おおよそだいたい、合唱のこと。

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合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
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2017年8月27日日曜日

【軽井沢国際合唱フェスティバル ICCC・プレミアムコンサート3】

〜美しさの所在
2017年8月27日(日)於 大賀ホール

《Japan International Choral Competition 2017》
3rd Prize “Carde Natus” by F. Carbonell (Spein)
2nd Prize “Jesu dlcedo Cordium” by G. Susana (Italy)
1st Prize canceled
Premire Performed by
The Metropolitan Chorus of Tokyo
(Cnd. Ko Matsushita)

 《プレミアムコンサート3》by amarcord
Barber, Samuel “The Coolin” from “Reincarnations”
Copland, Aaron “Four Motets”
 ‘Help Us, O Lord’
 ‘Thou, O Jehovoh, Abideth Forever’
 ‘Have Mercy Oh Us, O My Lord’
 ‘Sing Ye Praises To Our King’
Ives, Charles E. “Serenade”

int. 10 min.

Folksongs
“Put Vejini”(Latvia)
“No potho reposare” (Italy)
“Smedsvisa” (Sweden)
“Nine Hundred Miles Away from Home” (America)
“Waltzing Matilda” (Australia)
“Da N’ase” (Ghana)
and, so called “folk song” Medley (Japan)
encore
original

*後半プログラムは、アナウンス内容による。

***

 軽井沢フェスでは、3日間、朝から夜まで断続的にイベントが続いていく。時にコンサートの裏で講座が開催されることもあり、参加者は最初から滞在すると、まる3日合唱の響きの中に包まれることも可能である。一方、そこは、旧軽井沢をはじめとして、避暑地としてだけでなく、観光地としてもたびたび紹介される人気スポットでもある。ひとたび街に繰り出せば、各々の好きな形で楽しむことが出来る。演奏を終え、今日午前中は自由時間となるこの日にあって、メインホールでははるにれコンサート、もう一箇所では発声講座が開かれている。このブログを書くほどの合唱好きである私は勿論――市街地観光を選択した。全く、不貞者である。

 午後からは、目玉イベントである「日本国際合唱作曲コンクール」の結果発表と、amarcord によるメインコンサートであった。
 同作曲コンクールにて1位が空位になったのは、調べたところによると、今回が初めてのようだ。2位、3位を受賞した2曲は、いずれも非常に素晴らしい作品であったと感じる。出版と直結するコンクールであるだけに、是非早いうちに多くの再演を得られることを願う。特に、2位の作品は、聞こえとしてもキャッチーな方であり、その意味にあっても、多くの合唱団が迎え入れやすい作品であるように感じる。
 ただ一方で、上記2作品は、一種突飛な新規性に基づく感動というよりは、既存の形式をうまく利用して、組み合わせにより新しい響きを作り出す2曲であったように感じる。もっとも、突飛な発想により作品を書いたとしても受け入れられるかという問題はあるが、一方で、今回の2作品に足りなかったものはなにかといえば、新規性という言葉が思い浮かぶ。その意味では、とても納得のいく空位である。

 アンサンブルコンテストの結果発表を挟んで、amarcord のコンサート。最初にひとつ特記しておかなければならないのは、特に amarcord の前半でたいへん気になった、客席マナーに関する問題である。なにも、招待された子どもたちの問題ではない(逆に彼らは、比較的マナーの良い方であったと感じる)。ガサガサとした雑音は、私が聴く限りでは、後ろの方――一般席から鳴っていたような気がする。格式の高いイベントとして永続されるためにも、今後、是非改善されたいところである。

***

 信仰にも楽典にも明るいわけではないが、カトリックを中心として、宗教音楽の響きは美しくなければならないという。
 確かに、教会旋法のもとにあって、どれを聴いてもリッチなカデンツを持つことがほとんどであるし、現代の宗教音楽にしても、肝要な部分は基本的にきれいな音で語られる。いわば、宗教音楽における美とは、計算されたものであり、逆に、計算されたものであってこそ、神への信仰という奉仕として受け入れられるものである。それは、一種の義務ともいえるようだ。
 したがって、演奏も、その楽曲形式を十分理解した上でしなければならない。なにせ、信仰のための形式であり、形式による信仰である。この、形式による理解がなければ、ある意味においては、その曲を演奏したとも言い難くなってしまう一面がある。そのためのもっとも簡潔でわかりやすい方法といえば、楽譜を読み込むことだ。語弊を恐れずにいえば、楽譜には、その曲のすべての情報が書かれている。
 もっとも、相反するような言い方であるが、楽譜に書いていない情報で、当然のうちに理解して置かなければならない事項というのも少なくない。例えばそれは、楽曲の時代背景の問題であるとか、作曲家の個人的事情、信仰心、そして、もっといえば、楽曲の楽典的理解や、フレージングの息遣い、言葉の発音、モチーフにより自然に現れなければならない強弱だったりといった技術的側面も含まれる。
 すなわち、「正確に演奏する」とは、楽曲の周りにある様々な情報を包摂し、利用することである。しかも、そういった知識の応用を考えるにあたっては、決して、一面的に取り扱ってはならない。それは、ただ、キレイなだけで淡白な演奏となるか、あるいは感情の押しつけでただくどくどしく聞こえるか、その程度の演奏となってしまう。それでは、あまりに幼い。
 なにも、オペラに限らないのだ。音楽は、それ単体で、総合芸術をなす。

 amarcord のコンサートは、とても静かに始まっていった。さもそこにあるのが当然なようなフレーズの始点から、一本の糸をつなぐようにしてフレーズが結ばれていく。その糸が絡み合い、一筋の確かな線が現前する。主旋律と副旋律、伴奏間の乖離もない。まさに、そこにあるのが自然であると言わんばかりの音が、さりげなくそこに置かれていく。1日目にも書いた、当たり前のことを当たり前にやってしまうから、すごくさらっと聞かせてしまう。しかし、時に冗長に聞かせてしまうモテットやセレナードなどといった曲群をここまで美しく、そしてなにより、いつまでも聴きたいと思わせるのは、amarcord の技術力あってこそである。
 なにも、特別なことはしていないのである。決して奇をてらうでもなく、リズムを無理に揺らしたりするわけでもない。ただひたすらに、自らの鳴らすべき音楽を、鳴らすままに鳴らしていく。おそらく楽譜に書いてある事柄を、ただ淡々とこなしていく。――そのことが、これほどまでに難しいものであったなんて! とかく見落としがちである「楽譜に忠実に歌う」という所作の重要性を改めて認識させられた。楽譜とは、完成した楽曲のひとつの姿である。逆を言えば、楽譜に忠実でない以上は、どんなに美しい音楽だったとしても、少なくとも、その楽曲の姿とは言い難い。そして、その独り善がりの表現は、結局、どこか押し付けがましいものと鳴るのが関の山だ。
 だからこそ、amarcord の忠実なサウンドが、何より素晴らしい。美しい音楽は何もしなくても美しい。ただ、その何もしないという事自体、とても難しいことなのだ。楽譜に忠実にあるという所作を実現するには、実はとても大量の情報・技術をクリアしなければならない。だからこそ、音楽の世界は深く、そして、それが実現した時、音楽はとても美しいものとなる。ただただその響きに揺蕩うとき、愈その音楽は、感性を以て語るべきものとなる。

 第2部には、世界のフォークソングが用意された。このステージもまた、楽譜に――否、最早音楽に忠実なものである。Put Vejini の感動的なアルペジオ、そこからの世界の広がりに、一気に世界が信仰の世界から土着の風景の香る世界へと広がっていく。時にコミカルなことをやっても一切ぶれないその発声と、曲の終着点のあるべき地点を見定めたアンサンブルは、だからこそ、見知らぬ土地の歌であっても、人々を一気にその世界へ引き寄せる。
 たとえどんなにその国ではポピュラーなものとはいえど、往々にして、他所の国のカルチャーである。どうしても、近寄りがたいものを感じてしまうのは、その人の土着故であろう。然し、それを、演奏者、さらには聞き手に伝える共通の手段が何かと言えば、何を隠そう、楽譜なのである。何も否定的にそういうつもりはない。ただ、そのフォークソングの尤も美しい部分を寄せ集めた合唱編曲にあって、原曲に対する理解に加えて、楽譜に対する理解のないことには、その、もっとも美しい部分を伝えるには及ばないのである。正確に、そして(もっとも重要なことだが)深く意図を汲み取り、演奏すること――そのことによって、「楽譜通りに演奏する」という一見つまらなさそうに見える所作が、とても生き生きした音楽表現の手段として私たちの前に現前する。
 そして、フォークソングをして、この団のアンサンブルは、最早ライブである。厳密な楽譜と、その再現があれど、奏でられる音楽はそれっきりである。ガーナ音楽では会場を巻き込んで一緒にアンサンブルをしたり、そして、一大スペクタクル、歓喜のオールスタンディングに迎えられた最後のプログラムは、圧巻というよりほかはない。――本邦は気付けば、立派なポップカルチャー大国となった。そしてこれは――否、書き手にして卑怯だが、聴いたものだけの秘密にさせていただきたい。

 ただただ、amarcord は美しかった。音楽の美しさをすべて知っているかのような、心の底から魅力的なアンサンブルだった。そのアンサンブルが、このフェスティバルにおいて生まれたことに心から感謝したい。そして――このフェスティバルを通した、何も歌に限らない、見るものすべてとの様々な出会い――異文化・異世界・未知の領域・未知の表現――が、様々な人の音楽観の幅を広げていくのだと信じている。
 出会い――だからこそ、軽井沢フェスには、価値がある。この出会いの、連綿と続くことを、心から祈っている。

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