市の出身にあって、まさに、この店は、いわばタクヤ青春の地。以前、ファンクラブでこの店のことが紹介されていこう、各種メディアへの露出や事務所サマフェス「オーガスタキャンプ」への出店も果たし、着々と、スキマファンの聖地としてのポジションを占めている店です。もちろん、グッズ収集にも抜かりがなく、今回のスキマコーナーは、最新のツアー「POPMAN’S CARNIBAL」仕様でした笑 ちなみに、同じ理由で、中日・浅尾投手の聖地でもあります。
で、この、大橋セット。嘗てタクヤが食べていたメニューを再現したという、「聖地」としての門池における看板メニュー。今日の内容は「大盛ごはん」「味噌汁」「山盛りとんかつ」「キャベツサラダ」「しば漬け」「ミニそうめん」「デザート」……そうです、アホみたいに多いんです!笑 嘗てタクヤは、これに加えてさらにとんかつもう一皿食べてたとか……(戦慄)
そんなわけで、今回は、太田川駅最寄りの新しいホールでの演奏会とのこと、こんな好機になぜ行かぬ、とばかりに、お昼はその店で過ごしたのでした……ちなみに、なんとか大橋セットを打倒した当方、その後開演までの道すがら、腹いっぱいで苦しかったというのはまた別の話……演奏会前に食べるものじゃないな、アレは笑

そんなわけで、千葉大合唱団の演奏会。栗友会の一角が、堂々の名古屋登場です。え、東海市? 細かいことはいいんじゃあ!← しかし、夏の演奏旅行というのは、有名団の特権ですね。羨ましい。いずれ当方もあやかりたいところ。
ちなみに、若干チラシ配りに協力していたら、パンフレットの「スペシャル・サンクス」に名前が連ねられていました……そんな、感謝されるようなこと、したかなぁ……苦笑 ともあれ、こちらこそ、ありがとうございます、ということで。

・ホールについて
愛知県東海市に生まれた新しいホール。名鉄・太田川駅は、最近駅前の再開発による発展著しい場所。特急も止まるため、名駅からだいたい30分もあれば辿り着ける点、さほど遠いという印象もないホールです。そりゃ、名古屋市民からしたら、栄の方が近いじゃん、とはなるんですけれども笑 なお太田川駅、全国的にも珍しい3階建て駅舎・2層式ホームで有名でもあります。
座席数広めで2階席もある多目的ホール。音楽に限らず何にでも使えそうだなぁという割に、比較的よく響くこのホール、前評判からして非常に期待度の高いホールでした。その期待を裏切らない、素直な響き方で、すっと消えゆく、音楽に理想的な音響。ただ敢えて言うならこのホール、音量を拾ってくれるホールではないので、付き合うのは難しそう。鳴らせればそりゃ、いつものようになんてことはないんだけれども、響かせ方が悪いと奥に引っ込んでしまいます。
そして、このホール最大の特徴はこれだと思ってる。1階席が、絶壁! いやぁ、絶壁ホールって結構いろんな場所にありますけど、ここまで清々しく絶壁なホールは久々に見ました。座席規模が大きいから、気分としては、中電ホールや東文小なんかよりもずっと絶壁感がスゴいような気がしています。ただ、絶壁、ということは、舞台公演としては、基本どの席からでも見たいものが見れるということなので、その点では全然ありなんだと思います。
今回の特別演奏会は、栗友会が嘗てこのホールでのこけら落とし公演に噛んでいたことがあることに由来するそう。一種、凱旋的な演奏会です。

学生団に珍しく、エールをやらずに、そのままスタート。入場は、1ステは若干遅めだったかしら? でも、気付いたらあっという間に並んじゃってるから、それはそれで不思議な気持ちに……笑

第1ステージ
高田三郎・混声合唱組曲『心象スケッチ』(宮沢賢治)より
「森」
「さっきは陽が」
「風がおもてで呼んでいる」
指揮:佐々木晶

まずはご挨拶ばかりに。爽やかな、ああ、学生団だ、というサウンドが飛び出してきます。どこまでも明るく、どこまでも素直で真っ直ぐで、逆に、それだけに音楽が擬制されているような。
原則何より、あらゆることをちゃんとこなす器用な合唱団だと思いました。あえてこう言いたい、さすが栗友会。音程もバッチリでよくハモって聞こえる。時折ダレる場所こそあれど、全体としては及第点も及第点、名古屋では中々聴くことのできない水準の、十分満足な演奏を聞かせてくれます。でも、だからこそ、それが課題となってしまうのが、こういうアンサンブルのポイント。あらゆる場所で同じ響きを、少なくともこのステージでは使ってしまっていたから、表現に対する深みがいまひとつ足りなかったように思います。言ってみれば、ディナーミクに頼り切りになってしまっていた。あふみの時に言ったことを逆にとれば、もっともっと、一音一音に対する研究が、高田音楽にあってほしいところです。
とはいえ、そこは学生団。それも第1ステージ。ある意味、「爽やか!」その一点で音楽を作ってしまっても、何ら問題は無く、むしろそれでいいような気がするのですけれども笑

そこで前列の席からガヤガヤと人が立ち上がり、ステージへ。賛助の皆さんが空いたところには、千葉大の団員が。なんか、聞き合っているッて感じがステキです。

第2ステージ・賛助ステージ
演奏:東海市民合唱団
arr. 寺嶋陸也
文部省唱歌「冬の夜」
滝廉太郎「荒城の月」(土井晩翠)
文部省唱歌「村の鍛冶屋」

賛助ステージ。ホールの誕生とともに生まれた市民合唱団。まさに、「合唱」、その言葉の意味を再確認させられる、声を合わせ歌を楽しむ合唱団。所謂技術的な面で言えば、決して高いわけではないものの、しっかりと音はあたっていて、響きも高めなのが好印象でした。そしてなにより、このホールが、そして、音楽をするのが楽しいのでしょう。非常にアツい演奏をおやりになる。人数もあってか、強くしたからといって特に崩れることもなく、エネルギーをそのままボリュームに転嫁できていたのが好印象でした。特に、「村の鍛冶屋」など、本当に音楽を楽しんでいる様子が印象的でした。こういう歌が、またいいんだよなぁ。これまた。

インタミ20分。この規模の前プロにして長すぎないかと思ったところで、イヤイヤ、この時間を使って、指揮台を高くしたり、一部台バラしたり、さらにはオケピットをつくってそこにピアノを運んだりしなければならないのですから、これくらいあって当然ってもんです笑

第3ステージ
池辺晋一郎・合唱(混声)のための探偵劇『歌の消息』(加藤直/台本・演出)

「どこからきたのか?」
「失踪」
「たとえれば」
「ボクは此処に居た」
「此処ではない何処か」
「“意味”のバラァド」
「探偵団」
「さまよう青春」
「無題」
「噂」
「尋問」
「夜のうた」
終章
指揮:栗山文昭
ピアノ:澤瀉雅子
舞台監督:植杉光芳
照明:成瀬一裕(あかり組)

今回の目玉となるステージ。栗山先生がオケピットに入ってくる様子をして既に絵になります。1994年、合唱団OMP(現・合唱団「響」)初演です。12曲に前後くっついて、さらに演出も入る超大作で、何より見るだけで体力のいる曲笑 まして曲ともなれば、池辺先生が栗友会からの委嘱に気合を入れまくったのか(否それは事実だろうな……笑)、古きよき難曲要素を、和声、旋律ともにふんだんに取り入れて、バラードからスウィングまで、妖しくも輝かしいものが光る、独特の質量感を表現しています。そう、歌いこなすだけでも異様に大変なこの曲に、なんと本格的に演出まで入れてしまって(否そういう曲なんだけど)、ひとつの探偵劇を構成します。
技術的な面については申し分ないでしょう。さっきまで、軽いかな?と思わせた部分も、指揮者のなせる業か、再演からくる慣れからか、はたまた、曲が導き出した音色によるものか、この曲によく合った、充実したサウンドが鳴っていました。しかしまぁ、歌うのですら大変なのによくぞ動いてもなお、あのクオリティをキープできるものです……笑
この曲における「歌の消息」について。具体的なストーリーを追っかけるのも、何か野暮な気がします。このステージにあって、様々な「歌」をして、各々のメンバー、そして、各々の観客は、各々の「歌」を探しに行きます。言葉の絶えず交錯する先に、心の奥底にある「歌」に対する記憶が呼び起こされていく。その中にあって、行き先を失っていた歌は、各々の心の中に、その行き先を再発見していく、そんなような気がしています。
ともすると、この曲自体の「歌の消息」は明白です。この曲は、それ自体が体験になる。まさに演出をして、その部分がわかりやすく構築されています。演出がないといけないわけじゃないかもしれないけれど、演出があることによって明白に定義づけられていく「歌の消息」。この演出と、この歌、そしてこのステージは、紛れも無く、一期一会。人によっては、――今日は小さい子も多かった――、どこかで聞いたような気がするけれど、といった「消息」を尋ねるべき「歌」に、この曲自体がなりえます。それは、不幸なことなのか。否。こうして音楽は、その業をなし得るのだと思います。消えゆくものだからこそ、それ自体が「消息」を尋ねる体験であると気付いた時、この曲は、循環的に、この曲自体の「消息」を尋ねゆくものだと思いました。
……などと色々呟いてみましたが、久々に本格的なパフォーミングアーツを見せられました。割とコンパクトな構成だった、というのが、これまた、プロのなせる業なのです。スッキリと、やりたいことだけに主眼を向けることで、しかし、メッセージが逆にハッキリと浮き立つ構成だったように思います。勉強になりました。

アンコールはなく、そのまま終了。そりゃそうか……笑

・まとめ
長いようで短い、短いようで長い、そんな演奏会でした。確かに重いプログラムをやっているんだけれども、一気呵成に見せてくれるもんだから、くどいわけでもなく、しかも作品もグイグイ引き込んでくるもので、余計に短く感じました。とはいえあるプロ曰く、こういうのは、もっと見たいと思わせるくらいがちょうどいいとのこと、とすると、これくらいがちょうどいいのかも。
その、長いような、短いような時間というのも、ひとえに、この演奏会の感動の由来が「身体性」によるものだからかな、と思いました。身体をして感じる知覚の共有、とでも言っておきましょうか。いってみれば、眼前に広がる光景に対して、身体が、さもそれを追体験しているかのように感じるんです。よく、名演に接すると自分も歌いたくなる、だとか、自分も歌ったような気分になる、という表現がされることがありますが、まさに、そのように、自分が具体的に為しているわけではないのに、さも、その只中で経験しているかのような心持ちになる。知覚が、自分の中で認識されるにあたって、身体的な事柄と関連付けられることを、身体性、と呼びたいと思います(似たような哲学的文脈が存在しますが、正確に論旨を追っているわけではないので、あくまで独自解釈として)。
いってみれば、今回の「歌の消息」は、身体的体験に他ならなかったのだと思います。もちろん、歌のみをしても十分ありえる感覚です。歌が、そして、それが見せる和声が、その只中にあって、自身をして、その音画的風景の中にあるように思わせる感情。今回は、池辺作品にも勿論加わるそのような音的側面の身体性に加えて、視覚的・運動的な身体性、すなわち、動きや光に関する身体性も加わりました。処理すべき情報が多いのですね。その分、抽象的に受け取った身体として、感じいるところがおおかった。
とどのつまり、「五感で感じる」ってやつです。五感で感じて、五感が受け止めて、五感が反応する。全身が感動する。単に「動きをつける」といって、表面上で何か楽しい要素をつけようというのでない、心の底から、芸術として、身体性と正面から向き合う表現。それが、栗友会の、千葉大のシアターピースなのかもしれない。千葉大の団員の、FBコメントでも、「シアターピースなんて……と嘗て思っていた」旨の内容がありました。でも違う。これは、芸術なのです。まぎれもなく。
もっと、いろんなシアターピースを見てみたいな、と思いました。もっと、奥底から感じる芸術を。……とりあえず、トリエンナーレのパフォーミングアーツでも見に行こうかな……笑

2016年8月11日木曜日

【あふみヴォーカルアンサンブル第6回演奏会〜音楽と文学のクロスロード〜】

2016年8月11日(木・祝)於 安土・文芸セミナリヨ

……ざわめきが聞こえる……
「わたべ、最近全然合唱の演奏会行って無くね?」
「行ってたとしても海外のプロ組相手にポエム書いてばっかりだし……」
「最近行ったのは……めっせと……え、あとドラフト?」
「え? あれ合唱やってたの?」
「さぁ……?」
……というのはともかく笑 わたべは最近は、プレーヤーにまわったり、聞いている演奏会があっても運営サイドにまわっていたためレビューできなかったり、わざわざ千葉までレビュー対象ではない演奏会を聴きに行って挙句当日になっていきなりビデオ係やらされたりで、実はかなりの確率で合唱をやりまくる生活は送っていたのでした笑 そんなわけで、断じて合唱から身を引いていたわけではないのです(むしろここんところ確か毎週合唱関係の何かしてる←)
そんなわけで、本当に久々の、アマチュア団探訪です。今回は、以前うちの団に宣伝に来てくださって、そのまま流れでチケットを買った、あふみヴォーカルアンサンブルさんの演奏会。ついに今年も18きっぷデビュー笑 遅咲きで、現状の予定だと余す予定ですが、かといって夏休み特に予定もないので、せっかくだから「とあること」して使い潰そうかなと考えていたら、この記事書いてる途中に予定がほぼ確定しました。今回のきっぷ使いきり、確定笑
で、この団の演奏会。これまで嘗て聞く機会こそなかったものの、とても前評判がよい。なんなら県外含めて実績も豊富。何気ワクワクしながら向かったのでした。

・あふみヴォーカルアンサンブル
世の中、アンサンブルブームです。特に愛知県なんかひどいのなんの(否ひどいっていうか笑)。愛知県アンサンブルコンテストなんて、ついに団体数膨らみすぎて、かつてののべ2日開催が延長して、のべ3日開催が決定です。大規模な合唱団でも、アンサンブル練習が重視され、ひとりで歌う力だとか、音楽を前へ進める原動力を養うだとかで、格好の練習材料となる。そして実際、少人数アンサンブルって、うまくいくと演奏が精緻になって、キレイに響くから、最近来日の多い海外アンサンブルを含めて、うまいアンサンブルは本当に好まれます。
かたや、日本において、アンサンブルのみで活動をしている団がどれくらいあるかというと、最近東京のプロ界隈でこそ色々と特色ある団が出てきたものの、現状、決して多いわけではない。どちらかというと、アンサンブルって、スポットでの活動というイメージが強い。そんな中にあって、永らく、指揮者を置かないアンサンブル団としての活動を続けているのが、この団です。実際のところ、同じく滋賀県を本拠とするプロ「びわ湖ホール声楽アンサンブル」と同い年という笑 ルネサンスから近現代、古楽器との共演など、レパートリーの幅も広く、近年では、2012年に福島の全国アンコンに出ているという実力を誇ります。今年ですと、アルティへの出演もあったとのこと。アンサンブルトレーナーに、関西で活躍する石原祐介氏を、ヴォイストレーナーには同じく関西で活躍する矢守真弓氏を置き、今も精力的な活動で注目を集めています。

・ホールについて
さすがに初見のホール。最寄駅はJR琵琶湖(東海道)線の安土駅。米原駅から見て京都側にある、普通列車しか止まらない駅です。この沿線、大垣〜京都で降りたことって、今回が初めてです。……山科で乗り換えたことがあるってのはともかく笑
レンタサイクル店がひしめき合う(それ以外?何のこと?)駅前から徒歩で行くと、田んぼの中を抜けて行くこととなるホールです。何も冗談を言っているわけではありません。すぐ沿線に線路があり、駅前が割と賑わっている名鉄国府宮駅前よりも、考えようによっては状況はひどい(笑)かもしれない。徒歩だと25分かかるし笑(シャトルバスも出ていました。当方行きは徒歩、帰りはバスで)。お米たちは有機栽培でやっているそう。花を落とし、愈実り始めた垂穂に、関係各位の苦労が偲ばれます。
そんな、自然に囲まれた田舎(コラ)にあるこのホール。隣には織田信長の記念館もあり、南蛮文化を象徴してか洋館風の建物が印象的な、ある意味、とても風景にあった外装。かたや中に入ると、ホールは、とてもシンプルな内装。シックな色合いのパイプオルガンが目を引くほかは、壁の装飾も抑えめに、ナチュラルな木の色と、緋のカーテンを引くことのできる壁。規模は大体名古屋の文化小劇場〜豊中のアクアホール程度の大きさと程よい感じ。椅子は、「ザ・市民ホール」な角ばった赤色クッションですが、その規模感といい、予ベルの教会の鐘の音を録音したような荘厳さには眼を見張るものがあります。
そしてなにより、演奏始まる前から期待していたんです僕は。喋り声がすっごく響く笑 ワクワクして待っていたら、なんてことはない。邪魔しない残響がホールいっぱいに響き渡り、そして邪魔することなく高い天井へすっと消えていく。奇しくもホールいっぱいのお客さんに支えられた今回の演奏会、それでも、曲の終わりの残響時間はすっごく長い時間キープされている。抜群の実力を誇るクラシックホールです。出会ってきたホールの中でも指折り数えるもっとも優秀なホールの一つです。
いやぁしかし、これまで行ったホールの中では一番空気が美味しい場所にありました。第一回山の日にはピッタリですね!笑

ホールの9割を埋める大盛況の客席の、一番前にはなぜかプロジェクターが。で、開演前になると、突如としてスクリーンが降りてくる(しかもデカイ)。何が始まるのかとおもいきや……石原先生のプレトークでした笑 開演前に、曲目解説をしようという試みの様子。作曲時期の年表から、作曲家たちの来歴について、スクリーンに映るは、まさに講義スライドそのものといった内容、さすが、京都芸大で非常勤講師をやるだけはある……笑 去年は台風直撃で、某合唱ブロガーさんはついに上陸を断念したあふみの演奏会。今回は、団員一堂「リベンジ」と意気込んでいるとのこと。……って、演奏会は開かれたんだから、「リベンジする必要ないじゃないか笑」(石原)

第1ステージ・ルネサンスの音楽
Sheppard, John “In pace”
Clemens non Papa “Heu mihi Domine”
Mouton, Jean “Quaeramus cum pastoribus”
Wert, Giaches de “Vox in Rama”

スクリーンを上げて笑、まずはルネサンスから。とはいえ、もうやられちゃいました。この、最初の音出した瞬間から。鍛えられた声が揃うとこんなにも美しいのか! 本当に美しいアンサンブルが全体を支えていました。決してはめるだけのルネサンスではない。この時代の音楽って、ハメるだけで案外音楽が完成したように見えちゃうんですけど、実際のところはそんなこと全然なくて、各パートが推進力を失ったらとたんにアンサンブルが衰退していくんですよね。この団は、どのパートもちゃんとフレーズを持っている。だから、ストーリー性の高いところではちゃんとその物語を語るし、たとえヘタったとしても、それをちゃんと持って返す能力だってある。1曲目はたとえば、少しテナーの音がずれたりもしたけれども、全体の和声の進行がなにより聞かせるし、逆に、2曲目では、全体が減衰しそうなところをテナーがしっかり引っ張っていった(こう書くと、テナーが気分屋パートのようだ……笑)。母音の響きには正直バラツキを感じる面こそあるものの、しっかり音楽を進める能力が、例えば4曲目に特徴的な半音進行による転調なども軽やかに、この音楽かくあるべき、ということをちゃんと主張して曲を作り上げていく。まさに、理想的なルネサンスアンサンブルの姿、その原石をここに見る思いです。ホールの響きもあって、まずなにより、このステージで僕はこのアンサンブルに心奪われました。

第2ステージ
高田三郎・混声合唱組曲『心象スケッチ』(宮沢賢治)
「水汲み」
「森」
「さっきは陽が」
「風がおもてで呼んでいる」

賛助に、どうやら乗りたかったらしい、4ステ登場予定のチェンバリスト・小林祐香氏を迎えて笑 このステージから、愈演奏会は本題へ入っていきます。今回のテーマは「音楽と文学のクロスロード」。それぞれ周年イヤーを迎えた有名文学作家からインスピレーションを受けた作品を演奏。日本語からは、宮沢賢治。今年は生誕120周年だとか。彼が詩集をしてこう呼ばしめた、「心象スケッチ」を、高田音楽に珍しく、小品に仕上げた作品。実はなにげに、組曲としては初めて触れる作品となりましたが、この曲いいですね。どうしても性質上重い音楽の多い高田作品にして、ある意味楽しく歌うことの出来て、軽く進んでいく作品たちが小気味よい。いやぁ、こんなこと書いていると、知識不足だと怒鳴られそうですが笑
で、この曲とて、しかし、高田音楽なわけで。聞いているだけでも伝わる、音に対する集中力への要求笑 しかし逆に言えば、それは、このアンサンブルがその音をしっかりと情景にまで昇華させていたということ。ただキレイだとか、ただちゃんと楽語記号を付けられているとか、そういう世界じゃどうにもならない高田音楽の有機性を理解した演奏は、曲と曲で異なる性格をちゃんと表現し、その風景を、空気感を目の前に現前せしめる。なにより白眉は4曲目。高音でも無理することなく、クリアかつよく響くぱりっとしたサウンドが、最後の響きまで美しくしていきました。その繊細さと大胆さの同居が、色彩豊かで晴れやかな高田音楽の風景を、水彩画のごとく描いていきました。

インタミ15分。同じく愛知県から遠征してき某合唱ブロガーさんとお話していました(ということは……お楽しみに!笑)。しかしまぁ、窓の外に見える風景が長閑だ……笑

第3ステージ・現代の合唱音楽
Chilcott, Bob “Before the ice (O magnum mysterium)” (Emily Dickinson)
Komulainen, Juhani “Four Ballads of Shakespeare”
1. To be, or not to be
2. O weary night
3. Three words
4. Tomorrow and tomorrow…

1曲目はダブルコーラス。女声7人、男声4人……この人数で以てダブルコーラス!w まずなにより、これを以てスゴいものです笑 2曲目のコムライネンは、最近逝去したラウタヴァーラ氏の弟子。もちろん一群だけです笑 ディッキンソンは今年没後130年、シェークスピアは今年没後400年の周年イヤーです。たまに、シェークスピアの合唱作品は取り上げられますね。いずれも英語曲のステージ。ディッキンソンはアメリカ、シェークスピアはイギリス、そんなわけで、いずれも英語曲。
……そう、苦しめられる点があるとすれば、この英語! 先ほどちらっと、母音がバラける、といった話を書きましたが、まさにその点がネックとなりました。母音のバラケが特にチルコットで、致命的にアンサンブルがバラける要因となってしまいました(これまでが良かっただけに!)。さらに言えば、チルコットは、一群あたりの人数が減るために、どうしても安定性が減ってしまう。アカペラというだけあって、徐々にピッチが落ちることこそあれ、その落ち方が各パートばらばらであったために、結果、要するによく揃っていないように聞こえてしまいました。コムライネンも、その影響引きずって、ではないにしろ、少しだらけてしまったでしょうか。この曲でも課題は発音。音も含めて少し荒々しくなってしまったのは、やはり、英語曲は難しいと多くの人に言わしめるその所以か。特にこの団は、ラテン語が本当に素晴らしいだけに、尚更。
しかし、決めるべき和音、決めるべき箇所ではしっかりと決めにかかるこの団。こういう、音楽に対する最後の意地というかプライドというか、不思議と、上手い団はどこも持ち合わせているんです。音楽に責任があるというか。

今回の4ステは、チェンバロ伴奏という珍しい曲。4ステ始まる前に、チェンバロ移動、そして、長い長いチューニング。そう、弦を弾いて演奏する大正琴のような楽器・チェンバロは(否チェンバロの方がはるかに先だけど)、どうもちょっとのことですぐピッチが狂ってしまうみたいです。開演前にもチューニングしていたのですが、それでも、わざとずらしたりもしていたのか、結構目立って変わってしまっている音もありで、中々大変な楽器なのだなぁ、というのをまざまざと思い知らされました。そして、チェンバロのもうひとつの大事な特徴。それが、鍵盤をどう押しても音量が殆ど変わらない、という点。つまり。

第4ステージ
Monteverdi, Claudio “Lagrime d’amante al sepolcro dell’amata” (Scipione Agnelli)
1. Incenerite spoglie
2. Ditelo, o fiumi, e voi
3. Dará la notte il sol
4. Ma te raccoglie, o Ninfa
5. O chiome d’oro
6. Dunque, amate reliquie
チェンバロ:小林祐香

オーダーは、チェンバロがアンサンブル側に向き、それを、アンサンブルが囲むようなもの。個人的に「24の瞳スタイル」と呼ぶ(今呼びはじめた)オーダーです。このオーダーにしてなお問題となること、それは、チェンバロの音量の限界という問題。これはもう、チェンバロ編成の宿命なのですが、合唱団の声に負けてしまったところで、その段階でもはやどうすることも出来ないという。いやぁ、チェンバロ編成の実演に触れたのは初めてですが、まさかチェンバロの限界というのがここまでまざまざと現れるものだとは。そりゃ、フォルテ・ピアノ→ピアノ・フォルテの流れへと行くわけですわ笑
音楽については、もう何の問題もありません。チェンバロの機能的な制約はともかく、アンサンブルも、チェンバロとよくセッションできていたし、何より、来て欲しいところに来て欲しい音が、来て欲しい勢いのまま、来て欲しい情感を伴ってやってくる。その安心感と、そのシームレスな音楽の進行が何より気持ち良い。全体をして決して明るい曲調ではなく、曲のテーマ「愛する女の墓に流す恋人の涙」をして、そしてモンテヴェルディの音画的手法からして当然なのですが、逆に言えば、その静謐さ、先を見通す危うい透明感が音楽としてとても美しかった。
各パートがしっかりと主張するところがあるから、全パートのtuttiがよく際立つ。キレイながらしっかりと主張することを厭わないのが、何よりこのアンサンブルの魅力なんです。最後にして、その実力が本当によく顕れた名演となりました。

そのまま代表あいさつ。さらに、アンコール曲名発表。だがこれが、なんと、編曲者を聞きそびれてしまった!

・アンコール

所謂「きらきら星」。だが、このサウンドをして、そしてこのアレンジをして、この曲は本当に絶品なんだ! フレーズがしっかりと収まること、風景描写的に響く「twinkle」の囁き、そして、それらがしっかりと責任感を以て鳴るということをして、全体としてとても綺麗に鳴る。一般受けをし、さらに技術をも再確認させられる。この演奏会にして締めにふさわしい作品。
しかし本当いいアレンジ。編曲者情報求ム。否これは、ブログのためではない、個人的趣味だ!←
※2016.8.12 追記:この後、N氏(星◯一の主人公ではない笑)から情報提供を受け、編曲者が判明! 2013年の作品だそうで、Westminster Choir による録音が作曲家本人名義で上がっています。ちなみに、上に貼り付けたリンクは、N氏からの情報提供に際して頂いた音源。関西で隆興しつつある某団、ですね笑

そのまま終演。しかし、米原からは豊橋行きの新快速に乗れただけあって、本当あっという間に名古屋に帰ってきました。卓球の愛ちゃんを見終わってから家を出て、名古屋に帰ってきたのが18時半ころ。実に外出時間9時間程度。もうなんか、近所に遊びに行ったような気分ですね笑

・まとめ
本当に、ひょんなことから手にした演奏会チケットだったものの、行ってよかった! まさかこんな場所で(失礼)絶品のアンサンブルに出会えるとは思わなかったもので。美しいサウンドと、なにより主張するメッセージが同居する、まさにそれは、アンサンブルの理想形のようなものでした。うまくやらないと大人数の合唱団以上に音楽が停滞してしまう少人数アンサンブルにあって、このアンサンブルについては、その心配は全く無し。着実に進んでいく音楽が、そのメッセージを確かなものとしていきました。
いってみれば、このアンサンブルは、心で揃えているんです。詩の、曲の心を理解し、眼と耳をふんだんに使って、団員の心を、五感を研ぎ澄ませながら感じ取って、ようやく一つの音を、一つの旋律を生み出す。その慎重さにして、決めるべきところで思いっきり決めにかかる大胆さ。水彩画と先ほどは表現しましたが、いってみれば輪郭に関しては水墨画のように、薄墨と濃墨が折り重なって生まれる絶妙な風景描写。
美しい中にあって、でも決して、キレイだけで終わらない。キレイなだけの合唱団って、正直いっぱいあるんです。音をキレイにすることの努力というのは、そりゃもう、痛いほど分かっているんですが、それでも、キレイなだけで終わってしまう合唱団って、本当に、キレイなだけなんです。キレイな中に、この曲をどう表現したい、こう表現することこそが、この曲を音楽たらしめる要因だ、そういった意思がなければ、音楽はいきいきと響いてこない。フレーズ一つ取ってもそうなんです。このフレーズがどう収まるべきか、そう収めるためには、前の音をどういう音色で鳴らしていけばよいか……その試行錯誤の末に生まれるのが、血脈流れる人間的な音楽。なにも、所謂無機的な音楽がアカンわけじゃないですし、それはそれで素晴らしい。でも、今たとえばコンクール音楽の限界のようなものが叫ばれるとき、多く共通するのは、このような無機的な音楽におけるグラス・シーリングなのではないでしょうか。
音楽は、常に主張とともにある。それは決してお題目でも、現代における理想でもなく、音楽における、現前する課題なのだと思いました。

・メシーコール
そば処さわえ庵「あわび茸ざるそば」
あんまり書いてなかったんですが、実は最寄りの安土駅周辺、食べ物屋がまるでありません笑 それこそ、デイ◯ーヤマザキすらない。いったいこの近辺に住む人々はどうやって飢えを凌いでいるのか……否まさか、皆が皆コメ農家ってわけではありますまい笑
ってことで、駅前になんとかあった蕎麦屋で昼食。「竜王そば」という郷土そばがあるそうで。そして、あわび茸という、珍しい地の絶品きのこを載せて。濃厚かつ歯ごたえのあるあわび茸と、爽やかであっさりとした竜王そばがよく合った、なんとも素朴な味わい。それでいて、蕎麦湯も蕎麦茶もよく香る竜王そば。まさに、旅の途上に食べる蕎麦は、主張しないながらも、それでいて、ほっこりと、心の奥底の印象に残るものであって欲しいのです。まさにそんな、安心できる味わいでした。あ、近江牛食べたい方、ご安心ください。この店、近江牛蕎麦ありますので!笑