おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2017年8月31日木曜日

【東京混声合唱団いずみホール定期演奏会 No.22】

[女性作曲家の饗宴]
2017年8月30日(水)於 いずみホール

《谷川俊太郎の世界》
木下牧子・混声合唱曲集『地平線のかなたへ』*(1992)
上田真樹・『月の夜〜合唱とバレエのために〜』**(2017)(草野心平)《大阪初演》
「序〜月夜」
「Nocturne」
「おたまじゃくしたちのうた」
「ごびらっふの独白」
「幾千万の蛙があがる」
encore
山田耕筰(arr.篠原真)「赤とんぼ」(三木露風)
int. 20min
上田真樹・混声合唱組曲『遠くへ』*(2012)
木下牧子・混声合唱とパイプオルガンのための『光はここに』***(2008)(立原道造)
指揮:山田和樹
ピアノ:萩原麻未*
オルガン:土橋薫***
バレエ:針山愛美**

***

 ただ、よかった。
 そうとだけ、書きたいのだけれども、どこかで覚えた悪知恵がそうさせない。

 いつからだろう、否、私に限ったことでもないのだ。人は何かと、そこにある感動を、別の事象と勝手につなぎ合わせて解釈したりする。本当は、そんな感動の仕方は邪魔だって、伊福部昭も書いていたはずなのに。尤も、ほぼ全ての場合において絶対音楽となれない声楽・合唱という分野は、こういう考え方自体が野暮なのかもしれない。
 でも然し、人間だ。その前に読んだ本だったり、見てきた景色だったり、痛ましいニュースだったり、食べたモノ、飲んだモノ、耳目に入れた森羅万象が、私の解釈を歪めてしまう。――否、レビュアーとして余り宜しい鑑賞態度ではないのかもしれない。それでも、どう頑張ってもそうなってしまうのだから、仕方ない、割り切って、客観的に主観を書く努力を辛うじて重ねているところである。
 最初に東京混声合唱団に出会ったのは、上田真樹の音楽であった。去年も書いたような気がするが、大谷研二による『夢の意味』の再演。当時は、勉強だと思って聴いていたものが、今は、ただ音楽と対峙できる――それはそれで、以前よりは幸せな環境と言えるかもしれない。
 でも、だからこそ、だ。何かと、思い出してしまうのだ。「あれはいつのことだったか」(「朝明けに」)――最早、共感覚と言えるのかもしれない。上田真樹の音楽を聴くと、どこか、嘗てのあの時の記憶が蘇る。CDで聴いているよりは、生身の音楽だからこそ、ちょっと荒削りのように聞こえるけれども、でも、たしかに歌を、人間の歌を聞いているという感覚。どこか満足したような、でも、心ここにあらず、という感じ――あの頃は、若かった。でも、若さ故の特権でもあった。
 だからだろうか。否、今回ばかりは、それだけではないのかもしれないが、東混を聴きに東京にだって行くこともあれど、いずみ定期には、特別な思いを隠しきれない。

 木下牧子と上田真樹――ともすると、これは、女性作曲家の過去と未来を繋ぐ並びといえるかもしれない。今回の演奏会は、そんな二人の話を山田和樹が聴く、そんな贅沢な鼎談に始まった。聞き手が聞き手だけに、話があっという間に深いところへ入っていき、時に技術的な話へも辿り着くこの話。一例を挙げると、曰く、尊敬する作曲家は、上田真樹は「バッハ」、木下牧子は「あえて挙げるとするなら武満徹」とのこと。聴くに貴重なプレトークだった。

 記憶を辿る、という意味では、私たちは、この曲、特に一曲目を、はるか昔から、原体験として持っている。『地平線のかなたへ』、特に「春に」は、本来様々な場所で比較されながら語られる楽曲である。テレビでも演奏経験を持つ同曲にあって、しかし、今回の東混の演奏は、それ以上に鮮烈な印象で私たちに届けられた。萩原麻未は、普段コンチェルトとの共演は多いものの、合唱と演奏するのは稀だという。その中にあって余計に、東混との相性は良かった。山田和樹の指揮の美学は、殊合唱に於いては、「振らない」部分に如実に顕れる。必要がなければ振らない、すなわち団員に委ね、斉一的な表現が必要な部分は、歌い手以上に、まるで少年のように目一杯表現する。非常に大きい裁量に委ねられ、ソロにも強い合唱もピアノも、各々の表現に徹する。本当に軽やかに、木下牧子にして珍しいと本人語る、シンプルで瑞々しい表現が響き渡る。「卒業」に見せる諧謔、「ネロ」の心に迫る表現など、まさに圧巻である(「ネロ」など、ついこの演奏の前まで、有川浩『旅猫リポート』(講談社文庫)を読んでいたから余計に)。然し、振らない山田和樹は又、楽譜を本当によく読み込んでいる。それは、プレトークで山田和樹が「サッカーによせて」の冒頭の合唱がメゾ・ピアノで書かれているのが意外だった、という言葉にもよくあわられる。それは、トップ・プロだから当然といえば当然なのだが、然し、主観を以て客観を語ることにより、記譜表現が単なる記号に留まらず、とても生き生きとしたものとなる(ついでに、主観を排除しない自分のような輩を救済する)。
 オルガン曲である『光はここに』においては、オルガンに不協和音が少なからず存在することもあり、アンサンブルという点で難点のある部分が少なからずあったように感じる。ただ一方で、アカペラや、最後のカデンツに代表される協和音表現は、今日の東混はいつになく光っていた。また、ここでも、山田和樹に引っ張られる形で、デュナーミクについても絶品である。特に、終曲では最後の主題が2回繰り返されるが、1回目の主題を抑えめに入ったことで、2回目の主題が壮大な讃歌として響いてくる。細やかな表現に、ハッと気付かされる、その瞬間に、この音楽の真髄を見る。

 いのちの讃歌――この演奏会のプログラムを、知ってか知らずか通底する主題である。

 きれいな部分もきたない部分も共存する、裸のままの「いのち」の姿。「あしたとあさってが一度にくるといい」という表現ひとつとっても、純粋といえばそれまでだが、どこまでも貪欲な、どこか危なっかしい人間の姿が見えるようでハッとする。「おれの簡単な脳の組織は。言わば即ち天である。」(草野心平「ごびらっふの独白」)――いのちとは、どこまでも孤独で、どこまでも単純で、そして、どこまでも愛らしい。
 いつまでも続かないのが、いのちである。――合唱団はじめ、法人にだって、いのちはある。卑近な話をすれば、私達にも身近な著作権についていうと、個人の著作権の保護期間は「死後」50年なのに対し、法人のそれは「制作されてから」50年しか守られない。もっとも、法人という枠自体は、形式上、廃業・精算しなければ、たとい人が入れ替わろうと、時に所有者が入れ替わろうと続いていく。――それは、合唱団だって例外ではない。しかし、いのちなき団体がいつまでも残存している、そんな様を、私たちは決して見てこなかったわけではない。
 長く続く楽団が、100年も同じプログラムを続けることは、非常に稀である。例えば、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは、シュトラウスの曲群を演り続け、最後は必ず「ラデツキー行進曲」と相場が決まっている。しかし、その中でも毎年曲目を入れ替えるのは言うまでもなく、シュトラウス外のプログラムも近年特に積極的に取り入れながら、少しずつ、伝統の枠内にありながら、その中身を入れ替えて、新陳代謝を図っている(もっとも、第1回の1曲目から実はシュトラウスではなかったのだが)。しかし、その中にあってなお、シュトラウスをピリオドで演るという重要な軸は全くぶれることなく永続している。変わっていないように見えて、たしかに変わっている。そのことによって、組織は永続している。
 東混も、かれこれ創団61年となる。その永続する歴史の中で、田中信昭と、田中を中心に委嘱された膨大な数の初演活動というのが、この団でもっともぶれない軸である。そう、この団の軸は、新しいものを取り入れることを厭わないこと、まさにそのことにある。そしてそれは、間違いなく未来を見据えているものの、不思議な事に、常に、過去の初演の実績とともに裏付けられ、そのブランドを確かなものとする。東混の、これまでの新しいものに対する実績こそ、これからの新しいものに対する期待そのものである。そして、その成功は、これからの期待を形成する――その繰り返しこそ、「伝統」と呼ぶべき所作になる。嘗て自ら作った新しいもの以上の新しいものを作り出すことで、その伝統は生へ向けて生き生きしたものとなる。そして、この「伝統」がない限り、楽団は、――ときに法人は、ゾンビのようにして世の中を揺蕩う他に、存在の方法を忘れる。それは確かに続いているが、そこに、いのちがあるとは、言えない。組織のレゾンデートル――それは、価値創造に他ならない。
 たとえば、東混にとっては、新しいことそのものが伝統なのであり、存在条件なのである。

 東混にとって、山田和樹、そして、上田真樹との出会いは、まさに僥倖であった。上田真樹は、とかく難解な現代音楽に偏りがちであった東混の委嘱活動に、親しみやすく、しかし奥の深い音楽という、ある種正統派でありながら革新的な視座を齎した。そして、山田和樹は、その流れに呼応するかのように、あらゆる音楽的ジャンルを横断的に取り扱うプログラムを、天才的なバトンテクニックで次々と成功へ導いていく。そして、その姿が尤も典型的に顕れたのは、いまやヤマカズ東混の十八番とも言える、『夢の意味』の委嘱であったのだ。
 そんな昔の姿を、少しだけ思い出したような思いだった。『遠くへ』は、嘗て名大医混が委嘱した曲(伝統、という意味では、そういえば当時はまだ当間修一が医混を振っていたときだった)。聴衆として初演に立ち会った時、まるで、初めて『夢の意味』の実演に触れたときと同じような感覚――名古屋で上田真樹作品の初演にふれるということそのものの感動にとらわれていた。そんな曲の姿が、2回目の実演に触れる機会ということもあり、少しばかり冷静に、輪郭を捉えることが出来ると思ったら――やはり、徹底的に美しい和声の影に隠れてしまう。上田真樹作品の前では冷静さを失ってしまう。それくらい、東混が歌い、山田和樹の振る上田真樹が、好きで仕方がない。あんなに堂々とロマンチシズムを歌うことが出来るなんて――酔いしれている演奏では出来ない感動が、そこにはある。アマルコルドの精密機械のような楽譜の読み方とは違ったアプローチで、ヤマカズ東混は楽譜に忠実なのだ。否、感情論ではない――楽譜から、曲の心意気を読み取っている。
 そして、何より、『月の夜』の圧巻は、その後の休憩中も、恍惚を隠しきれない程だった。今、少なからず冷静になって目を落としたパンフレットに記載されている上田真樹の言葉で、ふと氷解する。「本来、言葉を持たないバレエと、言葉ありきの合唱音楽の組み合わせ。合唱がバレエの単なる解説になっては面白くない。バレエが合唱に花を添えるだけの付属物になっても面白くない。それならば。いっそのこと、意味のわからない言葉で書いてみようか。」――確かに、分からない言葉であっても、意味は十分伝わった。むしろ、言葉を意識しないことによって、音と映像によって認識することで(なにせ、歌詞カードに目が落とせない)、その「生」へ向けられた表現が余計に生々しいものとなって、私たちのもとに伝わっているような気がしてならない。動きも、歌も、和声も、何もかも、どこまでも力強いものだった。ただひたすらに、蛙のコミュニティの中に生きる世界を現前させ、最後に客席も巻き込んで(実際に声を出して!)この曲はついに完成する。間違いない、私たちはあの時、蛙のコミュニティの中に入っていた。蛙たちが蛙の命についての壮大な考察を歌い上げる、その中に、「カエルの歌」の対旋律を実際に歌うことによって、途端に歌の世界が自分のこととして心の中に刻み込まれる。まるで、夢でも見ているかのようだった。それも、どこか遠い世界の出来事だった以前の感情ともだいぶ違う――あの時、たしかに、合唱という括りを越えた芸術を垣間見た。「ああ、生きている!」大仰でもない、そんな実感がある。

 いのちは、その内部で変動することによって永続を見る。そしてまた、東混も、その伝統の中で確かに動き、進化を重ねている。珍しく外部団体の委嘱(神奈川県立音楽堂委嘱)による初演、そして、異分野の芸術との融合による新しい創造など、外部的な刺激と、それに呼応するかのように、新しい音楽監督の元に、内部からの刺激によっても、少しずつ変貌を遂げている。何も、演奏だけではない。往年の名作曲家から、若手のトップランナーへ。そのバトンがたしかに受け継がれていることを再確認する、そんな、とてつもない初演を見せられた。
――そして、そんな変化への兆しは、音楽だけにも留まらない。

 ただ、よかった。
 そうとだけ、書きたいのだけれども、どこかで覚えた悪知恵がそうさせない。

「せめてはゆめよ/さめるな、ゆめ」(林望「夢の名残」)

 確かに感じる、変化への兆し。こうして、伝統は続いていく。そう信じている、否――そう、信じていたいと思う。

2017年8月27日日曜日

【軽井沢国際合唱フェスティバル ICCC・プレミアムコンサート3】

〜美しさの所在
2017年8月27日(日)於 大賀ホール

《Japan International Choral Competition 2017》
3rd Prize “Carde Natus” by F. Carbonell (Spein)
2nd Prize “Jesu dlcedo Cordium” by G. Susana (Italy)
1st Prize canceled
Premire Performed by
The Metropolitan Chorus of Tokyo
(Cnd. Ko Matsushita)

 《プレミアムコンサート3》by amarcord
Barber, Samuel “The Coolin” from “Reincarnations”
Copland, Aaron “Four Motets”
 ‘Help Us, O Lord’
 ‘Thou, O Jehovoh, Abideth Forever’
 ‘Have Mercy Oh Us, O My Lord’
 ‘Sing Ye Praises To Our King’
Ives, Charles E. “Serenade”

int. 10 min.

Folksongs
“Put Vejini”(Latvia)
“No potho reposare” (Italy)
“Smedsvisa” (Sweden)
“Nine Hundred Miles Away from Home” (America)
“Waltzing Matilda” (Australia)
“Da N’ase” (Ghana)
and, so called “folk song” Medley (Japan)
encore
original

*後半プログラムは、アナウンス内容による。

***

 軽井沢フェスでは、3日間、朝から夜まで断続的にイベントが続いていく。時にコンサートの裏で講座が開催されることもあり、参加者は最初から滞在すると、まる3日合唱の響きの中に包まれることも可能である。一方、そこは、旧軽井沢をはじめとして、避暑地としてだけでなく、観光地としてもたびたび紹介される人気スポットでもある。ひとたび街に繰り出せば、各々の好きな形で楽しむことが出来る。演奏を終え、今日午前中は自由時間となるこの日にあって、メインホールでははるにれコンサート、もう一箇所では発声講座が開かれている。このブログを書くほどの合唱好きである私は勿論――市街地観光を選択した。全く、不貞者である。

 午後からは、目玉イベントである「日本国際合唱作曲コンクール」の結果発表と、amarcord によるメインコンサートであった。
 同作曲コンクールにて1位が空位になったのは、調べたところによると、今回が初めてのようだ。2位、3位を受賞した2曲は、いずれも非常に素晴らしい作品であったと感じる。出版と直結するコンクールであるだけに、是非早いうちに多くの再演を得られることを願う。特に、2位の作品は、聞こえとしてもキャッチーな方であり、その意味にあっても、多くの合唱団が迎え入れやすい作品であるように感じる。
 ただ一方で、上記2作品は、一種突飛な新規性に基づく感動というよりは、既存の形式をうまく利用して、組み合わせにより新しい響きを作り出す2曲であったように感じる。もっとも、突飛な発想により作品を書いたとしても受け入れられるかという問題はあるが、一方で、今回の2作品に足りなかったものはなにかといえば、新規性という言葉が思い浮かぶ。その意味では、とても納得のいく空位である。

 アンサンブルコンテストの結果発表を挟んで、amarcord のコンサート。最初にひとつ特記しておかなければならないのは、特に amarcord の前半でたいへん気になった、客席マナーに関する問題である。なにも、招待された子どもたちの問題ではない(逆に彼らは、比較的マナーの良い方であったと感じる)。ガサガサとした雑音は、私が聴く限りでは、後ろの方――一般席から鳴っていたような気がする。格式の高いイベントとして永続されるためにも、今後、是非改善されたいところである。

***

 信仰にも楽典にも明るいわけではないが、カトリックを中心として、宗教音楽の響きは美しくなければならないという。
 確かに、教会旋法のもとにあって、どれを聴いてもリッチなカデンツを持つことがほとんどであるし、現代の宗教音楽にしても、肝要な部分は基本的にきれいな音で語られる。いわば、宗教音楽における美とは、計算されたものであり、逆に、計算されたものであってこそ、神への信仰という奉仕として受け入れられるものである。それは、一種の義務ともいえるようだ。
 したがって、演奏も、その楽曲形式を十分理解した上でしなければならない。なにせ、信仰のための形式であり、形式による信仰である。この、形式による理解がなければ、ある意味においては、その曲を演奏したとも言い難くなってしまう一面がある。そのためのもっとも簡潔でわかりやすい方法といえば、楽譜を読み込むことだ。語弊を恐れずにいえば、楽譜には、その曲のすべての情報が書かれている。
 もっとも、相反するような言い方であるが、楽譜に書いていない情報で、当然のうちに理解して置かなければならない事項というのも少なくない。例えばそれは、楽曲の時代背景の問題であるとか、作曲家の個人的事情、信仰心、そして、もっといえば、楽曲の楽典的理解や、フレージングの息遣い、言葉の発音、モチーフにより自然に現れなければならない強弱だったりといった技術的側面も含まれる。
 すなわち、「正確に演奏する」とは、楽曲の周りにある様々な情報を包摂し、利用することである。しかも、そういった知識の応用を考えるにあたっては、決して、一面的に取り扱ってはならない。それは、ただ、キレイなだけで淡白な演奏となるか、あるいは感情の押しつけでただくどくどしく聞こえるか、その程度の演奏となってしまう。それでは、あまりに幼い。
 なにも、オペラに限らないのだ。音楽は、それ単体で、総合芸術をなす。

 amarcord のコンサートは、とても静かに始まっていった。さもそこにあるのが当然なようなフレーズの始点から、一本の糸をつなぐようにしてフレーズが結ばれていく。その糸が絡み合い、一筋の確かな線が現前する。主旋律と副旋律、伴奏間の乖離もない。まさに、そこにあるのが自然であると言わんばかりの音が、さりげなくそこに置かれていく。1日目にも書いた、当たり前のことを当たり前にやってしまうから、すごくさらっと聞かせてしまう。しかし、時に冗長に聞かせてしまうモテットやセレナードなどといった曲群をここまで美しく、そしてなにより、いつまでも聴きたいと思わせるのは、amarcord の技術力あってこそである。
 なにも、特別なことはしていないのである。決して奇をてらうでもなく、リズムを無理に揺らしたりするわけでもない。ただひたすらに、自らの鳴らすべき音楽を、鳴らすままに鳴らしていく。おそらく楽譜に書いてある事柄を、ただ淡々とこなしていく。――そのことが、これほどまでに難しいものであったなんて! とかく見落としがちである「楽譜に忠実に歌う」という所作の重要性を改めて認識させられた。楽譜とは、完成した楽曲のひとつの姿である。逆を言えば、楽譜に忠実でない以上は、どんなに美しい音楽だったとしても、少なくとも、その楽曲の姿とは言い難い。そして、その独り善がりの表現は、結局、どこか押し付けがましいものと鳴るのが関の山だ。
 だからこそ、amarcord の忠実なサウンドが、何より素晴らしい。美しい音楽は何もしなくても美しい。ただ、その何もしないという事自体、とても難しいことなのだ。楽譜に忠実にあるという所作を実現するには、実はとても大量の情報・技術をクリアしなければならない。だからこそ、音楽の世界は深く、そして、それが実現した時、音楽はとても美しいものとなる。ただただその響きに揺蕩うとき、愈その音楽は、感性を以て語るべきものとなる。

 第2部には、世界のフォークソングが用意された。このステージもまた、楽譜に――否、最早音楽に忠実なものである。Put Vejini の感動的なアルペジオ、そこからの世界の広がりに、一気に世界が信仰の世界から土着の風景の香る世界へと広がっていく。時にコミカルなことをやっても一切ぶれないその発声と、曲の終着点のあるべき地点を見定めたアンサンブルは、だからこそ、見知らぬ土地の歌であっても、人々を一気にその世界へ引き寄せる。
 たとえどんなにその国ではポピュラーなものとはいえど、往々にして、他所の国のカルチャーである。どうしても、近寄りがたいものを感じてしまうのは、その人の土着故であろう。然し、それを、演奏者、さらには聞き手に伝える共通の手段が何かと言えば、何を隠そう、楽譜なのである。何も否定的にそういうつもりはない。ただ、そのフォークソングの尤も美しい部分を寄せ集めた合唱編曲にあって、原曲に対する理解に加えて、楽譜に対する理解のないことには、その、もっとも美しい部分を伝えるには及ばないのである。正確に、そして(もっとも重要なことだが)深く意図を汲み取り、演奏すること――そのことによって、「楽譜通りに演奏する」という一見つまらなさそうに見える所作が、とても生き生きした音楽表現の手段として私たちの前に現前する。
 そして、フォークソングをして、この団のアンサンブルは、最早ライブである。厳密な楽譜と、その再現があれど、奏でられる音楽はそれっきりである。ガーナ音楽では会場を巻き込んで一緒にアンサンブルをしたり、そして、一大スペクタクル、歓喜のオールスタンディングに迎えられた最後のプログラムは、圧巻というよりほかはない。――本邦は気付けば、立派なポップカルチャー大国となった。そしてこれは――否、書き手にして卑怯だが、聴いたものだけの秘密にさせていただきたい。

 ただただ、amarcord は美しかった。音楽の美しさをすべて知っているかのような、心の底から魅力的なアンサンブルだった。そのアンサンブルが、このフェスティバルにおいて生まれたことに心から感謝したい。そして――このフェスティバルを通した、何も歌に限らない、見るものすべてとの様々な出会い――異文化・異世界・未知の領域・未知の表現――が、様々な人の音楽観の幅を広げていくのだと信じている。
 出会い――だからこそ、軽井沢フェスには、価値がある。この出会いの、連綿と続くことを、心から祈っている。

2017年8月25日金曜日

【軽井沢国際合唱フェスティバル 教会コンサート・プレミアムコンサート1】

〜LADNDARBASO abesbatza と世俗性
2017年8月25日(金)於 大賀ホール、聖パウロカトリック教会

《教会コンサート》
レディースシンガーズ Sophia(大阪)
Lassus, Orlandus “IN PACE”
Telfer, Nancy “Sicut Cervus Desiderat”

Thaumatrope(東京)
Homilius, Gottfried August “Herr, wenn Trübsal da ist”
 - “Ob jemand sündiget”
 - “So gehst du nun, mein Jesu, hin / Lasset uns mitziehen”

LANDARBASO abesbatza(バスク・スペイン)
Duruflé, Maurice “Ubi Caritas”
Sisask, Urmas “Heliseb Välljadel (Ringing in the fields)”
Sarasola, Xabier “Ave Maria”
“Ukuthula (Peace)” (South African praise)

amarcord(ライプツィヒ・ドイツ)
Milhaud, Darius “Psaume 121 op. 72”
Poulenc, Francis “Laudes de Saint Antoine de Padoue”
Rossini, Gioacchino “Priére” from “Chæur Quelques de Chant Funébre”
encore
Kodaly, Zoltan "Esti dal"

《プレミアムコンサート1》 by LANDARBASO abesbatza
Elberdin, Josu “Ubi Caritas”
Busto, Javier “Hodie Christus Natus est”
Sarasola, Xabier “Maiteagoak (More beloved)” (Xabier Lete)
Guerrero, Junkal “Eguzki Printzak (Sunshines)”
Gonzalez, Iker “Mendeen Ahotsak (The voices of the centuries)” (“Lauaxeta” and Balendiñe Albizu)
Gonzalez, Iker “Xalbadorren Heriotzean” (Xabier Lete)
Donostia, Aita “Iru Txito (Three little chicken)”
encore
Esenvalds, Eriks “ONLY IN SLEEP” (Sara Teasdale)


(Below Japanese only)
 軽井沢――この響きに、特別な何かを感じるようになって、どれくらい経つだろう。
 否、何も、別荘地としての話ばかりをするのではない。確かに、街を歩けば、旧軽井沢の街並みを中心に、これまで見たことのないような、高貴な空気が漂う。天皇家が静養に使うような場所である。その価値は、代々守られて、愈磨かれている。そして、軽井沢の街は、音楽の街でもある。軽井沢国際音楽祭、そして大賀ホールが核となり、恒例の皇后陛下のアンサンブルも相まって、8月の後半は軽井沢は豊かな響きに包まれる。そして――豊かな歌の響きに包まれる祭典も、始まってもう13年になるという。
 合唱人は、また、自らの趣味の立場をしても、軽井沢を特別な土地と見る。今年も、軽井沢国際合唱フェスティバルの季節がやってきた。

 僭越ながら、当方がこのイベントに顔をだすのは初めてのことだ。耕友会が主催、(一社)東京国際合唱機構が共催。大賀ホールをメインホールとして、各所で招聘団体によるコンサート、さらには公募によるガラ・コンサートやアンサンブルコンテスト、合唱関係の講座から作曲コンクール(審査結果発表)まで、さらに街角でのコンサートも相まって、軽井沢という狭いエリアが合唱の響きに包まれる(これだけ地元に密着していながら、長野県連の後援がなく、JCAに加えて東京都連の後援しかないのは少々残念か)。かねてから噂には聞いていたイベントだが、フラッと立ち寄るには、軽井沢はあまりにも遠すぎる。そして――たまたま、今回訪れる機会を得た軽井沢。amarcord(ドイツ)、Landarbaso abesbatza(バスク)の海外招聘団体に加え、MODOKI、岐阜大学コーラスクラブの国内招聘団体に列する団体の一団員として訪れたこの場所にして、初日にして早くも、合唱に満ち溢れたフェスティバルの雰囲気を見せつけられた。

***

 当方のリハーサルを経て、まずは軽井沢の街を抜けていく。向かう先は、聖パウロカトリック教会。戦前に建造された木造教会として、軽井沢の文化的価値をも高める歴史ある教会で、軽井沢フェスは始まる。チャーチ・ストリートというモールを抜けて開催されるのは、教会コンサート。開幕パレードに次いで、軽井沢フェスのパイロットイベントとして重要な位置づけを担う。

 戦前に建てられた、それも木造で、軽井沢に滞在する人々の祈りの場として作られている教会である。必ずしも、響きのための教会ではない。小屋組みがむき出しの、塗り壁の内装が温かい三角屋根のもとに人々が集う。遮音性という考えのもとに組まれた建物ではなく。外からは観光地として少々慌ただしい軽井沢のガヤガヤした音が入り込む。普通であれば、音楽を聴くのに適した環境とは言い切れない。――普通であれば。
 1団体を外で聴き、2団体目から中に入った私はしかし、いつまでもこの教会で音楽を聴くことが出来たなら、という感覚に囚われた。何も、低音を中心に割としっかりと鳴る教会のホールとしての性質が良かっただけではない。しかし、なにより、この空間は正に、音楽を、祈りを「感じる」ために作られた空間である。
 聴こえてくる鳥のさえずり、外からの光、風、そして人の声、車の音ですら、このホールにとっては音楽である。ジョン・ケージ「4分33秒」を挙げるでもなく、このホールにとっては、全てが音楽である。逆に言えば、音楽と日常が地続きで感じられる、数少ない空間でもある。普段のホールのように、日常と分断された空間で音楽を聴くでもなく、また、街中でポップス中心のブラスバンドを聴くのとも違う。ただ日常の空気の中で、カトリックとは思えない程質素な作りのホールの中で、声による、いわば原始的な祈りが響く。それは、ある意味、日常へ向けられた祈りでもある。――軽井沢に来て早々、やられた。早くも、私が探し求めていたものの一つを見せつけられた。日常の混ざる音楽。早くも確たることとして申し上げたい。軽井沢に来たら、まずは、この教会コンサートである。

「世俗的な祈り」というのは、合唱人をしてすら多くがクリスチャンではない日本の合唱においては少々難しい命題である。今回教会コンサートで演奏した二つの団体が、まさにそれを物語る。一つは外で、一つは中で聴いたが、いずれも(逆も又然り、外に漏れてくるハーモニーもある意味充実している)、高い響きをうまく使えない表現が目立った。ピッチが低い、ということでは必ずしもない。逆にいえば、敢えてこう言えば、そういう「小手先の」表現というのは決して悪くないのである。例えば、ユニゾンをキチンと揃える、だとか、フレーズの頭と最後の処理だとか、所謂、コンクール受けしそうな表現というのはそつなくこなす。しかし、例えば、フレーズの頂点だとか、そこがよかったとしても、対旋律の作り方や、もっといえばフレーズ自体、さらにはメリスマなど、「祈りのキモ」ともなりそうな表現が、いまいちしっくり決まらない。おそらく、リハーサルの課程で、どこかに合意点を持ってきているハズなのだが、それでも、どこか納得できないで終わってしまうことがままある。

 そんな中に、光を見出したのが、この教会の響きに限りなく寄り添った、海外招聘団体である LADNDARBASO abesbatza の歌声であった。他の2団体の響きが下向きに鳴っていたように聞こえる中にあって、この団の響きは、限りなく上を使っていた。団の規模に対して決して広くはない教会にあって、教会をただ広く感じ、そして――祈りがリアリティを持って伝わってくる。そう、それは、どこまでも世俗的な響きである。だからこそ、フォルテを鳴らしても無理がないし、そのフォルテが確かにフォルテを鳴らしている実感を以て伝わってくるのである。
 この祈りは、日常に根付いている。だから、あまりにも、素朴に響く。そして、その素朴な響きのなかに、聴衆は感動を見る。この感覚――そう、プロムジカを聞いたときの感覚に近い。まるで、愛唱曲を歌うかのように、自らの祈りの音楽を鳴らす。わざとらしくないクレシェンドや、軽い歌い方でしっかりと鳴らすその有り様、その思いが、4曲目のような、民族系の音楽によく顕れる。それは、とても自然な、しかし、とても軽く、思いが顕在する音楽でもある。

 その世俗性は、熱狂に満ちたオープニングを経て開かれたプレミアムコンサート1でも顕在する。すべてバスクの音楽で構成されたプログラムは、平和のための響きの中に始まり、祈りの音楽でありながら、どこか懐かしいような旋律を覗かせる1曲目、そして、下降音型のアルペジオからどこかむき出しの感情とも言える、太鼓の音とのアンサンブルへと変遷していく2曲目。そして、以降の曲も、まるで情景が見えてくるかのような風景描写が印象的であった。
 だからこそ、この演奏の中でももっとも印象的だった5曲目の位置付けがとても重要である。ゲルニカ空爆に宛てて書かれたという同曲は、10分間にわたる叙事詩的作品である。空爆の悲惨と、そこからの恢復、救済、そして、民族舞踊とともに演奏される最後の民族音楽のモチーフは、日常に対する憧れにも似た、祈りのための舞である。その姿をこんなにも美しく、そして、美しさを確実に表現できるのは、一種、日常むき出しの中に音楽を奏でることがあってこそである。
 コミックソングにしても、そして、アンコールで奏でられる曲のテーマが「眠りの中の永遠への憧憬」というだけあって、地続きの日常と、ただ愚直なまでに素直な表現が、聴くものの心を掴んで離さない。聞いている分には、ただ美しいはずなのに、ふと目を向けてみると、そこには、一種生々しい日常が広がる。想像に過ぎないにせよ、教会で、時に自らの祈りのために、故郷のために祈るその姿が浮かんでくる。その想像は、きっと、音となって顕れるから、具体的に現前している気がしてならない。
 民謡にしてすら遠い私達にとって、共通の記憶を見出すのは、都市生活においては難しい。しかし、その、共通の記憶を見出すためにふと立ち止まってみるのも、音楽のためには、又、悪くないような気がしてならない。私たちは、どこに、その共通の記憶を見出すのか――。

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 否、技術を決めるアンサンブルが悪いわけでは決してない。寧ろ、それがとてつもない感動を見出すこともある。教会コンサートの最後に姿を魅せた彼らの演奏は、とても、当たり障りのない演奏だった。でも、不思議な事に、いつまで聞いていても、さっぱり飽きない。よく耳を凝らしてみると、――信じられないくらいに、楽譜上のすべての要素をさらおうとしているのがよく分かる。旋律の収め方、レガートとマルカートの歌い分け、強勢や発音の処理の仕方……何をやっても、取りこぼしがない。すべてやっているから、まるで何事もないかのように聞こえるけれども、逆に言えば、何もかも決めてしまっているから、何もかも自然に聞こえているだけなのだ。まったく耳に障る要素のないプーランクは、和声が一切独立しないで、一つ一つの音が意味ある音として鳴っている、その時間軸を、完全に皆で共有している。――そして、ふと気づく。amarcord――私たちは、とんでもないものを聞いている、と。

 オープニングでは、海外招聘団体のうち、LANDARBASO と amarcord が1曲ずつ演奏した。心あたたまる LANDARBASO の演奏に対して、amarcord は、やはり、非常に難易度の高いコミックソングを、とんでもない高い声域の弱勢や、とんでもなく低いスキャットを、とても軽く、さも当たり前かのように表現し切った――まだまだ軽井沢では、とんでもない世界が、私たちを待っている。