おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2019年3月24日日曜日

【近大混声合唱団第3回演奏会】

2019年3月24日(日)於 西宮プレラホール

大誤算でして、この演奏会行ったの。ってか、行けたの。
当初。団員が知り合いなものだから、チケット買えと言われ続けていて。
今年こそ行けるなと思ったら、結婚式二次会に呼ばれて、それが被ってるってなもんだから、しゃあなし、そちらへ行こうということになり一度は断念。
で、直前になり、結婚式二次会って何曜日だっけと手帳を見る。
……あれ?
二次会と演奏会、全然被っとらんやん爆

ということで、一度はお断りした演奏会、なんだかそのまま、やっぱり行くわ、というのも癪だから、わざわざ現地で当日券を買い、現地の客席側にいる知己ともロクに挨拶もせず、お忍びで訪問笑
最初チケットを売りつけてきた団員某には多分気付かれていない……ハズ←
もうかれこれ5年位前に設立された合唱団。経緯は色々あるのですが、しかし、そんなこと気にするのは野暮でしょう(如何せん、様々なステークホルダーと知り合いである以上、私からとやかく言うのが適切ではない、とも)。眼の前にある音楽がどう鳴るか、そのことを何より意識していたい限りです。

・ホールについて
西宮北口駅すぐ近くのホール。そうそう、兵庫の芸文……の、隣にあるホールです←
プレラという、低層階が民間、高層階(といっても計6階建て)が公共施設といった趣の施設。その中核と言えるであろう施設が、このホールです。多分、一回、練習かなにかで来たことがあるんだよなぁココ……。否、実は隣の芸文のための暇つぶししてただけだったり!?←
ホールとしては、いわゆる市民ホールそのとおり。市立ですからね。床の煤けた(?)Pタイルに、明るい木目の腰壁、ペンキかクロスか、なんにせよ白い壁と天井、そしてベル代わりの「b---------------!」(今日はひときわ大きかった笑)は、なんとも情緒あふれる感じがあります。しかも、ここ、天井が低いもんだから、よけいにそんな風情が感じられる。
でもここ、日本だと割と珍しい(ような気がする)ものが見られます。名前にすると、どうも「仮設反響板」とでも呼び習わされているようです。自立するタイプの反響板で、どうやら折りたたみができるそうな。アメリカの合唱団の動画なんか見ていると、よく出てくるようなヤツです。日本だと、リッチなホールをそこかしこに建てるから、割と需要の少ないやつですが、今回は、200〜300人程度の小規模のホール。ステージも狭いから、これくらいがちょうどいいのかもしれません(もっとも、名古屋の文化小劇場はどこかしこに常設反響板を吊るしてますけどね笑)。
で、鳴りは、否、おみそれしました仮設反響板。響きはそこまででもないものの、ちゃんと、その室内の規模に応じた音量で適切な鳴り方をしている。言ってみれば、それはそれで、非常に豊かな鳴り方です。ホールのサイズに見合った音がちゃんと鳴っているから、むしろ違和感なく聞いていられるのが印象的です。とても音楽を身近に感じることのできる、それでいて、近すぎる場所で鳴っているわけでもないから、ちゃんと落ち着いて聞いていられる。こじんまりとしたところでいながら背伸びしない、非常に好印象なホールです。
ちなみに、コンビニ等ちょいちょいあるのですが、ここらへん、ガーデンズを離れると喫茶店の類は全くといっていいほど見当たらなくなります。混んでても飛び込めガーデンズ。なんなら、西北駅構内にあるタリーズで時間つぶしてたほうが賢かったりして笑

エールはなし。尤も、未だ旗揚げ5年ですからね。……なんなら団旗もないけど←
然しそれでもなお、12人程度の歌い手に対して、集客は7〜8割。大してOBもいないだろう中でその集客は、素晴らしいもんですよ。

指揮:脇坂典佳

第1ステージ・ルネサンスの響き
Hassler, Hans Leo "Cantate Domino"
Victoria, Tomas Luis de "Pueri Hebraeorum"
- "Inproperie-Popule meus"
- "O vos omnes II"
Palestrina "Sicut Cervus"

まずはルネサンスから。なんとなく、医混を思い出すような、そうでもないような笑
否、まずなにより印象的なのは、端正に整理されたアンサンブル。ルネサンスにして、とても清潔な感じがするのが好印象です。そう、ここは関西。関西の学生団は技術的・楽典的基礎がしっかりしているから基本どの合唱団も取りこぼしが少ない、と書きました。まさに、そのお手本のような合唱団。抑えるべきところをちゃんと抑えている響き。それでいて、自己主張がしっかりしているのが、音をしてよく分かる。
尤も、まだまだ、という場所もあるんです。特に、経過音やメリスマの部分にあって、一部で芯のない、無神経な音が返ってくることがある。そこから、アンサンブルがわずかにほころびを見せるということがあるのが、どうしても気になってきます。また、ブレスが雑、というか邪魔だな、と思わされる部分が、特にフレーズの終端に見られる。そろそろローテーションブレスを意識してもいいかもしれません。
で、何が言いたいかって言うと笑、こんな込み入った話を書くつもりなかったんですよ。それくらいに、上品な、言ってみれば、「オトナな」アンサンブルができている。その中に、自分たちの主張を十分に混ぜ込んで、こんな音楽をしたいんだ、というのが、音ににじみ出てくる。
なんだか細かいことで、言いたいことがたくさん出てくるっていうのが、まさにその象徴のような気がします。ここをこうしたら、この団はもっと良くなる、そういうことをたくさん言いたくなるアンサンブルが、ちゃんとできている。方向性を見いだせないようなアンサンブルしているところって、結局この団は何がしたいんだということになり、コメントすることもなくなってきますからね。
最後、"Sicut Cervus"の和音がピタッと決まるのが象徴です。聞いていて非常に胸のすく演奏でした。

第2ステージ・近混アラカルト
三宅裕太「緑の中へ」(新川和江)
Elder, Daniel "Twinkle, Twinkle, little star"
- "Star Sonnet"
Rutter, John "A choral Fanfare"

プログラム曰く、1曲目が今回のプログラムの中で唯一の日本語なんですって。……あれ?「おらしょ」は?ひとつ歌いましょ?爆
さっきの1ステのメリスマ、もしかしたら音が崩れる原因は、勢いの持って行き方がわからなかったってだけかもわかりません。フレージングの問題。長いですからね、フレーズ自体が。その一方、「緑の中へ」は、馴染みのある言語によるフレージングだから、音もしっかり、ちゃんとした音が返ってくる。勢いだけで解決できることって、やっぱりあるんですよね←
一方で、このステージ全般的に、勢いだけでなんとかしようとしてしまったというのも、相反的ながら事実で。「緑の中へ」も、勢いは良かったもののパート間のまとまりはいまいち感じられなかったし、「Twinkle〜」も、残念ながらその傾向が見られてしまった。それで中途半端に、和音だけ合わせようとするから、テンションコードで決まるはずの場所が「ものすごくキレイに」聞こえてしまったりした。「Sonnet」も、そういった意味では、細かい世界観のかき分けは十分にできていなかった印象です。繊細な曲の表現の機微を描写するなら、もっと、1ステのときのような緊張感を持ちたかった。1ステのときのテンションで行けば、もっとキレイに決まったはずなんだけどなぁ。もっとじっくり歌い上げてほしかった。若さゆえの過ち。惜しい。
逆にでも、勢いでなんとかしようとしたステージだったからこそ、「Fanfare」はバッチリいったのかもしれませんね。もっと無声子音目立たせると、よりゴリゴリできて面白かったと思いますよ笑

インタミ10分。否、ここまで40分くらいしか経ってなかったけど、それにしたって、随分短い休憩時間だなおい笑

第3ステージ
Rautavaara, Einojuhani "Suite" de Lorca

何より、この合唱団の規模で、かつ、学生だけで、この作品を取り上げたことに心から敬意を表したいです。……くらいのコメントから、なにか御託を並べようかと思っていたんですよ、本来は。そんなこと許してくれないみたいで、今回の演奏笑
否、エルダーのときよりも遥かにキレイにぶつかっていて、面白い演奏に仕上がっていました。この団幸いに、各パートの、響きに対するイメージがちゃんと一致しているから、同音から分離していったり、ヘテロフォニックな表現をしたりすると、存外にキレイな音を決めてくれるんですね。
非常に音に対しての集中力は良かったと思います。鳴っている最中の、ある程度自由で、コミュニケーションを感じられる、力の抜けたいい音が鳴っていました。2ステにおける若さも、いい意味で少し抑えられていて。否、よく練習したのだなぁと思わされました。
あえていうなら、無音のときの集中力はもっと磨くことができたかしら。「動いていない」状態から、いきなり「動き出す」、その瞬間の描き分けがもっとできると、より引き締まった演奏になったような気がします。
でも、それくらい要求を高くするくらいには、素晴らしい演奏でした。どれくらいって、演奏が終わった後に、会場がざわつくくらい。否、お見事。

第4ステージ
千原英喜・混声合唱のための『おらしょ』―カクレキリシタン3つの歌―

どうしても、聞き慣れた曲って、色々書きたくなっちゃいますよね?笑 そいういう意味では、私のブログの目をごまかそうとするのなら、知らない曲馬かすかやっていただければそれで十分だったりして爆
おらしょはねぇ、色々なところで色々なところが触れていますから。何なら所属団だって。細かいところが色々目につく演奏でした。あえてまとめるなら、先程のステージにおける集中力が裏目に出た、とでもいいましょうか。
集中しすぎだったんですね。いかんわけでもないんだけど、おらしょをそういうアプローチで演奏するには、この団は、あまりにも若すぎた。例えばで取り出せば、1曲目の「Alleluia」を引き出すための主題。確かに、静かに、静謐で、隠れた祈りの中にアレルヤを見出す部分ではあるものの、それを生真面目にやりすぎると、フレージング自体が失われてしまって、ただか弱い音が鳴っているだけになってしまう。それくらいならば、まだ隠れることを知らない天真爛漫な感情をチラ見せしたほうが、音自体が整うことだってあるかもしれない。
2曲目の「あんめ、いえぞす」だって同じことが言える。その直後のマリア賛歌を美しいものとして聞かせる前段階として対置される関係と捉えるならば、ここのボリュームは少々大きくてもまだ許される。まして学生団だし。3曲目の「マエロヤナ」は、もうその意味では、宴会芸の狂乱の縁にいてもおかしくないはずなんです。
若さを武器にせよ、というつもりもないですし、そんなこというおっさん嫌いですが(否、自分のことです、なにより)、とはいえ、勢いをつけて鳴らすこと自体の価値を軽視してはならないと思います。そればっかりだと確かにガキなんだけれども、それを少しずつコントロールできるようになっていくのがオトナ。2ステでなにより、そういう音使いができる、その片鱗を見せているのだから、せっかくだしそれを武器にして、やんちゃに闘ってみてもよかったのかなと思います。
まぁとはいえ、学生団の最終ステージですからね。意外とそんな感じになっちゃうのも納得かも。しんみり終わりたい向きもありますもんね。

enccore
三宅裕太「おやすみなさい」(長田弘)

で、これまた難しい曲をアンコールにおやりになる笑 否知っている曲だから余計にそう感じる笑
中間部の主題設定はややトチってたかも。多分「フクロウ」あたりは男声がもう少し立つべき場所です。とはいえ、フィナーレの前とか、もっとごちゃごちゃしちゃってもおかしくないくらいに難しいのに、よくまとめていましたよ。

ロビーコールもなく、1時間17分という、鬼のような早さで終演笑
壇上では、今年で卒団する指揮者へ、団員から花束贈呈。どうやらサプライズのようで。もしかしたら、まだ卒団の制度も定まりきってないのかも。でも、この、用意された花束に、この団の未来を感じずにはいられません。

・まとめ

なんだか、むかし聞いた、最初期のころのハルモニアアンサンブルの音を、大袈裟に言うなら思い出すんですよね。
否、実は今も昔もハルモニアを録音でしか聞いたことないんですけど爆、声楽家集団とはいえ、アンサンブルの麺においては荒削りな部分も見られる一方で、アンサンブルが確固たる意志を持っていて、その意志が音を鳴らす、そんな様子がありありとみえる演奏。
いわば、"Nicht diese Töne!"とのたまって、某団を抜け独立した、というのがこの団設立の経緯(結局いっちゃったよ←)。そんな団が永続していくために必要なことといったら、確固たる制度でも、組織的な裏付けでも、そんなのなんでもなくて、理想の音を鳴らしたい、そんな、危ないくらいに真っ直ぐな情熱にほかならないのかもしれません。
情熱の中に駆け抜けていった5年間だったと思います。まっさらな状態から団を立ち上げて、ひたすらに突っ走って、100人規模でお客さんを集めて、3回も演奏会を行った。それだけで、もう、どんと構えていい。誇るべき実績を、この学生団は作り上げたのだと思います。
もっとも、学生団です。人を入れ替えながら、続いていくのが学生団。だからこそ陥るジレンマというのが、皮肉にも学生団のほうが重くのしかかります。
学生団という立場にあって、正直、これから先、情熱だけで乗り越えられない壁というのは、どうしても出てくるのだとおもいます。創立当時の情熱というのは、まして入れ替わりが必定の学生団にあって、絶対に薄れるものです。でも、相反するように、そんなときに必要になってくるのは、創団時以上の、音楽に対する熱い情熱なのではないかと思うのです。
そのときに、また、音楽に対する情熱を、例えば今日のように、再び燃やすことができるか、その時こそ、正念場だと思います。――だからこそ、有志を持って、この、今日の日の情熱を、絶対に忘れないでほしいと思います。忘れなければ、また思い出すことができるから。
団の記憶って、そうやって、語り継がれていきます。それが積み重なると、伝統となります。――だから、伝統というのは、よかったころの記憶を回顧することではなくて、良かった記憶をもう一度作り出す、そのためのデータベースのようなものなのだと思います。
色々書いても、とどのつまり、何も意識しなくてもいい。ただ、情熱のあるうちは、その赴くまま、ただ突っ走ればいい。それが、伝統を作っていってくれるから。そして、情熱が空っぽになりそうなときは、少し振り返って、過去の伝統に少しだけ目を向けてみてほしい。そして、そこに内在する情熱を勝てにして、また突っ走って欲しい――多かれ少なかれ、続いている団体、続いているスタートアップって、そういうもののような気がします。

・メシーコール
阪急そば「わかめそば」

関西初、という伝統を重ねているにしろ、たかだか阪急そば、といえば、確かにそのとおりなんです。でも、今日この時期だからこそ、この阪急そばは、意味を持つものでもあります。――多分、今日を持って、私、阪急そば「食べ納め」ですから。
4月1日から、事業者の変更に伴い、阪急そば全店屋号が変わるそうです。「若菜そば」。阪急そばの高級系列で、すでにその片鱗を見せてくれていますね。多分、いち消費者から見れば、屋号が変わる、ただそれだけのことなのかなと思っています。でも、やっぱり、そこは、記憶が根付くものなんですよね。貧乏学生時代は、空腹の中家に帰ってパスタを茹でて食費を浮かすか、諦めて駅前の阪急そばに入って腹を満たしてしまうかというのは、とてつもなく重大な決断でした。その歴史、資本、そして立地であるからにして、あるだけでシズルを生み出し、人々の空腹につけこむ駅そば、中でも関西にあっては阪急そば(あと個人的には「まねきそば」)は、まさに罪深い存在でありました。
もちろん、屋号が変わった程度で、何かが極端に変わることってないのだと思います。良くも悪くも、たかだか蕎麦ですから。でも、阪急そばという名前を失うことによって、なんだか、そこにあった思い出が、ちょこっと欠落してしまうような、そんな、一抹の寂しさを覚えるのもまた事実。今となってはこの程度の出費では財布は傷まない身、存外に、こんなもんだっけ?と思いながら、モソモソと蕎麦をすする、そんな行為の中に、ふと、記憶や伝統、そんな二文字が過る。
伝統って、その程度のものです。でも、それが、伝統ってものなんです。
若菜そばのニュースタンダードに、乾杯。ありがとう、阪急そば。

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