おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2018年1月14日日曜日

【名古屋大学グリーンハーモニー第51回定期演奏会】

〜ちからのかぎり、そらいっぱいに〜
2018年1月14日(日)於 日本特殊陶業市民会館ビレッジホール

本日の移動経路:
自宅→熱田神宮(正月飾りを納めに)→美濃太田駅(中央線・太多線経由)→徒歩→美濃加茂市内某所→
 →日本ライン今渡駅→栄地区某所(広見線、犬山線、地下鉄経由)→本演奏会→栄(地下鉄経由)→自宅
本日のメシーコール:
 朝→きなこもち
 昼→食べ損ねる
 夜→自宅にてワカメ蕎麦とおでん
……
なんてヘルシーな生活!笑
ちなみに、16,000歩だったそうです笑
さて、そんなわけで、新年一発目のレビューは学生団。蓋を開けてみると、どうもまだレビューに上げていなかった様子。名大に現在4つある合唱団のうち、3つの合唱団にレビューをつけるに至りました。もう一個は……今年も逃した苦笑
名大グリーン、嘗ては、男は名大、女は他大、という、良く言えば多文化的な悪く言えば一歩間違えたら出会いサーかなにかと間違われかねない(コラ)メンバー構成で有名だったのですが、ここのところは、けっこう名大比率が高い様子。とはいえ近隣の色々な大学から今も歌いに来ている様子が目立ちます。しかし、この団、もう誰とは言わないですけどけっこうスゴい人を排出してきた過去があり、中々見逃せない合唱団のひとつ。この団員たちの中には、将来の合唱界を担う大スターがいるかもしれない……!?
それにしても、もう名大グリーンも51回目の演奏会となるんですね……なんだか、勝手に新しいイメージを持っていたので、中々な歴史の重さをひしひしと感じるところです。

・ホールについて

さて、これまた歴史の重みを感じるホール。所謂「名古屋市民会館」、ネーミングライツでこの名前になっていますが、所謂「市民中」。でも思えば、最近確かに、この言い方しなくなってきたなぁ。
とはいえ当然中身は古いままなので笑、このホールも非常に重厚な内装を持った、昔ながらのホール。レンガ積みのように二丁掛タイルがあしらわれたホールは、側反、正反も木目調のシンプルながら美しい内装に彩られています。そして、特徴的なのは、間口がとても広く、そして、奥行きがとても狭いこと。しかしながら、ステージ反響板が奥へ向けて非常に狭くなるように作られているため、客席へ向けて開放的に感じられ、あまり狭さを感じないように設計されています。あ、勿論、開演ブザーはおなじみの「b-----------------!!」笑 ちなみに、嘗てレビューをする前にここで桜花を聴いていたときには、自分の耳にハッキリと虫の音が聞こえてきたと、自分の中でもっぱらの噂笑
さて、市民会館の名のごとく、多目的ホール。したがって、その響きといえば、良くも悪くも、一般の多目的ホールの域を出ることはありません。残響が余り残らないのはまぁ仕方ないとして、問題となってくるのは、音の鳴りが非常にステージ側のみに篭ってしまっている点。1,000人は確実に入れることの出来るこのホールにあって、この鳴りが悪いというのは中々深刻な問題で、ともすると、鳴らすことこそが至上命題となってきてしまう。難易度の高いホール。でも、嘗て桜花聴いた時は、やっぱりちゃんと鳴らせてたもんなぁ。
ところで、今日の段組、蹴込に布張りしてなくて、ひな壇と箱馬をとめてるテープが丸見えだったけど、あれは仕様なのかな? 普通だと、布か板を張りますからね。もっとも、かなりキレイにテープを貼り込んでいるようにも見受けられたけれども。

第0ステージ・エール:団歌
Mendelssohn, F.「森にわかるる歌」(津川主一・訳詞)

非常にふわっとした仕上がり。そう、良くも悪くも、この演奏が、全て物語っている。それくらい、象徴的に、ふわっとした仕上がりでした。少々高音が当たらないなどあるものの、全体的に落ち着いて聴いていられる。でも、その、フレーズの高音が当たりきらないというのがなにより気がかり。このホール、天井も高いのだから、その意味では、もっと気持ちよく歌ってやればいいのにな、というのが正直な印象。そっちのほうが、途中tuttiで入ってくる短調の和音でよりハッとさせられるような気がします。

第1ステージ
松下耕・混声合唱のための組曲『子猫物語』(谷川俊太郎)
指揮:別所賢

そう、結局、その、ふわっとした仕上がり、というのが、尾を引き続ける。特に、こういうコミックソングでは、余計にその色が目立ってしまいます。
否、下手くそなわけじゃないんです。ちゃんと和音揃っているし、そこに違和感はないし、ハメるべきところはちゃんと揃えてあるし。ちゃんと、やるべきことをしっかりやっているなという印象はあるんです。特にそれが顕著なのは、2曲目おわりの内声。非常によく絡み合った美しいアンサンブル。それは、否定するでもなく、非常にポジティブ。でも、なんか足りないんです。時折、特にtuttiで強めに出てくる部分では聞くことの出来る、勢いのある、しっかりと意思を持った音、それが突如として失われてしまう場面というのが、時折見られてしまうんです。
体力とかそういう根本的な問題は一先ず措いといて。特にこの曲については、歌詩の「使い方」がひとつ問題になってくるような気がしました。この曲、まっすぐ歌詩を歌う作品ではなく、歌詩をとっかかりにコミカルな猫の世界観を歌っていく曲。それも、可愛く笑 だったら、それに向けて、その言葉をしっかり使ってやる必要があるのだと思います。言わば、子音は、言葉に対して従属するものとなるような。それは、「はしる」という言葉に特に顕著でしょうか。ここの/h/の子音を出すスピードを少し操る――具体的には、すこし早く鋭くする――だけで、子猫が走る緊迫感を出すことを出来たり。あるいは、「いのちはたたかう」という言葉にしても、/t/をもっと強く出してやると、それだけで、この言葉が引き締まる。ただ言葉を読み上げるだけでない、立体的な表現を目指すことで、もともと整理されたアンサンブルが、もっと良くなるはず。

インタミ10分。

第2ステージ
Gyöngyösi, Levente “Missa Lux et Origo”
指揮:遠藤彗

音叉で音取り。これは、努力の賜物。それは良い。非常にいい。Gloria の先導唱は棒を振らずに歌い手に任せてあげたほうが良い。まぁ、でもこれも良い。別に振っていたところで極端に演奏が悪くなるわけでもない。
そう、問題は、評価のポイントは、そこではない。当方のメモに一言。「アルシスが弱い。否、推進力に欠けるという方が正しいか」。これが全てを物語っていると、今でも思います。
とどのつまり、フレージングに意味を持ちたかった。その意味、この演奏も又、とってもふわっと仕上がっていた。否、この曲でもやっぱり、tuttiで揃って入るところは音圧も豊かで素晴らしかったんです。特に Sanctus は本当によかったと思います。でも、勢いを付けられるその体力を、もっと繊細な表現にも向けたかったなと言うのが一つ大事な点。アルシスが弱いというのは、言ってみれば、フレージングがうまくいっていないということ。テーシスについて特に言及がない自分の耳も実は不完全で、結局はただ勝手に減衰しているだけではないのかと勘ぐってしまうところでもあります。自分のはいる音、奏でる旋律に対するしっかりとしたイメージを持ち、何を気をつけたら良いか、常にアンテナを張りながら、フレーズの頂点に向けてしっかりと歌いこむ。要は、想像力であり、どう歌いたいか、自分の意思を明白に持ってアンサンブルすること、その点に尽きるのだなと思います。いい部分が十分にあったからこそ、こういう、もっとも根本に潜む、大事な部分が欠けていると、余計に目立ってしまうのだなと思いました。

インタミ10分。インタミ中、歌詩集読んでて思いました。いやぁ、本当に、素晴らしい詩だよな、と。すべての音楽家、音楽を、否、芸術を志すものへ語りかける、宮沢賢治の、厳しく、そして、強いメッセージ。宮沢賢治「告別」。

第3ステージ
千原英喜・混声合唱とピアノのための組曲『雨ニモマケズ』(宮沢賢治)
指揮:中村貴志(客演)
ピアノ:重左恵里(客演)

そう、だからこそ、このテキストは、本当に、何度も読み返さなきゃいけないんです。
否、決して、アラサーのおっさんがこのテキスト読めと説教かましてるわけじゃないんです。このアンサンブル。もっともっと歌詩を読み込んで、歌詩を表現しないと、ダメ。素晴らしい詩なんだから。
その意味では、もっと歌い手にも指揮者にも、フレージングについて十分意識してほしかった。「お前のバスの/三連音が」というふうに切れてしまうとか、あるいはもっとひどいのは、「幼齢/弦や鍵器を」(「幼齢弦」でヴァイオリンを指す)とフレーズを切るのはご法度だというのを、ちゃんと意識して音楽を作らないといけません。後者はフレーズの形からしてありがちなミスではあるものの、そこに甘えていては当然いけないわけです。特に日本語が立つ曲。和声というよりはフレージングがすべてを物語る曲。だからこそ、当たり前の日本語をちゃんと表現しないと、それはアラとしてどうしても目立ってしまいます。
そりゃ、歌詩に振り回されて表現が空回りするのは、本来はいけません。その点、たしかに、グリーンの表現は、精緻な表現と言えたかもしれません。でも、この曲は違う。特に3曲目を除いて、これほどまでに熱情的で、そして悲壮な決意に満ちた楽曲を表現するには、もっとがむしゃらに、血反吐を吐いて、なんなら音量を鳴らし、最悪、叫んでしまえば良い、せっかくの学生団という立場だ、それぐらい、思い切って表現しないと、この曲についていくことは出来ない。
とにかく、この曲で、アンサンブルが停滞しているのを見るのはあまりにも惜しい。ピアノを待たせないくらいに積極的に表現することで、歌い手にとっても楽になる。例えば、3曲目の表現は、他3曲の表現を骨太にすることで、「我慢」しなくても、もう少し表現に幅をもたせることができるはず。自らを楽にするために、しっかり表現することは、技術的にも大事なポイントになってくるのだと思います。

・アンコール
松下耕「信じる」(谷川俊太郎)
指揮:中村貴志(客演)
ピアノ:重左恵里(客演)

そう、でも、裏を返せば、この団、納め方は非常に旨いのかもしれない。特に、主題へ向けてピアノのイントロが回帰してくる「信じることでよみがえるいのち」の納め方は非常に良かった。――そうすると、2ステのテーシスは決して偶然ではないのかもしれません笑

・ロビーコール
上田真樹「酒頌」(林望)
Saar, Mart “Mis need ohjad meida hoidvad(Leelo)”

酒頌、これからいろんな合唱団にとって定番になってくるんだろうなぁ。けっこう標示が弱めに書いてあるんですけど、多分、ぶっ飛んだ表現というのがこれから先どんどん増えていくのだろうと思います笑
2曲目は、昨年の名古屋ユースで演奏したエストニアでも非常に有名な曲。レガートがとても大事になる曲だけに、もっとじっくりと母音をつなげると、よりよかったのかなと思いました。

・まとめ
否、学生団としては、決してレベルの低い方ではないんです。最低限の音が揃っていない合唱団が残念ながら(?)多い中で、しっかりとまとめているというのは、決してネガティブに捉えるようなことではないんです。
でも、それだけに収まってしまって安心するのは、話が違う。楽譜通りに音を揃えてハイおしまい、ではないんです。楽譜はそんなに単純な情報しか書いていないわけじゃない。楽譜が持っている情報を、もっと深く読み込んで、もっと貪欲に、自らどんどん表現していかないことには、midiやボカロを越えない程度の演奏しか出来ないことになってしまうのです。
音楽の作り方って色々あるんですけれども、最近、ことあるごとに「引きの美学」のようなものが語られる。要は、所々で副旋律が引くことによってバランスを保とうとする考え方。言ってみれば、引くことによって、ホールの助けを借りて、キレイな表現を作ろうとする考え方。分からないでもないんです、この考え方も。でも、最近当方が強く憂えてならないのは、まさにこの考え方。引くことに執心するあまり、私たちは、正しい強勢の作り方を、いってみれば、正しい「目立ち方」を忘れてしまっているのではないでしょうか。
「引きの美学」が力を見せるのは、あくまで、その反対に、ちゃんと出すことの出来る音を作ること、その前提があってからです。キレイにしよう、音を荒くしないようにしようと言わんばかりに、引いて引いてと音楽を作る団が、そこかしこにある現状、でも、そのことによって、本当にどの団も、ではない、どの音楽も、紋切り型で平板の、のっぺりとした表現ばかりにしまっている。
コンクール的に映えることが多いんです、こういう、なんてことない表現。でも、この表現、キレイな音があくまで基本にある。それって、いろんな音をだすことの出来る、声という楽器の可能性を著しく狭めているのではないかと思えて仕方ないんです。私たちのやっている音楽は、決して、キレイな波形を出すためにやっているのではなく、心の底から感動するために、やっているものなのです。
勿論、キレイな音を否定するつもりはない。キレイな音を必要とする機会は、今もいくらでもある。でも、それだけに留まっては決していけないのだと思います。キレイな音に執心するあまり、感情をどこかに措いてきてしまうような音楽は、今年でそろそろ、やめにしませんか。なにも、グリーンに限った話じゃない。その点、年始最初に聴いた演奏会にして、とても示唆深い演奏会でした。