おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2018年12月29日土曜日

【東京大学柏葉会合唱団第65回定期演奏会】

2018年12月28日(金)於 新宿文化センター大ホール

日本で一番偏差値の高い学生団はどこだ問題、再燃。
……否、名古屋で一番というのは、まぁ医混で間違いなかろうとは思うのですが。

何はともあれ、偏差値の非常に高い合唱団の一角、柏葉会です。否、何も、学力の問題だけにとどまりません。何かと一度は名前を聞いたことのあるだろうこの合唱団、学生だけでなんでもやってしまうのが特徴。なんでも、といって、さらに特徴となるのが、本当になんでもやってしまう。嘗ては委嘱初演をしたこともあるようなこの合唱団、なんと今年は二台ピアノをやってしまうのだからすごい。しかもさらに言うなら、ピアニストの大部分も東大生。しかも、なんか受賞歴とかも豊富だし、外国への留学経験どころか、外国への滞在経験なんて書いてあったりもする(もはや関係ない)。もうなんか、本当に、なんでも自分たちでやってしまう。
だから、今回のプログラムだって、なんでもやってしまった成果みたいなもの。だって、なんか、クライマックスが3つくらいありません?笑 そんなプログラムに引き寄せられるがまま、旅で北上するがてら、東京へと向かうのでした。いいじゃないですか、この、どこにでも行ってしまう合唱ブログの今年の締めが、そういう合唱団って、ちょうどいいじゃないですか笑

・ホールについて

所謂典型的な市民ホール……といえば、確かにそこまでなんですが、なんというか、そうとも言い切れないような気がしてくるのが、さすが東京新宿といいますか笑
東新宿駅から徒歩数分の場所にあるこのホール。ただ、そこに辿り着くにも何やら「新宿イーストサイドスクエア」という商業施設を抜けてくることになります。ヒルサイドの億ション(推定)に、マルエツがなにやら高級ブティックのようにも見えてくるこの場所は、新宿駅からも歩ける、まさに都心のただ中にあるホール(なんだかアド街風になってきた←)
そんな中、このホールの内装自体は、典型的な二丁掛タイルにビニールタイル、白い反響板が、いかにもという雰囲気を齎してくれる、典型的な市民ホールの様相。さすが、ここで合唱祭をやるだけのこともあります(。とはいえ、NHKホールと近しい位置にはパイプオルガンも。さすが東京……やることのレベルが違う……笑
とはいえ、ベルは「b--------!」で始まるこのホール、響きはなんだかんだ言っても市民ホールのそれだったりします。舞台に音が少しこもってしまうその響き、残響は豊かなものの、音量が返ってこないという、市民ホールではありがちな音。決して汚い響きではないものの、声をきれいに合わせて、和声でボリュームをつけていこうとする団にとっては、なかなか苦しいホールだったりもします。NコラとかOEコラとか、鳴らせる団だったらなんということはないのだと思います。何にせよ、響きに依存しきれないのが、辛いところでもあります。
でも、客席はコンパクトで、ステージは間口・奥行き・天井高全てにおいて高いので、使い勝手は非常にいいホールだろうなと思います。

さすが東京。何がって、そりゃ、高々(失礼)学生団の再演であるにして、そこらへんに土田豊貴センセが歩いていることですよ笑 注目度の高さが伺えます。
5〜6列のオーダーに100人程度か。恵まれた人数の黒・黒の衣装も目に印象的です。

・エール
柴田南雄「柏葉会歌」(田中司)

響きは意外にも、関西でもよく耳にするような、上の響きを掬い取るような鳴らし方。そう、何かと言えば、このホールを不得手とするような鳴らし方です。良くも悪くも、これが最近のトレンドなんですかねぇ。
和声変化が美しい柴田南雄の作品。であるからにして、確かにこの鳴らし方は非常にいい。しかもここ、パート間で響きが同質的だから、ブレンドされた時に非常に美しい和声が鳴ってくれていました。でも、少し力不足かな? 否、エールだし、というのもあるんですが、きれいに聞かせようとする余り、テナーのリフレインするところとか、所謂聞かせどころもソフト一辺倒とうのも、やや頼りなげと言ったところでしょうか。せっかく人数もいるので、もっと、一人ひとりが歌いこむ演奏というのも聞いてみたいところ。最後の音量がメゾフォルテと心得たい。大丈夫、一人くらいミスってもバレへんて←
でも、この綺麗な音、今後のプログラムを見れば、否が上にも期待しちゃいますよね。

一旦捌けて、愈注目の前プロ。

第1ステージ
信長貴富・混声合唱とピアノのための音画「銀河鉄道の夜」(宮澤賢治)
指揮:竹村知洋
ピアノ:水村彰吾

ベタ〜低い1段目に全員がオーダー。30〜50%の舞台照明に、挨拶なしに始まり、最初の空を見上げるモチーフを持つヘテロフォニーを淡々と積み上げていく。次第に、車窓の風景は天へと登っていき、人々の幸せを祈る「ハルレヤ」が聞こえてくるところで全照。銀河鉄道の車窓が速度をあげて描写される中、死の暗示となる「カムパネルラ!」の絶唱とともに暗転。ソリストにスポットがあたり「まことのみんなのさひわひのためにわたしのからだをおつかいください」と語られるのに呼応して湧き上がる「ハルレヤ」、そしてそれがカオスチックに群衆の咆哮へと変わっていき、風景はまた、丘の只中へと帰っていく‐‐。
照明から演出、そしてソロの直後、しばらく俯いてハルレヤとともに帰っていく、その所作に至るまで、徹頭徹尾表現のために捧げられた「銀河鉄道の夜」。嘗て演奏したことある身としては、演奏するだけでもなかなか体力を使う(「ガタンコ」飛び出さなかったのエラいな!笑)、信長サウンドスケープの代表作とも言える作品を、この団は見事に表現しにかかりました。特に最後の「ハルレヤ」のカオスなんかは、もっと音圧を以て吠えることができたらいいかな、とか、ジュグランダー近傍のテンポは滑ってたかなとか、「サアペンテイン」近傍のカデンツはもっと歌い上げるように音量出しても良かったんじゃないかな、と思ったりもしましたが、もう、この、私達のやりたいことはコレなんです!ていう堂々たる主張が、何よりこの演奏の表現を確固たるものとしていました。
否、もっとできることはあったと思うんですよ。でも、この再演、最高に素晴らしかったです。「銀河鉄道の夜」そのもののストーリーを描くのもそうですが、「銀河鉄道の夜」に描かれた情景が、いわばみたまま描写されているのがこの作品。その風景の美しい描写が、見事に演奏の中に表現されていました。それでいて、パンフレットの解説も非常にしっかりしているものだから、聞いていても、まるで風景が目に見えてくるよう。そう、確かに、この曲では、こういうことがしたいんですよ。まさに、名曲は、再演によって磨かれる。当意を得たり。

長めの転換の後、次の演奏へ。

第2ステージ
土田豊貴・混声合唱とピアノのための『愛の天文学』(寺山修司)
指揮:保坂朋輝
ピアノ:村松海渡

否、まずコレさ、曲がいいよね笑 曲名からいいよね笑 歌詞から拾ってるとはいえさ、天文学と恋愛を絡め取って愛を歌うあたり、もうコレでもかってくらい寺山修司臭くて大好きですわ笑 ブルースですよ、ブルース。憂いを感じながらにして、でも切実たる恋情を心から歌い上げるっていうね。で、それについている音が、土田センセの畳み掛ける一方で止揚してドラマチックに歌い上げる場所もあったりして、その、めくるめく中に見せる緩急が、より切なさと美しさを感じるっていうね。いやぁ、最近愛唱曲みたいな曲やることどうしても増えてるから、たまにはこういうことしたいよね、うん笑
ところで、こういうホールってデュナーミクの表現がすっごく難しいよなって思います。何でって、音量増やしても鳴らないですから。でも、この演奏、なんてことはない、そういうことは、キニシナイに越したことはない笑 最初のカデンツで、まずは思いっきり大きなデュナーミク。もう、これだけで、このステージ、十分、やりたいことが見えたなっていうところですわ笑
でも、逆に、そういった表現の部分で、少し欲張りたくなってしまうことも。特に、深刻な部分をどう深刻に表現するか、という点。基本的な表現は非常に良くできていたと思います。ただ、それが、常に明るくて透き通った、よくハモるきれいな音でのみ表現されていたというのが、これまた非常に惜しいところでもあります。
表現の仕方が、強弱や子音の強さという、限定的なものにとどまってしまっていたような気がします。一種、次元を上げる表現をするためには、もっと違う基準軸を持ちたいところ。例えば、詩を読むという時に、私達は何も、記譜上の強弱のみを意識しているのではありません。言葉自体が持つイントネーションを自然に発揮して、意味として流れる読み方を、暗黙のうちに心がけています。それを歌に導入するには、漫然と歌っていてもそうはいかないんですよね。その言葉言葉の持つ表現の特色や、あるいは、フレーズ自体が持つ自然な息の流れを、もっと敏感にキャッチして増幅できると、表現の次元がより広がっていったと思います。
否しかし、これだけの曲を、よく表現したと思います。特に、終曲の壮大さは、何より称賛されるべきでしょう。もっと響くホールや、もっと鳴るホールでやったら、もっと面白いんだろうなぁ……というのは、今後のお楽しみにとっておきましょうか笑

インタミ15分。そうそう、パンフレットについて、上にも書きましたが、「銀河鉄道の夜」のあらすじあり、寺山修司の詳細な紹介あり、なんなら自作詩かねコレはっていう内容もあり、ものすごい分量と読み応えです。コレもらえただけで、この演奏会来た価値ある。あ、そうそう、「鏡」の異体字の写植経験者としては、担当様お疲れ様でしたと、心の底からのねぎらいの声を差し上げたい笑

第3ステージ:空によせる3つの小品
Chilcott, B. "Weather Report"
Antognini, I. "There will come soft rains"(S. Teasdale)
Elder, D. "Twinkle, Twinkle, Little Star"(J. Taylor)
指揮:保坂朋輝

英語曲が中心。いずれも、この団に演奏させたら絶対に合わないことはないという確信はありました。その確信通り、音の面は問題ない。特にアントニーニの集中力は、非常に優れていたと思います。長い曲で、風景が頻繁に入れ替わる中を、最後の音にうまく収斂させていきました。そしてなによりエルダーは、この団が絶対的に得意としうるプログラム。各パートの同質的な音から広がる "Twinkle twinkle..." は、聞いていてスカッとするものでした。コレめがけて来るに値するプログラム。曲のテーマとしても、非常に雰囲気のいいステージでした。空というひとつのまとまりに対して、透明感のあるアンサンブルが織りなす雰囲気がなによりおしゃれ。
ただ、気になるのが、発音の問題。英語って子音出しづらいですからね。チルコットは、早いパッセージのリズミカルな雰囲気を、うまく子音と関連付けられるとよかったか。具体的には、もっと無声子音を早く出すこと。多くの場合、ボイスパーカッションみたいになってくれて、リズム形成に役立ちます。そしてなによりきになったのは、「意外と」母音が5つしか聞こえてくれないこと。「ア・イ・ウ・エ・オ」以外の5つの母音を、ちゃんと演奏に反映できれば、曲自体の風景も広がりを見せたような気がします。なにより、閉母音で響きが狭くなり、開母音で響きも広がってしまうという、典型的な響きへの無頓着は、善処されたい。そういった意味では、チルコットは特に、もっと磨く場所はあるかなと思います。

しかし、2・3ステ指揮者の保坂くん、もう、歯磨きのCMにでも出れてしまいそうな爽やかさだ笑

舞台転換の間にマネジャーさんが舞台挨拶。否これが、周到に拍手を要求してくる、ずいぶんアタマの良い挨拶で笑
噛んでもイケメンだし。否、さすがやで笑

その間に置かれた、ぼろぼろになった譜面が、はからずも、同曲に対する思い入れを物語ります。
しかし、卒団生の胸元についたコサージュを見ると、ああ、学生団来たなぁって思いますね、やっぱり。

第4ステージ
三善晃・混声合唱と2台のピアノのための交聲詩『海』(宗左近)
指揮:竹村知洋
ピアノ:白倉彩子、西村京一郎

最初ね、不安だったんです。確かに綺麗な音を鳴らす団で、どんな曲もそつなくこなしてくれそうだけど、なんか、力を求められる曲になっても、そのまま流して、さらっと終わらせてしまうんじゃないかって。特に、音量の問題については、前項でも指摘していたところなので、余計にその懸念がありました。
でも、そんなの杞憂に過ぎなかった。音の鳴りの問題をホールのせいにしなかったのは、ひとえに、この曲の演奏にあります。この曲、これまでのステージにないくらいに、本当に力のある、素晴らしい演奏でした。何か、特にソプラノなんて、母音の発音の仕方が違ったくらいなんですよね。最初は弱い音からはじまって、さぁ、ここからどれだけ大きくしていけるかな、と思っていたら、本当に、自分の期待を遥かに超えて、理想的なフォルテを最後は鳴らしてくれました。
この曲って、生きることに対する賛歌なんですよ。海という連続して躍動する対象をフィルターにして、自らの生について高らかに歌い上げる。だから、作曲には2年を費やすほどに、そして、歌い手は、これまでに出したことないような咆哮をかき鳴らして、生について歌い上げる‐‐否、絶唱していく必要がある。この曲とは、命を賭けて向き合わなきゃいけないんです(まだ自分では演奏したことないけど)。それくらいに力のある曲。最後は、なりふり構わず、とにかく大きな音楽を作ることに集中しなければならない。
しかして同時に、冷静さも失わないのが、この団のすごいところ。とかく模範音源でも崩れがちなボリュームバランスや和声といったところを、この団は的確に歌い分けて行く。ものすごく立体的で、理知的なのに、人間的な生(せい/なま)の声も、しっかりと聞き取ることができる。
ここでようやく、ホールを恨む‐‐否、この曲は、これくらい、人間の生の声を届ける、届けなければならないホールがよく合います。「銀河鉄道の夜」でグッと呑み込んだブラボー、この曲までとっておいて本当に良かった!

encore
三善晃「であい」
指揮:竹村知洋
ピアノ:白倉彩子、西村京一郎
保坂朋輝「かなしくなったときは」(寺山修司)〈初演〉
指揮:保坂朋輝
ピアノ:村松海渡

否どうせ、パンフレットにも生と死について書いてあったし、きっと「夕焼小焼」かそこらへんやろうとタカをくくっていました。‐‐指揮者のセンスに脱帽。そう、学生団のバイオリズム自体を非常によく描写できているのは、まさにこの曲にほかなりますまい。「ここで出会いましたね」から「さようならとは信じている証」まで、まさに、歌いつないできた、学生団を回顧するに相応しい内容。コレを泣かずに歌い切る団員たちの決意たるや。
その決意は‐‐もしや、この曲の初演のためか!?笑 なんと、自分のためのアンコールを、自作初演に使ってしまうという、堂々たるステージ構成! しかもこの曲、tuttiとカデンツの繰り返しをジャジーに繰り返しながら、中間部ではやりきれない思いを朗々と歌い上げていく。ピアノのコミカルさも相まって、非常に素晴らしい出来。初演にして、もっと、ああしたい、こうしたいという欲情も駆り立てられる(例えば、主題の提示をもっと朗々とする、とか)。その欲情、すなわち、この曲、再演の価値ありという証。あっぱれ。

ストーム等はなく、そのまま終演。しかし、ホワイエの混雑はすごかった笑

・まとめ

 私達って、合唱で、何がしたいんでしょうか。
 最近、つくづく思うんです。私も歌い手ですし。何で歌ってるんだろうって。歌で、何が伝えたくて、何が面白くて、歌っているんだろうって。何かの諦念とか、消極性の現れとか、本人の感覚としては、そういうわけでもないんです。最近、自分としても本番が多かったり、事務仕事が増えたりして、何ならこうやってレビューを書いていたりして、いろんな機会でいろんな演奏に触れるようになっています。そのたびに、いろんな人達が、みんな思いを込めて演奏会、あるいはジョイントコンサートやフェスティバルのステージを作るわけですけれども、でも、やっていることの実態は、結局合唱という一つのジャンルの音楽、下手したら、その中でも非常に限られたプログラムや、限られた表現の中にとどまっている可能性だってある。ものすごく狭い領域の中で、ああでもない、こうでもないと苦労を重ねている割には、アマチュアゆえの実力不足というべきか(あるいは単に個人的な問題か)、特に前と大差ないか、あるいは先人たちよりも退化しているんじゃないかと疑ってしまうことだってある。‐‐そんなこと考えだしたらきりないってわかってるんだけど、でも、考えてしまう。
 それくらいに年をとって、それなりに経験を増してきた、といえば、少々聞こえはいいのかもしれません。でも、逆にいえばそれは、これ以上は伸びないのかもしれない、という、一種の恐れのようなものなのかもしれない。これといえば、こういうものだよね、とばかりに、公式に当てはめられないはずの豊かな表現の差分を、ぐっと狭めてしまう、そんな意識にすらなりかねない。確かに、その公式に当てはめれば、音楽ってすぐ、聞こえのいいものになる。でも、そんな音楽、私が音楽をやり始めた原体験の憧憬に、見つからないんです。
 自分の自意識の中にしか、自分が求めるものはありません。つまり、自意識の範疇、いうなれば、表現に対する自由な心がなくなってしまえば、表現は、あっという間に狭まっていくし、音楽は、目的意識を失って、BGMにすらなりきれない。たとい、環境音楽だっていい。私達は、深く自らに問いかけて行かなければならないんです。私達って、合唱で、何がしたいんでしょうか。

 学生団というのは、非常にそういう性質に陥りやすい特徴を持っています。特に継続を意識しなくても、毎年スケジュール通りの春がやってきて仲間が集い、合宿をして、秋を越えて、冬になったら自団の演奏会で大団円を迎える‐‐そんなスケジュール自体は、いろいろほっといても過ごすことができます。もちろん、それに至るための事務的な努力はしなければいけませんが、ぶっちゃけ技術的なことは、語弊を恐れずに言えば、音をハメることさえできればとりあえず形にはなる。どこかがそういう演奏であったというつもりはないですが、しかし、そういう無意識な怠慢は、演奏にだんだん滲み出てきて、取り返しがつかなくなるような性質のものです。まさに、「隠された悪を注意深く拒」まないと、文字通り、音楽は死んでしまうのです。
 そうならないための方策はいろいろあります。曲に対する深いアプローチと、多方面にわたる表現の追求というのは、当然そのうちに含まれますが、もっと観念的なこと‐‐言い方を変えれば、もっと精神的なことでいえば、「その時、私達がやりたいことをやる」というのも、演奏を殺さないための一つの方策なのだと思います。
 当たり前っちゃ当たり前なんです。でも、妙な魔が差すことがあるんです。自分はコレを面白いと思ってるけど、お客さんはそうは思わないかもしれない、とか、本当はコレがやりたいけど、お客さんへのアンケートではアレをやれという声が大きいから、じゃあアレをやろう、とか、外の目をやたら気にしてしまうこと。気付かないうちに、本意ではない演目を選び、それにのめり込むこともままならないうちに、よくわからないうちによしなな演奏が終わっている、みたいな状態。
 少なくとも、最初っから自分がやりたかったことなら、その気持ちを維持することさえできれば、悪い形で人の前に出して満足するようなことはないはずです。やりたかったことを、やりたいように実現するために、選んだ後も、最後の演奏まで、自らの理想のままに、突き進むことができるはずなんです。政治的なことを考えちゃうと難しいことも、そんなこと、そもそも考えなければ、何ということはないんです。

 今回の演奏会のプログラム、並の合唱団だったら、そうはならんやろって並びです。なんたって、クライマックスが2〜3個あるし、アンコールに学生団員が自作自演するなんて少なくとも自分は見たことないし、なんだったら、学生指揮しかいないのに交馨詩『海』をやろうとは、普通思わない笑 それでも、自分たちのやりたいがままに選んで、自分たちのやりたいがままに演奏しきった。『銀河鉄道の夜』に見せた美しい構図も、『愛の天文学』に見せた、めくるめく感情のゆらぎも、果てしない空の広さも、『海』が見せた、生々しい実存への咆哮も‐‐。
 簡単にできると思ったら大間違い。何を表現したくて、何を歌うべきなのか。そのことを、楽譜やテキストの分析に加えて、それを心の中に十全に落とし込んで初めて響く音が、そこには確かにありました。確かに、あちらが立てばこちらが立たぬということが一切なかったわけではない。でも、彼らの、その時にしか鳴らない音、その時にしか鳴らせない表現が、そこには確かにありました。

 私達って、合唱で、何がしたいんでしょうか。‐‐正直、そんなもの、答えが出るような問いではないのかもしれません。でも、合唱へ向かう姿勢という点に対しては、今日の柏葉会の演奏は、いわばお手本のようなものなのかもしれません。自分の信じた音楽を、愚直に追い求めること。何がどこまでできるかなんてわからないけど、やると決めたことを、できるところまでやる‐‐その先に見えてくる景色が、例えば今日の演奏のような、輝かしい大団円だと信じて。

2018年12月23日日曜日

【VOCES8 クリスマスコンサート】

[Okazaki Exciting Stage Series]
2018年12月22日(土)於 岡崎市シビックセンターコンサートホール

Britten, B. "A Hymn to the Virgin"
Praetorius, M. "Es ist ein Ros'entsprungen"
Biebl, F. "Ave Maria"
Praetorius, H. "Josef, lieber Josef mein"
Stopford, P. "Lully, Lulla, Lullay"
Elgar, E. "Lux Aeterna"
Kate Rusby(arr. J. Clements) "Underneath the Stars"
Ben Folds(arr. J. Clements) "The Luckiest"
Palestrina, G. P. de "Magnificat Primi Toni"

intermission

Simon and Garfunkel(arr. A. L'Estrange) "The Sound of Silence"
arr. J. Pacey "Danny Boy"
Dougie MacLean(arr. B. Morgan) "Caledonia"
Carroll Coates(arr. G. Puerling) "London by Night"
arr. B. Morgan "TOKYO"
フリッパーズ・ギター「恋とマシンガン」
Suchmos「Stay Tune」
Original Love「接吻-Kiss」
Perfume「TOKYO GIRL」
ピチカート・ファイヴ「東京は夜の七時〜the night is still young〜」
椎名林檎「長く短い祭」
John Coots & Haven Gillespie(arr. J. Clements) "Santa Claus is Coming to Town"
Jule Styne(arr. J. Clements) "Let it Snow"
James Lord Pierpont(arr. G. Langford) "Jingle Bells"
(above based on announced)

encore
山下達郎「クリスマス・イブ」

***

 クリスマスとは何であるのか、という、ありきたりな疑問を投げかけたい。
 どちらかといえば、宗教的な問題としての問いかけではない。街に出れば、クリスマスのためのイルミネーションが街を飾り、浮かれた気持ちで街を歩くカップルが街を歩く、そんな、日本人のクリスマスの風景。クリスマスのための街頭イベントと、クリスマスセールと、そんな中で、ひっそりと忘れられてゆく、祈りのためのクリスマス。
 もっとも、日本においては多くの人について、クリスマスの祈りとは無関係の中にある。クリスマスとは、年末気分を最高潮に盛り上げるためのお祭りであるーーそんな説明が似合うくらいに、日本においてクリスマスは曲解して、しかしながら、十分に、浸透した。
 海外においても、アドベントを皮切りにーー否、例えばアメリカにおいてはその前々日のブラック・フライデーを皮切りに、クリスマスは装飾に包まれる。ヨーロッパにしても、クリスマスへ向けて祈りが捧げられる一方で、俗世では、日本にも似た、否、日本以上かもしれない、クリスマスのお祭り気分は見ることができるはずだ。
 イギリスでは、熱心に教会へ行く人が減っているという。もちろん、一部の現象であろうし、(これまた人によるだろうが)年に一度程度しか氏神様に詣でない日本人が言うような話ではあるまい。でも、ここまでキリスト教が一般的となった今日にあって、決して熱心な信徒ばかりでもあるまい。イスラム圏はじめ各宗教国をともかくとして、クリスマスは、気がつけば世界的に、なにかを祝うイベントとして、ひとつ受け入れられている側面がある。
 その証拠に、アマチュアであれなんであれ、音楽を愛する人々はこの季節、にわかに忙しくなる。合唱人だって、毎年の第九に加えて、クリスマスコンサート、それも、聞くだけでなく、歌う方でも。私事ではあるが、私とて、細かいものを含めたら、今月だけで本番が6本。紛れもなく、アマチュアであるのだが。
 そんな中、「クリスマスコンサート」と題してVOCES8は、ジャパンツアーを周る。関西などではワークショップも開かれ、大小・地域様々なホールで、オルガンのあるような堅牢かつ麗美なホールから、市民ホールのようなホールまで、様々な場所でその端正で美しい響きを届けている。
 今回のホールとて、決して悪いホールではない。岡崎イオンのすぐ南、岡崎市の公共施設の中に入るそのホールは、真四角・長方形のシューボックス。ホワイエから見渡せる岡崎市の情景と、遠くにみはるかす山並み、そして、一歩入ると、腰壁に配された明るいブラウンの木壁、そして、白く塗られた壁。派手さはないが、すっと、心の中に染み入る、明るく開放的な内装は、高校アンサンブルコンテストが開かれる会場でもあり、まさしく市民に向けて開かれたホールである。響きも、鳴りに優秀なわけでこそないものの、雑音なく自然な音が届く。ーーそう、どこか、演者と聴衆の、心が近づいてくるようなホールである。そんな、いつでも気軽に来れるようなホールで催されるクリスマスコンサートは、しかし、どこかいつもと雰囲気が違っているものでもある。

 開演前からBGMがホールに流れ、開演前アナウンスはジャパンツアー共通のものであろう。ホール主催公演ということもあってか、やや高齢世代が多い観客構成とは裏腹に、どこかいつもの合唱のコンサートとは違う浮足立った雰囲気が流れていた。なんだか、誰かの家のクリスマスコンサートに来たかのようなーー。いつもより、ちょっとおしゃれしたような、手の込んだような照明の作りも、気分を高めていく。
 客席の暗転とともに、客の雰囲気が張り詰める。その空気が静寂を作りきった瞬間に、1曲目は、こっそり入ったメンバーらにより、客席後方より演奏される。まるで、こっそり、サンタクロースが入ってきたようにーー、コンサートは、音楽を楽しむ空気を一気に作りだす。
 前半は、クラシックナンバーを中心として、響きの世界に酔いしれる。その響きは、徹底して柔らかい。特に「エッサイの根より」の優しく甘美な空気は、それを象徴している。柔らかな響きが、自由で、自然な雰囲気のままに、各パートに寄り添い合って、混ざりあい、溶け込み、心の中に入ってくる。「アヴェ・マリア」は、普段からアマチュアでもよく演奏される曲であるが、かといって、こんなに徹底的に piano に抑えられた、静謐で、豊かな祈りの気持ちに満ちた演奏を聞くことは、滅多にない。私の真後ろにいた客が、思わず息を呑む、その瞬間、万雷の拍手が響くーー。
 精緻でありながら、心の直ぐ側にいるようでもある。「ルリ・ルラ・ルレイ」の tutti からだんだんと広がっていき、また収束していく、繰り返される和声は、まるで音楽の、この世界の永遠をも想起させる。夢のようにして、しかし、ソプラノのオブリガードが、今、確かに、ここに世界があることを、天の高みより教えてくれる。「永遠の光」まで続くその流れ、そして、中盤より展開する充実の和声が、愈世界を解き放つーーそれはまるで、満点の星空が光り輝いているかのような美しさを、私達の前に提示する。瞬くように自由で、輝かしい恒星の明かりこそ、この演奏の Lux Aeterna であった。
 どこまでも優しくて、穏やかで、心の落ち着く響きである。それは、私達の身近に寄り添っていながら、その純粋さ故、どこか高みより演奏されているようでもあるーー確かに、手が届きそうな音なのだ。それは決して卑下するわけではなく、私達の生活の中で聞いているような音と近い。決して気取るわけでもなく、しかしながら、音は品を失うことなく、美しく、メッセージに満ちた音が鳴る。

 後半の頭は、イギリスの伝統的なポップスナンバーから。それもまた、彼らの俗を含む聖なる響きの中に、美しさを以て語られる。ドギー・マクリーン「カレドニア」の美しさは、その中にあって白眉である。照明のさり気ないアクセントの中にあって、ロードサイドで歌っているような気楽さが、聴く者の気分をイギリスへ誘う。叩かれるテンポの正確さーー否、「適切さ」と言ったほうが正しいであろうか。曲に配置されるテンポの一つ一つが、曲の表情を見事に彩る。
 そして、そのテンポの適切さを見事に表現したのが、ジャパンツアー特別演目とも言える「TOKYO」メドレーである。古今東西、文字通りあらゆるジャンルから選ばれた曲たちと、それぞれの曲が見せる特徴を、余すことなく彼らは表現する。Suchmos のようなロックもできれば、ピチカート・ファイヴのようなポップスもできる。まさに「長く短い祭」のようにめくるめく駆け抜けていったステージは、それだけで来たかいがあると思わせるほどのエンタテインメントであった。
 そう、彼らの音楽は楽しみに満ちている。それもすごいのは、目立ったことをしなくとも、音だけで楽しませる実力とユーモアが、そこにはある。まるでーーあえてこういうならーーブリティッシュに対する定番のイメージをそのまま体現しているかのような、身軽さと、溶け込んだ娯楽の心を、演奏の中に見出すことができるのだ。しかも、それが全く無根拠による馬鹿騒ぎというわけでもなく、しっかりとテクニックや楽曲に裏打ちされているのが、いかにもブリティッシュである。ーーイギリスは、チャーリー・チャップリンやミスター・ビーン、ローリング・ストーンズやザ・ビートルズを生み出した娯楽大国である。
 そして、彼らが決して動きを持たず音楽のみ、というわけでもない。撮影OKとされた「サンタが街にやって来る」以降のリズムの中に軽快に揺れる身体、そして、茶目っ気に溢れた表現と動作の中に、拍手が終わるたびに大きくなる。別れを惜しむように疾走する「ジングル・ベル」でのトナカイのソリは、遂に大きな喝采を私達に齎した。

 クリスマスとは、お祭りとして受容されていると書いた。しかし、かたや教会では、今年も聖なる祈りが捧げられていることであろう。私自身、そのギャップは二律背反のような気がしていた。でも、もしかしたらそれは、そんな単純なものではないのかもしれない。ーークリスマスとは、清濁合わせて、クリスマスというべきなのではないか。
 今年も、クリスマスが盛大に催される。年とともに、どこかそんな喧騒とは距離を置きたくなることもある。でも、そんな中にあっても、粛々とクリスマスが祝われる。日本人が年の瀬にあたり、今年も一年無事に過ごすことができた、そんな気持ちで、クリスマスに祈りを捧げている人だっているかも知れないーーそういう過ごし方だって、いいじゃないか。
 宗教音楽に始まり、トナカイの疾走するジングルベルに、そして、日本人が日常的に見るクリスマス・イブに終わるVOCES8のクリスマスは、得てして、現代におけるクリスマスの諸相を余すことなく表現していたのではないか。まずは、そのプログラムの並びに、心から拍手を送りたい。加えて、彼らは、そんなプログラムを、気取ることない表現で歌い上げた。派手でもなく、雑でもなく、それでいて決して内なる祈りばかりを表現しているわけでもない。「ルリ・ルラ・ルレイ」の響きから、「レット・イット・スノー」に至るまで、その表現のすべてに至るまで、心の中にそっと寄り添ってくれるような、優しくて、美しくて、華やかで、そして温かい響きが、すっと溶け込むようなーー。
 今年も、クリスマスがやってきた。何をしているわけでもないはずなのに、忙しくてバタバタと駆け回る、そんな日々を過ごす私が、ふっと立ち寄り、その中にそっと届けられた、私だけに向けられたーーそんな気がする音楽。心落ち着けて、ああ、年末だ、クリスマスだと思い出す。

 そしてようやく、私のクリスマスは、実感として、私達の心の中に届けられた。