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2023年3月4日土曜日

【東京混声合唱団 名古屋特別演奏会】

2023年3月4日(土)於 三井住友海上しらかわホール


尾高惇忠・混声合唱のための「光の中」

三善晃・合唱組曲『五つの童画』

Duruflé, Maurice "4 Motets sur des themes gregoriens" op. 10

尾高惇忠・混声合唱曲集『春の岬に来て』


指揮:広上淳一

ピアノ:野田清隆


 合唱音楽自体を、いわゆる合唱指揮者以外が振る機会というのは、意外と多くない。東京の有名大学合唱団が定期で客演を委嘱することはあるものの、いわゆる「座付き」の指揮者のみで十分回る公演回数しかない団も多いこともあってか、はたまた、「合唱は器楽とは違う」という先入観ゆえか、いわゆる「器楽の」指揮者が呼ばれる機会というのは、プロを含めて限られている。

 だが、芸術分野全体としてみたときに、果たしてそれでいいのだろうか、とは、しばしば指摘される問題である。いわゆるオケの指揮者であっても、大作にはしばしば合唱がつき、ハイライトを含めればオペラの上演回数は決して少なくないし、年末には毎年のように第九を「振らされる」。そのような状況にあって、「合唱は合唱指揮者任せ」というマエストロはたしかにいるものの、それでいいのか、という視点を持つ指揮者は決して少なくない。その筆頭が、東京混声合唱団音楽監督・山田和樹といえるかもしれない。

 とはいえ、こと東混に関して言えば、歴史的に活躍してきたプロ合唱団というだけあって、器楽文化との交流は盛んである。創団自体、東京藝術大学声楽科がはじまりであり、日本プロ合唱連盟が当時の隆盛を失っている今にあっても、各楽団との共演は盛んである。しかしながら、東混にあっても、日本における、否、世界的にみても、合唱という編成の特殊性ゆえ、これまでの指揮者陣は、いわゆる合唱指揮者が長く担ってきた。念の為いうが、それ自体に否定的な意味はまったくなく、むしろそうであるがために、他編成においては類を見ないほどの回数を誇る初演をはじめとする、東混、ひいては世界の合唱文化が伸長してきたのはいうまでもない。

 そんな中にあって、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの広上淳一とのコラボレーションというのは、それ自体話題性の大きいものである。オペラ指揮を通じた合唱との交流のほかに、尾高惇忠にピアノと作曲を師事した、その経歴、そして、その当時の合唱音楽の隆盛を省みるに(もっとも、その時代は他編成においても初演が多かった時期ともいえる)、決して合唱とは無縁になれない音楽生活を送っていたことは想像に難くない。事実、尾高惇忠の師匠筋に当たるのは三善晃であり、まさに日本の合唱音楽の只中にあった音楽である。


***


 さて、ここまで、今回の広上淳一というキャスティングが、いかにも特異なものであるかのように語ってきたわけっであるが、はたして本当にそうであったのだろうか。ただ、オケの指揮者が合唱を振るというだけで、ここまで特異であると捉えるのは、いささかオーバーなような気もするし、その実、非常に新鮮な体験であったように思う――否、なにもマエストロは、特異なことをしたわけではない。当たり前のことを、ただ愚直に追い求めていた。

 広上淳一の師である尾高惇忠の曲を最初と最後に、その師匠の曲を挟む形でのプログラムは、ただそれだけで、20世紀の合唱音楽の精神的な部分を俯瞰するものであった。ロマン派から続きつつ、常に宗教性を伴いながら発展してきた合唱音楽が、近代詩歌と邂逅し、その響きに日常性をもたらしたという一連の流れは、もはや日本に限ったものでもない、ひとつの音楽の流れともいえよう。その音楽の流れを、マエストロはいったいどこでつかみ、それを正確に表現するに至ったのか――これぞ、日本を代表する指揮者の、これまでの研鑽の成果というべきか。


 その意味にあって、第2ステージの『五つの童画』は難しい曲である。確かに演奏も難しいのだが、こと日本を代表するプロ、というのみならず、初演団体であって、同曲の再演回数も多く、技巧の上で不安はない(それも、初演指揮者からの薫陶を常に受けうる立場にある)。しかし、逆に言えば、観客も、プログラム全体の中にあっても間違いなく「聞かれている」曲であることから、つまるところ、同演奏会の評価という観点で肝になるのは、どうしても同曲の成果如何によるところが大きいのである。果たして、同曲が、普段合唱を振っていない指揮者がどのように表現するかというのは、一種、数奇の目で見られることは否定しきれない事実であろう。

 と、演奏会が終わったあとに記載するのも、実に奇妙な気持ちにさせられる。なにも隠すことはできますまい、今回の同曲の演奏は、これまでの再演の中に並べても随一の出来であったと考えている。同曲のもつ超絶技巧という側面は、往々にして同曲の解釈そのものを「難しい」ものにしてしまう。聴衆も指揮者も、眉間に皺を寄せながら、難しい気持ちになりながら、「童」画を聞く、そんな機会が、はからずも多くなってしまっていたように思う。

 しかしながら――まさに、先入観のない――これまでも多くの超絶技巧をさばいてきたマエストロであるが故、その奥に見事「童」画を見出した。確実にテンポを叩きながら、技巧を表に出すわけでもなく、文字通り踊るように同曲を表現してみせる。「風見鶏」でやや抑えめであったテンポは、自然にテンションを上げながら「どんぐりのコマ」へ昇華される。独特な旋法的表現以上に、同曲のもつ表現性そのものが表に立つという演奏は、新鮮でありながら、しかし、まさにこの曲の表現として、自然かつ当然のものであるがごとく、したり顔をして、我が意を得たりと、にやけつきながらこちらを見ている。私たちがようやく見出した同曲の表現に、合唱にして異例、そして同日最多、カーテンコールが4度も呼ばれたのは、もはや必然というべきであろう。特筆し、歴史にすらその名を残すべき名演であった。


 そもそもこの演奏会時点、合唱を普段から振る指揮者以上に「合唱とは何であるか」を思い出させてくれる演奏を届けてくれたように思う。第1ステージの「光の中」における、オケ由来の、たゆたうように流れる豊かな響き、そこから、マエストロの開襟に合わせてホール全体を包み込む響き――合唱におけるマスクの改良にいち早く取り組んだ同団がまっさきにマスクを外して表現する、その世界の広々とした様子は、まさに、私たちが目指そうとしている合唱表現そのものの喜びである。直接的な表現を、まったく避けることなく、まっすぐに表現するその様子は、その音がそこにあるべき、という必然を見事に表現してみせた。

 その他のステージが比較的技巧的な響きを鳴らす中にあって、第3ステージは、ある種熱狂の中に迎えたところにあって、典型的な美しさを求めた曲である。先導唱に続き豊かに奏でられるその和声は、これらの音楽がもたらす日常性を如実に、かつ正確に表現する。マエストロをしてプレトークにその閉館を惜しんだしらかわホールの音響は、まさにこのような演奏のためにある。ホールがまさに楽器として、自然な流れのままに鳴ることをして「ホールが楽器である」ことを意味を知る。その残響は、演奏を聞いたあとの、心の残響そのものである。

 第4ステージは、歌曲的に自然の流れのままに鳴る音楽でありながら、一方では、例えばファンファーレ的であったり、例えばパルランドであったり、「声楽にしかできない表現」が随所に集められた、自然の中にある豊かさを表現する曲群である。まさに、東混の得意とするところともいえよう、日常に潜む音楽性・芸術性を、美しく昇華しながら、充実した音響で、ある種土着的な要素も含めながら鳴らしていく。決して特別なことをしないものでありながら、記譜上の表現がおそらくは「音符の間」も含めて自然に解釈されていくその様は、先述した音楽の必然性を強調する。


***


 いずれの曲たちも、音楽がみせる日常性を、あるがままに表現することに成功していた。再三書いたところではあるが、『五つの童画』においてその表現を残したのは傑作というほかあるまい。むしろ、少なからず、新奇の目で今日のキャスティングを見ていたことに、いささか反省をしなければならないのかもしれない。音楽というものは、編成に関係なく、それ自体普遍であり、いずれの表現も、その普遍性の帰結であるという、当然のことに気づくのに、2時間もかけなければならなかったというのは、当方の勉強不足というか、――否、もう、今日それを気づけただけでよしとしよう。

 少しずつ、日常が戻ろうとしている。新たに戻ってきた日常を、散々非日常を体験してきた私たちは、新たな目でどのように眺めるのか。東混が遠征に来た、それ自体が名古屋に住む者にとっては非日常なのかもしれないが、あらゆる場面において、時は流れて、音楽が響く――そんな「当たり前」そのものを、私たちは、これからも見つめていく必要があるのかもしれない。

 

 そういえば、コロナの前から、東混の演奏会は「意外と」人を集めないことがある。そう考えると、今回の集客もまた、日常なのかもしれない。半数も埋まらない集客は、しかし、この演奏にして適切だとも思わない。――そういえば、コロナ前は、怠惰な日常に痺れをきらし、変化(トランスフォーメーション)を求めて日本全体がうごめいていたような気がする。だとすると、意外と、この日常に疑いの目を持つこともまた、相反的に、「日常」と表現できるのかもしれない。

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