2021年10月17日(日)ザ・シンフォニーホール
作曲:三善晃
第1ステージ MODOKI
混声合唱曲『嫁ぐ娘に』(高田敏子)
指揮:山本啓之
第2ステージ Combinir di Corista
混声合唱とピアノのための『やわらかいいのち三章』(谷川俊太郎)
指揮:松村努
ピアノ:織田祥代
休憩20分
第3ステージ Chœur Chêne
合唱組曲『五つの童画』(高田敏子)
指揮:上西一郎
指揮:浦史子
第4ステージ CANTUS ANIMAE
混声合唱と2台のピアノのための『交聲詩 海』(宗左近)
指揮:雨森文也
ピアノ:平林知子、野間春美
休憩20分
第5ステージ 合同
「―ピアノのための無窮連祷による―生きる」(混声合唱曲集『木とともに 人とともに』(谷川俊太郎)から)
混声合唱と2代のピアノのための「であい」*
指揮:栗山文昭
ピアノ:浅井道子、斉木ユリ*
アンコール
「鳥」(『地球へのバラード』(谷川俊太郎)から)
指揮:栗山文昭
―――
私にとって、三善晃は「憧れ」である。嘗て在団していた大学団の合同ステージに選ばれた『木とともに 人とともに』に出会って以来、なんとも言えぬ魅力を覚え、そこから徐々にのめり込んでいった。一発でビビッときたというより、それをきっかけに様々な楽曲を聞いていって、いよいよ三善ファンを(知識は少ないながら)公言するに至る。
三善音楽の何が魅力的かといえば、あまりに多く語り尽くせないというのが本音であるが、あえてひとことで表すとするなら、それは、憧れるものそのものであるから、と言えるのかもしれない。日本の最高学府・文化芸術系の最高峰からフランス留学をして磨かれていったエスプリと、同じく光り輝く、野心に満ち溢れた芸術界。それらが共鳴しあって生まれた音楽が、日本の戦後芸術の規範となっていくその一連の流れ。その思想は音楽のみならず各種分野が共鳴しあい、高度成長に至るまでの戦後思想の一体系を作り上げた。そんな思想全体の、常に過去に批判的でありながら未来へ向けて走っていく野心、あるいは、そういった思想自体を作り上げる風土――その流れ自体が、少なくとも私にとっては「憧れ」であるともいえる。
このコロナ禍にありながら、日本におけるいわゆるハイアマチュア合唱団の急先鋒が揃ったこの演奏会。この4つの団体が一同に揃ってなお演奏する楽曲が何であるかといえば、やはり三善晃であったというのは、まさに日本の合唱音楽、否、日本の現代音楽におけるひとつの象徴的な到達点ともいえるだろう。まさに、彼らは、私たちは、三善音楽に憧れて、その演奏に酔いしれて、そんな経験をひとつでも携えながら、新たな演奏を求めているといっても過言ではあるまい。そして、その憧れそのままに招聘した客演指揮者が栗山文昭――正に、憧れあった者たちが互いに惹かれ合って実現したこの座組であるといえよう。
***
コロナ禍というにあっても、ホールは変わらずそこにあり、音楽は変わらずそこにある。そうなんだけれども、なれたはずの、1席飛ばしの客席が、わずかばかりの緊張を生む。しかしながら、その目の前にある音楽が、この緊張にとっては心地よかったのかもしれない。いつもよりも静粛が張り詰める客席にあって、三善晃の音楽は得てしてかくあるべきと語りかけるようでもある。
どの団にあっても、今の合唱人がひとしく憧れにしている合唱団といって良いであろう。これらの合唱団を礎にして、私たちは、自分たちの音を磨き、あるいは、これらの音を、憧れの音楽を求めて、各地の演奏会を彷徨い歩く(否、現在進行形で間違いあるまい)。最初の音が自然なブレスの先に出てきて、ああ、これぞ求めていた音楽と気付かされる。
いずれの団もアプローチは異なっている。MODOKIの、曲全体の中に適切な強弱を配置する全体的なバランス感、コンビニの、すべての音及び言葉に対する意味を徹底的に追求した迫真の表現、シェンヌの、もとよりのバランス感からして記譜上の表現に徹さざるを得ない同曲の見事な再現、そして、相も変わらずCAが見せる生あるがままの咆哮――いずれも共通するのは、「かくあるべくしてここにある」という、それぞれの音が持つ必然性であった。楽曲という制約はもちろん存在するのだが、そのためのアプローチの豊富さに、同じ作曲家に対してでありながら、ここまであるのか、とハッとさせられる。それも、いずれもコンクール全国、それも金賞常連団体たちである。実力は折り紙つきでありながら、高みへの到達の違いが、それぞれの団体の個性を作り出しているといえよう。
同じメゾフォルテの解釈をしても、全体のボリュームの中に配置するメゾフォルテと、前のピアノの音量に対して鳴らすメゾフォルテ、怒りに対する或いは悲しみに対するメゾフォルテでは、まるで音の出し方、考え方が異なる。それらの考え方いずれもが、音楽の違いを生み出し、音楽に深みをもたらす。――だからこそ、音楽の世界は深淵なのだと気付かされ、そのいずれも高みに到達した音楽に、私たちは又憧れる。
三善晃の音楽は、音の多さからして、ときに残響すら敵になる。そんな中、残響をも味方につけた各団の演奏の、協和音で残る残響は、名残惜しそうにスッと消えていくのだった。――思えば、憧れ自体も、美しいものだと気付かされるのである。一度目の前から消えたように見せて、再び美しいものとして思い出され、憧れとして現前する。
***
そういった意味では、合同ステージは、プログラム2曲でありながら、憧れそのものが目の前にあるようでもある。嘗て栗友会が一世を風靡した全日本合唱コンクール、その音楽監督が、今全日本合唱コンクールのスターダムたる合唱団を合同で指揮する。恐らく、今後一生お目にかかれない演奏である。
「生きる」の演奏は、非常に遅いテンポから始まり、徐々に、歌詞の高揚に合わせてわずかにテンポを早めていく――しかし、それは決して激情的なものとはならず。常に、作曲当時の三善晃の無窮連祷をなぞるようでもある。少しずつ湧き上がる感情があふれるさまを表現するのに、オルガン前にまで合唱団を配置するほどの大人数は、たしかに必要なのだ。そして、それは「であい」にも現れる。まさに、端的にいってしまえば「別れ」のために作られた曲でありながら、どこか牧歌的に歌われることの多かった同曲。コロナ禍における、「再会」という、同曲のテーマともいえるものが限りなく難しいものと痛感した中にあって、この曲の由縁を知る栗山文昭の棒は、私たちにとっての同曲の解釈を確かなものとする。
普通であれば大団円のアンコールにあって、意外といっていいアンコールの選曲は、しかし、私たちに重要な示唆をもたらしている。鳥の世界が見せる真実と、私たちの世界の虚無とを、この現代に投げかけることの意味。そのことを思うとき、三善音楽の、この世界の広さのことを、又少し思い出す。4指揮者による朗読ソロに気付かされる――ともすると、私たちは鳥を撃ち抜く人間そのものである。
***
得も言われぬ充実感とともに演奏会を去る。「感動した!」という、瞬間的な充実感とは違う、このように筆を進めて、少しずつ湧き上がってくる、不思議な充足感である。憧れの音が去ったとき、又次のあこがれが私たちの前に現前する。移り気? 否、向上心と表現しようではないか。
語弊を恐れずに言えば、これから先、三善音楽は古典として、よくも悪くも古くなっていく。しかしながら、古典に憧れる私たちの心は、なおも新鮮な輝きを持って光り輝くのだと、漠然と、そんなことを思っている。目に見えないものでありながら、運命をして憧れ惹きつけられるものたち――ある名曲の言葉を借りれば「遊星はひとつ」なのである。
だからこそ、特にこの演奏会を技術をして語りたくはない。憧れは、きれいなままがいい――決して、評論の放棄というわけではなく、そう言って許されるほどの実力がこの4団体には備わっている。私にとって憧れのこの4団体は、しかし最終的に、憧れのまま終わっていくような気がする。少なくとも私にとっては。
私たちは、或いは私は、後世にとってのひとつの遊星となりうるか。そんなことを、ふと自問する。間違いない、一歩踏み出すときなのだ。
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