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2017年8月25日金曜日

【軽井沢国際合唱フェスティバル 教会コンサート・プレミアムコンサート1】

〜LADNDARBASO abesbatza と世俗性
2017年8月25日(金)於 大賀ホール、聖パウロカトリック教会

《教会コンサート》
レディースシンガーズ Sophia(大阪)
Lassus, Orlandus “IN PACE”
Telfer, Nancy “Sicut Cervus Desiderat”

Thaumatrope(東京)
Homilius, Gottfried August “Herr, wenn Trübsal da ist”
 - “Ob jemand sündiget”
 - “So gehst du nun, mein Jesu, hin / Lasset uns mitziehen”

LANDARBASO abesbatza(バスク・スペイン)
Duruflé, Maurice “Ubi Caritas”
Sisask, Urmas “Heliseb Välljadel (Ringing in the fields)”
Sarasola, Xabier “Ave Maria”
“Ukuthula (Peace)” (South African praise)

amarcord(ライプツィヒ・ドイツ)
Milhaud, Darius “Psaume 121 op. 72”
Poulenc, Francis “Laudes de Saint Antoine de Padoue”
Rossini, Gioacchino “Priére” from “Chæur Quelques de Chant Funébre”
encore
Kodaly, Zoltan "Esti dal"

《プレミアムコンサート1》 by LANDARBASO abesbatza
Elberdin, Josu “Ubi Caritas”
Busto, Javier “Hodie Christus Natus est”
Sarasola, Xabier “Maiteagoak (More beloved)” (Xabier Lete)
Guerrero, Junkal “Eguzki Printzak (Sunshines)”
Gonzalez, Iker “Mendeen Ahotsak (The voices of the centuries)” (“Lauaxeta” and Balendiñe Albizu)
Gonzalez, Iker “Xalbadorren Heriotzean” (Xabier Lete)
Donostia, Aita “Iru Txito (Three little chicken)”
encore
Esenvalds, Eriks “ONLY IN SLEEP” (Sara Teasdale)


(Below Japanese only)
 軽井沢――この響きに、特別な何かを感じるようになって、どれくらい経つだろう。
 否、何も、別荘地としての話ばかりをするのではない。確かに、街を歩けば、旧軽井沢の街並みを中心に、これまで見たことのないような、高貴な空気が漂う。天皇家が静養に使うような場所である。その価値は、代々守られて、愈磨かれている。そして、軽井沢の街は、音楽の街でもある。軽井沢国際音楽祭、そして大賀ホールが核となり、恒例の皇后陛下のアンサンブルも相まって、8月の後半は軽井沢は豊かな響きに包まれる。そして――豊かな歌の響きに包まれる祭典も、始まってもう13年になるという。
 合唱人は、また、自らの趣味の立場をしても、軽井沢を特別な土地と見る。今年も、軽井沢国際合唱フェスティバルの季節がやってきた。

 僭越ながら、当方がこのイベントに顔をだすのは初めてのことだ。耕友会が主催、(一社)東京国際合唱機構が共催。大賀ホールをメインホールとして、各所で招聘団体によるコンサート、さらには公募によるガラ・コンサートやアンサンブルコンテスト、合唱関係の講座から作曲コンクール(審査結果発表)まで、さらに街角でのコンサートも相まって、軽井沢という狭いエリアが合唱の響きに包まれる(これだけ地元に密着していながら、長野県連の後援がなく、JCAに加えて東京都連の後援しかないのは少々残念か)。かねてから噂には聞いていたイベントだが、フラッと立ち寄るには、軽井沢はあまりにも遠すぎる。そして――たまたま、今回訪れる機会を得た軽井沢。amarcord(ドイツ)、Landarbaso abesbatza(バスク)の海外招聘団体に加え、MODOKI、岐阜大学コーラスクラブの国内招聘団体に列する団体の一団員として訪れたこの場所にして、初日にして早くも、合唱に満ち溢れたフェスティバルの雰囲気を見せつけられた。

***

 当方のリハーサルを経て、まずは軽井沢の街を抜けていく。向かう先は、聖パウロカトリック教会。戦前に建造された木造教会として、軽井沢の文化的価値をも高める歴史ある教会で、軽井沢フェスは始まる。チャーチ・ストリートというモールを抜けて開催されるのは、教会コンサート。開幕パレードに次いで、軽井沢フェスのパイロットイベントとして重要な位置づけを担う。

 戦前に建てられた、それも木造で、軽井沢に滞在する人々の祈りの場として作られている教会である。必ずしも、響きのための教会ではない。小屋組みがむき出しの、塗り壁の内装が温かい三角屋根のもとに人々が集う。遮音性という考えのもとに組まれた建物ではなく。外からは観光地として少々慌ただしい軽井沢のガヤガヤした音が入り込む。普通であれば、音楽を聴くのに適した環境とは言い切れない。――普通であれば。
 1団体を外で聴き、2団体目から中に入った私はしかし、いつまでもこの教会で音楽を聴くことが出来たなら、という感覚に囚われた。何も、低音を中心に割としっかりと鳴る教会のホールとしての性質が良かっただけではない。しかし、なにより、この空間は正に、音楽を、祈りを「感じる」ために作られた空間である。
 聴こえてくる鳥のさえずり、外からの光、風、そして人の声、車の音ですら、このホールにとっては音楽である。ジョン・ケージ「4分33秒」を挙げるでもなく、このホールにとっては、全てが音楽である。逆に言えば、音楽と日常が地続きで感じられる、数少ない空間でもある。普段のホールのように、日常と分断された空間で音楽を聴くでもなく、また、街中でポップス中心のブラスバンドを聴くのとも違う。ただ日常の空気の中で、カトリックとは思えない程質素な作りのホールの中で、声による、いわば原始的な祈りが響く。それは、ある意味、日常へ向けられた祈りでもある。――軽井沢に来て早々、やられた。早くも、私が探し求めていたものの一つを見せつけられた。日常の混ざる音楽。早くも確たることとして申し上げたい。軽井沢に来たら、まずは、この教会コンサートである。

「世俗的な祈り」というのは、合唱人をしてすら多くがクリスチャンではない日本の合唱においては少々難しい命題である。今回教会コンサートで演奏した二つの団体が、まさにそれを物語る。一つは外で、一つは中で聴いたが、いずれも(逆も又然り、外に漏れてくるハーモニーもある意味充実している)、高い響きをうまく使えない表現が目立った。ピッチが低い、ということでは必ずしもない。逆にいえば、敢えてこう言えば、そういう「小手先の」表現というのは決して悪くないのである。例えば、ユニゾンをキチンと揃える、だとか、フレーズの頭と最後の処理だとか、所謂、コンクール受けしそうな表現というのはそつなくこなす。しかし、例えば、フレーズの頂点だとか、そこがよかったとしても、対旋律の作り方や、もっといえばフレーズ自体、さらにはメリスマなど、「祈りのキモ」ともなりそうな表現が、いまいちしっくり決まらない。おそらく、リハーサルの課程で、どこかに合意点を持ってきているハズなのだが、それでも、どこか納得できないで終わってしまうことがままある。

 そんな中に、光を見出したのが、この教会の響きに限りなく寄り添った、海外招聘団体である LADNDARBASO abesbatza の歌声であった。他の2団体の響きが下向きに鳴っていたように聞こえる中にあって、この団の響きは、限りなく上を使っていた。団の規模に対して決して広くはない教会にあって、教会をただ広く感じ、そして――祈りがリアリティを持って伝わってくる。そう、それは、どこまでも世俗的な響きである。だからこそ、フォルテを鳴らしても無理がないし、そのフォルテが確かにフォルテを鳴らしている実感を以て伝わってくるのである。
 この祈りは、日常に根付いている。だから、あまりにも、素朴に響く。そして、その素朴な響きのなかに、聴衆は感動を見る。この感覚――そう、プロムジカを聞いたときの感覚に近い。まるで、愛唱曲を歌うかのように、自らの祈りの音楽を鳴らす。わざとらしくないクレシェンドや、軽い歌い方でしっかりと鳴らすその有り様、その思いが、4曲目のような、民族系の音楽によく顕れる。それは、とても自然な、しかし、とても軽く、思いが顕在する音楽でもある。

 その世俗性は、熱狂に満ちたオープニングを経て開かれたプレミアムコンサート1でも顕在する。すべてバスクの音楽で構成されたプログラムは、平和のための響きの中に始まり、祈りの音楽でありながら、どこか懐かしいような旋律を覗かせる1曲目、そして、下降音型のアルペジオからどこかむき出しの感情とも言える、太鼓の音とのアンサンブルへと変遷していく2曲目。そして、以降の曲も、まるで情景が見えてくるかのような風景描写が印象的であった。
 だからこそ、この演奏の中でももっとも印象的だった5曲目の位置付けがとても重要である。ゲルニカ空爆に宛てて書かれたという同曲は、10分間にわたる叙事詩的作品である。空爆の悲惨と、そこからの恢復、救済、そして、民族舞踊とともに演奏される最後の民族音楽のモチーフは、日常に対する憧れにも似た、祈りのための舞である。その姿をこんなにも美しく、そして、美しさを確実に表現できるのは、一種、日常むき出しの中に音楽を奏でることがあってこそである。
 コミックソングにしても、そして、アンコールで奏でられる曲のテーマが「眠りの中の永遠への憧憬」というだけあって、地続きの日常と、ただ愚直なまでに素直な表現が、聴くものの心を掴んで離さない。聞いている分には、ただ美しいはずなのに、ふと目を向けてみると、そこには、一種生々しい日常が広がる。想像に過ぎないにせよ、教会で、時に自らの祈りのために、故郷のために祈るその姿が浮かんでくる。その想像は、きっと、音となって顕れるから、具体的に現前している気がしてならない。
 民謡にしてすら遠い私達にとって、共通の記憶を見出すのは、都市生活においては難しい。しかし、その、共通の記憶を見出すためにふと立ち止まってみるのも、音楽のためには、又、悪くないような気がしてならない。私たちは、どこに、その共通の記憶を見出すのか――。

***

 否、技術を決めるアンサンブルが悪いわけでは決してない。寧ろ、それがとてつもない感動を見出すこともある。教会コンサートの最後に姿を魅せた彼らの演奏は、とても、当たり障りのない演奏だった。でも、不思議な事に、いつまで聞いていても、さっぱり飽きない。よく耳を凝らしてみると、――信じられないくらいに、楽譜上のすべての要素をさらおうとしているのがよく分かる。旋律の収め方、レガートとマルカートの歌い分け、強勢や発音の処理の仕方……何をやっても、取りこぼしがない。すべてやっているから、まるで何事もないかのように聞こえるけれども、逆に言えば、何もかも決めてしまっているから、何もかも自然に聞こえているだけなのだ。まったく耳に障る要素のないプーランクは、和声が一切独立しないで、一つ一つの音が意味ある音として鳴っている、その時間軸を、完全に皆で共有している。――そして、ふと気づく。amarcord――私たちは、とんでもないものを聞いている、と。

 オープニングでは、海外招聘団体のうち、LANDARBASO と amarcord が1曲ずつ演奏した。心あたたまる LANDARBASO の演奏に対して、amarcord は、やはり、非常に難易度の高いコミックソングを、とんでもない高い声域の弱勢や、とんでもなく低いスキャットを、とても軽く、さも当たり前かのように表現し切った――まだまだ軽井沢では、とんでもない世界が、私たちを待っている。

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