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ゆっくりしていってね!!!

2018年2月6日火曜日

【合唱団MIWO第33回演奏会】

《昭和の合唱曲たち》
2018年2月4日(日)於 三井住友海上しらかわホール

本当、難産だったよ……
なにがって、このレビューが笑
一部の人にはお待たせしました。日曜日は MIWO へ。言わずと知れた? 全国的に有名な合唱団ですね。1997年にコンクールを卒業してからもその名を轟かせてやまないこの団、今も積極的に課題曲を演奏し、そして、大谷研二先生や岩本達明先生のもと非常に幅広いジャンルを届けてやまない、なおも非常に積極的な活動を続ける合唱団です。昨今は自主公演を主軸に活動するものの、一方で、十分に合唱人に知れ渡るその知名度たるや、それだけ、この団の活動が、実力に裏付けられている証左と言えそうです。そんな MIWO が、昭和のいぶし銀の名曲たちを披露する、それも名古屋で。何もしないでも、注目の講演と相成りました。
さて、この日の朝はビラ込みの後、栄へ。三越の上にある「東洋軒」で美味しい洋食を戴いた後、演奏会へ。そして、名駅へ立ち寄り、帰宅したのでした。と書くと、なんだかどことなく優雅な雰囲気を漂わせているのですが、否、そんな話ではけっしてない。その間。ずっと、あるものを探し続けていたのでした。
何をって?

・ホールについて

しらかわって、本当に書くこと減ってきましたねぇ……笑 一時期のいずみホールより、よっぽど行っている、というか、書いているような笑 最近のトピックだとなんでしょう、自走式立体駐車場が隣に出来たことくらい?笑 でも曰く、路上パーキングの方が便利という人もいるので、なんとも言えんところ……。
ってそうそう、そういえば、最近の名古屋界隈だと、ホールの改修問題が大きな話題になっています。現在、愛知県芸術劇場が改修に入っているのを皮切りに、各地の文化小劇場も改修に入りはじめ、さらに御園座は建て替え、中日劇場も名鉄劇場も一般利用閉館とあって、市民会館やしらかわホールなど、まだ改修に入っていない名古屋市内のホールに人気が集中しているのです。はては、名古屋市外にも優秀なホールが多く出来上がってきましたが、それにしても、逆にそれが災い(?)して、もともと適切なホールの絶対数が多いわけではない愛知県では、熾烈なホール争いが繰り広げられています。そして、そんなしらかわホールも、芸文に入れ替わるようにして改修に入ります。ホールの規模こそ違うものの、名古屋地域のクラシック界において今や確固たる地位を占めるしらかわホールの改修。今後も、名古屋地域のクラシック界の受難の時は続きそうです。

入退場は、信じられないくらいにサクサクと。むしろ、女声が若干早足で歩いているといったところか。それくらいで、聴衆にとってはちょうどいい入場のテンポになります。

第1ステージ
大中恩・混声合唱曲「島よ」(伊藤海彦)
指揮:岩本達明
ピアノ:浅井道子

どの演奏会でもそうかもしれませんけれど、最初の一音で、結構その演奏会の出来って予想できる物があるんですよ。たといユニゾンだったとしても、その微妙なブレだったり、響き方のポイントだったり、あるいは、その先の最初のモティーフの強勢の作り方だったり、勿論、全部が全部ってわけじゃないんですけど、それだけで掴める情報っていっぱいあるので、その点、とても情報量の多い場所であるのは間違いないところ。
ともすると、この演奏会は、一番最初の弱勢での音の張り、これがその出来のすべてを物語っていたのです。「島よ」と重ね、曲全体の主題を呼び出す、重要な、しかし、なんてことないハーモニー。これが、とにかく絶品だった。弱音で入るとなると、どことなく音がへばってしまい、か細く聞こえてしまいがちなところ、細いんだけれどもしっかりと鳴っている。否、どこか遠くから聞こえてくるような立体感がある。小さいわけじゃない。後鳴りしているわけでもない。ピンとキレイに張っている、とても柔らかく、豊かな響きが、はるか遠くから島をみはるかして、内面へ向けて段々と近づいてくる、そんな遠近感を覚える。あっという間に、風景が変わっていくんですね。ホールよりも、ずっと広い場所にいるような気がする。青空が、白波が見えるような気がする。そんな情感が、豊かにしっかり伝わってくる。
技術的にも、弱音が鳴らせるというのが、最高の強みなんですよね。弱音がしっかり鳴らせるということは、強音もしっかり鳴らせるということでもある。弱音を鳴らせるだけのしっかりとした基礎に支えられた強勢だから、発声に無理ないフォルテが鳴る。だから、いつまでも、響いて、遠近感のある音が鳴っている。音に奥行きがあるんです。近くで鳴っている感じがしない。

第2ステージ
三善晃・混声合唱とピアノのための『動物詩集』(白石かずこ)
指揮:大谷研二
ピアノ:浅井道子

そして、そんなしっかりと力のある発声ができるから、こういうことをやると本当に軽い音を鳴らせる。まず何より、非常にいい意味で、音が軽い! そりゃもう、ネチネチと表現させたらいつまでもそうできるような曲ではあるし、実際に、女声を中心に非常に有声子音を伸ばし、ポルタメントを多用するネチっこい表現をすることになるものの、それが決して後に残らない。最初からしっかり鳴らせるから、後切れも非常にアッサリとしたアンサンブルになる。そして、そういう、いわばサバサバした表現だからこそ、どんなにガツガツ表現したとしても、おもったよりくどくならないし、残った時間を使って次へ向けてしっかり準備が出来る。
表現の許容範囲は、非常に柔軟性の高いものでありました。単に強い、弱い、というだけでもなく、十六分音符、八分音符、とかっちりハマっているわけでもない。それぞれの要素が音楽的に意味を持ち、生き生きとその含意を語りかけてくる。その意味を明示するかのように、整然と配置されている各要素を、意思を持って拾うから、記号が、実態を持って私たちに語りかけてくるものとなります。
例えば三連符で例えると、「当該箇所が三連符たる意味を知らずとも記号を追いかけることで、作曲家の意思に近づける」ではないんですよ。そんな表現について無責任なものではない。「ここの表現の意図を汲むために、この表現では十六分音符ではなく三連符が使われている」というような解釈が必要です。だから、ただの三連符以上の効果が、三連符の「向かう先」が分かる。それを実現するためには、文字通り、基礎体力が欠かせないんですよね。

インタミ20分。しらかわはホワイエが広いから、歓談するにも落ち合うのが大変だという話笑 最近だと、電波遮断装置も置いてあったりしますからね。

第3ステージ
柴田南雄・無伴奏混声合唱のための『優しき歌・第二』(立原道造)
指揮:岩本達明

お次は、表現の機微をまるごと音楽にしたような柴田南雄の佳曲。実験的な試みも臆することなく挑戦した柴田だからこそ、単なる和声に留まらない、独特な表現が光ります。その表現をしっかりと再現するためには、合唱団の各員が、その表現について十分理解し、共有しながらも、独立して表現していかないといけない。合わせて傍らで出しているだけでは、そもそも音にならない部分がありますからね。
音量を合わせようとして合わせるから、例えば三曲目はステレオ表現を合唱団で模すように出来ていますが、そういった表現ができるというわけではないんですよね。「出してから合わせる」という言い方は、しっかり出すことにこそ意味があるんです。しっかり自分自身で支持できる音が鳴らせるから、合わせた時に、十分なボリュームをもって聴き応えのある音が鳴らせる。特に、この曲、各パートが独立して歌う場所が存外に多い。すると、余計に各パートの責任は強いものになります。
前ステージで出てきた、素晴らしい弱音を出す能力と、表現の柔軟性は、まさにここで活きてきます。小さい音から大きい音まで幅広く出せて、それを使いこなすための幅は最大限保証されている。各パートに最大限表現の幅が保証されているから、パートが分散しても表現の幅が小さくならず、限りなく大きな表現も再現することが出来る。とどのつまり、自分で責任を持ってパートを表現するということでしょうか。合唱団全体の表現の前に、まずは自分たちの表現がある。響きを合わせるというより、響きが合っている。結果として、表現が一つに合っている。

第4ステージ
荻原英彦・混声合唱組曲『光る砂漠』(矢澤宰)
指揮:大谷研二
ピアノ:浅井道子

そして、これがねぇ、本当に良かった。それ以外の何者でもないんですよ。この叙情、一体どこから出てくるんでしょう。ただ、揺蕩う音の中に身を置いていたい感じ。なんだかね、決して、抜群に、すっげぇ!っていう演奏しているわけでもないんですよ。でも、悪くないのは勿論、寧ろ、飽きが来ないし、否、寧ろどんどん次が聴きたくなってくる。
音楽の基本はレガートだって某氏が仰ってまして。個人的には、その言葉を全面的に肯定するには至っていない。でも、なんだか、今回だけは、その言葉を信じても良いような気がしてくるんです。徹底的にレガートでつながれた美しい世界が現前する時、それは、まるで、印象派絵画を美術館で見ているような感情に近いんです。美しいものを美しいまま、作品の印象をそのまま絵にするのがそれだとして、それを見る時、対象が何であるか判然しない状態の中で、美しさの源流が何であるかを探して、それでも結局、美しいという一言に気付く、そんな感覚。その意味では、もう、何も言い難い美しさなんです。もしかしたら演奏のアラとかあったのかもしれないし、細かく聞けば多分場所が場所だけに見つかったような気がする。でも、そんなことどうでもいい。そこが主眼ではないんです、この音楽は。どちらかというと、出会ったことない感覚なのかもしれません。

・アンコール
荻原英彦「優しき歌・序の歌」
指揮:大谷研二
大中恩「ドロップスのうた」
指揮:岩本達明
ピアノ:浅井道子

否、もう、なんだか浮足立っちゃって、とても興奮した状態で演奏を聴いていたように思います。そして、演奏が終わって、久々に思いました。「終わってくれるな」と。否、でも、終わったら、とてもスッキリした気持ちにもなった――不思議な感覚でした。

・まとめ

ああ、いい音楽を聴いたなぁ!そんな思いにいっぱいになって外へ出ました。そして、何を書こう、と、思いながら、延々と引き伸ばしてしまい、今に至ります。
なんだかね、普段、中々こんな思いに至ることも少ないんです。ANIMAE と MODOKI のジョイントで得た印象とも又違う。ただ、よかった。もしかしたら、ちゃんと探したら、アラとか見つかってくるのかもしれませんけれども、なんだかもう、そんなのどうでもいい。ただただ、いい音楽を聴いた、そんな感想だけ純粋に持って、とてもさっぱりした気分になって終わっていった演奏会でした。
演奏会が終わると、良かれ悪かれ、あれ書こうとかこれ書こうとか、色々結構出てくるんですけれども、それが全然なかった。ただとにかく、総合して、いい音楽聴いたな、って気分で終わっていく。何の後腐れもなく。決して、印象が薄いわけじゃないんです。確かに、あのときの音というのを、今でも思い出すことが出来る。でも、生活の、記憶の中に、確かに残ってはいるものの、すっかり溶け込んで、まるで、昔から知っていたかのような気にさせられる。でも、この印象、これまでに持ったことのあるものではない。だから、とても不思議な感覚なんです。
なんだか、それでいいんだろうな、という気がしています。確かに、心の奥底に楔を打ち込むような激烈な音楽表現は確かに存在するし、その良さを否定するつもりはサラサラない。でも、生活の中に、まさに激情という言葉のよく合う昭和の合唱曲群の中にあって、表現の核心を、シンプルに、しかしこぼすことなく表現する時、それは結局、何ら私たちの生活と離れた音楽ではないのだと気付かされます。そんな、心のなかにすっと染み込んで、また、明日を生きる活力になり、そっと寄り添ってくれるような音楽。
難しいんですよね。だって、音楽って自己表現ですもん。でも、MIWO とて、その人達の表現が埋没しているわけでは決してない。否むしろ、なみいる上手な合唱団と呼ばれる中でもトップクラスに表現が強い団だと思います。そんな中で、決して後に引かないというのは、とどのつまり、自己表現と曲の表現をうまく一致できているからだと思います。曲の中に、うまく自分の感情をマッピング出来ているといえばいいでしょうか。独りよがりでもなく、矮小な自己表現でもない。中々出来ることではないことをやってのけるのは、MIWO がただ表現のために音楽を捧げている、その所以なのではないでしょうか。

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