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2016年9月4日日曜日

【びわ湖ホール声楽アンサンブル第61回定期公演】

[“美しく楽しい合唱曲”の午後]
2016年9月3日(土)於 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 小ホール 

指揮:田中信昭
ピアノ:中嶋香*

Cantus Gregorianus(グレゴリオ聖歌)from Missa in Dominica Resurretionis
“Introitus: Resurréxi”
“Graduale: Haec dies”
“Sequentia: Victimae pascháli”

Poulenc, Francis: Quatre Motets pour le Temps de Noël 
“O magnum mysterium”
“Quem vidistis pastores dicite”
“Videntes stellam”
“Hodie Christus natus est”

Messiaen, Oivier “O sácrum convívium!” (Thomas Aquinas)

Debussy, Claude: Trois Chansons de Chareles d’Orléans
“Dieu! qu’il la fait bon regarder”
“Quant j’ai ouy le tabourin”
“Yver, vous n’estes qu’in villain”

int. 15min

林光・『月 わたし 風』混声合唱とピアノのために(宗左近)*
「ながらえば」
「日が落ちた」
「月がある」
「この世は暗い」

三善晃・混声合唱とピアノのための『ゆったて哀歌集』(五木寛之)*
「あーうんの子守歌」
「ふるさとの丘」
「てのひらは黙っている」
「鳥の歌」

三善晃・「生きる」―ピアノのための無窮連投による―(谷川俊太郎)*

en. イギリス民謡「ロンドンデリーの歌」

***

 住宅街のはずれ、文字通り琵琶湖のほとりに位置するびわ湖ホールは、琵琶湖を埋め立てた上に建設されたという。びわ湖ホールを中心として広がる町並みは、バブルも終わった1998年にして、新時代の到来を予感させる。箱モノと批判すればそこまでなのだが、少なくとも、県立たるびわ湖ホールに関しては、その批判は当たるまい。オペラ公演が可能な大ホールをはじめとして、大・中・小の三種類が用意されているホールは、非常に優秀な音楽ホール群にして、県民の憩いの場としての機能も十分に構成しているといえよう。
 なかでも小ホールは、客席規模が250席ほどしかない小さめなホールだ。構造も、細木が組まれた壁と、白塗りの天井が波打つ以外は、所謂長方形のシンプルなシューボックス。決して飾らない意匠の中に、反り立つ壁のようにして反響板が立つ。しかし、室内楽やソロを演るにはまたとない好環境で、おそらく、どこで聴いても良好な響きが得られるホールなのではなかろうかと思われる。壁に投影されていたホールオフィシャルスポンサー2社(叶匠壽庵、平和堂)のロゴが消え、団員と、なおもその威光を絶やさない客演指揮・田中信昭の入場が終わり、演奏が始まる。

 一般的には少ないと思われがちなプロの合唱団は、あたりを見回してみると実は結構ある。東京混声合唱団が代表かと思われがちな面はあるが、一方で熱烈な合唱ファンという程でもない人からは、藤原歌劇団や二期会などに代表されるオペラ合唱団の方が有名であろうし、ザ・タロー・シンガースを顕著に、東京を中心に多く結成されてきているアンサンブルグループも、プロ合唱団の裾野を広げている。その他地方にもプロ合唱団は点在している。特に、各地の音楽ホールを中心として結成される合唱団も、独自の活動を続けているところが多い。
 そんな「ホール付き合唱団」の中でも端緒となる活動で知られているのが、びわ湖ホール声楽アンサンブルである。沼尻竜典を監修に迎え、1998年のびわ湖ホール開館と同時に誕生した。本山秀毅を専任指揮者に据えるこの合唱団は、単独演奏会のほか、びわ湖ホールをはじめ県内で行われるオペラ公演やソロ公演でも中核となって演奏するプロ声楽集団として、滋賀県内だけでなく、多くの地域で注目を集めている。実際、びわ湖ホール主催で大型オペラ公演が企画されることは非常に多く、その他自主公演で多くの魅力的な企画を打ち出しているびわ湖ホール。県外にいてその名を目にすることも少なくないことからして、事実としてその注目度は年々高まっているのはいうまでもないことだろう。

 今回のプログラムは、非常にストーリーのはっきりしたものであった。西洋音楽の源流を汲むグレゴリオ聖歌に始まり、ドビュッシー、プーランク、メシアンと、フランス音楽の主流を辿り、林光で和声・旋律端麗な日本の合唱曲に引き込んだ後は、フランス音楽と日本現代音楽の双方を吸収し、創造した三善晃の後期作へ収斂していく。まさに、フランスを軸に、日本における合唱音楽の受容のあり方を映すものであり、その点、非常によく考えられたプログラムだった。演奏順は、最初、ドビュッシー、メシアン、プーランクだったものが、曲の性質を考えてか、プーランク、メシアン、ドビュッシーに入れ替えられたが、最初の順番で演奏されたならば、この演奏会自体が、ほぼ作曲順に演奏されているという、稀有な事態でもあった。
 各選曲も独特である。前半について言及すれば、例えばミサでいえば、演奏会ではふつう通常文、すなわち、Kyrie、Gloria、Credo、Sanctus、Benedictus、Agnus Dei が演奏されるという意識がある中で、今回採用されたのは、復活祭のための固有文から入祭唱、昇階唱、続唱が演奏された。いずれもミサの前半、Credo より前に演奏される曲であり、この演奏会の始まりの姿を予感させる。くわえてドビュッシーに関しては、この曲が唯一の合唱曲ということであり、メシアンについても、自作のテキストを使うことが多い中にあって、トマス・アクィナスによるもの、その中にあって、プーランクはクリスマスモテットと、むしろ異様な存在感がある。

 そして、これだけ意識的に組まれたプログラムであるからには、その流れに揺蕩うように演奏を楽しみたいところである。しかしながら、前半については必ずしも満足のいくものだったとは言いがたい点もある。特にプーランク前半2曲については、各パートの声量バランスが、外声に多く依っていたこともあり、音楽がひとつのまとまりをなすには至らなかった。 また、ピッチについても安定せず、もともと和声が複雑な曲だが、その中にあっても、各パートの位置が正しいものなのか図りかねる音が多かったのは残念である。しかし、プーランクなら後半2曲に顕著だが、曲の横の流れ、各パートのメロディラインが明白になると、音楽が不思議と組み上がっていくのは、この団の強みであるといえよう。
 しかし、メシアンにおける弱音による偽終止、そしてドビュッシーのロマンティックな旋律の流れ、丁寧な母音の響かせ方など、「美しいところを美しく見せる」という技術については、この団は申し分なく持ち合わせている。そして、その強みは、それらの曲が演奏される前に披露されていたグレゴリオ聖歌の単旋律の中に既に潜んでいた。声楽家集団にあってして割と素直なノン・ビブラート寄りの発声によりシンプルに演奏される単旋律。控えめな、否、そうでなければならないその旋律の中にある僅かな膨らみのアルシスには、むしろ天へすら届きそうな可能性すら感じる――。
 このホールは、決して残響時間が長いホールではない。しかし、響きはとても素直で、シンプルに届く。ボリュームを殺すというわけでもなく、無理に鳴らさなくても十分に飛ぶ。しかし残響はさほど長くない。だからこそ、こういった繊細な表現にはむしろおあつらえ向きなホールであると言える。響きが求められそうなプログラムではあるが、しかし逆に、響かないことで得られる表現が光る演奏であった。

 休憩を挟み演奏された日本語は、いずれも絶品のハーモニーを聞かせてくれた。リハーサルでも言葉の問題について深く追求されたようで、今回の演奏においては、前半から言葉の美しさについては終始際立っていたところだが、その強みは、日本にあってはやはり日本語の曲でよく光る。そして、この団は同時に、メロディを歌うことについては最大の強みを持っている。とすると、林光のように、各パートが歌いあげることで揃っていくハーモニーについては、これ以上ないほどのレベルの高いアンサンブルを届けてくれるのである。フレーズが豊かになることで、カデンツも自然に流れていき、結果としてアンサンブルが整っていく。それは、三善にあっても同じだった。言葉をきかせながら、細かい旋律を質感を以て十分に絡めていくその様。『ゆったて』と同様、「生きる」もその点素晴らしかった。
 しかし、だからこそ、である。「生きる」の演奏における凡ミスは残念だったのだが。繰り返しの回数を間違えたり、音を上げる頂点をミスしたりということが多数あったのは、さすがに有名な曲だけあって、聴く人が聴いたら容易にバレてしまう。出来がよかったのにリハーサル不足を逆に疑われてしまうミスだけに、今一度、楽譜に対する意識の向かわせ方、構成に対する理解を再確認させられたいところである。

 この団は、未だ不完全である。プーランクに、「生きる」にかいま見える課題に顕著なように、なみいるプロのひしめく中にあって、まだまだ改善できる点のある団である。
 しかしながら、この団の持つポテンシャルについては、決して劣ることのない、否、むしろ、これからを期待させられる合唱団だと思う。特に、フレーズのもつ力を引き出す能力、そして、言葉の表現をドラスティックに引き出す能力については、決して指揮者だけの功績というわけではあるまい。この団のもつポテンシャルがあらゆる曲に活きてくるとき、メンバーを入れ替えながらまもなく20周年を迎えるびわ湖アンサンブルは、真に全国に名を馳せる名門アンサンブルとなることが出来るのだと思う。
 そして、なにより、この団は、地域に支えられている。先述の、アウトリーチを含めた演奏の数々はいわずもがなであるが、最終的には、田中信昭が「生きる」を前に喋ったこの言葉がすべてを物語る。「今日は、いい演奏してくれてますよネ――イヤ、これもネ、お客さんが良いから。「音楽聴きたいッ!」って、皆が思ってくれているから。お客さんがいいから、こういう演奏が出来るんですッ!」
 思えば。――名古屋から滋賀に越してきた懐かしいお知合いは、至近のこのホールでアンサンブルの世界に浸っていた。私の前に座るお客さんは、『ゆったて』の「ふるさとの丘」で、目尻を指で拭っていた。その隣では、「生きる」を、楽譜を見ながら聞いているお客さんもいた。――びわ湖アンサンブルの原動力は、そんな、熱心に支えているお客さんなのかもしれない。

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